第二十五章 写真を撮った女
一 母の筆跡
十月二十日、午後九時四十二分。
奈良県警本部の地下二階は、地上とは違う時間が流れているようだった。
蛍光灯の白い光。
換気装置の低い唸り。
金属製の棚に並ぶ、無数の段ボール箱。
その一番奥で、真壁修司は一枚の写真を見つめていた。
一九八一年九月二十四日。
京都府南部で発生した交通事故の翌日。
奈良中央記念病院の一室で撮影されたとされる写真だった。
写っているのは三人の男。
真壁修一。
黒田修一。
岸田昭彦。
三人とも、椅子に座っている。
中央の黒田は左腕に包帯を巻き、岸田昭彦は額に白いガーゼを貼っていた。
父親の真壁修一だけが、怪我をしていないように見えた。
写真の裏には、青いインクで文字が書かれていた。
《昭和五十六年九月二十四日》
《奈良中央記念病院》
《撮影 杉浦千鶴》
真壁は、その最後の五文字から目を離せなかった。
杉浦千鶴。
母親の名前だった。
正確には、母親が一九七四年以降に使っていた名前である。
真壁が生まれたとき、母はすでに杉浦千鶴と名乗っていた。
だが、もともとの名前は杉浦美津子だった。
姉の千鶴が一九七四年に亡くなったあと、妹の美津子が姉の名前を引き継いだ。
少なくとも、現在確認できている戸籍資料は、そう示していた。
「真壁さん」
野村亮介が声をかけた。
「この字、お母様の筆跡ですか」
真壁は首を振った。
「わからん」
「見覚えは」
「あるような気もする」
真壁は写真を机に置いた。
「だが、俺が覚えている母の字は、買い物のメモや年賀状くらいだ」
野村は頷いた。
「比較できるものはありますか」
「家に残っているはずだ」
真壁は少し考えた。
「母の日記がある」
「日記ですか」
「ああ。父が捨てずに取っておいた」
真壁は写真の裏を見た。
《撮影 杉浦千鶴》
母親が本当に撮影したのなら、なぜこの写真が警察の地下資料室にあったのか。
なぜ父親は、母親が撮った写真を自宅へ持ち帰らなかったのか。
そして何より。
事故で死亡したとされる岸田昭彦が、翌日の写真に写っているのはなぜか。
「野村」
「はい」
「この写真を、最初から疑おう」
野村が顔を上げた。
「偽物ということですか」
「そうとは限らん」
真壁は答えた。
「撮影日が違うのかもしれない。写っている人物の名前が違うのかもしれない。後から合成された可能性もある」
「はい」
「どれも、今は仮説だ」
真壁は写真を保護袋へ戻した。
「写真が語っているように見える物語と、写真から証明できる事実は別だ」
野村は頷いた。
「わかりました」
真壁は腕時計を見た。
午後九時五十三分。
「今夜は、ここまでにしよう」
野村が驚いた顔をした。
「京都へ行かないんですか」
「行く」
「では」
「その前に、母の日記を確認する」
真壁は静かに言った。
「俺たちは、死んだ人間の記録ばかり追ってきた」
「……」
「だが、その記録を書いた人間が何を考えていたのか、まだ何も知らない」
野村は頷いた。
真壁は写真を見つめた。
母親。
杉浦美津子。
杉浦千鶴。
二つの名前を持って生きた女性。
真壁は小さく呟いた。
「母さん」
誰も答えなかった。
「あなたは、何を見ていたんだ」
二 押し入れの木箱
午後十一時十八分。
奈良市内にある真壁の自宅。
古い一戸建てだった。
父親が亡くなったあと、真壁はこの家を引き継いだ。
仕事が忙しく、普段は寝に帰るだけの場所になっている。
それでも、母親が使っていた台所も、父親が座っていた居間も、ほとんど昔のままだった。
野村は玄関で靴を脱いだ。
「初めて来ました」
「そうだったな」
真壁は廊下の電気をつけた。
「散らかっているが、気にするな」
「いえ」
居間には、古い本棚があった。
法律書。
事件記録。
歴史書。
父親の蔵書だった。
真壁は奥の和室へ入った。
押し入れの下段。
そこから、小さな木箱を取り出した。
「これだ」
箱には、母親の名前が書かれていた。
《千鶴》
真壁は蓋を開けた。
中には、数冊のノートが入っていた。
赤い表紙。
青い表紙。
花柄の表紙。
どれも、普通の家庭で使われる日記帳だった。
「母は、よく日記を書いていた」
真壁が言った。
「いつごろからですか」
「少なくとも、俺が生まれる前からだ」
真壁は一冊を取り出した。
《昭和五十六年》
一九八一年。
事故のあった年だった。
真壁はページをめくった。
一月。
二月。
三月。
買い物のこと。
近所の人のこと。
幼い真壁が熱を出したこと。
夫の帰りが遅いこと。
特別な出来事は、ほとんど書かれていなかった。
九月。
真壁の指が止まった。
九月二十三日。
《修一さん、夕方から京都へ。》
《急な仕事だという。》
《今日は修司がなかなか寝てくれなかった。》
真壁は息を止めた。
父親は、事故当日に京都へ向かっていた。
さらに翌日。
九月二十四日。
《病院へ行った。》
《修一さんは疲れていた。》
《三人とも生きていた。》
真壁の目が細くなった。
三人とも生きていた。
写真に写る三人。
真壁修一。
黒田修一。
岸田昭彦。
その三人のことだろうか。
次の行。
《写真を撮った。》
真壁は動かなかった。
野村が身を乗り出した。
「本当に、お母様が撮影したんですね」
真壁は首を振った。
「そう読める」
「でも」
「まだ写真との対応は確認できていない」
野村は頷いた。
真壁は続きを読む。
《黒田さんは、私を見ると顔を伏せた。》
《昭彦さんは、何も覚えていないと言った。》
《修一さんは、もう終わったことにしようと言った。》
真壁は眉を寄せた。
父親が。
もう終わったことにしよう。
その言葉は、父親らしくなかった。
真壁は次の行を見た。
《でも、終わっていない。》
《亡くなった人の名前が、まだわからない。》
真壁の手が止まった。
亡くなった人。
母親は知っていた。
事故で誰かが死亡したことを。
そして、その人物の名前が不明であることも。
《修一さんは、名前を調べると言った。》
《私は、あの人がまた嘘をつくのではないかと怖くなった。》
真壁は静かに息を吐いた。
母親は、父親を信じきっていなかった。
一九七四年の出来事。
姉の死。
記録の改変。
それらが、夫婦の間に影を落としていたのかもしれない。
真壁はさらにページをめくった。
九月二十五日。
《黒田さんから電話。》
《もう、修一さんには会わないと言っていた。》
九月二十六日。
《昭彦さんのことが心配。》
《水島さんは大丈夫だと言うけれど、信用できない。》
九月二十七日。
《亡くなった人の荷物が届いた。》
真壁の目が細くなった。
「荷物?」
野村が呟いた。
次の行。
《小さな革鞄。》
《中には手帳と写真が入っていた。》
《修一さんには、まだ見せていない。》
真壁は息を止めた。
革鞄。
手帳。
写真。
「野村」
「はい」
「母は、事故で亡くなった人物の荷物を持っていた」
「はい」
「父には見せていなかった」
野村は頷いた。
真壁は日記を読み進めた。
九月二十八日。
《手帳を読んだ。》
《あの人は、研究のことを知っていた。》
九月二十九日。
《修一さんに話した。》
《怒られた。》
《でも、私は間違っていない。》
真壁は黙った。
父親と母親。
何があったのか。
十月一日。
《鞄を隠した。》
真壁の指が止まった。
その下に、短い一文があった。
《修司が大きくなるまで、誰にも渡さない。》
真壁は目を閉じた。
幼い自分。
三歳。
母親は、息子が大きくなるまで何かを残そうとしていた。
真壁はゆっくり顔を上げた。
「野村」
「はい」
「この家のどこかに、革鞄があるかもしれない」
野村は部屋を見回した。
「探しますか」
「ああ」
真壁は頷いた。
「ただし、見つけてもすぐには開けない」
「わかっています」
真壁は母親の日記を閉じた。
「まず、どこに隠したかを考えよう」
三 台所の床下
午前零時三十一分。
十月二十一日。
真壁と野村は、家の中を調べていた。
押し入れ。
天袋。
納戸。
古い箪笥。
しかし、革鞄は見つからなかった。
真壁は居間に座り、母親の日記をもう一度読んだ。
《修司が大きくなるまで、誰にも渡さない。》
母親は、何を考えていたのだろう。
父親にも見せずに隠した鞄。
息子へ残すつもりだったもの。
真壁は幼いころの記憶をたどった。
母親は、台所に立つことが多かった。
朝食を作る。
夕食を作る。
洗濯物を畳む。
そして、ときどき台所の床に座って、何かをしていた。
真壁は顔を上げた。
「野村」
「はい」
「台所だ」
野村が振り返った。
「台所?」
「ああ」
真壁は立ち上がった。
台所の床には、古い収納庫があった。
床板を持ち上げると、野菜や保存食を入れる空間が現れる。
真壁は蓋を開けた。
中には、空の瓶と古い鍋が入っていた。
「何もありませんね」
野村が言った。
真壁は首を振った。
「待て」
収納庫の底。
板の一部が、ほかより新しかった。
真壁は指で叩いた。
乾いた音。
その隣は、少し鈍い音がした。
「ここだ」
真壁は言った。
野村が懐中電灯を向けた。
板の端に、小さな隙間があった。
真壁は工具を取りに行き、慎重に板を外した。
その下には、さらに浅い空間があった。
そして。
古い布に包まれたもの。
真壁は息を止めた。
布を持ち上げる。
中から、小さな革鞄が現れた。
茶色。
角が擦り切れている。
金具は錆びていた。
「ありましたね」
野村が小さく言った。
真壁は頷いた。
「ああ」
鞄には、古い札が付いていた。
《K・S》
真壁はその文字を見つめた。
K・S。
黒田修一。
岸田昭彦。
あるいは、別の誰か。
真壁は鞄を床に置いた。
「写真を撮ってくれ」
野村は頷いた。
発見場所。
状態。
外観。
札。
すべてを記録した。
真壁は静かに言った。
「母さん」
誰も答えなかった。
「見つけたよ」
四 革鞄の中身
午前二時十六分。
奈良県警本部。
革鞄は、正式な手続きを経て鑑識室へ運ばれた。
真壁と野村は、立ち会いのもとで中身を確認した。
最初に出てきたのは、小さな手帳だった。
黒い表紙。
角が擦り切れている。
次に、数枚の写真。
そして、封筒。
真壁は手帳を見つめた。
表紙の裏に、名前が書かれていた。
《神谷誠一》
真壁の目が細くなった。
神谷。
二〇一八年に姿を消した神谷直人。
その父親かもしれない。
「野村」
「はい」
「神谷直人の家族関係を確認してくれ」
「わかりました」
真壁は手帳を開いた。
一九八一年九月。
細かい字で、日付と場所が記されていた。
九月十日。
《奈良中央記念病院》
《記録分析室》
《水島圭介》
九月十五日。
《黒田修一と面会》
《事故のことを話す》
真壁は眉を寄せた。
事故。
九月二十三日の交通事故より前の日付だった。
「事故のことを話す?」
野村が言った。
真壁は頷いた。
「事故が起きる前だ」
「では、事故を予測していた?」
「そうとは限らん」
真壁は答えた。
「別の事故の話かもしれない」
手帳をめくる。
九月十八日。
《岸田昭彦から連絡》
《写真の原板を渡すと言う》
九月二十日。
《真壁修一に会う》
《彼は信用できる》
真壁の指が止まった。
父親。
真壁修一。
神谷誠一は、父親を信用していた。
九月二十二日。
《京都へ行く》
《証拠を渡す》
そして。
九月二十三日。
《もし戻らなければ、杉浦千鶴に渡すこと》
真壁は息を止めた。
母親。
杉浦千鶴。
事故の前日ではなく、当日の日付。
真壁は静かに言った。
「神谷誠一は、自分に何か起きる可能性を考えていた」
野村が頷いた。
「そうですね」
「だが、実際に事故で亡くなったかどうかは、まだわからん」
真壁は手帳を閉じた。
次に、写真を確認した。
一枚目。
奈良中央記念病院の廊下。
二枚目。
研究室の机。
三枚目。
古い車。
そして、四枚目。
真壁の目が止まった。
そこには、四人の男が写っていた。
真壁修一。
黒田修一。
岸田昭彦。
そして、見知らぬ男。
年齢は三十代半ば。
眼鏡。
細い顔。
右手に、革鞄を持っていた。
真壁は写真を見つめた。
「この男が、神谷誠一かもしれない」
野村が頷いた。
「はい」
写真の裏には、日付があった。
《昭和五十六年九月二十二日》
事故の前日。
その下。
《四人で最後の確認》
真壁は眉を寄せた。
最後の確認。
何を確認したのか。
そして、なぜ翌日に事故が起きたのか。
真壁は封筒を見た。
表。
《杉浦千鶴様》
裏。
《神谷誠一》
真壁は息を止めた。
母親へ宛てた手紙。
その封筒は、開封されていなかった。
真壁は静かに言った。
「母は、これを読まなかったのか」
野村が答えた。
「そう見えます」
真壁は頷いた。
「確認してから開けよう」
封筒の状態が記録され、慎重に開封された。
中には、一枚の便箋。
真壁は読み始めた。
《杉浦千鶴様》
《この手紙を読んでいるなら、私はもうあなたに直接会えないかもしれません。》
《私は、奈良中央記念病院の研究に関する記録を調べてきました。》
《その中で、一つだけ確かなことがわかりました。》
真壁は息を止めた。
《一九七四年六月十二日の患者死亡は、単なる事故ではありません。》
《研究に使われた薬剤は、投与量が意図的に変更されていました。》
真壁の目が細くなった。
《その変更を指示した人物の名前を、私は知っています。》
真壁は続きを読む。
《相沢信一ではありません。》
真壁は動かなかった。
相沢信一。
最初の計画者。
だが、薬剤の投与量を変更したのは別の人物。
《相沢は、記録を隠しました。》
《しかし、薬剤の量を変えたのは、別の人間です。》
真壁は息を止めた。
《その人物は、現在も警察の中にいます。》
真壁は眉を寄せた。
一九八一年当時の「現在」。
その人物は、警察官だったのか。
事務官だったのか。
研究協力者だったのか。
真壁は続きを読んだ。
《私は、証拠を真壁修一さんへ渡すつもりです。》
《しかし、彼にもすべてを話すことはできません。》
《彼は、あなたを守ろうとしているからです。》
真壁は目を閉じた。
母親。
杉浦千鶴。
また、守るという言葉。
《もし私に何かあったら、この手帳を残してください。》
《そして、修司君が大人になったら、渡してください。》
真壁は息を止めた。
自分の名前。
三歳のころ。
神谷誠一は、幼い自分へ記録を残そうとしていた。
《彼なら、きっと調べてくれると思います。》
真壁は静かに息を吐いた。
最後の一行。
《ただし、真壁修一さんには、すぐに渡さないでください。》
《彼が、まだ真実を受け止められないからです。》
真壁は便箋を下ろした。
部屋が静まり返った。
野村が言った。
「神谷誠一さんは、真壁さんのお父様を信用していたんですね」
真壁は頷いた。
「ああ」
「でも、全部は話せなかった」
「そうだな」
真壁は写真を見つめた。
四人の男。
事故の前日。
そのうち一人が、翌日死亡した可能性がある。
そして、死亡した人物の名前は、記録から消されていた。
真壁は静かに言った。
「野村」
「はい」
「神谷誠一の死亡記録を調べてくれ」
野村が頷いた。
「わかりました」
五 消された死亡者
午前四時三十分。
奈良県警本部。
野村が資料を持って戻ってきた。
「真壁さん」
「どうした」
「神谷誠一さんの記録が見つかりました」
真壁が顔を上げた。
「死亡記録か」
「はい」
「いつ」
野村は答えた。
「一九八一年九月二十三日です」
真壁は動かなかった。
事故の日。
「場所は」
「京都府南部」
「死因は」
野村が資料を見た。
「交通事故による外傷です」
真壁は息を止めた。
「事故現場は」
野村は頷いた。
「岸田昭彦さんの事故と、同じ場所です」
真壁は椅子へ座った。
神谷誠一。
死亡。
一九八一年九月二十三日。
京都府南部。
交通事故。
そして、岸田昭彦。
同じ日。
同じ場所。
二つの死亡記録。
真壁は静かに言った。
「死亡したのは、神谷誠一だった可能性がある」
野村が頷いた。
「はい」
「ただし、記録だけでは断定できない」
「わかっています」
真壁は続けた。
「神谷誠一の遺体確認記録を調べよう」
野村は頷いた。
「はい」
真壁は写真を見つめた。
四人の男。
事故の前日。
そのうち一人が死亡した。
そして、別の一人が死亡したことにされた。
真壁は静かに呟いた。
「なぜ、神谷誠一の名前を消したんだ」
誰も答えなかった。
そのとき。
野村が別の資料を差し出した。
「もう一つあります」
真壁が顔を上げた。
「何だ」
「神谷誠一さんの家族関係です」
真壁は資料を受け取った。
妻。
神谷美代子。
長男。
神谷直人。
真壁の目が細くなった。
神谷直人。
二〇一八年に姿を消した男。
その父親が、神谷誠一だった。
真壁は息を止めた。
「野村」
「はい」
「神谷直人は、父親の死を調べていたんだ」
野村が頷いた。
「そうかもしれません」
真壁は続けた。
「だから、二〇一八年に記録へ近づいた」
「はい」
「そして、姿を消した」
真壁は資料を閉じた。
「神谷直人を探そう」
野村が頷いた。
「わかりました」
真壁は窓の外を見た。
夜明け前の奈良。
空はまだ暗かった。
そのとき。
携帯電話が震えた。
差出人不明。
短いメッセージ。
《神谷誠一を見つけましたね》
真壁は画面を見つめた。
続けて、二通目。
《彼は、死ぬ前に一つだけ間違えました》
真壁の目が細くなった。
三通目。
《真壁修一を信用したことです》
真壁は静かに息を吐いた。
また父親。
真壁修一。
その名前を使って、誰かが真壁を揺さぶろうとしている。
真壁は携帯電話を伏せた。
「野村」
「はい」
「このメッセージも保存してくれ」
「わかりました」
真壁は続けた。
「だが、内容に引きずられるな」
野村は頷いた。
「はい」
真壁は立ち上がった。
「神谷誠一の記録を確認する」
「はい」
「そして、神谷直人の足取りを追う」
野村は頷いた。
真壁は母親の日記を見つめた。
一九八一年。
三歳の自分。
母親が残した言葉。
《修司が大きくなるまで、誰にも渡さない。》
真壁は静かに呟いた。
「母さん」
誰も答えなかった。
「今度は、俺が残す」
真壁は日記を閉じた。
「全部だ」
そのとき。
机の上の内線電話が鳴った。
真壁が受話器を取る。
「真壁です」
若い警察官の声。
『真壁さん、京都府警から連絡です』
「何だ」
『神谷誠一さんの死亡記録について、確認したいことがあるそうです』
真壁の目が細くなった。
「何が見つかった」
『死亡届の提出者です』
「誰だ」
電話の向こうで、警察官が答えた。
『杉浦千鶴さんです』
真壁は動かなかった。
母親。
杉浦千鶴。
事故の翌日、三人の男を撮影した女性。
その母親が、神谷誠一の死亡届を提出していた。
真壁は静かに言った。
「提出日は」
『一九八一年九月二十八日です』
真壁は息を止めた。
九月二十八日。
母親の日記。
《手帳を読んだ。》
《あの人は、研究のことを知っていた。》
その日だった。
真壁は受話器を握った。
「死亡届の原本を確認したい」
『わかりました』
真壁は電話を切った。
野村が顔を上げた。
「どうしました」
真壁は静かに答えた。
「母が、神谷誠一の死亡届を出していた」
野村は息を呑んだ。
「お母様が?」
「ああ」
真壁は母親の日記を見つめた。
そして、静かに言った。
「母は、知っていたんだ」
「何を」
真壁は答えた。
「事故で誰が亡くなったのかを」
窓の外では、奈良の空が少しずつ白み始めていた。
真壁は写真を取り出した。
一九八一年九月二十四日。
三人の男。
真壁修一。
黒田修一。
岸田昭彦。
そして、撮影者。
杉浦千鶴。
真壁は静かに呟いた。
「母さん」
誰も答えなかった。
「あなたは、誰を守ろうとしていたんだ」
その答えは、まだ見つからなかった。
だが、真壁は確信し始めていた。
母親は、ただ夫に守られていた女性ではなかった。
記録を残し、証拠を隠し、誰かの死を証明しようとしていた。
そして、その行動は、四十五年後の息子へつながっていた。
真壁は母親の日記を鞄へ入れた。
「野村」
「はい」
「京都へ行こう」
野村が頷いた。
「わかりました」
真壁は静かに言った。
「今度は、母の足跡を追う」
二人は資料室を出た。
廊下には、朝の光が差し込み始めていた。
そして、真壁はまだ知らなかった。
一九八一年九月二十八日。
杉浦千鶴が提出した神谷誠一の死亡届には、もう一人の署名があった。
《死亡診断書作成医師》
その欄に記されていた名前は、
《三崎俊夫》
一九七四年の研究主任。
そして、一九八一年の事故を知る男だった。
第二十六章に続く

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