東野圭吾を模倣し、元首相暗殺事件を題材にしたオリジナル小説『二発目の空白』第十九章

目次

第十九章 名前のない原本

一 死者の戸籍

午前二時十三分。

奈良県警本部の廊下には、夜勤の警察官の足音だけが響いていた。

真壁修司は、机の上に置かれた二枚の死亡記録を見つめていた。

一枚は、二〇一五年に死亡した三崎俊夫のもの。

もう一枚は、二〇二二年に死亡したことになっている秋月浩平のものだった。

どちらにも、同じ生年月日が記されていた。

だが、真壁はそれを見て喜ばなかった。

むしろ、顔をしかめた。

「野村」

「はい」

「この資料は誰が送ってきた」

「京都府警の担当者です」

「その担当者は、何を確認した」

野村は手元のメモを見た。

「古い研究機関の人事台帳と、死亡届の写しです」

「戸籍そのものじゃないな」

「はい」

「だったら、まだ同一人物とは言えん」

野村が頷いた。

「人事台帳に別名が記載されていた可能性もあります」

「ああ。それに、そもそも死亡届の写しが本物かどうかも確かめなければならん」

真壁は二枚の紙を重ねた。

この事件では、死んだはずの人間が何度も現れた。

葛城慎一。

秋月浩平。

野村真紀。

相沢美紀。

そして石倉雅人。

名前と死亡記録が一致しない。

そのたびに、真壁たちは別の人物を疑い、別の場所へ走った。

だが、考えてみれば奇妙なことだった。

誰かが死亡記録を偽造したとしても、戸籍、病院、火葬場、埋葬記録のすべてを完全に書き換えるのは容易ではない。

まして、数十年間にわたって何人もの人生を入れ替えるなど、現実には膨大な痕跡が残るはずだった。

「名前を調べるのはやめよう」

真壁が言った。

野村が顔を上げる。

「でも、昨日は人間を調べると」

「そうだ。だから名前だけを追うのをやめる」

真壁は資料を指した。

「生年月日、親族、顔写真、勤務歴、死亡時の医療記録。別々の資料を突き合わせる」

「一つでも食い違えば」

「そこから調べる」

野村は頷いた。

真壁は時計を見た。

午前二時十七分。

「朝になったら京都へ行く」

「三崎遼一さんのところですか」

「ああ」

「また話を聞くんですね」

「今度は父親の名前じゃない」

真壁は静かに言った。

「父親の遺骨について聞く」

野村は息を呑んだ。

「遺骨ですか」

「二〇一五年に亡くなったのが誰なのか。まず、そこを確かめる」

真壁は窓の外を見た。

夜明けまでは、まだ時間があった。


二 父の骨

午前十時四十分。

京都市内の三崎家。

三崎遼一は、真壁たちの再訪を予想していたようだった。

「また何か見つかったんですね」

真壁は頭を下げた。

「お父様の死亡について、確認したいことがあります」

三崎は二人を居間へ通した。

昨日と同じ部屋。

同じ古い写真。

しかし、今日は仏壇の扉が開いていた。

三崎俊夫の遺影。

白髪の老人が、穏やかな顔で微笑んでいる。

真壁はその写真を見つめた。

「お父様は二〇一五年に亡くなったんですね」

「はい」

「最期を看取ったのは」

「私と妻です」

「病院ですか」

「京都市内の病院です」

「死亡診断書は残っていますか」

三崎は頷いた。

「あります」

しばらくして、書類が運ばれてきた。

真壁は三崎の許可を得て内容を確認した。

氏名。

三崎俊夫。

生年月日。

一九三八年五月二日。

死亡年月日。

二〇一五年十一月四日。

真壁の目が止まった。

「野村」

「はい」

「昨日の資料を出してくれ」

野村が鞄から写しを取り出した。

そこには、秋月浩平の生年月日が記されていた。

一九四九年三月十九日。

十一歳違う。

「同一人物じゃない」

野村が呟いた。

真壁は頷いた。

「少なくとも、これだけでは同一人物だとする根拠がない」

三崎が不思議そうな顔をした。

「どういうことですか」

真壁は事情を説明した。

古い人事台帳。

秋月浩平という名前。

三崎俊夫の死亡記録。

三崎はしばらく黙っていた。

そして、ゆっくり首を振った。

「父は秋月浩平ではありません」

「そう断言できる理由は」

「私は父と暮らしてきました。二〇一五年に亡くなったのも父です」

真壁は頷いた。

「その証言は重要です」

「それでも疑うんですか」

三崎の声には、わずかな怒りがあった。

真壁は正面から受け止めた。

「お父様を疑っているわけではありません」

「では」

「誰かが、お父様の名前を利用した可能性を調べています」

三崎は黙った。

真壁は続けた。

「この事件では、名前が何度も使い回されています。だからこそ、名前を奪われた人間の人生を確かめたいんです」

三崎は遺影を見た。

長い沈黙。

そして言った。

「父の遺骨は、京都の寺に納めています」

「ありがとうございます」

「ただし、調べるなら正式な手続きを取ってください」

「もちろんです」

真壁は頭を下げた。

三崎は少しだけ表情を緩めた。

「父は、生前よく言っていました」

「何と」

「人間を数字で扱い始めたら、研究は終わりだと」

真壁は顔を上げた。

「そうですか」

「はい」

「ほかには」

三崎は考えた。

「記録は人を守るためにある、と」

真壁は黙った。

その言葉は、父親の真壁修一が残した手紙とよく似ていた。

三崎が続ける。

「でも、晩年の父は自分の仕事を後悔していました」

「なぜ」

「一九七四年に、一人の女性を救えなかったからです」

真壁の表情が変わった。

「杉浦千鶴さんですね」

三崎は頷いた。

「はい」

「お父様は、その死について何か話していましたか」

「一度だけ」

「何と」

三崎は静かに答えた。

「死んだのは、名前を奪われた女性だった、と」

真壁は動きを止めた。

「名前を奪われた?」

「はい」

「どういう意味でしょう」

三崎は首を振った。

「わかりません。ただ、父はこう続けました」

真壁は身を乗り出した。

「何と」

「本当に殺されたのは、名前ではなく、その人の人生だった」

部屋が静まり返った。

真壁は遺影を見た。

三崎俊夫。

研究主任。

写真技術者。

そして、一人の女性を救えなかった男。

その人物の人生もまた、誰かによって書き換えられていたのかもしれなかった。


三 人事台帳の第三欄

午後一時二十分。

京都府内の旧研究施設資料保管庫。

真壁と野村は、問題の人事台帳を確認していた。

台帳は一九七四年から一九八五年までの記録をまとめたものだった。

《奈良中央記念病院 記録分析室》

《研究主任 三崎俊夫》

《技術協力 岸田昭彦》

《調査協力 杉浦千鶴》

そこまでは一致していた。

しかし、別の欄があった。

《記録管理責任者》

真壁は目を細めた。

「ここだ」

野村が覗き込む。

そこには、名前が書かれていた。

《秋月浩平》

真壁は頷いた。

「三崎と秋月は別の欄にいる」

「はい」

「昨日の照会では、この二つが同じ人物の別名だとされた」

「そうですね」

「誰がそう判断した」

野村は資料の末尾を確認した。

《二〇一八年 電子化作業》

その下に担当者名。

《高瀬浩二》

真壁の表情が変わった。

「高瀬か」

野村が息を呑んだ。

「亡くなった編集者ですね」

「ああ」

「高瀬さんが電子化したときに、二人の記録が混ざった?」

「可能性がある」

真壁は台帳を慎重にめくった。

紙の原本では、三崎俊夫と秋月浩平は別々の人物として記載されている。

しかし電子化された一覧では、三崎俊夫の死亡記録に秋月浩平の名前が紐づけられていた。

「単純な入力ミスでしょうか」

野村が訊いた。

「そうかもしれん」

真壁は答えた。

「だが、高瀬は記録を編集する立場にいた」

「意図的だった可能性もある」

「ああ」

真壁は原本の写真を撮る前に、保管担当者へ確認した。

原本の取り扱い履歴。

閲覧者。

複写履歴。

電子化の経緯。

その中に、興味深い記録があった。

二〇一八年六月十八日。

高瀬浩二が台帳を閲覧。

同日。

秋月浩平も閲覧。

真壁の目が細くなった。

「二人が同じ日に来ている」

野村が言った。

「偶然でしょうか」

「わからん」

真壁は答えた。

「ただ、二人はこの資料に何かを見つけたのかもしれない」

野村は頷いた。

そのとき、保管担当者が言った。

「実は、もう一冊あります」

真壁が顔を上げた。

「何です」

「人事台帳の原簿です」

「原簿?」

「こちらは転記したものです。元になった手書きの帳簿が別に残っています」

真壁は息を止めた。

「見せてください」

古い木箱が運ばれてきた。

中には、革表紙の帳簿が入っていた。

表紙。

《記録分析室 管理原簿》

一九七四年。

六月。

真壁はページを開いた。

研究主任。

三崎俊夫。

技術協力。

岸田昭彦。

調査協力。

杉浦千鶴。

そして。

記録管理責任者。

《秋月浩平》

その横に、小さな文字があった。

《旧名》

真壁の指が止まった。

「野村」

「はい」

「ここを見ろ」

野村が覗き込む。

《旧名》

その下に、一つの名前。

《水島圭介》

野村は息を呑んだ。

「水島……」

真壁は黙った。

水島圭介。

これまで何度も現れた名前。

黒いバンド。

管理者。

役割。

だが、最初の水島圭介は、実在する人間だったのか。

真壁は次の欄を見た。

《一九七四年六月十八日 氏名変更届受理》

その下。

《水島圭介 → 秋月浩平》

真壁はゆっくり息を吐いた。

「ここから始まったのか」

野村が言った。

「水島圭介が、秋月浩平になった?」

「台帳にはそう書いてある」

「では、本当の管理者は」

真壁は首を振った。

「まだわからん」

そして続けた。

「この記載が事実なら、名前を変えた理由があるはずだ」

野村は頷いた。

真壁は原簿を見つめた。

一九七四年六月十八日。

杉浦千鶴が亡くなった翌日。

水島圭介は、秋月浩平になった。

そして同じ日。

杉浦美津子は、奈良を離れた。

二人の人生が、同じ日に変わっていた。


四 水島圭介という男

水島圭介。

一九二九年生まれ。

京都府出身。

戦後、大学で心理学を学んだ。

その後、医療機関で記録管理の仕事に就いた。

一九六〇年代から、目撃証言と記憶の研究に関わっていた。

真壁は資料を読み進めた。

「かなり年上だな」

野村が言った。

「一九七四年には四十五歳です」

「ああ」

「二〇二二年には九十三歳」

真壁は頷いた。

「同じ人物が、すべての現場にいたとは考えにくい」

「では名前だけが引き継がれた?」

「その可能性はある」

真壁は資料をめくった。

水島圭介。

結婚歴なし。

子どもなし。

死亡記録。

一九八六年。

真壁の目が止まった。

「一九八六年に死んでいる」

野村が頷いた。

「はい」

「秋月浩平は、その後も活動している」

「そうですね」

「つまり、どこかで名前が別の人物へ移った可能性がある」

真壁は椅子へ座った。

「だが、それを証明するには実際の人物を追う必要がある」

野村が頷いた。

そのとき、資料の中から一枚の写真が見つかった。

一九七四年。

奈良中央記念病院。

白衣の男。

水島圭介。

真壁は写真を見つめた。

痩せた顔。

眼鏡。

短い髪。

左手首には、黒いバンド。

野村が息を呑んだ。

「黒いバンド……」

真壁は頷いた。

「最初の水島も着けていた」

「では、あのバンドは」

「個人を示すものじゃないのかもしれん」

真壁は写真を裏返した。

そこには、手書きの文字があった。

《管理者識別用》

真壁の目が細くなった。

「識別用……」

野村が言った。

「管理者の役割を示すものですね」

「そうだろうな」

真壁は写真を見つめた。

黒いバンド。

それを着けた人間が管理者になる。

名前は変わる。

顔も変わる。

しかし役割だけが続く。

真壁は小さく呟いた。

「人間を消して、役割だけを残したんだな」

野村は黙った。

真壁は続けた。

「だが、役割には責任を取らせられん」

「はい」

「責任を取るのは人間だ」

野村は頷いた。

真壁は資料を閉じた。

「次は水島圭介の死亡を確認する」


五 最初の管理者

午後六時。

京都府内の古い寺。

水島圭介の墓は、境内の奥にあった。

小さな墓石。

戒名。

死亡年月日。

一九八六年十一月十日。

真壁は墓前に立った。

「ここに眠っているのが水島圭介なら」

野村が言った。

「最初の管理者は、本当に亡くなっていることになります」

真壁は頷いた。

「そうだ」

「でも、研究は続いた」

「ああ」

真壁は墓石を見つめた。

墓があることと、そこに本人の遺骨があることは別だ。

それでも、家族や寺の記録は重要だった。

住職へ事情を説明すると、古い過去帳を見せてもらえた。

水島圭介。

一九八六年十一月十日死亡。

葬儀施主。

《秋月浩平》

真壁の指が止まった。

「秋月が葬儀を出している」

野村が頷いた。

「はい」

「二人は別人だった」

「少なくとも、記録上はそうですね」

真壁は過去帳を見つめた。

水島圭介。

秋月浩平。

旧名と新名。

同一人物として扱われた記録。

しかし、葬儀では一方が死者、一方が施主になっている。

「やはり、名前が混ざっている」

真壁が言った。

住職が口を開いた。

「先代から聞いた話があります」

真壁が顔を上げた。

「何でしょう」

「水島さんは、亡くなる前に一人の男性を連れてきたそうです」

「誰ですか」

「秋月さんです」

「何を話したんです」

住職は答えた。

「自分の仕事を引き継ぐ人だと」

真壁は息を止めた。

「仕事?」

「ええ」

「具体的には」

「記録を守る仕事だと聞いています」

真壁は頷いた。

「ほかには」

住職は少し考えた。

「先代は、水島さんの言葉を覚えていたそうです」

「何と」

住職は静かに言った。

「人間は死ぬが、記録は死なない」

真壁は墓石を見つめた。

水島圭介。

最初の管理者。

その男は死んだ。

だが、記録は残った。

そして誰かが、その記録を引き継いだ。

真壁は静かに頭を下げた。

「ありがとうございました」

寺を出るころには、空が暗くなり始めていた。

野村が言った。

「真壁さん」

「何だ」

「水島圭介が最初の管理者だったとして、なぜ研究を始めたんでしょう」

真壁は答えた。

「それを調べなければならん」

「でも、本人はもういません」

「ああ」

真壁は歩きながら言った。

「だから、残された人間を調べる」

野村が頷いた。

「秋月浩平ですね」

「そうだ」

真壁は空を見上げた。

京都の夕暮れ。

山並みが黒く沈み始めていた。

「今度こそ、秋月を見つける」


六 死者からの電話

午後八時四十二分。

奈良県警本部。

真壁は机に座り、秋月浩平の行動記録を確認していた。

二〇二二年七月九日。

死亡記録。

しかし、その後も秋月と思われる人物の目撃情報がある。

二〇二六年。

奈良県警での事情聴取。

そして逃走。

「秋月は、まだ生きている」

真壁が言った。

野村が頷いた。

「はい」

「だが、本名かどうかはわからん」

「そうですね」

「年齢も経歴も、もう一度調べる必要がある」

野村は頷いた。

そのとき。

真壁の携帯電話が鳴った。

非通知。

真壁は画面を見つめた。

「またか」

野村が顔を上げた。

「出ますか」

真壁は頷いた。

「録音を」

野村が準備する。

真壁は通話を開始した。

「真壁です」

短い沈黙。

そして。

『久しぶりですね』

男の声。

落ち着いた口調。

低い声。

真壁は息を止めた。

「秋月浩平さんですね」

男は笑った。

『そう呼ばれています』

真壁の目が細くなった。

「今どこにいる」

『京都です』

「具体的には」

『それはまだ言えません』

真壁は小さく息を吐いた。

「逃げ続けるつもりか」

『いいえ』

「では」

『会いたいと思っています』

真壁は眉を寄せた。

「誰に」

『あなたにです』

「なぜ」

男は答えた。

『水島圭介のことを調べたそうですね』

真壁は動きを止めた。

「どうして知っている」

『記録が届きました』

「誰から」

『管理者です』

真壁は笑った。

「あなたが管理者じゃないのか」

男は静かに答えた。

『私は、管理者の一人にすぎません』

真壁は黙った。

『真壁さん』

「何だ」

『あなたは、管理者を一人だと思っていましたね』

「ああ」

『でも、違います』

「それはわかった」

『なら、もう一つ知っておくべきことがあります』

真壁は身を乗り出した。

「何だ」

男は答えた。

『管理者は、研究を続けるために存在しているのではありません』

真壁の眉が動いた。

「では何のためだ」

『研究を終わらせないためです』

真壁は黙った。

同じことに聞こえる。

だが、男の声には妙な重みがあった。

「違いは何だ」

男は答えた。

『研究を終わらせると、困る人間がいるんです』

真壁の目が細くなった。

「誰だ」

『警察です』

室内が静まり返った。

真壁は野村を見る。

「どういう意味だ」

男は続けた。

『最初の研究は、警察のために始まりました』

「それは知っている」

『ですが、途中から目的が変わった』

「何に」

男は答えた。

『警察が作った誤った記録を、正しい記録として残すためです』

真壁は息を止めた。

「証拠の偽造か」

『それだけではありません』

「では」

『誤った捜査によって、人生を失った人間がいました』

真壁は黙った。

『その人間たちが、真実を知ろうとした』

「……」

『だから、研究が必要になった』

真壁の表情が変わった。

「記憶を混乱させるために?」

『はい』

「証言を信用できなくするために?」

『はい』

真壁は拳を握った。

「誰が命じた」

男は答えなかった。

「秋月さん」

『……』

「名前を言え」

長い沈黙。

そして。

男が静かに言った。

『真壁修一です』

真壁は動かなかった。

父親。

また父親だった。

「父が命じた?」

『いいえ』

真壁の目が細くなった。

「何?」

『真壁修一さんは、止めようとした人間です』

真壁は息を吐いた。

「ではなぜ名前を」

男は答えた。

『最初に、警察の記録が間違っていることに気づいたのが、あなたのお父様だったからです』

真壁は黙った。

『修一さんは、真実を公表しようとした』

「……」

『ですが、できなかった』

「なぜ」

男は静かに言った。

『その記録には、あなたのお母様の名前があったからです』

真壁は息を止めた。

母親。

杉浦美津子。

杉浦千鶴。

一九七四年。

二人の姉妹。

一人の死。

一人の失踪。

そして、名前の変更。

真壁は静かに訊いた。

「母は、何をしたんです」

男は答えなかった。

「秋月さん」

『……』

「母は、何をした」

長い沈黙。

そして。

『真壁さん』

男の声が低くなった。

『あなたのお母様は、何もしていません』

真壁は動かなかった。

『ただ、見てしまったんです』

「何を」

男は答えた。

『一九七四年六月十七日』

『奈良中央記念病院で』

『本当に起きたことを』

真壁は息を止めた。

「何が起きた」

男は静かに言った。

『一人の女性が、殺されました』

真壁の目が細くなった。

「杉浦千鶴か」

『はい』

「誰が殺した」

長い沈黙。

そして。

『警察官です』

真壁は動かなかった。

「名前は」

男は答えなかった。

「名前を言え」

電話の向こうで、男が息を吐いた。

『真壁さん』

「何だ」

『その名前を知ったら、あなたは今の仕事を続けられなくなるかもしれません』

真壁は静かに答えた。

「それは俺が決める」

長い沈黙。

そして。

男は言った。

『では、明日、京都へ来てください』

「どこへ」

『一九七四年六月十七日』

『杉浦千鶴が亡くなった旅館です』

真壁は息を止めた。

「そこで会うのか」

『はい』

「何時だ」

男は答えた。

『午前十一時三十一分』

真壁は目を閉じた。

また同じ時刻。

二〇二二年七月八日。

二発の銃声。

そして、二〇二六年。

男が続けた。

『そこで、最初の記録をお渡しします』

「原本か」

『はい』

真壁は頷いた。

「わかった」

電話が切れた。

野村が言った。

「行きますか」

真壁は答えた。

「ああ」

「危険かもしれません」

「そうだな」

「応援を呼びますか」

真壁は頷いた。

「当然だ」

そして続けた。

「今度は、相手の用意した舞台に二人だけで行くつもりはない」

野村は頷いた。

真壁は机の上の資料を見つめた。

一九七四年。

杉浦千鶴。

死亡。

警察官。

そして、隠された記録。

真壁は静かに言った。

「野村」

「はい」

「明日、最初の嘘を確かめるぞ」

野村が頷いた。

「はい」

窓の外では、奈良の夜が深まっていた。

そして、真壁はまだ知らなかった。

翌日、京都の古い旅館で待っているのは、

秋月浩平だけではなかった。

そこには、

四十五年以上前に死亡したはずの女性の名前で、

今も生きている一人の人物が、

すでに到着していた。

第二十章に続く

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