第二十八章 名前のない遺体
一 歯が覚えていたこと
十月二十三日、午前七時四十分。
奈良県警本部の刑事部屋には、夜明け前から降り続いていた雨の匂いが漂っていた。
真壁修司は、窓際に立っていた。
机の上には、四十五年前の交通事故に関する資料が並んでいる。
一九八一年九月二十三日。
京都府南部の山間道路。
一台の乗用車が転落し、炎上した。
車内から発見された男性の遺体は、岸田昭彦と記録された。
ところが、その翌日、岸田昭彦とされる人物が奈良中央記念病院で撮影された写真に写っていた。
さらに、同じ事故に関係する死亡診断書が、別の名前でも作成されていた。
神谷誠一。
一人の死者に、二つの名前。
あるいは、二人の死者に、別々の名前。
真壁たちは、その区別さえつけられずにいた。
「真壁さん」
野村亮介が部屋へ入ってきた。
手には、京都府警から送られてきた資料があった。
「歯科資料の複写です」
真壁は振り返った。
「原本は」
「京都府警の鑑識資料庫で保管されています。昨日、再確認されたそうです」
野村は封筒を机に置いた。
中には、古い歯列図と数枚の写真が入っていた。
《昭和五十六年九月二十四日》
《身元不明男性遺体》
《歯科所見》
真壁は椅子に座った。
「保存状態は」
「一部に変色がありますが、記載は読めます」
「照合先は見つかったか」
野村は頷いた。
「一件あります」
真壁の目が細くなった。
「誰だ」
野村は別の資料を差し出した。
《神谷誠一》
真壁は動かなかった。
「神谷誠一の生前の歯科記録か」
「はい。京都市内の歯科医院に通院していた記録です。医院自体は廃業していますが、診療録の一部が後継の医療機関に引き継がれていました」
真壁は資料を並べた。
右上の奥歯。
金属冠。
左下の第一大臼歯。
抜歯済み。
さらに、前歯の治療痕。
複数の特徴が一致していた。
「鑑定結果は」
真壁が訊いた。
「まだ正式な結論は出ていません。ただ、担当者は有力な一致所見があると言っています」
真壁は頷いた。
「そうか」
野村は少し身を乗り出した。
「これで、死亡したのが神谷誠一さんだったとわかるかもしれません」
「可能性は高くなった」
真壁は静かに答えた。
「だが、記録の取り違えがなかったかも確認しなければならん」
「はい」
「生前の歯科資料が本当に神谷本人のものか。遺体の資料が事故現場で発見された人物のものか。そこをつなぐ記録が必要だ」
野村は頷いた。
真壁は二枚の歯列図を見つめた。
顔は焼けていた。
名前は書き換えられた。
所持品は、別の人間のものだったかもしれない。
それでも、歯には治療を受けた痕跡が残っていた。
その人間が生きていた時間の、ささやかな証拠だった。
「野村」
「はい」
「神谷誠一の遺族に、まだ知らせるな」
野村が顔を上げた。
「なぜです」
「正式な確認が済んでいない。希望を持たせてから覆すようなことはしたくない」
野村は静かに頷いた。
「わかりました」
真壁は窓の外を見た。
雨に濡れた奈良の街。
四十五年前に亡くなった人間の名前が、ようやく戻ろうとしていた。
だが、その名前が戻れば、今度は別の疑問が生まれる。
二〇一八年六月十四日。
神谷直人は、父親と会ったと電話で語った。
その話が本当なら、歯科資料と矛盾する。
真壁は静かに呟いた。
「誰が、神谷誠一を名乗っていたんだ」
二 地下室の裏側
午前十時二十五分。
奈良中央記念病院旧館。
前日と同じ雨が、建物の窓を叩いていた。
真壁と野村は、再び地下二階へ降りた。
今回は鑑識担当者に加え、建物管理者の大庭和夫も立ち会っていた。
目的は、観測室の向こう側にある部屋だった。
神谷直人を名乗る男は、電話でこう言った。
《ガラス窓の向こうにある部屋を、もう一度調べてください》
《そこに、四人目の名前があります》
真壁は、その言葉を全面的に信用しているわけではなかった。
むしろ、相手が自分たちを誘導しようとしている可能性を強く疑っていた。
それでも、調べる価値はあった。
観測室のガラス窓は、廊下側から見ると普通の黒いガラスにしか見えない。
真壁は懐中電灯を向けた。
ガラスの向こうには、小さな部屋があった。
机。
椅子。
壁に取り付けられた金属板。
「昨日は、ここまで確認していませんでした」
野村が言った。
「ああ」
真壁は頷いた。
「原記録保管室の発見に気を取られていた」
野村は周囲を見回した。
「入口はどこでしょう」
真壁は図面を広げた。
地下二階の廊下。
観測室。
資料保管室。
原記録保管室。
しかし、ガラス窓の向こう側の部屋は、図面に載っていなかった。
「また図面にない部屋か」
真壁が呟いた。
大庭が壁を見た。
「このあたりは、改修が何度も行われています」
「いつごろですか」
「一九八〇年代と、二〇〇〇年代の初めです」
真壁の目が細くなった。
「二〇〇〇年代にも?」
「はい。病院の記録保管設備を更新したと聞いています」
「誰が工事を担当したんです」
大庭は首を振った。
「古い契約書を調べれば、わかるかもしれません」
真壁は頷いた。
「お願いします」
野村が壁の下部を指した。
「真壁さん」
「何だ」
「ここ、塗装が違います」
観測室の奥。
床から一メートルほどの位置に、長方形の輪郭が浮かんでいた。
真壁はしゃがみ込んだ。
「確かに」
周囲の壁より、塗装が新しい。
しかし、中央には古い金属製の取っ手が残されていた。
「点検口かもしれません」
大庭が言った。
真壁は頷いた。
「まず、開けられる構造か確認してください」
専門技術者が状態を調べた。
やがて、壁の一部が内側へ開いた。
その向こうには、人がかがんで通れるほどの短い通路があった。
「こんな場所が……」
大庭が呟いた。
真壁は懐中電灯を向けた。
通路の奥には、もう一つ扉があった。
表面には、古い文字が残っていた。
《観測補助室》
真壁は立ち止まった。
「野村」
「はい」
「ここも、誰かが使っていた可能性がある」
野村が頷いた。
「はい」
真壁は扉を見つめた。
「慎重に行こう」
三 四人目の名前
午前十一時四十八分。
観測補助室。
部屋は、三畳ほどの広さしかなかった。
壁に小さな換気口があり、天井から古い配線が垂れ下がっている。
中央には机が一つ。
その上に、木製の箱が置かれていた。
真壁は箱を見つめた。
蓋には、黒い文字が書かれていた。
《昭和五十六年九月二十三日》
事故の日付だった。
野村が息を呑んだ。
「これですね」
真壁は頷いた。
「そうかもしれん」
箱の外観を記録し、鑑識担当者が状態を確認した。
蓋には鍵がかかっていなかった。
中には、薄い封筒が三通入っていた。
一通目。
《事故現場記録》
二通目。
《身元確認資料》
三通目。
《第四者》
真壁の目が細くなった。
第四者。
四人目。
真壁は、三通目を見つめた。
「これを確認しよう」
封筒の状態を記録したあと、慎重に開封された。
中には、一枚の紙が入っていた。
古いタイプライターで打たれた文字。
《第四者識別記録》
《対象者氏名 石倉正一》
真壁は息を止めた。
石倉正一。
記録管理者。
二〇一〇年六月十八日、京都の研究所にいたとされる男。
そして、二〇二二年七月八日の記録にも名前が現れていた人物。
「石倉が、事故現場にいた?」
野村が呟いた。
真壁は頷いた。
「そう記されている」
「では、四人目は石倉正一だったんですね」
真壁は首を振った。
「まだわからん」
「……」
「この紙を誰が作ったのか。何を根拠に名前を記したのか。確認が必要だ」
野村は頷いた。
真壁は紙を読み進めた。
《対象者は、事故当夜、現場に到着》
《車両停止後、運転席へ接近》
《その後、車両に乗り込んだ可能性》
真壁の目が細くなった。
《事故発生後、所在不明》
その下に、手書きの文字があった。
《石倉は死んでいない》
真壁は息を止めた。
さらに、もう一行。
《死亡者は別人》
野村が顔を上げた。
「では、石倉さんも生きていた?」
真壁は答えなかった。
紙を見つめた。
石倉正一。
事故現場。
車両。
そして、死亡者。
もし石倉が車に乗り込み、事故後に姿を消したのなら。
死亡したのは誰なのか。
神谷誠一の歯科資料は、死亡者との一致を示し始めている。
しかし、石倉が現場にいたことと、神谷が死亡したことは、必ずしも矛盾しない。
真壁は静かに言った。
「野村」
「はい」
「石倉が事故現場にいたという記録は、重要だ」
「はい」
「だが、死亡者の身元は別に確認する」
野村は頷いた。
真壁は紙を封筒へ戻した。
そのとき、野村が箱の底を指した。
「真壁さん、まだ何かあります」
薄い紙が一枚、底板に貼りついていた。
鑑識担当者が慎重に取り出した。
それは、古い写真だった。
一九八一年九月二十三日。
山道。
停車した車。
そして、道路脇に立つ四人の男。
真壁は写真を見つめた。
一人目。
黒田修一と思われる男。
二人目。
岸田昭彦と思われる男。
三人目。
神谷誠一に似た男。
そして、四人目。
石倉正一。
真壁は息を止めた。
四人の男。
しかし、これまで見てきた事故前日の写真とは違っていた。
真壁修一がいない。
代わりに、石倉正一が写っている。
真壁は静かに言った。
「そういうことか」
野村が顔を上げた。
「何です」
「事故前日の四人と、事故当夜の四人は、同じじゃなかった」
野村は写真を見つめた。
真壁は続けた。
「父は、事故現場にあとから来た可能性がある」
「はい」
「そして、石倉は事故が起きる前から現場にいた」
野村は頷いた。
真壁は写真を見つめた。
父親は、事故の立会人として記録されていた。
だが、事故そのものに関与した証拠は、まだ見つかっていない。
真壁は静かに呟いた。
「親父は、何を見たんだ」
四 石倉正一の所在
午後一時三十五分。
奈良県警本部。
真壁と野村は、石倉正一の経歴を調べていた。
生年月日。
一九四八年十一月二十日。
奈良県出身。
一九七〇年代から、情報行動研究機構に関係する業務へ従事。
一九八〇年代には、研究記録の管理を担当。
二〇一〇年。
京都の研究施設に出入り。
二〇二二年。
所在不明。
真壁は眉を寄せた。
「死亡記録はないんだな」
野村が頷いた。
「はい」
「最後に確認されたのは」
「二〇二二年七月です」
真壁は静かに言った。
「元首相銃撃事件の直後か」
「そうです」
真壁は資料を見つめた。
石倉正一。
事故当夜の四人目。
そして、四十一年後の記録管理者。
もし同一人物なら、二〇二二年には七十三歳だった。
真壁は写真を並べた。
一九八一年の石倉。
二〇一〇年の石倉。
二〇二二年の石倉とされる人物。
年齢による変化はある。
しかし、顔立ちは似ていた。
「本人確認は」
真壁が訊いた。
野村は首を振った。
「できていません」
「指紋は」
「古い資料に残っている可能性があります」
真壁は頷いた。
「探してくれ」
野村は資料をめくった。
そのとき、一枚の紙が落ちた。
《石倉正一 家族関係》
長男。
石倉雅人。
真壁は眉を寄せた。
「息子か」
野村が頷いた。
「はい」
「二〇二二年七月七日に交通事故で亡くなったことになっている」
「そうです」
真壁は息を止めた。
七月七日。
元首相銃撃事件の前日。
石倉雅人。
京都で交通事故。
そして、父親の石倉正一は、翌日以降に所在不明となっている。
真壁は静かに言った。
「親子で、同じ時期に記録から消えている」
野村が頷いた。
「はい」
「雅人の死亡記録も確認しよう」
「わかりました」
真壁は資料を閉じた。
四十五年前。
石倉正一は、事故現場にいた可能性がある。
そして、二〇二二年。
息子が死亡した翌日に、父親も姿を消した。
偶然なのか。
それとも、同じ仕組みが繰り返されたのか。
真壁は窓の外を見た。
雨は、まだ降り続いていた。
五 神谷直人の声
午後四時二十分。
奈良県警本部の取調室。
真壁は、電話で神谷直人を名乗った男の声を聞き直していた。
録音には、わずかな雑音が混じっていた。
『父は、あの事故で死んでいません』
『私が、父に会ったからです』
『二〇一八年六月十四日』
真壁は再生を止めた。
野村が言った。
「声紋の照合は」
「参考になる資料があれば、比較できる」
「神谷さんの過去の録音を探しますか」
「ああ」
真壁は頷いた。
「ただし、声が似ているだけでは本人とは断定できない」
野村は頷いた。
真壁は椅子へ座った。
神谷直人。
二〇一八年に姿を消した男。
父親の死を調べていた。
そして、四十五年前の事故の真相に近づいた可能性がある。
真壁は静かに言った。
「野村」
「はい」
「神谷直人が二〇一八年に会った人物は、本当に父親だったのか」
野村は黙った。
「それとも、父親を名乗る別人だったのか」
「……」
「そこが重要だ」
野村は頷いた。
真壁は続けた。
「一九八一年の事故では、名前が入れ替わった可能性がある」
「はい」
「二〇一八年にも、同じことが起きていたのかもしれない」
野村は資料を見つめた。
「誰かが、神谷誠一を名乗っていた?」
「可能性はある」
真壁は静かに言った。
「だが、その人物が誰なのかは、まだわからん」
そのとき、真壁の携帯電話が震えた。
差出人不明。
短いメッセージ。
《神谷直人は、父親に会っていません》
真壁は画面を見つめた。
続けて、二通目。
《彼が会ったのは、父親の名前を使っていた男です》
真壁の目が細くなった。
三通目。
《その男は、石倉正一です》
真壁は静かに息を吐いた。
また、石倉。
しかし、匿名のメッセージは、証拠ではない。
真壁は野村へ画面を見せた。
「保存してくれ」
野村が頷いた。
「はい」
真壁は続けた。
「発信元の確認も進めよう」
「わかりました」
真壁は携帯電話を伏せた。
「俺たちは、名前を追いすぎている」
野村が顔を上げた。
「どういうことです」
真壁は答えた。
「誰が誰を名乗ったかばかり考えている」
「……」
「だが、本当に重要なのは、その人間が何をしたかだ」
野村は頷いた。
真壁は静かに言った。
「神谷誠一を名乗った男が、何を持ち出したのか」
「はい」
「石倉正一が、何を隠したのか」
「はい」
「そして、父が何を知っていたのか」
真壁は立ち上がった。
「行動を追う」
野村が頷いた。
「わかりました」
六 四十五年前の証言
午後六時三十分。
奈良県警本部。
真壁は、母親の録音テープをもう一度聞いていた。
『事故の翌日、私は病院へ行きました』
『修一さんと、黒田さんと、岸田昭彦さんがいました』
『三人とも生きていました』
真壁は目を閉じた。
母親の声。
懐かしく、そして苦しかった。
『ただし、岸田昭彦さんは、何が起きたのかよく覚えていませんでした』
真壁は再生を止めた。
野村が顔を上げた。
「何かありましたか」
真壁は答えた。
「母は、岸田昭彦を見たと言っている」
「はい」
「だが、本人確認をしたとは言っていない」
野村は眉を寄せた。
「つまり」
「父が岸田昭彦だと紹介した人物を、母はそう認識しただけかもしれない」
野村は頷いた。
「そうですね」
真壁は続けた。
「黒田についても同じだ」
「……」
「顔が似ている人間が複数いた。名前が入れ替わっていた可能性もある」
野村は黙った。
真壁は静かに言った。
「母の証言は大切だ」
「はい」
「だが、母が見たものと、母が信じたことは分けて考えなければならん」
野村は頷いた。
真壁は録音機を止めた。
そのとき、刑事部屋の扉が開いた。
若い警察官が入ってきた。
「真壁さん」
「何だ」
「京都府警から連絡です」
真壁が顔を上げた。
「歯科資料の件か」
「はい」
警察官は資料を差し出した。
「鑑定担当者から、暫定的な所見が届きました」
真壁は受け取った。
そこには、慎重な表現で記されていた。
《生前資料と死後資料に複数の一致所見を認める》
《神谷誠一との同一性を強く示唆する》
《ただし、資料の由来及び保存経緯の確認を要する》
真壁は静かに息を吐いた。
「神谷誠一だった可能性が高い」
野村が頷いた。
「はい」
真壁は資料を机に置いた。
四十五年前の事故。
身元不明の遺体。
その人物は、神谷誠一だった可能性が高くなった。
では、二〇一八年に神谷直人が会った父親は誰だったのか。
そして、二〇二六年に電話をかけてきた男は、本当に神谷直人なのか。
真壁は静かに言った。
「野村」
「はい」
「神谷直人の母親は、まだ生きているか」
野村が資料を確認した。
「はい。神谷美代子さんです」
「どこに住んでいる」
「京都市内の高齢者施設です」
真壁は頷いた。
「会いに行こう」
野村が顔を上げた。
「神谷さんのお母様に?」
「ああ」
真壁は静かに言った。
「四十五年前の事故で夫を失った女性だ」
「……」
「その人が、何を知っているのか聞く」
野村は頷いた。
「わかりました」
真壁は窓の外を見た。
雨は、ようやく弱くなっていた。
七 夫を待ち続けた女
午後八時十五分。
京都市内の高齢者施設。
神谷美代子は、八十代後半の女性だった。
白い髪を丁寧に結い、窓際の椅子に座っていた。
真壁と野村が名乗ると、美代子は静かに頷いた。
「警察の方ですか」
「はい」
真壁は頭を下げた。
「少し、お話を伺いたいのですが」
美代子は微笑んだ。
「どうぞ」
真壁は椅子に座った。
「ご主人の神谷誠一さんについてです」
美代子の表情が変わった。
「誠一のことですか」
「はい」
「ずいぶん昔のことですね」
真壁は頷いた。
「一九八一年九月二十三日です」
美代子は目を閉じた。
「覚えています」
「どんな日でしたか」
美代子は静かに答えた。
「雨の日でした」
真壁は息を止めた。
「ご主人は、どこへ行くと言っていましたか」
「京都の山の方です」
「誰に会うためですか」
美代子は少し考えた。
「真壁さんという刑事さんだったと思います」
真壁の目が細くなった。
「真壁修一ですか」
美代子は頷いた。
「そうです」
「ご存じだったんですか」
「何度か家へ来られました」
真壁は黙った。
父親。
真壁修一。
神谷誠一。
二人は、事故の前から会っていた。
「ご主人は、何を調べていたんですか」
真壁が訊いた。
美代子は答えた。
「病院のことです」
「奈良中央記念病院ですか」
「ええ」
「何を」
美代子は少し黙った。
そして言った。
「人の記憶を変える研究だと聞きました」
真壁は息を止めた。
「ご主人は、その研究に関わっていたんですか」
美代子は首を振った。
「いいえ」
「では」
「調べていたんです」
真壁は頷いた。
「なぜ」
美代子は静かに答えた。
「友達が亡くなったからです」
真壁の目が細くなった。
「友達?」
「ええ」
「名前は」
美代子は答えた。
「小野寺孝一さんです」
真壁は動かなかった。
一九七四年六月十二日。
薬剤を投与され、亡くなった患者。
小野寺孝一。
神谷誠一は、その友人だった。
真壁は静かに言った。
「ご主人は、小野寺さんの死を調べていたんですね」
美代子が頷いた。
「そうです」
「いつから」
「亡くなった直後からです」
真壁は息を吐いた。
七年間。
神谷誠一は、友人の死を調べ続けていた。
そして、一九八一年に事故で亡くなった可能性が高い。
真壁は静かに訊いた。
「事故のあと、ご主人に会いましたか」
美代子は首を振った。
「いいえ」
「電話は」
「ありません」
「手紙は」
「一度だけ」
真壁の目が細くなった。
「手紙?」
美代子は頷いた。
「事故の翌月に届きました」
「どんな内容でしたか」
美代子は静かに答えた。
「帰れなくなった、と」
真壁は息を止めた。
「それだけですか」
「いいえ」
美代子は少し考えた。
「もう一つ、書いてありました」
「何と」
美代子は答えた。
「直人を頼む、と」
真壁は黙った。
神谷直人。
当時、まだ幼かった息子。
美代子は静かに続けた。
「私は、夫が生きていると思いました」
「……」
「だから、ずっと待っていました」
真壁は目を伏せた。
四十五年。
美代子は、夫の帰りを待ち続けていた。
その夫は、事故で亡くなっていた可能性が高い。
しかし、死後に届いた手紙が、希望を残していた。
真壁は静かに訊いた。
「その手紙は、まだありますか」
美代子は頷いた。
「あります」
「見せていただけますか」
美代子は少し考えた。
そして、立ち上がった。
「持ってきますね」
数分後。
美代子は、古い封筒を持って戻ってきた。
真壁は慎重に受け取った。
封筒の表には、神谷美代子の名前。
差出人の欄は空白だった。
中には、一枚の便箋。
真壁は読み始めた。
《美代子へ》
《私は、しばらく帰れません》
《直人を頼みます》
《私のことは、死んだと思ってください》
真壁の指が止まった。
そして、最後の一行。
《ただし、私の名前を使っている男を、信用しないでください》
真壁は息を止めた。
名前を使っている男。
神谷誠一。
その名前を使っていた人物が、事故直後から存在していた。
真壁は静かに言った。
「美代子さん」
「はい」
「この手紙は、ご主人の筆跡ですか」
美代子は首を振った。
「わかりません」
真壁は顔を上げた。
「わからない?」
美代子は頷いた。
「誠一の字に似ています」
「はい」
「でも、少し違うんです」
真壁は黙った。
美代子は続けた。
「だから、ずっと不思議でした」
真壁は便箋を見つめた。
誰が書いたのか。
誰が送ったのか。
そして、なぜ神谷誠一の名前を使う人間がいたのか。
真壁は静かに言った。
「この手紙を、調べさせていただけますか」
美代子は頷いた。
「お願いします」
真壁は頭を下げた。
「ありがとうございます」
美代子は、真壁をじっと見つめた。
「あなたは、真壁修一さんの息子さんですか」
真壁は頷いた。
「はい」
美代子は小さく微笑んだ。
「似ていますね」
真壁は答えなかった。
美代子は続けた。
「でも、目が違います」
真壁が顔を上げた。
「そうですか」
「ええ」
美代子は静かに言った。
「あなたのお父様は、いつも何かを隠している目をしていました」
真壁は息を止めた。
「……」
「あなたは、何かを探している目をしています」
真壁は黙った。
美代子は微笑んだ。
「見つけてくださいね」
真壁は深く頭を下げた。
「はい」
八 もう一人の神谷誠一
午後十一時三十分。
奈良県警本部。
真壁は、美代子から預かった手紙の複写を見つめていた。
《私の名前を使っている男を、信用しないでください》
その一文。
神谷誠一は、事故前から名前を利用されていたのか。
それとも、事故後に誰かが手紙を書いたのか。
真壁は考え込んだ。
そのとき、野村が資料を持って戻ってきた。
「真壁さん」
「何だ」
「神谷直人さんの二〇一八年の行動記録です」
真壁が顔を上げた。
「何かわかったか」
野村は頷いた。
「神谷さんは、父親を名乗る人物と会ったあと、ある場所へ向かっています」
「どこだ」
野村は答えた。
「奈良中央記念病院です」
真壁の目が細くなった。
「また、あの病院か」
「はい」
「何をしに」
野村は資料をめくった。
「記録を探していたようです」
「どんな記録だ」
野村は答えた。
「一九八一年九月二十三日の事故記録です」
真壁は黙った。
神谷直人は、父親の死を調べていた。
そして、父親を名乗る人物に会った。
そのあと、病院へ向かった。
真壁は静かに言った。
「神谷直人は、何かを知ったんだ」
野村が頷いた。
「そうですね」
「だから、病院へ行った」
「はい」
「そして、姿を消した」
真壁は資料を閉じた。
「そのとき、誰と会ったのかを調べよう」
野村は頷いた。
「わかりました」
そのとき、真壁の携帯電話が鳴った。
非通知。
真壁は画面を見つめた。
そして、通話を開始した。
「真壁です」
低い男の声。
『神谷直人です』
真壁は息を止めた。
「神谷さん」
『はい』
「あなたに会いたい」
男は答えなかった。
真壁は続けた。
「お父さんのことで、確認したいことがあります」
短い沈黙。
そして。
『父は、死んでいません』
真壁は静かに言った。
「歯科資料では、事故で亡くなった人物が神谷誠一さんだった可能性が高くなっています」
男は黙った。
「あなたは、そのことを知っていますか」
長い沈黙。
そして。
『知っています』
真壁の目が細くなった。
「では、なぜ父親が生きていると言うんです」
男は静かに答えた。
『父の名前を持っていた人間が、もう一人いたからです』
真壁は息を止めた。
「どういう意味です」
男は答えた。
『真壁さん』
「はい」
『あなたは、名前を入れ替えた人間を探していますね』
真壁は黙った。
『でも、違うんです』
「何が」
男は静かに言った。
『入れ替えたのは、名前だけではありません』
真壁の目が細くなった。
「では、何を」
長い沈黙。
そして。
『記憶です』
真壁は動かなかった。
『一九八一年の事故のあと、ある男が神谷誠一として生きることになりました』
「誰です」
男は答えた。
『石倉正一です』
真壁は息を止めた。
石倉正一。
四人目。
記録管理者。
そして、神谷誠一を名乗っていた男。
真壁は静かに言った。
「石倉が、神谷誠一として生きていた?」
『そうです』
「なぜ」
男は答えた。
『自分が誰だったのか、わからなくなったからです』
真壁は眉を寄せた。
「記憶障害ですか」
『それだけではありません』
「では」
男は静かに答えた。
『誰かが、神谷誠一の記憶を与えたんです』
真壁は黙った。
男は続けた。
『事故のあと、石倉正一は病院で治療を受けました』
『そのとき、神谷誠一の記録が使われました』
『彼は、自分が神谷誠一だと思うようになったんです』
真壁は静かに言った。
「それは、あなたの説明ですね」
『はい』
「証拠はありますか」
男は答えた。
『あります』
「どこに」
男は静かに言った。
『奈良中央記念病院の地下二階です』
真壁の目が細くなった。
「また、あの場所ですか」
『はい』
「どこにあるんです」
男は答えた。
『観測補助室の床下です』
真壁は息を止めた。
「床下?」
『そこに、最後の記録があります』
真壁は黙った。
『真壁さん』
「何です」
『その記録を見れば、あなたのお父様が何をしたのかもわかります』
真壁は静かに言った。
「ならば、あなたも一緒に来てください」
男は答えなかった。
「本人確認も必要です」
長い沈黙。
そして。
『わかりました』
真壁の目が細くなった。
「いつ会えますか」
男は答えた。
『明日の朝です』
「場所は」
『奈良中央記念病院』
真壁は頷いた。
「わかりました」
男は静かに言った。
『ただし、真壁さん』
「何です」
『一人で来てください』
真壁は即座に答えた。
「それはできません」
短い沈黙。
男は小さく笑った。
『そう言うと思いました』
真壁は黙った。
『では、野村さんと一緒に来てください』
「わかりました」
電話が切れた。
真壁は、しばらく携帯電話を見つめていた。
野村が顔を上げた。
「神谷さんですか」
真壁は頷いた。
「そう名乗っていた」
「何と言っていましたか」
真壁は答えた。
「明日の朝、病院で会う」
野村の表情が変わった。
「本人が来るんですか」
「そう言っている」
真壁は携帯電話を机へ置いた。
「だが、信用はしない」
野村は頷いた。
「はい」
真壁は続けた。
「相手が何を知っているのか、何を隠しているのか。会って確かめる」
野村は頷いた。
真壁は窓の外を見た。
奈良の夜は、静かだった。
四十五年前の事故。
神谷誠一の死。
石倉正一の記憶。
そして、父親の真壁修一。
すべてが、奈良中央記念病院の地下二階へ戻っていく。
真壁は静かに呟いた。
「親父」
誰も答えなかった。
「お前は、何を見たんだ」
そのとき、野村が声を上げた。
「真壁さん」
「何だ」
「もう一つ、気になることがあります」
真壁が振り返った。
「何だ」
野村は、二〇一八年の神谷直人の記録を指した。
「神谷さんが病院へ行った日です」
真壁は資料を見た。
二〇一八年六月十八日。
真壁の目が細くなった。
六月十八日。
一九七四年の研究記録。
二〇一〇年の記憶処置。
そして、二〇一八年の失踪。
同じ日付。
真壁は静かに言った。
「偶然かもしれん」
野村は頷いた。
「はい」
「だが、確認する価値はある」
真壁は資料を閉じた。
そして、低い声で言った。
「明日、すべてを確かめよう」
夜の刑事部屋には、時計の音だけが響いていた。
真壁は、母親の録音を思い出した。
《人の名前を、勝手に消さないでください》
その声は、まだ耳の奥に残っていた。
そして、真壁はまだ知らなかった。
奈良中央記念病院の観測補助室。
その床下には、一九八一年の事故に関する最後の記録が残されていた。
だが、そこに記されていたのは、死亡者の名前ではなかった。
《観測対象M―17》
その下には、もう一行。
《観測開始日 昭和五十六年九月二十三日》
真壁修司が三歳だった日。
四十五年前の事故は、単なる交通事故ではなかった。
少なくとも、誰かがその日を、真壁修司の観測開始日として記録していたのである。
第二十九章に続く

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