第二十七章 地下二階の目撃者
一 取り壊されなかった壁
十月二十二日、午前九時十七分。
奈良中央記念病院の旧館は、雨に濡れていた。
建物の正面には、すでに病院の名前は残っていない。かつて救急車が出入りした車寄せには雑草が伸び、玄関のガラス扉には、内側から茶色い板が打ちつけられている。
真壁修司は、傘を閉じて建物を見上げた。
四階建ての鉄筋コンクリート造。
一九六〇年代に建設され、幾度かの増改築を経たあと、二〇一七年に診療機能を別施設へ移したという。
現在は医療法人の所有する倉庫として使われていた。
「地下二階は、図面にありません」
野村亮介が言った。
手には、建築確認関係の資料があった。
「地下は一階までです。機械室と倉庫だけになっています」
「一九七四年の資料には、地下二階の記録分析室がある」
「はい」
「なら、どちらかが間違っている」
真壁は建物の西側へ目を向けた。
雨樋の下に、古い換気口が並んでいた。
地面すれすれの位置に二つ。
そのうち一つは、コンクリートで塞がれている。
「あるいは、どちらも一部しか示していないのかもしれん」
野村が顔を上げた。
「どういうことです」
「建物全体が二階分の地下を持っているとは限らない。斜面に沿った一部分だけ、低い位置に部屋がある場合もある」
「なるほど」
真壁は資料を受け取った。
「まず、建物の所有者と管理者の説明を聞こう。図面にないからといって、勝手に壁を壊すわけにはいかん」
玄関の脇には、施設管理会社の車が停まっていた。
今回の調査は、旧病院の管理法人から立ち入りの同意を得て行われることになっていた。必要な範囲を超える捜索については、別途手続きを取る。
待っていた管理責任者は、六十歳前後の男だった。
名前は大庭和夫。
この建物の設備管理を二十年以上担当しているという。
「地下二階ですか」
大庭は、真壁の質問に首を傾げた。
「聞いたことはあります」
「実際に見たことは」
「ありません」
「なぜです」
大庭は鍵束を揺らした。
「地下の古い区画は、私が来たときには閉鎖されていました。配管図にも載っていない場所があるんです」
「誰が閉鎖したんです」
「そこまでは……」
大庭は少し考えた。
「ただ、以前の管理担当者から、あの壁には手をつけるなと言われました」
「どの壁ですか」
大庭は建物の奥を指した。
「地下の西側です」
真壁は野村を見た。
「行こう」
古い建物の中には、消毒液の匂いがわずかに残っていた。
床の長尺シートは端がめくれ、廊下の天井には雨漏りの染みが広がっている。
病院という場所には、独特の静けさがある。
人がいなくなった病院では、その静けさがかえって不自然だった。
かつてここで生まれた人間がいる。
病気を治した人間がいる。
そして、一九七四年六月十二日、この建物のどこかで薬剤を投与され、亡くなった患者がいた。
小野寺孝一。
真壁は、その名前を胸の中で繰り返した。
研究の被験者。
死亡者。
記録番号。
そんな言葉で片づけられてきた一人の人間。
その死から、すべてが始まったのかもしれなかった。
二 鍵の合わない扉
地下へ降りる階段は、建物の北端にあった。
大庭が電灯をつける。
湿ったコンクリートの壁が、鈍い光を返した。
地下の廊下には、古い配電盤と使われなくなった医療機器が並んでいた。
真壁は母親の残した鍵を取り出した。
銀色の小さな鍵。
一緒に見つかった紙には、こう記されていた。
《奈良中央記念病院》
《地下二階》
《保管庫B―17》
「B―17という表示はありますか」
真壁が訊いた。
大庭は首を振った。
「今の区画番号にはありません」
「昔の番号でも?」
「少なくとも、私の知る限りでは」
三人は廊下の突き当たりへ進んだ。
そこには、灰色の壁があった。
ほかの壁より、明らかに新しい。
真壁は懐中電灯を向けた。
「ここですか」
大庭が頷いた。
「ええ。以前は扉があったと聞いています」
「いつ塞いだんです」
「一九八〇年代の終わりごろだそうです」
真壁は動きを止めた。
一九八八年。
母親が亡くなった年。
偶然かもしれない。
だが、母親の日記には、同じころまで記録を守ろうとする記述が残されていた。
「この壁の向こうは」
「古い機械室だと聞いています」
「確認したことは」
「ありません」
真壁は壁に手を当てた。
冷たい。
表面の塗装は剥がれ、細い亀裂が走っていた。
野村が壁の脇を指した。
「真壁さん、ここに何かあります」
配電盤の下。
床から二十センチほどの位置に、金属製の小さな蓋が埋め込まれていた。
埃を払うと、刻印が現れた。
《B―17》
真壁はしゃがみ込んだ。
「保管庫の番号じゃなかったのか」
蓋には、鍵穴があった。
母親の鍵と、ほぼ同じ大きさだった。
真壁は大庭へ確認した。
「開けても構いませんか」
大庭は管理法人の担当者へ電話をかけ、立ち会いのもとで確認することについて了承を得た。
真壁は鍵穴と鍵の状態を撮影させた。
それから、ゆっくり差し込んだ。
抵抗があった。
四十年近く動かされていない金具なのかもしれない。
無理に回せば、鍵が折れる可能性がある。
真壁は一度手を止めた。
「潤滑剤と専門の担当者を呼ぼう」
野村が頷いた。
二十分後。
施設管理の技術者が到着した。
金具の状態を確認し、慎重に処置を施したあと、鍵がゆっくり回された。
小さな音がした。
金属製の蓋が開いた。
中には、古い切替器があった。
そして、二つの表示。
《通常》
《記録室》
真壁は息を呑んだ。
「隠し扉の操作盤か」
大庭が呟いた。
野村は壁を見つめた。
「でも、電気は通っていません」
「そうだな」
真壁は切替器に触れなかった。
操作盤の配線がどこへ続いているのか、現在の建物設備に影響しないか、調べる必要があった。
やがて、技術者が壁の反対側へ続く古い配線経路を発見した。
「この先に空間があります」
技術者が言った。
「ただし、扉が動くかどうかはわかりません」
真壁は壁を見つめた。
母親が残した鍵。
B―17。
四十年以上前に閉ざされた場所。
「建物の安全を確認してから開けよう」
真壁は言った。
「中に何があっても、まず記録を残す」
野村は頷いた。
それから約一時間後。
建物管理者と専門技術者の立ち会いのもと、古い機構が慎重に動かされた。
灰色の壁の一部が、わずかに奥へ下がった。
そして、横へずれた。
その向こうに、暗い階段が現れた。
冷たい空気が流れ出した。
真壁は懐中電灯を向けた。
階段は、下へ続いていた。
三 誰もいない観測室
午前十一時五十八分。
地下二階。
階段の先には、短い廊下があった。
壁は白く塗られていたが、ところどころ黒ずんでいた。
天井には、古い蛍光灯が並んでいる。
当然、明かりはつかなかった。
安全確認を終えたあと、真壁たちは防護具を着け、携帯照明を持って中へ入った。
廊下の左右に、小さな部屋が並んでいた。
《記録分析室》
《資料保管室》
《観測室》
真壁は足を止めた。
「観測室……」
扉の小窓から中を覗く。
古い机。
椅子。
壁に埋め込まれたガラス窓。
その向こうに、もう一つ部屋があった。
野村が言った。
「隣の部屋を見られるようになっています」
「ああ」
真壁は頷いた。
「一方からだけ見える構造かもしれん」
観測室の中には、録音機器が残されていた。
古いオープンリールデッキ。
マイク。
壁に並んだスイッチ。
机の上には、黄ばんだ紙が一枚あった。
《観測対象の発言は、誘導質問によって変化する場合がある》
その下。
《観測者は、対象者の記憶を否定してはならない》
真壁は紙を見つめた。
「妙だな」
野村が訊いた。
「何がです」
「記憶を操作する研究だったと聞いていたが、この注意書きは逆だ」
野村も紙を見た。
「記憶を否定するな、とありますね」
「ああ」
真壁は周囲を見回した。
「最初の研究は、証言の誤りを減らすためのものだったという黒田の話と合う」
「途中から目的が変わったんでしょうか」
「可能性はある」
真壁は壁のスイッチを見た。
その横に、手書きの文字が残されていた。
《第一段階 自由供述》
《第二段階 記録提示》
《第三段階 再供述》
真壁は眉を寄せた。
記憶を調べる。
そのために記録を見せる。
しかし、見せる記録が偽物だったら。
人間は、自分の記憶を疑い始める。
真壁は思い出していた。
二〇一〇年六月十八日。
京都の研究所。
岡崎玲子の転落。
自分の記憶の空白。
何度も見せられた写真。
何度も聞かされた説明。
あのとき、自分は何を見たのか。
そして、何を見せられたのか。
「真壁さん」
野村の声で、我に返った。
「奥に、もう一つ部屋があります」
真壁は頷いた。
廊下の突き当たり。
鉄製の扉。
表面には、白い文字で書かれていた。
《原記録保管室》
真壁は、扉の前に立った。
母親が隠した記録原板。
それが、ここにあるのかもしれない。
扉には、古い南京錠がかかっていた。
しかし、鍵穴の周囲だけが妙に新しかった。
真壁はしゃがみ込んだ。
「野村」
「はい」
「ここは最近、誰かが触っている」
野村が顔を近づけた。
「傷がありますね」
「ああ」
金属の表面に、新しい擦過痕が残っていた。
真壁は立ち上がった。
「鑑識に確認してもらおう」
そのとき、背後から大庭の声がした。
「真壁さん」
「何ですか」
「少し、気になることが」
真壁が振り返った。
大庭は廊下の壁を見ていた。
「ここ、昔は監視カメラがあったはずなんです」
「カメラ?」
「ええ。地下の閉鎖区画なのに、なぜか配線だけが残っていたんです」
真壁は天井を見上げた。
確かに、古い配線管が走っている。
「どこにつながっていたんです」
大庭は首を振った。
「わかりません」
真壁は考え込んだ。
地下二階。
観測室。
記録分析室。
そして、監視カメラ。
一九七四年。
一九八一年。
二〇一〇年。
同じ場所が、何十年にもわたり使われていた可能性がある。
だが、現在まで使われていたかどうかは、別の問題だった。
真壁は静かに言った。
「この建物の電気設備の更新履歴も調べよう」
野村が頷いた。
「はい」
四 原板の箱
午後一時二十六分。
原記録保管室の扉が開かれた。
室内には、金属製の棚が三列並んでいた。
大半は空だった。
しかし、最も奥の棚に、小さな箱が残されていた。
銀色の金属箱。
表面には、黒い文字。
《記録原板》
真壁は息を止めた。
一九八一年九月二十二日の写真。
四人の男が並んだ机。
その上に置かれていた箱と、よく似ていた。
「同じものかもしれません」
野村が言った。
真壁は頷いた。
「外観は似ている」
「開けますか」
「まず、記録だ」
箱は鑑識係員によって撮影され、外側の付着物や開閉の痕跡が確認された。
蓋には、小さな封印があった。
赤い蝋。
そこに、文字が押されていた。
《S・C》
真壁は、その二文字を見つめた。
杉浦千鶴。
母親の名前。
だが、同じ頭文字を持つ別人かもしれない。
真壁は何も言わなかった。
封印の状態を記録したあと、箱が開かれた。
中には、三つの物が入っていた。
小さなフィルム缶。
薄い封筒。
そして、古い録音テープ。
フィルム缶には、日付が書かれていた。
《1981・9・23》
真壁は息を止めた。
事故の日だった。
封筒の表には、別の文字。
《死亡者確認資料》
録音テープには、手書きの札が付いていた。
《杉浦千鶴 証言》
野村が顔を上げた。
「お母様の声が残っているかもしれません」
真壁は頷いた。
「ああ」
だが、すぐには再生しなかった。
磁気テープは劣化している可能性がある。
フィルムも、無理に取り出せば傷つく。
真壁は係員へ言った。
「保存状態を確認して、適切な方法で複製してください」
「わかりました」
真壁は箱を見つめた。
母親は、これを隠した。
なぜ自宅ではなく、病院の地下二階に残したのか。
なぜ鍵だけを持ち帰ったのか。
そして、なぜ父親に渡さなかったのか。
その答えが、箱の中にあるような気がした。
五 車から降りた男
午後五時四十八分。
奈良県警本部の映像解析室。
古いフィルムの状態は、予想より良好だった。
専門担当者が慎重に確認したところ、十六ミリフィルムが収められていた。
撮影機器の情報は不明。
フィルムには、複数の接合箇所があった。
編集された可能性がある。
真壁は、それを確認したうえで再生を求めた。
画面が明るくなった。
白黒の映像。
山道。
夜。
道路脇の木々。
そして、車のライト。
野村が息を呑んだ。
「事故現場ですか」
真壁は頷いた。
「そう見える」
画面には、一本の道路が映っていた。
カメラは、少し高い位置に設置されているようだった。
道路の端に、男が一人立っていた。
黒い上着。
帽子。
顔はよく見えない。
男は、道路の向こうを見つめていた。
しばらくして、車が現れた。
ライトが木々を照らす。
車は速度を落とした。
男が右手を上げる。
車が停まった。
真壁は身を乗り出した。
「事故の直前か」
野村が言った。
「そう見えます」
運転席の扉が開いた。
男が一人、降りてきた。
続いて、助手席の扉が開いた。
もう一人。
二人とも、顔ははっきり見えない。
道路脇の男が、二人へ近づいた。
三人は、何かを話しているようだった。
音声はなかった。
そのとき。
画面の端から、四人目の男が現れた。
真壁の目が細くなった。
「もう一人いる」
野村が頷いた。
「はい」
四人目の男は、車の後方へ回った。
そして、何かを確認するように屈み込んだ。
次の瞬間。
映像が途切れた。
画面が暗くなった。
数秒後。
再び映像が現れた。
車は、すでに動き始めていた。
しかし、先ほどまでと様子が違っていた。
運転席には、一人の男。
助手席は空席。
道路脇には、二人の男が立っていた。
そして、もう一人。
車の後方にいたはずの男の姿が、見えなかった。
車がゆっくり進む。
やがて、画面の右側へ消えた。
数秒後。
遠くで、強い光が走った。
画面が揺れる。
映像は、そこで終わっていた。
真壁は、しばらく動かなかった。
「野村」
「はい」
「もう一度、最初から見よう」
映像が再生された。
道路脇の男。
停車する車。
降りる二人。
現れる四人目。
そして、映像の途切れ。
真壁は腕を組んだ。
「事故そのものは映っていない」
野村が頷いた。
「はい」
「だが、事故直前と思われる場面で、車に乗っていた人間が入れ替わった可能性がある」
「そうですね」
真壁は首を振った。
「まだ断定はできない。途中が切れている」
野村は頷いた。
「わかっています」
真壁は担当者へ向き直った。
「フィルムの接合箇所を調べてください。どれくらいの時間が欠けているか、わかる範囲で」
「はい」
「それから、撮影場所を現場写真と照合してください」
「わかりました」
真壁は画面を見つめた。
四人の男。
一台の車。
そして、映像から消えた一人。
その人物が、神谷誠一だったのか。
岸田昭彦だったのか。
黒田修一だったのか。
あるいは、まだ名前の出ていない誰かだったのか。
真壁は静かに呟いた。
「誰が運転席に戻ったんだ」
答えは、まだ映像の中に隠れていた。
六 母の声
午後七時三十二分。
録音テープの複製が完成した。
解析室の照明を少し落とし、真壁と野村は音声を聞いた。
最初に、雑音が流れた。
古い磁気テープ特有の、低い擦過音。
そのあと、女性の声が聞こえた。
『……杉浦千鶴です』
真壁は息を止めた。
母親の声だった。
幼いころ、何度も聞いた声。
夕食ができたと呼ぶ声。
学校へ行くとき、忘れ物はないかと訊く声。
熱を出した夜、額に手を当てながら名前を呼んでくれた声。
三十八年ぶりに聞くその声は、記憶の中より少し低かった。
真壁は、目を閉じた。
『昭和五十六年九月二十八日』
『この録音は、私の意思で残します』
少しの沈黙。
『九月二十三日の事故について、私が知っていることを話します』
真壁は目を開けた。
母親の声が続いた。
『事故の翌日、私は病院へ行きました』
『修一さんと、黒田さんと、岸田昭彦さんがいました』
『三人とも生きていました』
真壁は息を呑んだ。
写真と日記。
そして、録音。
三つの記録が、同じことを示していた。
『ただし、岸田昭彦さんは、何が起きたのかよく覚えていませんでした』
『黒田さんは、左腕を怪我していました』
『修一さんは、私に何も話そうとしませんでした』
母親の声が、少し震えた。
『私は、事故で亡くなった人が誰なのか、訊きました』
『修一さんは、まだわからないと言いました』
『それなのに、二日後、神谷誠一さんの鞄が私のところへ届きました』
真壁は静かに息を吐いた。
『鞄を届けたのは、知らない男の人でした』
『その人は、神谷さんはもう戻らないと言いました』
『私は、神谷さんが亡くなったのだと思いました』
野村が顔を上げた。
母親は、遺体を確認したわけではなかった。
鞄と、見知らぬ男の言葉。
それによって、神谷誠一が死亡したと考えたのかもしれない。
録音は続いた。
『九月二十八日、私は三崎先生に神谷さんの名前を伝えました』
『先生は、まだ確認できていないと言いました』
『でも、私は神谷さんの手帳を持っていました』
『だから、間違いないと思ったのです』
真壁は、母親の日記を思い出した。
《でも、私は間違っていない。》
あの言葉。
母親は、自分の判断を信じようとしていた。
『今は、それが正しかったのかわかりません』
母親の声が、小さくなった。
『もし神谷さんが生きていたら、私は取り返しのつかないことをしたことになります』
真壁は目を閉じた。
母親も、疑っていた。
自分の判断を。
そして、自分が残した記録を。
しばらく雑音が続いた。
そのあと、母親は静かに言った。
『でも、一つだけ確かなことがあります』
真壁は顔を上げた。
『事故の前日、神谷さんは私に電話をくれました』
『研究の記録を渡したいと言っていました』
『その記録には、一九七四年に亡くなった小野寺孝一さんのことが残されているそうです』
真壁の目が細くなった。
『神谷さんは言いました』
『あの人は、薬の量を間違えられて死んだのではない』
『誰かが、意図的に量を変えたのだ、と』
真壁は息を止めた。
母親の声が続いた。
『そして、神谷さんは、その指示を出した人の名前を知っていました』
長い沈黙。
『私は、その名前を聞きました』
真壁は身を乗り出した。
『でも、ここでは言いません』
真壁の表情が変わった。
母親は続けた。
『その名前だけが一人歩きすれば、また誰かが傷つくからです』
『証拠と一緒に残します』
真壁は目を閉じた。
母親らしい言葉だった。
人を疑うときも、最後まで決めつけることを嫌った人だった。
『修司』
突然、母親が名前を呼んだ。
真壁の胸が強く締めつけられた。
『もし、あなたがこれを聞いているなら』
『もう大人になっているのでしょうね』
真壁は動けなかった。
『お母さんは、あなたに刑事になってほしいと思ったことはありません』
『でも、もし刑事になったのなら』
母親の声が、少しだけ明るくなった。
『どうか、人の言葉を最後まで聞いてください』
『間違えた人にも、言い分があります』
『ただし、言い分があるからといって、したことが消えるわけではありません』
真壁は唇を噛んだ。
『修一さんも、私も、間違えました』
『だから、あなたには、同じ間違いをしてほしくない』
短い沈黙。
そして、最後の言葉。
『記録を残してください』
『人の名前を、勝手に消さないでください』
そこで、録音は終わった。
真壁は、長い時間、何も言わなかった。
野村も黙っていた。
部屋の中には、機械の小さな作動音だけが残っていた。
やがて、真壁は静かに言った。
「野村」
「はい」
「母は、神谷誠一が死んだと思っていた」
野村が頷いた。
「はい」
「だが、遺体を確認していない」
「そうですね」
「そして、名前を告げたことを後悔していた」
野村は頷いた。
真壁は目を閉じた。
母親は、真実を隠したのではなかった。
真実だと信じたことを、記録へ残してしまった。
その結果、誰かの人生が別の名前で閉じられた可能性がある。
真壁は静かに言った。
「母さんは、最後まで確かめようとしていたんだな」
七 消えた一人の名前
午後九時四十分。
奈良県警本部。
映像解析の担当者が、真壁のもとへやって来た。
「真壁さん」
「何かわかりましたか」
「フィルムの接合部分についてです」
真壁が顔を上げた。
「はい」
「車から二人が降りたあと、約四十秒分の映像が欠けている可能性があります」
真壁は眉を寄せた。
「四十秒?」
「はい。ただし、撮影速度の変動も考慮する必要があります」
「わかりました」
担当者は写真を並べた。
事故直前の映像。
そして、一九八一年九月二十二日に撮影された四人の写真。
「人物の特定は難しいのですが、服装に特徴があります」
真壁は身を乗り出した。
「どこです」
「事故直前の映像で、道路脇に立っていた男です」
画面が拡大された。
黒い上着。
帽子。
そして、左腕。
袖口に、小さな白い布のようなものが見えた。
「包帯でしょうか」
野村が言った。
担当者は首を振った。
「断定できません」
真壁は頷いた。
「続けてください」
担当者は、次の画像を表示した。
一九八一年九月二十四日。
病院で撮影された三人の写真。
黒田修一。
左腕に包帯。
真壁は眉を寄せた。
「黒田が道路脇にいた可能性がある」
「はい。ただ、傷の位置や服装が一致するか、まだ確認が必要です」
真壁は頷いた。
「わかりました」
そのとき、野村が別の写真を指した。
「真壁さん」
「何だ」
「こっちを見てください」
一九八一年九月二十二日。
四人の男が並んだ写真。
神谷誠一。
その右手。
革鞄を持っている。
しかし、もう一つ特徴があった。
右手の薬指。
指輪がない。
真壁は眉を寄せた。
「それがどうした」
野村は、事故直前の映像を指した。
「車から降りた男の一人です」
画面が拡大された。
男の右手。
薬指。
小さな光。
指輪のように見えた。
「神谷さんは既婚者ですよね」
野村が言った。
「ああ」
「でも、前日の写真では指輪をしていません」
真壁は頷いた。
「だからといって、事故当日に着けていなかったとは限らん」
「そうですね」
野村は少し黙った。
そして言った。
「でも、もう一つあります」
「何だ」
野村は写真を並べ替えた。
「神谷さんの革鞄です」
真壁が顔を上げた。
「革鞄?」
「はい」
事故前日の写真。
神谷誠一が持っている革鞄。
そして、事故直前の映像。
道路脇の男が持っているもの。
同じような形の鞄だった。
真壁は息を止めた。
「野村」
「はい」
「道路脇の男は、神谷誠一かもしれない」
野村が頷いた。
「そうです」
真壁は画面を見つめた。
もし、道路脇で待っていたのが神谷誠一なら。
車から降りた二人は、黒田修一と岸田昭彦だった可能性がある。
そして、四人目の男。
車の後方に回った人物。
その人物が、最後に運転席へ戻ったのかもしれない。
真壁は静かに言った。
「四人目が誰なのか」
野村が頷いた。
「そこですね」
真壁は画面を見つめた。
事故で死亡した人物。
神谷誠一。
岸田昭彦。
黒田修一。
それらの名前は、まだどれも確定していない。
しかし、四人目の男が運転席へ戻ったのなら。
事故で死亡したのは、その人物だった可能性がある。
真壁は静かに呟いた。
「誰だ、お前は」
そのとき、解析担当者が口を開いた。
「真壁さん、もう一つあります」
「何です」
「フィルムの最後の部分です」
画面が切り替わった。
車が走り去る直前。
道路脇に立つ二人の男。
そのうち一人が、カメラの方へ顔を向けていた。
真壁は身を乗り出した。
「拡大してください」
画像が拡大された。
粗い粒子。
ぼやけた輪郭。
それでも、顔の一部が見えた。
右耳。
その下。
小さな傷跡。
真壁は息を止めた。
「岸田昭彦……」
野村が顔を上げた。
「そう見えます」
真壁は首を振った。
「まだ断定するな」
だが、胸の中では別の考えが生まれていた。
道路脇に残った男が岸田昭彦なら。
車に戻ったのは、別の人物だった。
そして、事故後に岸田昭彦が生きていたという記録とも矛盾しない。
真壁は静かに言った。
「もう一人の男を探す」
野村が頷いた。
「はい」
真壁は立ち上がった。
「事故で死亡した人物の身元を、今度こそ確かめる」
八 写真に写らない男
午後十一時十二分。
奈良県警本部の刑事部屋。
真壁は、母親の録音を聞き終えたあとも、机に座っていた。
野村は、神谷誠一の家族関係を調べていた。
そのとき、野村が顔を上げた。
「真壁さん」
「何だ」
「神谷直人さんの資料に、気になる記録があります」
真壁が振り返った。
「何が」
「二〇一八年に姿を消す直前、神谷さんはある人物と会っています」
「誰だ」
野村は答えた。
「岸田昭彦さんです」
真壁は動かなかった。
「岸田昭彦?」
「はい」
「一九八一年に死亡したことになっている男だな」
「そうです」
真壁は資料を受け取った。
二〇一八年六月十四日。
京都市内の喫茶店。
神谷直人。
面会相手。
《岸田昭彦》
真壁は眉を寄せた。
「この名前は、誰が記録したんだ」
「神谷さん自身の手帳です」
真壁は頷いた。
「では、神谷さんがそう認識していたということだ」
「はい」
「本人だったかどうかは、まだわからん」
野村は頷いた。
真壁は次のページを見た。
そこには、神谷直人の手書きの文字があった。
《父は、事故で死んでいない可能性がある》
真壁の目が細くなった。
「神谷直人は、父親の生存を疑っていた」
「そうです」
さらに次の行。
《昭彦は、事故の夜に車から降りた男を知っている》
真壁は息を止めた。
そして、最後の一文。
《四人目は、警察官ではない》
真壁は動かなかった。
四人目。
車の後方へ回った男。
事故の直前、姿を消した人物。
その男は、警察官ではなかった。
真壁は静かに言った。
「野村」
「はい」
「神谷直人は、四人目の正体を調べていたんだ」
野村が頷いた。
「そうですね」
真壁は続けた。
「そして、二〇一八年に姿を消した」
「はい」
真壁は資料を閉じた。
「なら、神谷直人が最後に何を調べていたのか、追う必要がある」
野村は頷いた。
「わかりました」
真壁は机の上に写真を並べた。
一九八一年九月二十二日。
四人の男。
一九八一年九月二十三日。
事故直前の映像。
一九八一年九月二十四日。
三人の男。
そして、母親の録音。
記録は、少しずつつながり始めていた。
だが、その中心にある人物の名前だけが、まだわからない。
真壁は静かに呟いた。
「四人目……」
そのとき。
机の上の電話が鳴った。
真壁が受話器を取る。
「真壁です」
電話の向こうから、低い男の声が聞こえた。
『神谷直人です』
真壁は息を止めた。
二〇一八年に姿を消した男。
その本人を名乗る人物からの電話だった。
「神谷さん?」
『はい』
「今、どこにいるんです」
男は答えなかった。
真壁は続けた。
「あなたを探しています」
短い沈黙。
そして。
『知っています』
真壁の目が細くなった。
「会えますか」
男は静かに答えた。
『会う前に、一つだけ聞いてください』
「何です」
『父は、あの事故で死んでいません』
真壁は動かなかった。
「その根拠は」
男は答えた。
『私が、父に会ったからです』
真壁は息を止めた。
「いつ」
『二〇一八年六月十四日』
真壁の目が細くなった。
神谷直人の手帳に残されていた日付。
岸田昭彦と会ったとされる日。
「その日に、父親と会ったんですか」
『はい』
「どこで」
『京都の喫茶店です』
真壁は黙った。
「では、岸田昭彦という名前は」
男は静かに答えた。
『父が使っていた名前です』
真壁は動かなかった。
神谷誠一。
岸田昭彦。
二つの名前。
そして、一九八一年の事故。
真壁は静かに訊いた。
「神谷さん」
『はい』
「お父さんは、今どこにいるんです」
長い沈黙。
そして。
『奈良にいます』
真壁の目が細くなった。
「どこです」
男は答えた。
『あなたが今日、行った場所です』
真壁は息を止めた。
奈良中央記念病院。
地下二階。
B―17。
真壁は椅子から立ち上がった。
「神谷さん」
『はい』
「あなたは、あの病院にいるんですか」
男は答えなかった。
そして、静かに言った。
『真壁さん』
「何です」
『地下二階で見つけたものは、全部ではありません』
真壁は眉を寄せた。
「どういう意味です」
男は答えた。
『あなたのお母様は、もう一つ記録を残しています』
「どこに」
『観測室です』
真壁は息を止めた。
『ガラス窓の向こうにある部屋を、もう一度調べてください』
真壁は黙った。
『そこに、四人目の名前があります』
電話が切れた。
真壁は、しばらく受話器を握ったままだった。
野村が顔を上げた。
「誰でした」
真壁は静かに答えた。
「神谷直人を名乗る男だ」
野村の表情が変わった。
「神谷さんが?」
「ああ」
真壁は受話器を置いた。
「ただし、本人かどうかはまだわからん」
野村は頷いた。
「何と言っていましたか」
真壁は答えた。
「地下二階に、まだ記録があるそうだ」
「どこに」
「観測室の向こう側だ」
野村は息を呑んだ。
真壁は静かに言った。
「明日、もう一度行く」
野村が頷いた。
「はい」
真壁は母親の録音を思い出した。
《記録を残してください》
《人の名前を、勝手に消さないでください》
その声は、まだ耳の奥に残っていた。
真壁は写真を一枚、手に取った。
事故の前日。
四人の男。
真壁修一。
黒田修一。
岸田昭彦。
神谷誠一。
しかし、事故直前の映像に現れた四人が、この写真の四人と同じだとは限らない。
真壁は、ようやくそのことに気づいた。
写真に写っている四人。
映像に写っている四人。
その二つを、誰かが同じだと思わせようとしているのではないか。
真壁は静かに呟いた。
「そういうことか」
野村が顔を上げた。
「何です」
真壁は答えた。
「俺たちは、四人目の名前を探していた」
「はい」
「だが、本当に探すべきなのは」
真壁は写真を机へ置いた。
「二つの記録に、共通していない一人かもしれない」
野村は黙った。
真壁は静かに続けた。
「写真にいるのに、映像にはいない人間」
「……」
「あるいは、映像にいるのに、写真にはいない人間だ」
野村はゆっくり頷いた。
「なるほど」
真壁は窓の外を見た。
奈良の夜は、深く静まっていた。
四十五年前。
一台の車が山道を走った。
誰かが車を止めた。
誰かが降りた。
そして、誰かが戻った。
その直後、一人が死亡した。
しかし、記録に残された名前は、真実とは限らない。
真壁は、母親の声を胸の中で繰り返した。
《人の名前を、勝手に消さないでください》
「母さん」
小さく呟いた。
「必ず、見つける」
そのとき、野村の携帯電話が震えた。
京都府警からの連絡だった。
野村は画面を見つめ、表情を変えた。
「真壁さん」
「何だ」
「一九八一年の事故で、身元不明とされていた遺体の資料についてです」
真壁が振り返った。
「何かわかったのか」
野村は頷いた。
「当時、遺体から採取された歯科資料の控えが見つかったそうです」
真壁の目が細くなった。
「照合できるのか」
「可能性があります」
真壁は息を吐いた。
ようやく。
写真でも、名前でも、誰かの証言でもない。
死亡した人間自身に残された記録。
真壁は静かに言った。
「それを最優先にしよう」
野村が頷いた。
「はい」
真壁は机の上の写真を見つめた。
そして、低い声で言った。
「今度こそ、死んだ人間の名前を取り戻す」
夜の刑事部屋には、誰もいなかった。
蛍光灯の光の下で、四人の男が写った古い写真だけが、静かに机の上に置かれていた。
そのうちの誰が嘘をつき、誰が真実を隠し、誰が誰かを守ろうとしたのか。
答えは、まだわからない。
だが、真壁は初めて、確かな方向を見つけたように思った。
記録が示す名前ではなく。
名前を奪われた人間を探す。
それが、この事件の始まりへ戻る唯一の道だった。
第二十八章に続く

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