東野圭吾を模倣し、元首相暗殺事件を題材にしたオリジナル小説『二発目の空白』第三十二章

目次

第三十二章 死者を選んだ医師

一 朝の電話

十月二十七日、午前七時十二分。

奈良県警本部の窓に、朝日が差し込んでいた。

真壁修司は、机の上に置かれた一冊の台帳を見つめていた。

表紙には《二〇一〇年六月十八日 京都研究施設》と記されている。

その日、京都の研究施設で二人の女性が搬送された。

岡崎玲子。

野村真紀。

そして、翌十九日、岡崎玲子の死亡診断書が作成された。

しかし、匿名の情報提供者は、死亡したのは別の女性だと告げてきた。

真壁は、昨夜のメッセージを読み返した。

《死亡したのは、別の女性です》

誰が送ったのか。

なぜ、捜査の進行を知っているのか。

そして、何のために真壁を誘導しているのか。

まだ、何もわからない。

真壁は携帯電話を伏せた。

そのとき、電話が鳴った。

画面には、京都府警の担当者の名前が表示されていた。

「真壁です」

『おはようございます。朝早く申し訳ありません』

「何かわかりましたか」

『二〇一〇年六月十八日の救急搬送記録についてです』

真壁は背筋を伸ばした。

「お願いします」

『当日の出動記録が残っていました』

「搬送されたのは二人ですか」

『はい。ただし、搬送先が途中で変更されています』

「変更を指示したのは」

『記録上は、現場にいた医師です』

「名前は」

短い沈黙。

『三崎遼一です』

真壁は目を細めた。

「三崎が?」

『はい』

「変更先は奈良中央記念病院の関連施設ですね」

『そのとおりです』

真壁はメモを取った。

「二人の容体は」

『一人は意識不明。もう一人は意識があり、会話も可能だったと記されています』

「どちらが意識不明だったんです」

『それが、問題なんです』

担当者の声が低くなった。

『救急隊の記録には、患者の氏名が書かれていません』

真壁は黙った。

『一号患者、二号患者と記されています』

「身体的な特徴は」

『一号患者は頭部外傷。二号患者は左腕に外傷があり、歩行可能だったそうです』

真壁は頷いた。

「ありがとうございます。原本を確認させてください」

『手配します』

電話が切れた。

真壁は、机の上の資料を見つめた。

一号患者。

二号患者。

名前のない二人の女性。

そして、死亡診断書には岡崎玲子の名前が記されている。

その名前は、いつ、誰によって決められたのか。

真壁は静かに呟いた。

「また、同じことをしている」

一九八一年の事故。

身元不明の遺体。

あとから書き込まれた名前。

四十五年近く前の方法が、二〇一〇年にも繰り返されていたのかもしれない。

そのとき、資料室の扉が開いた。

野村亮介だった。

「おはようございます」

「ああ」

野村は真壁の顔を見た。

「何かわかりましたか」

「京都府警から連絡があった」

真壁は搬送記録の内容を説明した。

野村は黙って聞いていた。

そして、静かに言った。

「母が、二号患者だった可能性もありますね」

「ある」

真壁は答えた。

「だが、一号患者だった可能性もある」

野村は頷いた。

「はい」

真壁は続けた。

「どちらが亡くなったのかも、まだ確認できていない」

野村は目を伏せた。

真壁は静かに言った。

「今日、三崎遼一に会う」

「はい」

「お前も来るか」

野村は顔を上げた。

「もちろんです」

真壁は頷いた。

「では、行こう」


二 古い診療所

午前十時四十分。

京都市内の住宅街。

真壁と野村は、古い診療所の前に立っていた。

二階建ての建物だった。

外壁は薄い灰色で、玄関の横には小さな看板がある。

《三崎内科診療所》

診療所は、数年前に閉院していた。

しかし、建物はそのまま残されている。

真壁が呼び鈴を押すと、しばらくして扉が開いた。

三崎遼一が立っていた。

六十代半ば。

白髪の混じった髪。

細い眼鏡。

疲れたような目。

「真壁さんですね」

「はい」

真壁は頭を下げた。

「お時間をいただき、ありがとうございます」

三崎は頷いた。

「どうぞ」

二人は、診療所の奥へ通された。

かつての診察室だった。

診察台には白い布が掛けられ、壁には古い人体図が残っている。

机の上には、数冊のカルテが積まれていた。

三崎は椅子に座った。

「昨日、連絡をいただいてから、昔の資料を探していました」

真壁は頷いた。

「ありがとうございます」

「父のことも、まだ調べているんですね」

三崎が言った。

「はい」

真壁は答えた。

「一九八一年の死亡診断書についても、引き続き確認しています」

三崎は目を伏せた。

「そうですか」

真壁は静かに続けた。

「今日は、二〇一〇年六月十八日のことを伺いたいんです」

三崎の表情が変わった。

「岡崎玲子さんの事故ですね」

「はい」

真壁は資料を取り出した。

「当日、あなたは京都の研究施設にいましたね」

三崎は頷いた。

「いました」

「医療担当者として?」

「そうです」

「二人の女性が搬送されています」

「はい」

真壁は、三崎の顔を見た。

「岡崎玲子さんと、野村真紀さんですね」

三崎は黙った。

野村が身を乗り出した。

「母をご存じだったんですか」

三崎は野村を見た。

「あなたが、野村亮介さんですか」

「はい」

三崎は小さく息を吐いた。

「そうですか」

野村は静かに訊いた。

「母は、あの日、どうなったんですか」

三崎は答えなかった。

長い沈黙。

真壁は口を開いた。

「三崎先生」

「はい」

「まず、当日の状況から聞かせてください」

三崎は頷いた。

そして、ゆっくり話し始めた。


三 階段の下にいた二人

二〇一〇年六月十八日。

午後四時三十分。

京都市内の研究施設。

三崎遼一は、二階の医療管理室にいた。

施設では、記憶と心理反応に関する研究が行われていた。

その日、複数の関係者が集まっていたという。

真壁修司。

岡崎玲子。

野村真紀。

そして、相沢美紀。

「私は、研究の内容には直接関わっていませんでした」

三崎は言った。

「体調を崩した人が出た場合に対応する立場でした」

真壁は頷いた。

「午後四時半ごろ、何が起きたんですか」

三崎は目を伏せた。

「大きな音がしました」

「どこから」

「中央階段です」

三崎は続けた。

「誰かが倒れたと聞いて、駆けつけました」

「何人いましたか」

「二人です」

真壁は黙った。

「一人は階段の下に倒れていました。もう一人は、その少し上に座り込んでいました」

「倒れていたのは誰ですか」

三崎は、しばらく黙っていた。

そして、静かに答えた。

「野村真紀さんです」

野村の顔から血の気が引いた。

真壁は動かなかった。

「では、岡崎玲子さんは」

「階段の途中にいました」

三崎は答えた。

「左腕を痛めていましたが、意識はありました」

野村は、膝の上で拳を握った。

真壁は静かに訊いた。

「野村真紀さんの容体は」

三崎は答えた。

「重篤でした」

「具体的には」

「頭部に強い外傷があり、呼吸も不安定でした」

「救急車は」

「呼びました」

「搬送先を変更したのは、あなたですね」

三崎は頷いた。

「そうです」

「なぜです」

三崎は黙った。

真壁は続けた。

「通常の救急病院ではなく、奈良中央記念病院の関連施設へ搬送させた理由を教えてください」

三崎は目を閉じた。

「私の判断ではありませんでした」

真壁の目が細くなった。

「誰の判断です」

三崎は、ゆっくり目を開けた。

「相沢信一です」

真壁は黙った。

また、その名前だった。

一九七四年。

一九八一年。

二〇一〇年。

三つの時代を結ぶ男。

相沢信一。

真壁は静かに訊いた。

「相沢から、直接指示されたんですか」

「電話でした」

「通話記録は」

「残っていないと思います」

「では、指示の内容は」

三崎は答えた。

「二人を指定の施設へ運ぶように、と」

「理由は」

「説明されませんでした」

真壁は眉を寄せた。

「あなたは、医師として不適切だと思わなかったんですか」

三崎は頷いた。

「思いました」

「それでも従った」

「はい」

「なぜです」

三崎は、長い時間黙っていた。

そして、静かに言った。

「父のことを持ち出されたからです」

真壁は顔を上げた。

「三崎俊夫さんの?」

「はい」

三崎は続けた。

「一九八一年の死亡診断書について、私の父が関わったことを知っている、と」

真壁は黙った。

「指示に従わなければ、その記録を公にすると言われました」

「それで従った」

「そうです」

真壁は静かに言った。

「脅迫を受けたということですね」

三崎は頷いた。

「はい」

真壁は続けた。

「ただし、それが事実かどうかは、これから確認します」

三崎は目を伏せた。

「わかっています」


四 死亡診断書の名前

午前十一時五十五分。

診察室には、重い沈黙が流れていた。

野村は、三崎を見つめていた。

「先生」

三崎が顔を上げた。

「母は、搬送先で亡くなったんですか」

三崎は答えなかった。

真壁は静かに言った。

「三崎先生。確認できる範囲で、順番に話してください」

三崎は頷いた。

「搬送先に到着したとき、真紀さんの状態はさらに悪くなっていました」

「はい」

「治療を続けましたが、翌日の午前一時過ぎに心停止しました」

野村は目を閉じた。

真壁は、三崎の言葉を待った。

「蘇生を試みました」

三崎は続けた。

「しかし、反応はありませんでした」

「死亡確認をしたのは」

「私です」

真壁は頷いた。

「時刻は」

「午前一時二十六分です」

野村は俯いた。

真壁は静かに訊いた。

「では、岡崎玲子さんは」

三崎は答えた。

「生きていました」

真壁の目が細くなった。

「その後、どうなったんです」

三崎は黙った。

真壁は続けた。

「岡崎玲子さんの死亡診断書には、あなたの署名があります」

三崎は頷いた。

「はい」

「しかし、いまの話では、死亡したのは野村真紀さんです」

三崎は目を伏せた。

「そうです」

野村が顔を上げた。

「どうして、岡崎さんの名前を書いたんですか」

三崎は、しばらく答えなかった。

そして、静かに言った。

「命じられたからです」

真壁は眉を寄せた。

「誰に」

三崎は答えた。

「相沢美紀さんです」

真壁は動かなかった。

相沢美紀。

野村真紀の妹。

そして、二〇二〇年に死亡したことになっている女性。

三崎は続けた。

「美紀さんは、真紀さんが亡くなったことを知っていました」

「はい」

「そのうえで、岡崎玲子の名前で死亡診断書を作ってほしいと言ったんです」

真壁は静かに訊いた。

「理由は」

三崎は答えた。

「真紀さんの名前を、残すためだと」

野村が息を呑んだ。

「名前を残す?」

三崎は頷いた。

「はい」

「どういう意味です」

三崎は目を伏せた。

「私にも、よくわかりませんでした」

真壁は黙った。

三崎は続けた。

「ただ、美紀さんはこう言いました」

『真紀を死んだことにしたら、すべてが終わる』

真壁の目が細くなった。

「それで、岡崎玲子さんを死んだことにした?」

「そうです」

「岡崎さん本人は、同意していたんですか」

三崎は答えなかった。

真壁は続けた。

「そこが重要です」

三崎は小さく頷いた。

「本人の同意は、確認していません」

真壁は静かに言った。

「つまり、あなたは、本人の同意を確認しないまま、別人の死亡診断書を作成した」

三崎は目を閉じた。

「はい」

野村は、長い時間黙っていた。

そして、静かに訊いた。

「先生」

「はい」

「母が亡くなったとき、誰かがそばにいましたか」

三崎は野村を見た。

「美紀さんがいました」

野村は目を伏せた。

「そうですか」

三崎は続けた。

「真紀さんの手を握っていました」

野村の肩が、わずかに震えた。

真壁は何も言わなかった。

野村は、しばらくして顔を上げた。

「母は、何か言っていましたか」

三崎は静かに答えた。

「あなたの名前を呼んでいました」

野村は息を止めた。

「亮介、と」

三崎は頷いた。

「はい」

野村は、ゆっくり目を閉じた。

その表情には、悲しみだけではないものがあった。

長い間、母親が生きているかもしれないと考えてきた。

その希望が、いま、別の形に変わろうとしていた。

しかし、真壁はまだ結論を出さなかった。

三崎の証言は重要だった。

だが、死亡確認の原資料、搬送記録、遺体の取扱記録との照合が必要だった。

真壁は静かに言った。

「野村」

「はい」

「最後まで確かめよう」

野村は頷いた。

「はい」


五 消えた生存者

午後一時十分。

三崎は、机の引き出しから古い封筒を取り出した。

「これを見てください」

真壁は受け取った。

中には、二〇一〇年六月十九日付の記録が入っていた。

《患者移送指示書》

患者氏名。

《岡崎玲子》

移送先。

《白鷺文化研究財団 京都研究棟》

真壁は目を細めた。

「岡崎玲子さんは、翌日、研究財団へ移送されたんですか」

三崎は頷いた。

「そうです」

「なぜ」

「私には知らされませんでした」

真壁は資料を見つめた。

「移送時の容体は」

「歩行可能でした」

「意識は」

「はっきりしていました」

「本人は、何か話していましたか」

三崎は少し考えた。

「一度だけ、私に訊きました」

「何と」

三崎は答えた。

『真紀さんは、どうなりましたか』

真壁は黙った。

三崎は続けた。

「私は、答えられませんでした」

「なぜ」

「美紀さんから、話すなと言われていたからです」

真壁は眉を寄せた。

「岡崎さんは、そのあとどうしましたか」

三崎は静かに言った。

「私を見て、こう言いました」

『あなたも、名前を消すんですね』

真壁は動かなかった。

三崎は続けた。

「それが、私が聞いた最後の言葉です」

真壁は資料を閉じた。

「岡崎さんの現在の所在は」

三崎は首を振った。

「知りません」

「その後、連絡は」

「ありません」

真壁は頷いた。

「わかりました」

野村が顔を上げた。

「真壁さん」

「何だ」

「岡崎さんは、二〇一〇年六月十九日には生きていたんですね」

真壁は頷いた。

「少なくとも、三崎先生はそう証言している」

「はい」

「そして、研究財団へ移送されたという書類もある」

野村は黙った。

真壁は続けた。

「だが、その後の所在は不明だ」

野村は頷いた。

真壁は三崎を見た。

「先生」

「はい」

「この書類を、正式に提出していただけますか」

三崎は頷いた。

「はい」

「原本の保管経緯も確認させてください」

「わかりました」

真壁は頭を下げた。

「ありがとうございます」

三崎は、しばらく黙っていた。

そして、静かに言った。

「真壁さん」

「はい」

「私は、父と同じことをしてしまいました」

真壁は顔を上げた。

「同じこと?」

三崎は頷いた。

「死者の名前を、別の人間へ移したんです」

真壁は黙った。

三崎は続けた。

「父は一九八一年に、私は二〇一〇年に」

真壁は静かに言った。

「先生」

「はい」

「あなたのお父様が何をしたのか、まだすべてはわかっていません」

三崎は目を伏せた。

「そうですね」

真壁は続けた。

「あなたのしたことも、これから確認します」

三崎は頷いた。

「はい」

真壁は立ち上がった。

「ただ、一つだけ」

三崎が顔を上げた。

「名前を変えられた人間には、それぞれ人生があります」

三崎は黙った。

真壁は静かに言った。

「その人生を、記録の都合で扱ってはいけない」

三崎は、ゆっくり頭を下げた。

「そのとおりです」


六 野村亮介の沈黙

午後三時四十分。

京都から奈良へ戻る車の中。

野村は、ほとんど口を開かなかった。

高速道路の向こうに、低い山並みが見えていた。

真壁は、無理に話しかけなかった。

やがて、野村が静かに言った。

「真壁さん」

「何だ」

「母は、亡くなっていたんですね」

真壁は、しばらく黙った。

そして、答えた。

「三崎先生の証言が正しければ、そうなる」

野村は頷いた。

「はい」

真壁は続けた。

「ただ、まだ確認すべきことがある」

「わかっています」

野村は窓の外を見た。

「でも、母が生きているかもしれないと思っていたんです」

真壁は黙って聞いていた。

「どこかで暮らしていて、いつか会えるんじゃないかって」

野村の声が小さくなった。

「そんなことを考えていました」

真壁は静かに言った。

「当然だと思う」

野村は首を振った。

「でも、もし三崎先生の話が本当なら、母はあの日に亡くなっていた」

真壁は答えなかった。

野村は続けた。

「僕は、母の最後を知らなかった」

「……」

「母が僕の名前を呼んでいたことも」

真壁は、ハンドルを握る手に力を込めた。

野村は、しばらく黙っていた。

そして、静かに言った。

「真壁さん」

「何だ」

「僕は、母が何をしていたのか知りたいです」

真壁は頷いた。

「そうだな」

「S―00を引き継いだ理由も」

「はい」

「岡崎さんと何を話していたのかも」

真壁は静かに答えた。

「調べよう」

野村は頷いた。

「はい」

真壁は前方を見た。

車の流れは、穏やかだった。

しかし、真壁の頭の中では、いくつもの疑問が渦巻いていた。

野村真紀は、二〇一〇年六月十九日に死亡した可能性がある。

その直前、S―00の第四継承者として登録されていた。

しかも、登録記録には《本人不在》と書かれていた。

なぜ、本人不在のまま登録されたのか。

誰が登録したのか。

そして、なぜ岡崎玲子の名前で死亡診断書が作成されたのか。

相沢美紀は、何を守ろうとしていたのか。

真壁は静かに呟いた。

「名前を残すため……」

野村が顔を上げた。

「何です」

真壁は首を振った。

「いや」

そして、続けた。

「相沢美紀に、直接聞く必要がある」

野村は頷いた。

「はい」


七 相沢美紀の証言

午後六時二十分。

奈良県警本部。

相沢美紀を名乗る女性は、面談室に座っていた。

黒い上着。

細い手首。

そこには、以前見た黒いリストバンドがあった。

《03》

真壁は、女性の向かい側に座った。

野村は少し離れた席にいた。

真壁は静かに言った。

「美紀さん」

女性が顔を上げた。

「はい」

「二〇一〇年六月十八日のことを聞かせてください」

女性は、しばらく黙っていた。

そして、静かに答えた。

「三崎先生に会ったんですね」

真壁の目が細くなった。

「なぜ、そう思うんです」

女性は小さく微笑んだ。

「その話をするなら、あの人に会うしかありませんから」

真壁は黙った。

「三崎先生は、野村真紀さんが亡くなったと証言しました」

女性の表情が変わった。

野村は、静かに女性を見つめていた。

真壁は続けた。

「そして、岡崎玲子さんの名前で死亡診断書を作成したとも」

女性は目を伏せた。

長い沈黙。

そして。

「そうです」

真壁は息を止めた。

「あなたが指示したんですか」

女性は頷いた。

「はい」

野村が顔を上げた。

「叔母さん」

女性は野村を見た。

「亮介」

野村は静かに訊いた。

「どうして、そんなことをしたんですか」

女性は、しばらく黙っていた。

そして、静かに言った。

「真紀の名前を消したくなかったから」

野村は眉を寄せた。

「名前を消したくなかった?」

女性は頷いた。

「ええ」

「母は、亡くなったんですよね」

女性は目を伏せた。

「そうよ」

野村は黙った。

女性は続けた。

「でも、真紀が死んだことになれば、S―00の記録も終わるはずだった」

真壁の目が細くなった。

「どういう意味です」

女性は答えた。

「S―00には、継承者が必要だったんです」

「なぜ」

「記録を守るためです」

真壁は静かに言った。

「記録は、人間の名前がなくても保管できます」

女性は頷いた。

「普通なら、そうです」

「では、なぜ」

女性は真壁を見た。

「この記録は、普通ではなかったからです」

真壁は黙った。

女性は続けた。

「S―00の記録には、誰が何を見たかだけではなく、誰がその記録を守る責任を引き受けたかが残されていました」

「はい」

「継承者が死亡すると、管理者が記録を回収する仕組みだったんです」

真壁は眉を寄せた。

「管理者とは」

女性は答えた。

「相沢信一です」

真壁は動かなかった。

女性は続けた。

「父は、S―00を危険な記録だと考えていました」

「なぜ」

「研究の不正が残っていたからです」

真壁は頷いた。

「それで、継承者が死亡したら、回収する」

「そうです」

真壁は静かに訊いた。

「あなたは、それを防ぐために、野村真紀さんを生存者として扱ったんですか」

女性は頷いた。

「はい」

野村は、長い時間黙っていた。

そして、静かに言った。

「でも、そのために岡崎さんを死んだことにした」

女性は目を伏せた。

「そうよ」

野村は続けた。

「岡崎さんの人生は、どうなるんですか」

女性は答えなかった。

野村の声が少し震えた。

「母の名前を守るために、別の人の名前を消したんですか」

女性は、ゆっくり頷いた。

「そうです」

野村は目を閉じた。

真壁は静かに言った。

「美紀さん」

女性が顔を上げた。

「あなたのしたことは、記録を守るためだったとしても、正当化されるものではありません」

女性は頷いた。

「わかっています」

真壁は続けた。

「ただし、あなたが守ろうとした記録については、確認する必要があります」

女性は黙った。

真壁は静かに訊いた。

「S―00の原本は、どこにあるんですか」

女性は、しばらく真壁を見つめていた。

そして、静かに答えた。

「奈良中央記念病院です」

真壁の目が細くなった。

「地下二階ですか」

女性は頷いた。

「はい」

「どの部屋です」

女性は答えた。

「B―17です」

真壁は息を止めた。

B―17。

母親が残した鍵。

地下二階。

十七番目の記録を守るために作られた部屋。

真壁は静かに言った。

「そこは、すでに調べています」

女性は首を振った。

「まだ、全部は見ていません」

真壁の目が細くなった。

「どういう意味です」

女性は答えた。

「B―17には、二つの保管場所があるんです」

真壁は黙った。

女性は続けた。

「一つは、記録を見せるための場所」

「はい」

「もう一つは、記録を隠すための場所です」

真壁は静かに訊いた。

「隠す場所は、どこです」

女性は答えた。

「床の下です」

真壁は息を止めた。

「床下?」

女性は頷いた。

「はい」

「何があるんです」

女性は、しばらく黙っていた。

そして、静かに言った。

「一九七四年六月十二日の原記録です」

真壁は動かなかった。

「薬剤投与の?」

「はい」

女性は続けた。

「二回目の投与を、誰が実施したのか」

真壁は目を細めた。

「それが、記録されているんですか」

女性は頷いた。

「そうです」

真壁は静かに訊いた。

「誰です」

女性は答えなかった。

長い沈黙。

そして、静かに言った。

「真壁さん」

「はい」

「その名前を聞いたら、あなたは自分の記憶を疑うことになります」

真壁は黙った。

女性は続けた。

「それでも、知りたいですか」

真壁は、ゆっくり頷いた。

「はい」

女性は目を伏せた。

そして、静かに言った。

「では、明日、B―17へ行ってください」

真壁の目が細くなった。

「あなたも来るんですか」

女性は首を振った。

「私は行きません」

「なぜ」

女性は答えた。

「もう、あの場所へ戻る資格がないからです」

真壁は黙った。

女性は続けた。

「ただ、一つだけ約束してください」

「何です」

「記録に名前があっても、すぐにその人を責めないでください」

真壁は頷いた。

「証拠を確認します」

女性は、小さく息を吐いた。

「それなら、いいです」


八 もう一つの死亡診断書

午後十一時十分。

奈良県警本部。

真壁は、一人で資料室に残っていた。

机の上には、三崎遼一から受け取った資料が並んでいる。

二〇一〇年六月十八日。

京都研究施設。

搬送患者二名。

野村真紀。

岡崎玲子。

そして、死亡診断書。

氏名。

岡崎玲子。

しかし、三崎は死亡したのは野村真紀だったと証言した。

相沢美紀も、それを認めた。

真壁は、静かに資料を閉じた。

野村にとって、残酷な一日だった。

母親が生きているかもしれないという希望。

その希望が、二人の証言によって揺らいでいる。

だが、真壁にはまだ疑問があった。

なぜ、死亡した人間の名前を残す必要があったのか。

記録を守るため。

それだけで、別人の死亡診断書を作るだろうか。

そして、岡崎玲子は、その後どこへ行ったのか。

真壁は、三崎の資料をもう一度開いた。

《患者移送指示書》

移送先。

《白鷺文化研究財団 京都研究棟》

その下に、細い文字があった。

《移送責任者》

真壁は、目を細めた。

《真壁修司》

真壁は動かなかった。

自分の名前だった。

二〇一〇年六月十九日。

岡崎玲子を研究財団へ移送した責任者。

そこに、自分の名前が記されていた。

真壁は、長い時間、その文字を見つめていた。

「俺が……?」

誰も答えなかった。

真壁は、二〇一〇年六月十八日の記憶を探った。

京都の研究施設。

階段。

岡崎玲子。

野村真紀。

そして、何かが起きた。

だが、その後の記憶は曖昧だった。

自分は、岡崎玲子を移送したのか。

それとも、誰かが自分の名前を使ったのか。

真壁は、資料を見つめた。

署名欄には、確かに真壁修司と書かれている。

しかし、その筆跡は、どこか違っていた。

真壁は、静かに息を吐いた。

「また、俺の名前か」

そのとき、携帯電話が震えた。

差出人不明。

短いメッセージ。

《岡崎玲子の移送記録を見つけましたね》

真壁の目が細くなった。

続けて、二通目。

《あなたは、あの日、彼女を運びました》

三通目。

《ただし、あなたが運んだのは岡崎玲子ではありません》

真壁は息を止めた。

四通目。

《本当の岡崎玲子は、まだ階段の下にいました》

真壁は動かなかった。

階段の下。

三崎は、そこに倒れていたのは野村真紀だと証言した。

だが、匿名の情報提供者は違うと言っている。

真壁は、ゆっくり携帯電話を伏せた。

証言が食い違っている。

三崎遼一。

相沢美紀。

そして、匿名の情報提供者。

誰が本当のことを言っているのか。

真壁は静かに呟いた。

「また、二人の女か」

一九七四年。

杉浦千鶴と杉浦美津子。

二〇一〇年。

岡崎玲子と野村真紀。

名前が入れ替わり、記録が書き換えられた。

しかし、真実まで入れ替わったわけではない。

真壁は、机の上の資料を見つめた。

明日。

B―17。

もう一つの保管場所。

そこに、何が残されているのか。

真壁は、静かに言った。

「野村」

誰もいない部屋で、相棒の名前を呼んだ。

そして、すぐに口を閉じた。

野村には、まだ話すべきではない。

少なくとも、確認できるまでは。

真壁は、もう一度移送記録を見た。

《移送責任者 真壁修司》

その下に、もう一つの項目があった。

《移送対象者》

名前は、黒いインクで消されている。

しかし、紙の裏から光を当てると、かすかな筆圧の跡が見えた。

真壁は、慎重に角度を変えた。

一文字目。

野。

二文字目。

村。

真壁は息を止めた。

三文字目。

真。

そして、最後の文字。

紀。

《野村真紀》

真壁は、長い時間、動かなかった。

二〇一〇年六月十九日。

自分が移送したことになっている女性。

その名前は、野村真紀だった。

だが、三崎は、野村真紀はすでに亡くなっていたと証言している。

相沢美紀も、それを認めた。

それなのに、移送記録には野村真紀の名前が残されている。

真壁は、静かに呟いた。

「どちらが、死んだんだ」

答えはなかった。

そして、そのころ。

京都市内の古い診療所では、三崎遼一が一枚の写真を見つめていた。

二〇一〇年六月十八日。

研究施設の階段。

そこには、二人の女性が写っていた。

一人は、階段の下に倒れている。

もう一人は、そのそばに膝をついている。

三崎は、写真を裏返した。

そこには、手書きの文字があった。

《死亡者 野村真紀》

《生存者 岡崎玲子》

三崎は、長い時間、その文字を見つめていた。

そして、静かに呟いた。

「これで、終わるはずだった」

誰も答えなかった。

三崎は、机の引き出しからもう一枚の写真を取り出した。

同じ階段。

同じ日付。

しかし、撮影時刻は三分後だった。

そこには、三人の人間が写っていた。

倒れている女性。

膝をつく女性。

そして、その背後に立つ男。

真壁修司。

三崎は、男の顔を見つめた。

「君は、あのとき何を見たんだ」

写真の中の真壁は、階段の下を見ていた。

その視線の先には、もう一人の人物がいた。

写真の端。

半分だけ写り込んだ女性。

その手首には、黒いリストバンドがあった。

《03》

相沢美紀。

三崎は、静かに目を閉じた。

「結局、誰も死者の名前を守れなかった」

机の上には、もう一枚の紙が置かれていた。

《二〇一〇年六月十九日》

《移送対象者 野村真紀》

《移送責任者 真壁修司》

そして、その下に小さな文字。

《移送先変更》

《奈良中央記念病院 地下二階》

三崎は、ゆっくり息を吐いた。

「まだ、そこにあるのか」

その言葉は、誰にも届かなかった。

第三十三章に続く

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