東野圭吾を模倣し、元首相暗殺事件を題材にしたオリジナル小説『二発目の空白』第三十四章

目次

第三十四章 記憶の保管室

一 午前八時の約束

十月二十九日、午前七時四十分。

奈良県警本部の窓に、薄い朝日が差し込んでいた。

真壁修司は、机の上に並べた三枚の写真を見つめていた。

一枚目。

二〇一〇年六月十八日、京都の研究施設の階段。

下の踊り場に、一人の女性が倒れている。

その傍らには、もう一人の女性が膝をついていた。

二枚目。

三分後に撮影されたとされる写真。

そこには、若いころの真壁自身が写っていた。

そして三枚目。

同じ階段を、少し離れた場所から撮影した写真。

二人の女性の背後に、水島澄子の姿があった。

少なくとも、そう見える。

真壁は三枚目を手に取った。

昨日、電話で話した女性。

水島澄子。

彼女は言った。

『階段の下に倒れていたのは、岡崎玲子さんです』

『野村真紀さんは、生きていました』

しかし、医師の三崎遼一は、逆の証言をしていた。

どちらかが間違っている。

あるいは、どちらも一部しか知らない。

真壁は写真を置いた。

「写真は、嘘をつかない」

かつて父親が、そう言ったことがあった。

だが、いまの真壁は、その言葉を信じていなかった。

写真が示すのは、撮影された一瞬だけだ。

その前後に何が起きたかまでは、教えてくれない。

扉が開いた。

野村亮介だった。

「おはようございます」

「ああ」

野村は机の上の写真を見た。

「水島さんから、連絡があったそうですね」

真壁は頷いた。

「昨夜な」

「母のことを?」

「ああ」

真壁は野村を見た。

「水島さんは、お前の母親が二〇一〇年六月十八日の事故を生き延びたと言っている」

野村は黙った。

「ただし、その証言だけでは判断できない」

「わかっています」

野村は静かに答えた。

「それでも、会いたいです」

真壁は頷いた。

「今日、奈良中央記念病院で会うことになっている」

野村は少し驚いた。

「病院で?」

「ああ。B―17の奥に、まだ部屋があるらしい」

野村は眉を寄せた。

「また、隠し部屋ですか」

「そういうことになる」

真壁は資料を鞄に入れた。

「今回は、最初から鑑識と施設管理者に立ち会ってもらう」

「はい」

「水島さんの話も、正式に記録する」

野村は頷いた。

真壁は立ち上がった。

「行こう」


二 旧館の訪問者

午前九時十五分。

奈良中央記念病院旧館。

建物の前には、捜査車両が二台停まっていた。

曇り空の下、古い病院の窓は黒く沈んで見えた。

真壁と野村が到着すると、管理者の大庭和夫が玄関で待っていた。

「おはようございます」

「お世話になります」

真壁は頭を下げた。

大庭は不安そうに建物を見上げた。

「また、地下ですか」

「はい」

「いったい、どれだけ部屋があるんでしょうね」

真壁は答えなかった。

旧館の図面には、地下二階の一部が記載されていなかった。

その奥から、観測室、原記録保管室、観測補助室が見つかっている。

まだ知られていない区画があっても、不思議ではなかった。

午前九時二十八分。

一台のタクシーが病院の前に停まった。

水島澄子が降りてきた。

濃い紺色の上着。

小さな革の鞄。

昨日と同じ、落ち着いた表情だった。

「おはようございます」

水島は真壁に頭を下げた。

「おはようございます」

真壁は答えた。

「今日は、正式にお話を伺います」

「承知しています」

水島は野村を見た。

「亮介さんですね」

野村は頷いた。

「はい」

水島は、しばらく野村の顔を見つめていた。

「お母様によく似ています」

野村の表情が変わった。

「母をご存じなんですね」

「ええ」

「いま、どこにいるんですか」

水島は答えなかった。

代わりに、静かに言った。

「その前に、見ていただきたいものがあります」

真壁は水島を見た。

「何ですか」

「記録です」

「どんな記録です」

水島は旧館を見上げた。

「二〇一〇年六月十八日に、あの階段で何が起きたのかを記録したものです」

真壁は頷いた。

「わかりました」

そして、鑑識員に目を向けた。

「始めましょう」


三 壁の向こう側

午前十時五分。

地下二階。

B―17。

真壁たちは、以前発見した観測室に入った。

部屋には、一方向からしか見えないガラスが残っている。

その奥には、観測補助室があった。

さらに床下から、S―00の原記録が見つかっている。

水島は、部屋の北側の壁を指した。

「ここです」

真壁は壁を見た。

灰色の塗装。

古い配線。

何もないように見える。

「扉があるんですか」

真壁が訊いた。

水島は頷いた。

「以前はありました」

「いまは」

「塞がれています」

真壁は鑑識員に目を向けた。

「非破壊で確認できますか」

担当者が頷いた。

「壁面探査を行います」

作業が始まった。

しばらくして、壁の内部に空洞があることがわかった。

さらに、金属製の枠のような反応もあった。

「扉の可能性があります」

鑑識員が言った。

真壁は頷いた。

「記録を取ってから開けましょう」

水島は、黙って作業を見ていた。

やがて、壁の一部が慎重に取り外された。

その奥から、鉄製の扉が現れた。

表面には、錆びた文字板が残っていた。

《記憶記録保管室》

野村が小さく呟いた。

「本当にあった……」

真壁は扉を見つめた。

「水島さん」

「はい」

「この部屋は、何のために使われていたんですか」

水島は答えた。

「観測対象者の証言を、加工する前の状態で残すためです」

真壁の目が細くなった。

「加工する前?」

「はい」

「何を加工するんです」

水島は静かに答えた。

「記録です」

真壁は黙った。

水島は続けた。

「ここで行われていたのは、人間の記憶を自由に消したり、入れ替えたりする研究ではありませんでした」

「では、何だったんです」

「証言を、どうすれば変えられるかを調べる研究です」

真壁は息を止めた。

水島は続けた。

「同じ出来事を見た人間に、違う説明を繰り返し聞かせる。すると、証言の内容が少しずつ変わることがあります」

「暗示や誘導ですね」

「そうです」

「それを研究していた」

「ええ」

水島は扉を見た。

「ただし、途中から研究の目的が変わりました」

「どう変わったんです」

水島は静かに言った。

「証言が変わるかどうかを調べるのではなく、証言を変えるために研究が使われるようになったんです」

真壁は黙った。

それは、これまでの捜査で見つかった数々の矛盾を説明し得る話だった。

しかし、水島の説明も、まだ一つの証言にすぎない。

真壁は扉を見つめた。

「開けましょう」


四 消されなかった声

午前十一時二十分。

記憶記録保管室。

室内には、金属製の棚が並んでいた。

棚には、番号の書かれた箱が収められている。

古い録音テープ。

映像フィルム。

紙の記録。

一部の棚は空になっていた。

真壁は室内を見渡した。

「ここに、原記録があるんですね」

水島は頷いた。

「少なくとも、以前はありました」

「誰が管理していたんです」

「時期によって違います」

「二〇一〇年は」

水島は少し考えた。

「岡崎玲子さんです」

野村が顔を上げた。

「岡崎さんが?」

「ええ」

水島は続けた。

「彼女は、改訂前の記録を残そうとしていました」

真壁は頷いた。

「S―00として」

「そうです」

水島は一つの棚を指した。

《二〇一〇年六月十八日》

真壁は鑑識員に確認を求めた。

箱は、封印の状態を記録したうえで開封された。

中には、小型の記録媒体が入っていた。

古いデジタルビデオテープだった。

ラベルには、手書きの文字。

《京都研究施設 中央階段》

《原記録》

野村は息を呑んだ。

「これが……」

真壁は頷いた。

「まだ、中身はわからない」

テープは証拠品として保全され、再生可能な機器の確認が進められた。

旧館の中には、かつて使用されていた再生装置が残っていた。

しかし、真壁はその場で再生しなかった。

媒体の状態が不明だったからだ。

無理に動かせば、映像が失われる可能性がある。

水島が言った。

「ここで見られると思っていました」

真壁は首を振った。

「原本を壊すわけにはいきません」

水島は、しばらく真壁を見ていた。

そして、小さく頷いた。

「そうですね」

真壁は続けた。

「あなたの話も記録します。まずは、映像の内容について教えてください」

水島は答えた。

「階段で起きたことが、最初から最後まで写っているはずです」

「はず?」

「私は、一度だけ見ました」

「いつです」

「二〇一〇年の秋です」

「誰と」

水島は答えた。

「岡崎玲子さんとです」

真壁の目が細くなった。

「岡崎さんは、そのとき生きていたんですね」

水島は頷いた。

「ええ」

「どこで会ったんです」

「京都の研究財団です」

真壁は手帳に書き込んだ。

「その後は」

水島は黙った。

「水島さん」

「……二〇一一年の春を最後に、会っていません」

真壁は頷いた。

「わかりました」

野村が口を開いた。

「母は、そのとき一緒にいましたか」

水島は野村を見た。

「いいえ」

「では、母はどこに」

水島は答えなかった。

野村は静かに続けた。

「昨日、電話で、母が生きていたと話しましたよね」

「はい」

「その後、母に会ったんですか」

水島は目を伏せた。

「一度だけ」

野村の表情が変わった。

「いつです」

「二〇一〇年の七月です」

「どこで」

水島は答えた。

「奈良です」

真壁が顔を上げた。

「この病院ですか」

水島は頷いた。

「はい」

野村は身を乗り出した。

「母は、どんな様子でしたか」

水島は、長い時間黙っていた。

そして、静かに答えた。

「あなたのことを心配していました」

野村は息を止めた。

「僕のことを?」

「ええ」

「何か言っていましたか」

水島は頷いた。

「亮介には、まだ会えない、と」

野村は黙った。

「どうしてです」

水島は目を伏せた。

「理由は、話してくれませんでした」

真壁は静かに訊いた。

「水島さん。あなたは、その女性が野村真紀さん本人だと、何を根拠に判断したんですか」

水島は顔を上げた。

「以前から知っていたからです」

「どのくらい前から」

「一九八〇年代の終わりごろからです」

「顔だけでなく、本人しか知らないことも確認しましたか」

水島は少し考えた。

「そこまではしていません」

真壁は頷いた。

「わかりました」

野村は、何も言わなかった。

母親が生きていたという証言。

しかし、まだ確かな証拠はない。

真壁は、そっと野村の肩に手を置いた。

「映像を確認しよう」

野村は頷いた。

「はい」


五 映像に残された三分間

午後三時四十分。

奈良県警本部。

鑑識の担当者から、映像の再生に成功したとの連絡が入った。

真壁と野村は、映像解析室へ向かった。

水島澄子も、別室で待機していた。

画面には、京都研究施設の中央階段が映っていた。

白黒の映像だった。

固定カメラ。

階段の上から、踊り場を見下ろす角度。

時刻表示。

《二〇一〇年六月十八日 十六時二十七分》

真壁は画面を見つめた。

階段の上に、二人の女性が立っていた。

一人は、薄い色の上着。

もう一人は、濃い色の上着。

二人は何かを話している。

音声は入っていなかった。

真壁は静かに言った。

「顔は判別できますか」

担当者が答えた。

「現段階では、十分な解像度ではありません」

真壁は頷いた。

映像が進む。

午後四時二十八分。

二人の女性の間に、何かが起きた。

薄い色の上着の女性が、一歩後ろへ下がった。

濃い色の上着の女性が、その腕に手を伸ばす。

次の瞬間。

薄い色の上着の女性が、階段を踏み外した。

身体が傾く。

手すりに手を伸ばす。

しかし、届かなかった。

女性は階段を転がり落ちた。

真壁は、画面から目を離さなかった。

午後四時二十九分。

濃い色の上着の女性が、階段を駆け下りる。

倒れた女性の傍らに膝をついた。

真壁は静かに言った。

「一度止めてください」

映像が止まった。

「ここでは、突き落としたようには見えませんね」

担当者が答えた。

「少なくとも、この映像だけでは、故意に転落させたとは判断できません」

真壁は頷いた。

「続けてください」

映像が再開された。

午後四時三十一分。

階段の上から、三人目の女性が現れた。

白い髪。

濃い色の上着。

水島澄子に似ていた。

その女性は、倒れた女性のそばに近づいた。

そして、膝をつく女性に何かを話しかけた。

午後四時三十三分。

画面の左端から、男が現れた。

真壁修司。

若いころの自分だった。

真壁は、息を止めた。

画面の中の自分は、階段の下を見ている。

そして、倒れた女性に近づいた。

午後四時三十四分。

さらに一人の男が現れた。

白いシャツ。

右耳のあたりに、傷のような影。

真壁は画面を見つめた。

男は、階段の上から現場を見下ろしていた。

しかし、すぐには近づかなかった。

真壁は静かに言った。

「一度止めてください」

映像が止まった。

男の顔は、はっきりしない。

だが、袖口には、小さな文字があった。

《K―04》

野村が呟いた。

「岸田昭彦……」

真壁は首を振った。

「まだ断定できない」

担当者は頷いた。

「顔の照合は、別途行います」

真壁は画面を見つめた。

午後四時三十四分。

写真と同じ時刻。

しかし、写真には写っていなかった人物の動きが、映像には残されていた。

真壁は静かに言った。

「続けてください」

映像が再開された。

午後四時三十五分。

白いシャツの男が、階段を下りてきた。

そして、倒れた女性のそばに立った。

水島に似た女性が、男に何かを言った。

男は、首を振った。

次の瞬間。

男は、膝をついていた女性の肩を掴んだ。

その女性が立ち上がる。

二人は、階段の上へ向かった。

真壁は目を細めた。

「待ってください」

映像が止まった。

「いま、立ち上がった女性は」

担当者が答えた。

「濃い色の上着を着ています」

真壁は頷いた。

「つまり、転落しなかった方の女性ですね」

「はい」

真壁は画面を見つめた。

白いシャツの男。

濃い色の上着の女性。

二人は、階段を上っていく。

その後ろには、真壁自身が立っていた。

真壁は、何かを叫んでいるように見えた。

しかし、音声はない。

映像は続いた。

午後四時三十六分。

白いシャツの男が振り返った。

そして、真壁に向かって何かを言った。

真壁は、一歩前へ出た。

そのとき。

画面が暗くなった。

映像が途切れた。

真壁は、しばらく動かなかった。

「続きは」

担当者が答えた。

「このテープには、ここまでしか記録されていません」

「途中で切れているんですか」

「はい」

真壁は頷いた。

「切断や編集の痕跡は」

「現在、解析中です」

真壁は静かに言った。

「わかりました」

野村は、画面を見つめていた。

「真壁さん」

「何だ」

「母は、どちらだったんでしょう」

真壁は答えなかった。

映像には、二人の女性が写っている。

しかし、どちらが野村真紀で、どちらが岡崎玲子なのか。

その答えは、まだ出ていなかった。


六 映像の外にいた男

午後六時十分。

奈良県警本部の面談室。

水島澄子は、真壁の向かい側に座っていた。

野村も同席している。

真壁は、映像の内容を説明した。

水島は静かに聞いていた。

「水島さん」

真壁が言った。

「映像には、あなたと思われる女性が写っていました」

「はい」

「本人ですか」

「そうです」

「では、確認します」

真壁は二枚の写真を机に置いた。

「この二人の女性は、誰ですか」

水島は写真を見た。

そして、静かに答えた。

「薄い色の上着が、岡崎玲子さんです」

真壁は頷いた。

「濃い色の上着は」

「野村真紀さんです」

野村は息を止めた。

真壁は続けた。

「つまり、転落したのが岡崎玲子さん」

「そうです」

「野村真紀さんは、階段の途中で膝をついていた」

「はい」

真壁は静かに訊いた。

「なぜ、三崎遼一先生には逆の名前が伝えられたんですか」

水島は目を伏せた。

「相沢美紀さんが、そう説明したからです」

「あなたは、その場で訂正しなかったんですか」

「しました」

水島は答えた。

「でも、三崎先生は聞いてくれませんでした」

真壁は黙った。

水島は続けた。

「正確には、聞いても、記録には反映しませんでした」

「なぜ」

「わかりません」

真壁は静かに言った。

「では、映像に写っていた白いシャツの男について伺います」

水島の表情が変わった。

「K―04ですね」

真壁は頷いた。

「そうです」

「岸田昭彦さんです」

真壁は黙った。

水島は続けた。

「一九八一年の事故で死亡したことになっていた人です」

真壁は静かに訊いた。

「あなたは、本人だと確認したんですか」

「はい」

「どうやって」

水島は答えた。

「以前から知っていました」

真壁は頷いた。

「では、岸田さんは、なぜ二〇一〇年の研究施設にいたんですか」

水島は、しばらく黙った。

そして、静かに言った。

「記録を回収するためです」

真壁の目が細くなった。

「誰の指示で」

水島は答えた。

「相沢信一です」

真壁は黙った。

また、その名前だった。

一九七四年。

一九八一年。

二〇一〇年。

三つの時代を結ぶ男。

相沢信一。

水島は続けた。

「岸田さんは、S―00の記録を回収する役割を担っていました」

「なぜ」

「岡崎玲子さんが、研究の不正を公にしようとしていたからです」

真壁は静かに訊いた。

「その証拠はありますか」

水島は頷いた。

「あります」

「どこに」

水島は答えた。

「この病院です」

真壁は目を細めた。

「また、B―17ですか」

水島は首を振った。

「違います」

「では」

水島は静かに言った。

「地下三階です」

真壁は動かなかった。

地下三階。

これまで見つかった図面には、地下二階までしか記載されていなかった。

真壁は静かに訊いた。

「地下三階があるんですか」

水島は頷いた。

「あります」

「何があるんです」

水島は答えた。

「記録の保管庫です」

真壁は黙った。

水島は続けた。

「ただし、地下三階は、誰でも入れる場所ではありません」

「どういう意味です」

水島は静かに言った。

「入口が、隠されているんです」

真壁は、ゆっくり息を吐いた。

「場所を教えてください」

水島は答えた。

「明日、ご案内します」

真壁は頷いた。

「わかりました」

そして、続けた。

「ただし、現場の安全確認が先です」

水島は小さく微笑んだ。

「刑事さんですね」

真壁は答えた。

「そうです」


七 野村真紀の行方

午後八時二十分。

奈良県警本部。

野村は、一人で資料室にいた。

机の上には、母親の写真が置かれている。

野村真紀。

若いころの母親。

笑っている。

野村は、長い時間、その写真を見つめていた。

二〇一〇年六月十八日。

母親は、京都の研究施設にいた。

そして、階段で起きた事故に巻き込まれた。

三崎遼一は、母親が死亡したと証言した。

しかし、水島澄子は、母親が生きていたと話している。

映像には、二人の女性が写っていた。

そのうち一人は、階段の下に倒れていた。

もう一人は、膝をついていた。

どちらが母親なのか。

野村には、まだわからなかった。

そのとき、扉が開いた。

真壁だった。

「野村」

「はい」

「少しいいか」

野村は頷いた。

真壁は向かい側に座った。

「今日の映像について、どう思う」

野村は少し考えた。

「母が生きていた可能性は、あります」

真壁は頷いた。

「そうだな」

「でも、まだ確定できません」

「そのとおりだ」

野村は写真を見た。

「真壁さん」

「何だ」

「もし、母が生きていたとしたら」

真壁は黙って聞いていた。

「なぜ、僕に会いに来なかったんでしょう」

真壁は答えなかった。

野村は続けた。

「十六年です」

「……」

「一度も、連絡がなかった」

真壁は静かに言った。

「理由があったのかもしれない」

野村は首を振った。

「それは、わかっています」

そして、顔を上げた。

「でも、理由があったとしても、僕は知りたいです」

真壁は頷いた。

「そうだな」

野村は続けた。

「母が生きていたなら、どうして僕を置いていったのか」

真壁は静かに答えた。

「本人に聞こう」

野村は黙った。

真壁は続けた。

「生きていると確認できたら、必ず会う方法を探す」

野村は、ゆっくり頷いた。

「はい」

真壁は立ち上がった。

「明日、地下三階を調べる」

野村は顔を上げた。

「僕も行きます」

真壁は頷いた。

「わかっている」


八 地下三階への階段

午後十一時四十分。

奈良中央記念病院旧館。

建物の周囲には、夜間警戒の警察官が配置されていた。

旧館は、静まり返っていた。

地下二階。

B―17。

観測室の奥。

誰もいないはずの廊下で、小さな音がした。

金属が擦れるような音。

そして、何かを引きずる音。

暗い廊下の奥。

壁の一部が、ゆっくり動いた。

そこから、一人の人物が現れた。

黒い上着。

白い手袋。

顔は、暗がりに隠れている。

人物は、周囲を見回した。

そして、床に置かれた古い箱を持ち上げた。

箱には、白い文字が書かれていた。

《S―00》

人物は、しばらくその箱を見つめていた。

そして、静かに呟いた。

「まだ、残っていたのか」

声は、低かった。

男だった。

男は、箱を抱えて廊下の奥へ向かった。

その先には、古い鉄製の扉があった。

扉には、何も書かれていない。

男は、鍵を取り出した。

鍵穴に差し込む。

小さな音がした。

扉が開いた。

その向こうには、暗い階段が続いていた。

下へ。

さらに下へ。

男は、ゆっくり階段を下りていった。

やがて、地下三階へ到着した。

そこには、長い廊下があった。

左右に、いくつもの扉が並んでいる。

男は、一番奥の部屋へ向かった。

扉には、古い文字板があった。

《原記録管理室》

男は扉を開けた。

室内には、机と棚が並んでいた。

そして、壁には一枚の写真が掛けられていた。

一九七四年六月十二日。

奈良中央記念病院。

若い研究者たちが写っている。

杉浦千鶴。

杉浦美津子。

三崎俊夫。

相沢信一。

そして、もう一人。

写真の中央に立つ男。

男は、その人物を見つめた。

「あなたが始めたことだ」

誰も答えなかった。

男は、机の上に箱を置いた。

そして、引き出しから一枚の紙を取り出した。

《一九七四年六月十二日》

《第二投与実施者》

そこには、名前が書かれていた。

男は、長い時間、その名前を見つめていた。

そして、静かに呟いた。

「これを見れば、真壁修司はすべてを知る」

男は、紙を封筒に入れた。

封筒の表には、こう書かれていた。

《真壁修司へ》

そのとき、男の携帯電話が震えた。

画面には、短いメッセージが表示されていた。

《水島澄子が、地下三階の存在を話した》

男は、しばらく画面を見つめていた。

そして、返信した。

《予定どおり》

送信。

男は携帯電話を伏せた。

その顔に、わずかな笑みが浮かんだ。

「ようやく、ここまで来たか」

男は、壁の写真を見た。

中央に立つ人物。

その顔は、若いころの相沢信一に似ていた。

しかし、よく見ると違っていた。

右の眉の上に、小さな傷がある。

相沢信一には、その傷がなかった。

男は、静かに言った。

「今度こそ、名前を返してもらう」

そして、部屋の明かりを消した。

暗闇の中に、古い写真だけが残された。

翌朝。

真壁修司は、まだ知らなかった。

地下三階には、一九七四年の第二投与記録だけではなく、二〇一〇年の事故に関する別の原記録も保管されていることを。

そして、その記録の中に、自分自身の署名が残されていることを。

その署名が、本物なのか。

誰かが書いたものなのか。

まだ、誰にもわからない。

ただ一つ、確かなことがあった。

誰かが、真壁を地下三階へ導こうとしていた。

四十五年前に始まった記録の空白。

その空白を埋めるために。

あるいは、最後の一行を書き換えるために。

第三十五章に続く

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