東野圭吾を模倣し、元首相暗殺事件を題材にしたオリジナル小説『二発目の空白』第三十章

目次

第三十章 零番目の証人

一 名前を持たない番号

十月二十五日、午前七時二十三分。

奈良県警本部の地下二階にある資料室では、古い換気装置が低い音を立てていた。

真壁修司は、一冊の黒い台帳を前にしていた。

奈良中央記念病院の旧館から発見されたものである。

表紙には、白い文字で《原観測記録》と記されていた。

その最初のページに、三つの識別番号が並んでいる。

《S―00》

《M―17》

《N―18》

M―17は真壁修司。

N―18は、当初は野村真紀に割り当てられ、のちに息子の野村亮介へ引き継がれた可能性がある。

そして、S―00。

《原観測者》

《杉浦千鶴》

登録日。

一九七四年六月十二日。

真壁は、その日付を見つめていた。

一九七四年六月十二日。

奈良中央記念病院で小野寺孝一が薬剤を投与された日である。

本来の杉浦千鶴が死亡したのは、その五日後だった。

当時、妹の杉浦美津子はまだ姉の名前を使っていなかった。

つまり、S―00に登録された杉浦千鶴は、姉の方だった可能性が高い。

「真壁さん」

野村亮介が声をかけた。

「登録日が、薬剤投与の日と同じですね」

「ああ」

「では、杉浦千鶴さんも実験に参加していたんでしょうか」

真壁は首を振った。

「まだわからん」

台帳の端を指した。

「ここを見ろ」

野村が身を乗り出した。

《観測者区分 外部》

《観測対象区分 非該当》

「観測対象ではないんですね」

「そう読める」

真壁は頷いた。

「S―00は、実験を受けた人間の番号ではない。実験を見て、記録した人間の番号かもしれん」

野村は考え込んだ。

「原観測者という言葉も、それなら説明できます」

「そうだな」

真壁は次のページを開いた。

そこには、一九七四年六月十二日の記録があった。

《観測者S―00、投与手順の変更を確認》

《観測者S―00、変更理由の説明を要求》

《責任者、回答を保留》

真壁の目が細くなった。

「姉の千鶴は、薬剤投与の変更に気づいていた」

野村が頷いた。

「そうですね」

真壁はさらに読み進めた。

《観測者S―00、独自記録を作成》

《公式記録との差異を指摘》

《記録の提出を拒否》

そこで文章が途切れていた。

次の行は、黒いインクで塗りつぶされている。

真壁は台帳を光にかざした。

しかし、文字は読めなかった。

「誰かが消したんでしょうか」

野村が訊いた。

「その可能性はある」

真壁は答えた。

「ただし、いつ、誰が、何のために消したのかはわからん」

野村は頷いた。

真壁は台帳を閉じた。

一九七四年六月十二日。

一人の患者が死亡した。

その現場で、杉浦千鶴は何かを見た。

そして五日後、彼女自身も死亡した。

偶然なのか。

それとも、二つの死には関係があるのか。

真壁は静かに言った。

「野村」

「はい」

「今日は、一九七四年の六月十二日に戻ろう」

野村が顔を上げた。

「事故より七年前ですね」

「ああ」

真壁は台帳を見つめた。

「すべての始まりが、そこにあるかもしれん」


二 姉の残した声

午前九時四十分。

奈良県警本部の鑑識資料室。

真壁たちは、地下資料室で保管されていた古い封筒を確認していた。

《一九七四年六月十二日 薬剤投与記録》

以前から存在は把握していたものの、内容の検証が十分に進んでいなかった資料だった。

封筒には、複数の紙と小型の録音テープが収められていた。

紙には、薬剤名、投与時刻、担当者の署名が記されている。

しかし、投与量の欄には訂正があった。

当初の数字が二重線で消され、その上に別の数字が書き加えられている。

「変更前は、こちらですね」

野村が指した。

真壁は頷いた。

「変更後は、その三倍近い量になっている」

「危険な量だったんでしょうか」

「医学的な評価が必要だ」

真壁は資料を伏せた。

「数字だけで、死因との関係を決めることはできん」

野村は頷いた。

次に、録音テープの複製が再生された。

雑音。

椅子を引く音。

紙をめくる音。

そして、女性の声が聞こえた。

『その量では、危険ではありませんか』

真壁は顔を上げた。

若い女性の声だった。

母親の録音に似ていた。

だが、母親の声より少し高く、言葉の終わりがはっきりしていた。

『変更した理由を教えてください』

男の声が答えた。

『手順に従っています』

『その手順は、誰が決めたんですか』

『杉浦さん、あなたは記録を取るだけでいい』

女性は黙らなかった。

『記録を取るから、訊いているんです』

真壁は、思わず息を止めた。

母親の姉。

杉浦千鶴。

彼女は、研究者たちに問いただしていた。

『患者さんには、変更を説明したんですか』

男の声が低くなった。

『あなたの担当ではありません』

『では、誰の担当なんですか』

沈黙。

やがて、別の男が口を開いた。

『三崎先生を呼んでください』

真壁は目を細めた。

三崎俊夫。

研究主任。

一九八一年の死亡診断書を作成した医師。

録音の中で、足音が近づいた。

そして、低い声が聞こえた。

『何があった』

女性が答えた。

『投与量が変更されています』

『知っている』

『誰の指示ですか』

短い沈黙。

『私ではない』

真壁は顔を上げた。

三崎の声なのか。

録音だけでは確定できない。

だが、発言の内容は重要だった。

『では、誰が』

女性が訊いた。

男は答えた。

『記録を残しておきなさい』

『先生』

『私が確認する』

そこで、録音が途切れた。

真壁は再生機を見つめた。

「野村」

「はい」

「三崎は、変更を知っていた」

「そうですね」

「だが、自分の指示ではないと言っている」

野村は頷いた。

真壁は静かに続けた。

「本当かどうかは、まだわからん」

野村は頷いた。

真壁は録音テープの記録票を見た。

録音日時。

一九七四年六月十二日。

録音者。

《杉浦千鶴》

そして、備考欄。

《原本別保管》

真壁の目が細くなった。

「原本が別にある」

野村が顔を上げた。

「どこでしょう」

真壁は答えなかった。

その下に、小さな文字が書かれていた。

《S―00管理》

真壁は静かに言った。

「姉の千鶴が、原本を持っていた可能性がある」

野村は頷いた。

「では、亡くなる前に誰かへ渡したのかもしれません」

真壁は台帳を見つめた。

「そうだな」

そして、ふと気づいた。

姉の千鶴が亡くなったあと、妹の美津子がその名前を使い始めた。

もし、姉の記録を守るためだったとしたら。

名前を引き継ぐことには、別の意味があったのかもしれない。

真壁は静かに呟いた。

「母さんは、姉の仕事を引き継いだのか」


三 杉浦美津子という妹

午前十一時十五分。

京都市内の古い住宅街。

真壁と野村は、杉浦家の親族を訪ねていた。

応対したのは、八十歳を超える女性だった。

杉浦千鶴と美津子の従姉にあたる、杉浦和枝。

真壁にとっては、幼いころ何度か会った記憶のある親戚だった。

和枝は、真壁の顔を見ると目を細めた。

「修司ちゃん?」

真壁は頭を下げた。

「ご無沙汰しています」

「まあ、大きくなって」

和枝は笑った。

「もう、お父さんにそっくりね」

真壁は小さく微笑んだ。

「よく言われます」

居間には、古い写真が並んでいた。

杉浦家の親族写真。

若いころの千鶴。

美津子。

二人はよく似ていた。

しかし、表情は違っていた。

姉の千鶴は、真っ直ぐカメラを見ている。

妹の美津子は、少し横を向いて笑っていた。

真壁は写真を見つめた。

「和枝さん」

「何?」

「母が、姉の名前を使うようになった理由をご存じですか」

和枝の笑顔が消えた。

「そのことね」

「はい」

和枝は、しばらく黙っていた。

そして、ゆっくり口を開いた。

「美津子は、千鶴ちゃんが亡くなったあと、ずいぶん変わったの」

「どんなふうに」

「前より、強くなった」

真壁は顔を上げた。

「強く?」

「ええ」

和枝は頷いた。

「美津子は、もともとおとなしい子だったの。人前で意見を言うのも苦手でね」

真壁は黙って聞いた。

「でも、千鶴ちゃんが亡くなってからは、違った」

「……」

「病院へ何度も行って、誰かに会って、書類を集めていた」

真壁の目が細くなった。

「何の書類ですか」

和枝は首を振った。

「わからない」

「名前を変えたことについては」

和枝は小さく息を吐いた。

「私も訊いたのよ」

「何と答えましたか」

和枝は、真壁を見つめた。

「姉の名前を消したくない、って」

真壁は動かなかった。

和枝は続けた。

「千鶴ちゃんが何を見たのか、誰も信じてくれない。だから、自分がその名前で証言するんだって」

真壁は息を止めた。

「証言するために、名前を?」

「そう言っていたわ」

真壁は黙った。

姉の名前を引き継ぐ。

それは、死んだ人間になりすますことではなかったのかもしれない。

姉が残した記録を、消させないため。

そのために、妹は姉の名前を使った。

だが、結果として、記録はさらに複雑になった。

誰が杉浦千鶴なのか。

誰が何を見たのか。

名前だけでは、区別できなくなった。

真壁は静かに訊いた。

「母は、姉の死について何か話していましたか」

和枝は頷いた。

「一度だけ」

「何と」

和枝は目を伏せた。

「千鶴ちゃんは、死ぬ前に何かを見つけたって」

真壁の目が細くなった。

「何を」

「わからない」

和枝は首を振った。

「でも、美津子はこう言っていた」

真壁は身を乗り出した。

和枝は静かに言った。

「姉は、二人目の死を止めようとしていた、って」

真壁は息を止めた。

二人目の死。

一人目は、小野寺孝一。

では、二人目とは誰なのか。

真壁は訊いた。

「その人の名前は聞きましたか」

和枝は首を振った。

「いいえ」

「ほかに何か」

和枝は少し考えた。

「美津子が、変なことを言っていたわ」

「何です」

「一発目は事故だった。でも、二発目は違うって」

真壁は動かなかった。

一発目。

二発目。

その言葉は、事件のどこかで聞いたことがあるような気がした。

和枝は続けた。

「私には、何のことかわからなかった」

真壁は静かに頷いた。

「ありがとうございます」

和枝は真壁の手を握った。

「修司ちゃん」

「はい」

「美津子は、あなたを大切にしていたわ」

真壁は黙った。

「どんなことがあっても、それだけは忘れないで」

真壁は深く頭を下げた。

「はい」


四 二発目の意味

午後二時三十分。

奈良県警本部。

真壁は、これまで集めた資料を机に並べていた。

一九七四年六月十二日。

小野寺孝一、死亡。

一九七四年六月十七日。

杉浦千鶴、死亡。

一九八一年九月二十三日。

交通事故。

二〇一〇年六月十八日。

京都の研究施設で、岡崎玲子が転落。

二〇二二年七月八日。

奈良で起きた元首相銃撃事件の記録が、何者かによって研究資料へ取り込まれた可能性。

そして、二〇二六年。

真壁自身の記憶に関する疑惑。

真壁は静かに言った。

「野村」

「はい」

「一発目と二発目という言葉を、どう考える」

野村は少し考えた。

「銃声でしょうか」

真壁は頷いた。

「普通は、そう考える」

「はい」

「だが、一九七四年の研究記録で使われていたなら、別の意味かもしれん」

野村は資料を見つめた。

「一回目と二回目の処置?」

真壁は顔を上げた。

「その可能性はある」

野村は続けた。

「最初の処置で何かが起きて、二回目に別のことをした」

真壁は頷いた。

「あるいは、一度目の記録と、二度目の記録かもしれない」

野村は黙った。

真壁は資料をめくった。

一九七四年六月十二日の薬剤投与記録。

そこには、投与時刻が二つ記されていた。

《第一投与 午前九時四十二分》

《第二投与 午前十時十七分》

真壁の目が細くなった。

「野村」

「はい」

「これを見ろ」

野村が身を乗り出した。

「二回投与されていますね」

「ああ」

真壁は頷いた。

「最初の投与量は、通常の範囲に見える」

「はい」

「だが、二回目は変更されている」

野村は息を呑んだ。

「では、二発目というのは」

真壁は首を振った。

「まだ断定できない」

そして、静かに続けた。

「だが、姉の千鶴が止めようとしていたのは、二回目の投与だった可能性がある」

野村は頷いた。

真壁は資料を見つめた。

《第一投与》

《第二投与》

そして、第二投与の記録には、担当者の署名がなかった。

真壁は眉を寄せた。

「ここだ」

野村が顔を上げた。

「何です」

「二回目の投与を実施した人間の名前がない」

野村は頷いた。

「本当ですね」

真壁は静かに言った。

「一発目は記録されている」

「はい」

「だが、二発目には、実施者の名前がない」

野村は黙った。

真壁は資料を閉じた。

「二発目の空白」

その言葉が、初めて具体的な意味を持ったように思えた。

一度目の行為は記録されている。

二度目の行為だけが、記録から消されている。

そして、その空白を埋めようとした人間が、次々と姿を消していった。

真壁は静かに言った。

「野村」

「はい」

「俺たちが探しているのは、二回目の投与を指示した人間かもしれない」

野村は頷いた。

「はい」

真壁は続けた。

「ただし、タイトルのような言葉に引きずられてはいけない」

野村が顔を上げた。

「タイトル?」

真壁は小さく首を振った。

「いや、何でもない」

そして、資料を見つめた。

「二回目の投与が、何を変えたのか。それを調べよう」


五 もう一人の杉浦千鶴

午後四時二十分。

京都市内の喫茶店。

真壁と野村は、一人の女性を待っていた。

杉浦千鶴。

そう名乗る女性。

本名は、水島澄子。

一九五〇年生まれ。

研究者・水島圭介の妹。

一九八七年から、杉浦千鶴の名前を使っていた人物だった。

女性は、約束の時間より十分遅れて現れた。

白い髪。

細い身体。

濃紺の上着。

真壁を見ると、静かに微笑んだ。

「真壁さん」

「お久しぶりです」

真壁は頭を下げた。

女性は椅子に座った。

「今日は、何を聞きたいのですか」

真壁は資料を取り出した。

「一九七四年六月十二日のことです」

女性の表情が変わった。

「その日ですか」

「はい」

真壁は続けた。

「杉浦千鶴さんが、薬剤投与の変更を記録していました」

女性は黙った。

「その記録の原本をご存じですか」

女性は、しばらく真壁を見つめていた。

そして、静かに言った。

「持っています」

真壁は息を止めた。

「原本を?」

「はい」

野村が顔を上げた。

「どこにありますか」

女性は答えた。

「京都の自宅です」

真壁は静かに言った。

「確認させていただけますか」

女性は少し考えた。

「条件があります」

真壁の目が細くなった。

「何です」

女性は答えた。

「私の兄の名前を、先に決めつけないでください」

真壁は黙った。

水島圭介。

一九八六年に死亡した研究者。

事故後の岸田昭彦を保護したとされる人物。

記憶研究に深く関わっていた男。

真壁は頷いた。

「証拠に基づいて調べます」

女性は小さく息を吐いた。

「それなら、お見せします」

真壁は頭を下げた。

「ありがとうございます」

女性は、しばらく黙っていた。

そして、静かに言った。

「真壁さん」

「はい」

「あなたのお母様は、最後まで姉の記録を守ろうとしていました」

真壁は顔を上げた。

「ご存じだったんですか」

女性は頷いた。

「会ったことがあります」

「いつ」

「一九八七年です」

真壁の目が細くなった。

母親が亡くなる前年だった。

「何を話したんですか」

女性は答えた。

「名前のことです」

真壁は黙った。

女性は続けた。

「あなたのお母様は、私に言いました」

『千鶴という名前を、もう一人に渡したい』

真壁は息を止めた。

「もう一人?」

女性は頷いた。

「私です」

真壁は動かなかった。

水島澄子。

三人目の杉浦千鶴。

母親が、その名前を渡した。

女性は静かに言った。

「私は、最初は断りました」

「なぜ」

「他人の名前を使う理由がありませんでしたから」

真壁は頷いた。

「それで」

女性は続けた。

「でも、あなたのお母様は言ったんです」

『名前が一つなら、消すのは簡単です』

『でも、同じ名前を持つ人間が何人もいれば、記録は残ります』

真壁は黙った。

女性は静かに続けた。

「私は、その考えが正しかったとは思いません」

「……」

「実際、名前が増えたことで、多くの人が混乱しました」

真壁は頷いた。

「そうですね」

女性は目を伏せた。

「でも、あの人は必死だったんです」

真壁は静かに訊いた。

「何から記録を守ろうとしていたんですか」

女性は答えた。

「記録を消す人間からです」

真壁の目が細くなった。

「誰です」

女性は首を振った。

「その名前は、原本にあります」

真壁は息を止めた。

「では、見せてください」

女性は頷いた。

「わかりました」


六 原本に残された署名

午後六時十分。

京都市内の古い住宅。

水島澄子は、居間の奥から木箱を持ってきた。

箱には、古い封印が残っていた。

真壁は、慎重に確認した。

「これが原本ですか」

女性は頷いた。

「そう聞いています」

「誰から受け取ったんですか」

「あなたのお母様です」

真壁は息を止めた。

母親。

杉浦美津子。

一九八七年。

亡くなる前年。

母親は、この女性へ記録を託していた。

真壁は静かに言った。

「開けてもよろしいですか」

女性は頷いた。

「はい」

箱の状態を記録し、封印を確認したあと、慎重に開封された。

中には、薄いノートが一冊入っていた。

表紙には、手書きの文字。

《昭和四十九年六月十二日》

《杉浦千鶴》

真壁は、しばらくその文字を見つめた。

母親の姉。

本来の杉浦千鶴。

彼女が残した記録だった。

ノートを開く。

午前九時四十二分。

第一投与。

担当者。

黒田修一。

真壁は眉を寄せた。

黒田は、一回目の投与に関わっていた。

次の行。

午前十時十七分。

第二投与。

担当者。

空欄。

真壁は息を止めた。

だが、その下に小さな文字があった。

《指示者》

真壁は、ゆっくり文字を読んだ。

《岸田正彦》

真壁は動かなかった。

岸田正彦。

奈良県警本部長。

岸田昭彦の兄。

一九七四年の研究に関係していた人物。

真壁は、しばらくその名前を見つめていた。

「岸田本部長……」

野村が呟いた。

真壁は頷いた。

「そう書いてある」

「では、二回目の投与を指示したのは」

真壁は首を振った。

「まだ断定できない」

野村が顔を上げた。

真壁は続けた。

「このノートが本物かどうか。筆跡は誰のものか。岸田正彦が実際に指示したのか。確認が必要だ」

野村は頷いた。

「はい」

真壁は次のページをめくった。

そこには、短い文章があった。

《岸田正彦、投与量変更を要求》

《三崎俊夫、反対》

《黒田修一、実施を拒否》

真壁の目が細くなった。

黒田は、二回目の投与を拒否していた。

これまでの証言では、黒田が薬剤を投与したとされていた。

しかし、それは一回目のことだった可能性がある。

真壁は静かに言った。

「野村」

「はい」

「黒田が認めた投与は、一回目だったのかもしれない」

野村が頷いた。

「そうですね」

真壁は次の行を見た。

《第二投与実施者》

そこには、名前が書かれていた。

しかし、黒いインクで塗りつぶされていた。

真壁は息を止めた。

「また、消されている」

野村が呟いた。

真壁は頷いた。

「そうだな」

その下に、別の筆跡で小さな文字が残されていた。

《本人は、命令されたと言っている》

真壁は目を細めた。

誰が。

誰に命令されたのか。

そして、なぜ名前を消したのか。

真壁は、ノートを閉じた。

「この資料を正式に調べたい」

女性は頷いた。

「構いません」

真壁は頭を下げた。

「ありがとうございます」

女性は静かに言った。

「真壁さん」

「はい」

「そのノートには、まだ続きがあります」

真壁が顔を上げた。

「続き?」

女性は頷いた。

「最後のページです」

真壁は、もう一度ノートを開いた。

一番後ろ。

そこには、短い文章が書かれていた。

《六月十七日》

《岸田正彦に会う》

《記録を渡さない》

《もし私が死んだら、美津子へ》

真壁は息を止めた。

六月十七日。

本来の杉浦千鶴が死亡した日。

真壁は、しばらく動かなかった。

母親の姉は、その日に岸田正彦と会う予定だった。

そして、記録を渡さないと決めていた。

真壁は静かに言った。

「野村」

「はい」

「岸田本部長に、もう一度話を聞く」

野村が頷いた。

「はい」

真壁はノートを見つめた。

岸田正彦。

一九七四年。

一九八一年。

そして、現在。

その名前は、何度も事件の中心に現れていた。

真壁は静かに呟いた。

「本部長」

誰も答えなかった。

「今度こそ、全部話してもらいます」


七 岸田正彦の沈黙

午後八時四十分。

奈良県警本部。

岸田正彦は、真壁の前に座っていた。

年齢を重ねた顔には、深い皺が刻まれている。

真壁は、杉浦千鶴のノートの複写を机に置いた。

「本部長」

岸田は黙っていた。

「一九七四年六月十二日について、確認したいことがあります」

岸田は、ゆっくり顔を上げた。

「何だ」

真壁は答えた。

「小野寺孝一さんへの二回目の薬剤投与です」

岸田の表情が変わった。

真壁は続けた。

「この記録には、あなたが投与量の変更を要求したと書かれています」

岸田は、しばらく黙っていた。

そして、静かに言った。

「その記録を、どこで見つけた」

真壁は答えた。

「杉浦千鶴さんが残したものです」

岸田は目を閉じた。

「千鶴か……」

真壁は黙った。

岸田は小さく息を吐いた。

「彼女は、最後まで記録を残したんだな」

真壁の目が細くなった。

「ご存じだったんですか」

岸田は頷いた。

「ああ」

「では、投与量の変更を要求したのは事実ですか」

岸田は答えなかった。

真壁は続けた。

「本部長」

「……」

「事実を確認したいんです」

岸田は、ゆっくり目を開けた。

「私が変更を要求した」

真壁は息を止めた。

「なぜです」

岸田は静かに答えた。

「研究の責任者から、そう指示された」

「誰です」

岸田は答えた。

「相沢信一だ」

真壁は眉を寄せた。

「相沢の指示を、あなたが伝えたんですか」

「そうだ」

「危険性は知っていましたか」

岸田は黙った。

長い沈黙。

そして。

「知っていた」

真壁は動かなかった。

「では、なぜ」

岸田は静かに答えた。

「止められなかった」

真壁は目を細めた。

「止められなかった?」

岸田は頷いた。

「私は、まだ若かった」

「それは理由になりません」

真壁は静かに言った。

岸田は目を伏せた。

「わかっている」

真壁は続けた。

「二回目の投与を実施したのは、誰ですか」

岸田は答えなかった。

真壁はノートを指した。

「この記録では、名前が消されています」

岸田は黙った。

「誰が投与したんですか」

長い沈黙。

そして、岸田は静かに言った。

「私だ」

真壁は息を止めた。

野村が顔を上げた。

「本部長が?」

岸田は頷いた。

「私が、薬剤を渡した」

真壁は眉を寄せた。

「渡した?」

岸田は続けた。

「実際に注射したのは、別の人間だ」

真壁の目が細くなった。

「誰です」

岸田は、しばらく黙っていた。

そして、静かに答えた。

「杉浦千鶴だ」

真壁は動かなかった。

母親の姉。

本来の杉浦千鶴。

S―00。

原観測者。

真壁は、ゆっくり口を開いた。

「千鶴さんが、投与した?」

岸田は頷いた。

「そうだ」

真壁は首を振った。

「記録では、千鶴さんは投与量の変更に反対しています」

岸田は答えた。

「反対していた」

「では、なぜ」

岸田は静かに言った。

「彼女は、薬剤の量が変更されたことを知らなかった」

真壁は息を止めた。

「知らなかった?」

岸田は頷いた。

「私が、別の薬剤だと説明した」

真壁は動かなかった。

岸田は続けた。

「彼女は、患者を助けるための処置だと思っていた」

真壁は黙った。

「だが、実際には違った」

岸田の声が小さくなった。

「私は、彼女を利用した」

真壁は、しばらく何も言わなかった。

そして、静かに訊いた。

「その結果、小野寺孝一さんは亡くなったんですか」

岸田は目を閉じた。

「そうだと思っている」

真壁は頷いた。

「医学的な因果関係は、改めて確認します」

岸田は小さく頷いた。

真壁は続けた。

「では、六月十七日です」

岸田の表情が変わった。

「千鶴さんが亡くなった日です」

岸田は黙った。

真壁は静かに訊いた。

「あなたは、千鶴さんに会いましたね」

岸田は頷いた。

「ああ」

「何を話したんです」

岸田は答えた。

「記録を渡してほしいと言った」

「渡しましたか」

「いいや」

真壁は黙った。

岸田は続けた。

「彼女は、警察へ持っていくと言った」

「それで」

岸田は目を伏せた。

「私は、止めようとした」

真壁の目が細くなった。

「どうやって」

岸田は答えなかった。

長い沈黙。

そして。

「彼女は、倒れた」

真壁は息を止めた。

「倒れた?」

岸田は頷いた。

「私の目の前で」

真壁は静かに訊いた。

「何があったんです」

岸田は答えた。

「わからない」

真壁は黙った。

岸田は続けた。

「突然、苦しみ始めた」

「救急車は」

岸田は目を閉じた。

「呼ばなかった」

真壁は動かなかった。

「なぜ」

岸田は静かに答えた。

「水島圭介が、もう助からないと言った」

真壁は眉を寄せた。

「それを信じたんですか」

岸田は頷いた。

「信じたかったんだろう」

真壁は黙った。

岸田は続けた。

「私は、何もしなかった」

長い沈黙。

真壁は静かに言った。

「本部長」

岸田が顔を上げた。

「あなたがしたことと、しなかったことを、全部記録します」

岸田は頷いた。

「そうしてくれ」

真壁は続けた。

「ただし、千鶴さんが薬剤を投与したという話は、まだ確認できていません」

岸田は黙った。

「あなたの証言だけで、亡くなった人へ責任を負わせることはできません」

岸田は、ゆっくり目を閉じた。

「わかっている」

真壁は静かに言った。

「だから、証拠を探します」


八 零番目の記録

午後十一時十五分。

奈良県警本部。

真壁は、一九七四年六月十二日の記録を見つめていた。

第一投与。

黒田修一。

第二投与。

実施者不明。

指示者。

岸田正彦。

そして、岸田の証言。

杉浦千鶴が注射した。

だが、記録には別のことが書かれていた。

《観測者S―00、投与手順の変更を確認》

《観測者S―00、変更理由の説明を要求》

もし千鶴が実際に注射したのなら、なぜ変更を知らなかったのか。

岸田の説明には、矛盾があった。

真壁は静かに言った。

「野村」

「はい」

「岸田本部長の証言を、もう一度整理しよう」

野村が頷いた。

「はい」

真壁は続けた。

「千鶴さんは、投与量の変更に反対していた」

「はい」

「だが、岸田は、変更を知らずに注射したと言っている」

野村は眉を寄せた。

「矛盾していますね」

「ああ」

真壁は頷いた。

「誰かが嘘をついているのか。あるいは、別々の場面を話しているのか」

野村は黙った。

真壁は資料をめくった。

S―00。

原観測者。

その番号は、一九七四年六月十二日から使われていた。

真壁は、最後のページを見た。

そこには、短い文章があった。

《S―00 観測終了》

日付。

一九七四年六月十七日。

千鶴が亡くなった日だった。

その下に、別の文字。

《後継観測者登録》

《杉浦美津子》

真壁は息を止めた。

母親。

杉浦美津子。

姉の死後、S―00を引き継いでいた。

真壁は、ゆっくり続きを読む。

《登録名 杉浦千鶴》

《識別番号 S―00》

真壁は目を閉じた。

母親は、姉の名前だけではなく、観測者の番号も引き継いでいた。

そして、一九八七年。

水島澄子へ、その名前を渡した。

真壁は静かに言った。

「野村」

「はい」

「S―00は、一人の人間を示す番号じゃない」

野村が顔を上げた。

「どういうことです」

真壁は答えた。

「記録を守る役割を示していた可能性がある」

野村は頷いた。

真壁は続けた。

「姉の千鶴から、妹の美津子へ」

「はい」

「そして、水島澄子へ」

野村は黙った。

真壁は静かに言った。

「名前を引き継ぐことで、記録を守ろうとした」

野村は頷いた。

真壁は資料を閉じた。

「だが、その方法は危険だった」

「そうですね」

「名前が増えれば、誰が何をしたのかわからなくなる」

野村は頷いた。

真壁は静かに続けた。

「だから、俺たちは名前だけではなく、行動と証拠を追う」

「はい」

真壁は窓の外を見た。

奈良の夜は、深く静まっていた。

一九七四年。

一人の患者が亡くなった。

その死を記録しようとした女性がいた。

そして、その女性も亡くなった。

妹は姉の名前を引き継ぎ、記録を守ろうとした。

四十五年以上の時間が流れた。

その記録は、いま、息子の手元にある。

真壁は静かに呟いた。

「母さん」

誰も答えなかった。

「あなたが守ろうとしたものを、今度は俺が確かめる」

そのとき、野村が声を上げた。

「真壁さん」

「何だ」

「S―00の台帳に、まだ続きがあります」

真壁が振り返った。

「何が書いてある」

野村は資料を指した。

《S―00 第三継承者》

真壁の目が細くなった。

第三継承者。

水島澄子。

その名前が書かれているはずだった。

しかし、そこに記されていたのは、別の名前だった。

《岡崎玲子》

真壁は動かなかった。

岡崎玲子。

二〇一〇年六月十八日。

京都の研究施設で転落した女性。

真壁の記憶の空白に関わる人物。

その岡崎玲子が、S―00の第三継承者として登録されていた。

真壁は息を止めた。

「岡崎が……」

野村が頷いた。

「はい」

真壁は資料を見つめた。

水島澄子ではない。

岡崎玲子。

その名前が、母親のあとに記されていた。

真壁は静かに言った。

「野村」

「はい」

「S―00の継承は、俺たちが考えていたものより複雑だ」

野村は頷いた。

真壁は続けた。

「岡崎玲子は、何を引き継いだんだ」

野村は答えなかった。

真壁は、台帳の最後のページをめくった。

そこには、もう一つ記録があった。

《S―00 第四継承者》

登録日。

二〇一〇年六月十八日。

真壁の目が細くなった。

岡崎玲子が転落した日。

そして、第四継承者の氏名。

真壁は、ゆっくり文字を読んだ。

《野村真紀》

野村の母親だった。

真壁は動かなかった。

野村も、資料を見つめたまま黙っていた。

二〇一〇年六月十八日。

岡崎玲子。

野村真紀。

二人の女性。

そして、S―00。

真壁は静かに言った。

「野村」

「はい」

「お前の母親は、観測者の記録を引き継いだ可能性がある」

野村は、ゆっくり頷いた。

「はい」

真壁は続けた。

「そして、そのあと姿を消した」

野村は黙った。

真壁は資料を閉じた。

「なぜ、母親たちは記録を引き継いだんだ」

その問いに、答える者はいなかった。

しかし、真壁は一つだけ確信していた。

この事件で消されてきたのは、人間の名前だけではない。

誰が何を見たのか。

誰が何を記録したのか。

そして、誰がその記録を次の世代へ渡したのか。

そのつながりそのものが、何度も断ち切られていた。

真壁は静かに呟いた。

「零番目の証人……」

S―00。

それは、最初に真実を見た人間の番号だったのかもしれない。

そして、その番号は、死者から生者へ引き継がれていた。

真壁は、机の上の台帳を見つめた。

一九七四年。

一九八一年。

二〇一〇年。

二〇二六年。

四つの時代を結ぶ、一つの番号。

その最後に、誰の名前が記されるのか。

真壁はまだ知らなかった。

ただ、台帳の最終ページには、赤いインクで短い文章が残されていた。

《S―00 最終継承予定者》

《登録保留》

そして、その下。

《真壁修司》

真壁自身の名前だった。

第三十一章に続く

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