第三十三章 階段の下の第三者
一 消された四文字
十月二十八日、午前七時十八分。
奈良県警本部の廊下には、夜勤明けの刑事たちの足音が響いていた。
真壁修司は、窓際に立っていた。
手には、一枚の複写資料がある。
《二〇一〇年六月十九日》
《患者移送指示書》
《移送責任者 真壁修司》
その下に、黒く塗りつぶされた氏名欄。
前夜、斜めから光を当てたとき、紙面には四文字の筆圧が浮かんだ。
《野村真紀》
そう読めた。
だが、筆圧の跡だけで、消された文字を確定することはできない。
真壁は資料を見つめた。
十四年前ではない。
十六年前だ。
二〇一〇年六月十八日。
京都の研究施設で、二人の女性が階段から転落したとされる事件。
岡崎玲子。
野村真紀。
医師の三崎遼一は、野村真紀が死亡し、岡崎玲子が生き残ったと証言した。
相沢美紀を名乗る女性も、その説明を認めている。
ところが、翌日の移送記録には、死亡したはずの野村真紀の名前が残っていた。
しかも、移送責任者は真壁自身だった。
「どういうことなんだ」
小さく呟いたとき、背後から声がした。
「真壁さん」
野村亮介だった。
「鑑識から連絡がありました」
真壁は振り返った。
「何かわかったか」
「例の移送指示書です。塗りつぶされた部分の画像解析が終わりました」
「結果は」
野村は封筒を差し出した。
真壁は中から写真を取り出した。
特殊な照明条件で撮影された画像には、黒いインクの下に残る筆圧の輪郭が写っていた。
野。
村。
真。
紀。
四文字の形は、前夜の真壁の読みと一致していた。
しかし、その下には鑑識担当者の所見が添えられていた。
《氏名の推定は可能。ただし、原記載の確定には至らない》
真壁は頷いた。
「慎重な判断だな」
「はい」
野村は少し間を置いた。
「でも、母の名前だった可能性は高いんですね」
「そうだ」
真壁は資料を封筒に戻した。
「だからこそ、書類だけで結論を出すわけにはいかない」
野村は窓の外を見た。
「母が死んだのか、生きていたのか。毎日、答えが変わっている気がします」
真壁は、その横顔を見た。
野村の目の下には、濃い隈があった。
「今日、もう一度三崎に会う」
真壁は言った。
「それから、京都の研究施設に残っていた写真を確認する」
「写真ですか」
「ああ。三崎が持っている可能性がある」
野村は頷いた。
「同行します」
真壁は少し考えた。
「わかった。ただし、聞きたくないことが出てきたら、途中で席を外してもいい」
野村は真壁を見た。
「それは、僕が決めます」
真壁は小さく頷いた。
「そうだな」
二人は資料室へ戻った。
机の上には、S―00の台帳が置かれていた。
最終継承予定者。
真壁修司。
その文字を見た真壁は、ふと考えた。
自分の名前は、いつからこの事件の中にあったのだろう。
父親が生きていたころか。
母親が亡くなったころか。
それとも、二〇一〇年六月十八日。
自分が何かを見て、何かを忘れた日からなのか。
真壁は台帳を閉じた。
いま必要なのは、過去を思い出すことではない。
過去に何が起きたかを、確かめることだった。
二 三分間の写真
午前十時四十五分。
京都市内の旧三崎内科診療所。
三崎遼一は、二人を診察室へ通した。
昨日よりも顔色が悪かった。
机の上には、茶色い封筒が置かれている。
「お待ちしていました」
三崎は言った。
真壁は椅子に座った。
「昨夜、何か見つかったんですね」
三崎は頷いた。
「古い写真です」
封筒から、二枚の写真が取り出された。
一枚目。
研究施設の階段。
下の踊り場に、女性が倒れている。
その少し上に、もう一人の女性が膝をついていた。
二枚目。
ほぼ同じ場所。
しかし、撮影位置がわずかに違っている。
倒れた女性のそばには男が立ち、その背後に別の人物が写り込んでいた。
真壁は二枚目を手に取った。
男の顔を見た。
若いころの自分だった。
「これは……」
「二〇一〇年六月十八日に撮影されたものです」
三崎が言った。
「撮影時刻は、一枚目が午後四時三十一分。二枚目が四時三十四分と記されています」
真壁は写真の裏を見た。
確かに時刻が書かれている。
だが、印画紙の裏面に記された数字が、撮影時に書かれたものとは限らない。
「原版はありますか」
真壁が訊いた。
三崎は首を振った。
「私の手元にはありません」
「誰が撮影したんです」
「施設の記録担当者です」
「名前は」
三崎は少し考えた。
「確か、榊原という男性でした」
「フルネームは」
「榊原徹。そう記憶しています」
真壁は手帳に書き込んだ。
野村が写真を見つめた。
「倒れているのが母ですか」
三崎は答えた。
「私は、そう認識していました」
「では、膝をついているのが岡崎さん」
「そうです」
真壁は写真を机に置いた。
「三崎先生。この写真で、二人の顔ははっきり見えません」
三崎は頷いた。
「はい」
「あなたは、何を根拠に二人を識別したんですか」
三崎は一瞬、答えに詰まった。
「服装です」
「服装?」
「真紀さんは、薄い色の上着を着ていました。岡崎さんは濃い色でした」
真壁は写真を見た。
倒れた女性の上着は、薄い色に見える。
しかし、写真は白黒だった。
照明の当たり方によって、色の印象は変わる。
「顔を確認しましたか」
真壁が訊いた。
三崎は黙った。
「先生」
「……階段の下で、すぐに確認したわけではありません」
「では、いつ」
「搬送先で、関係者から名前を聞きました」
真壁は目を細めた。
「誰からです」
三崎は小さく息を吐いた。
「相沢美紀さんです」
野村が顔を上げた。
真壁は静かに訊いた。
「つまり、階段で倒れていた女性が野村真紀さんだという判断には、美紀さんの説明が関わっていた」
三崎は頷いた。
「そうです」
真壁は写真を見つめた。
「昨日、先生は真紀さんが亡くなったと証言しました」
「はい」
「しかし、先生が治療した患者の身元を、独立して確認できていたかどうかは別の問題です」
三崎は黙った。
「死亡した女性が誰だったのか。そこを、もう一度調べる必要があります」
三崎は長い沈黙のあと、答えた。
「……そのとおりです」
野村は写真から目を離さなかった。
母親の死。
その事実さえ、まだ確かめられていなかった。
三 写っていない人物
真壁は二枚目の写真を持ち上げた。
「先生。この写真に、私が写っていますね」
三崎は頷いた。
「はい」
「私は何をしていたんですか」
「階段の下を見ていました」
「そのあと、私は何をしましたか」
三崎は視線を落とした。
「倒れていた女性の搬送を手伝ったと思います」
「思います?」
「記憶が曖昧なんです」
真壁は写真を机に戻した。
「移送指示書には、私の署名があります」
三崎が顔を上げた。
「それは、私も見ました」
「先生が署名を求めたんですか」
「いいえ」
「では、誰が」
「わかりません」
真壁は黙った。
三崎は続けた。
「私が知っているのは、あなたが現場にいたことと、その後、研究施設の職員と一緒に搬送の準備をしていたことだけです」
「搬送先まで同行しましたか」
「そこまでは覚えていません」
真壁は頷いた。
無理に記憶を埋めさせても、確かな証言にはならない。
それは、奈良中央記念病院の観測室に残されていた注意書きにも記されていた。
《観測者は、対象者の記憶を否定してはならない》
だが、その原則が守られたとは限らない。
真壁は二枚目の写真の端を指した。
「この女性は誰ですか」
黒いリストバンド。
《03》
三崎は答えた。
「相沢美紀さんです」
「本人だと確認しましたか」
三崎は写真を見た。
「当時、そう紹介されていました」
真壁は頷いた。
それも、名前の確認とは違う。
真壁は写真を横に並べた。
一枚目では、膝をつく女性の右手が倒れた女性の肩に触れている。
二枚目では、その手が離れていた。
そして、真壁自身は二人から少し離れた位置に立っている。
その視線は、倒れた女性へ向いているようにも見えた。
しかし、何かが引っかかった。
「野村」
「はい」
「この二枚、何か違和感がないか」
野村は身を乗り出した。
しばらく写真を見比べたあと、言った。
「階段の手すりですか」
「いや」
真壁は首を振った。
「それも確認する必要があるが、俺が気になったのは影だ」
二枚目の写真。
階段の壁に、人影が伸びていた。
真壁の影ではない。
膝をついた女性の影でもない。
写真の右端から、細長い影が入り込んでいる。
野村が顔を近づけた。
「もう一人、誰かいたんでしょうか」
「可能性はある」
真壁は言った。
「だが、影だけでは人間の数も位置も断定できない」
三崎が小さく口を開いた。
「……一人、いました」
真壁は顔を上げた。
「誰です」
「階段の上に、男性が」
「名前は」
三崎は首を振った。
「わかりません」
「どんな人物でしたか」
「背が高く、白いシャツを着ていました」
真壁は手帳を開いた。
「顔は見ましたか」
「一瞬だけ」
「覚えている特徴は」
三崎は考え込んだ。
「右の耳に、傷のようなものがあった気がします」
真壁の手が止まった。
右耳の傷。
岸田昭彦。
一九八一年の事故で死亡したことになり、その後、生存を示す写真が見つかった男。
だが、二〇一〇年の階段にいた人物が岸田だったとは限らない。
真壁は表情を変えずに訊いた。
「その男は何をしていましたか」
三崎は答えた。
「何も」
「何も?」
「階段の上から、下を見ていました」
「そのあと」
「私が救急隊に連絡している間に、いなくなりました」
真壁は手帳を閉じた。
十六年前の記憶。
しかも、事件の混乱の中で見た人物。
証言の信頼性は慎重に検討する必要がある。
それでも、無視できない話だった。
一九八一年の事故と、二〇一〇年の研究施設。
二つの事件を結ぶ人物が、そこにいた可能性がある。
四 B―17の床下
午後二時十分。
奈良中央記念病院旧館。
建物の前には、捜査車両が二台停まっていた。
旧館の管理者である大庭和夫の立ち会いのもと、真壁たちは地下二階へ向かった。
先日発見されたB―17。
観測室の奥には、一方向からしか見えないガラスがある。
かつて、被験者の発言や反応を記録するために使われていた部屋だった。
地下の空気は冷たかった。
廊下には、古い消毒薬のような匂いが残っている。
真壁は懐中電灯を向けた。
「この部屋だ」
鑑識員が床を確認した。
古いビニール床材。
その一部に、ほかとは異なる継ぎ目があった。
「ここですね」
鑑識員が言った。
真壁は頷いた。
「写真を撮ってからお願いします」
作業が始まった。
床材の端が慎重に持ち上げられる。
その下から、金属製の小さな取っ手が現れた。
野村が息を呑んだ。
「本当にあったんですね」
真壁は黙って見ていた。
取っ手を引き上げると、四角い蓋が開いた。
内部には、細長い保管箱が収められていた。
表面には、白い文字。
《S―00》
その下に、もう一つ。
《原記録・第二保管》
真壁は箱を見つめた。
母親たちが守ろうとした記録。
その一部が、目の前にあった。
鑑識員が封印の状態を確認した。
箱の側面には、赤い蝋の痕跡が残っている。
しかし、封印はすでに破られていた。
「開封された形跡があります」
鑑識員が言った。
「最近ですか」
真壁が訊いた。
「現時点では判断できません」
真壁は頷いた。
「わかりました」
箱は現場での状態を記録したあと、証拠品として回収された。
中身の確認は、警察本部で行うことになった。
野村は床下を見つめていた。
「真壁さん」
「何だ」
「誰かが先に開けていたとしたら」
「ああ」
真壁は答えた。
「必要な記録だけ抜き取られた可能性がある」
野村は頷いた。
「それでも、何か残っているかもしれません」
真壁は床下の暗がりを見た。
「そうだな」
そのとき、鑑識員が声を上げた。
「真壁さん。もう一つあります」
床下の奥。
保管箱が置かれていた場所のさらに向こうに、薄い紙片が挟まっていた。
慎重に取り出すと、小さな封筒だった。
表には、手書きの文字。
《修司へ》
真壁は動かなかった。
母親の字に似ていた。
しかし、それだけで母親が書いたと決めることはできない。
封筒の裏には、日付が記されていた。
《昭和六十三年十月三十一日》
一九八八年十月三十一日。
母親が亡くなったとされる年。
真壁は、封筒を見つめた。
「これも、別に保全してください」
鑑識員が頷いた。
真壁は手を伸ばさなかった。
刑事として、いま自分にできることは、証拠を壊さずに残すことだった。
たとえ、その封筒に自分の名前が書かれていても。
五 第二保管の記録
午後五時三十五分。
奈良県警本部の鑑識資料室。
保管箱の内容物が、順番に確認されていた。
中には、三冊のノートと、二本の録音テープ、数枚の写真が入っていた。
一冊目。
《昭和四十九年六月十二日》
二冊目。
《昭和五十六年九月二十三日》
三冊目。
《平成二十二年六月十八日》
真壁は、三冊を見つめた。
一九七四年。
一九八一年。
二〇一〇年。
事件の中心となった三つの日付だった。
鑑識員が、一冊目のページを開いた。
そこには、薬剤投与の記録が残されていた。
《第一投与 午前九時四十二分》
《実施者 黒田修一》
《第二投与 午前十時十七分》
《指示者 岸田正彦》
そして、その下。
《実施者》
真壁は身を乗り出した。
名前が書かれていた。
《杉浦千鶴》
野村が息を呑んだ。
「三崎先生の父親が関わった事件ですね」
真壁は頷いた。
「そうだ」
しかし、記録はそこで終わっていなかった。
次の行には、小さな文字があった。
《実施者は、薬剤内容を知らされていない》
さらに、その下。
《投与直後、異常を確認》
《観測者S―00、処置中止を要求》
真壁は眉を寄せた。
「おかしいな」
野村が顔を上げた。
「何がです」
「同じ杉浦千鶴が、実施者と観測者になっている」
野村は記録を見た。
「確かに」
真壁は静かに続けた。
「一人で両方の役割を担った可能性もある。だが、別の人間が同じ名前を使った可能性もある」
野村は頷いた。
「名前の入れ替わりですね」
「ああ」
真壁は資料を閉じた。
「この記録だけで、実施者を確定することはできない」
鑑識員が次のページを開いた。
そこには、さらに別の文章があった。
《投与担当者、実施を拒否》
《代行者を手配》
《代行者氏名、別紙参照》
真壁の目が細くなった。
「別紙?」
鑑識員がページを確認した。
しかし、別紙はなかった。
綴じ目には、紙を抜き取ったような痕跡が残っていた。
野村が呟いた。
「抜かれていますね」
真壁は頷いた。
「そう見える」
一九七四年の第二投与。
その実施者の名前だけが、別紙に記されていた。
そして、その別紙はなくなっている。
真壁は、ゆっくり息を吐いた。
「二発目の空白……」
それは、単に記録が欠けているという意味ではなかった。
誰かが、名前を別紙に分けた。
そして、その紙だけを持ち去った。
意図的に作られた空白。
真壁は静かに言った。
「野村」
「はい」
「この別紙を探す」
野村は頷いた。
「はい」
真壁は続けた。
「誰が抜き取ったのかもだ」
そのとき、鑑識員が三冊目のノートを開いた。
《平成二十二年六月十八日》
真壁は顔を上げた。
二〇一〇年。
階段の事故。
自分の記憶が曖昧になっている日。
ノートの最初のページには、こう書かれていた。
《観測対象 M―17》
《観測対象 N―18》
《観測担当 O―03》
真壁は目を細めた。
M―17。
真壁修司。
N―18。
野村真紀、あるいは野村亮介。
O―03。
岡崎玲子に関係する識別番号。
真壁は次の行を読んだ。
《午後四時二十八分》
《観測中断》
《理由 対象者間の接触》
その下。
《午後四時三十一分》
《転落事故発生》
真壁は動かなかった。
そして、最後の行。
《午後四時三十四分》
《第三者、現場に到着》
真壁は、ゆっくり顔を上げた。
三分後。
三崎が持っていた二枚目の写真の撮影時刻と一致していた。
第三者。
誰なのか。
真壁は、さらにページをめくった。
そこには、短い文章があった。
《第三者は、観測対象M―17ではない》
真壁は息を止めた。
野村が顔を上げた。
「真壁さん」
「……ああ」
真壁は、記録を見つめた。
二枚目の写真には、自分が写っていた。
しかし、台帳は、午後四時三十四分に現場へ来た第三者は真壁ではないと記している。
では、写真に写っていた自分は、いつからそこにいたのか。
そして、階段の上にいた男は誰だったのか。
真壁は静かに言った。
「野村」
「はい」
「三崎の写真を、もう一度調べよう」
野村は頷いた。
「はい」
六 母からの封筒
午後七時二十分。
鑑識資料室。
《修司へ》
そう書かれた封筒の確認が始まった。
紙の状態を記録し、表面の付着物を調べたあと、封が慎重に開かれた。
中には、一枚の便箋が入っていた。
真壁は、手袋をした鑑識員から差し出された複写を受け取った。
文字を見た瞬間、胸の奥が痛んだ。
母親の字だった。
少なくとも、真壁にはそう見えた。
《修司へ》
《あなたがこれを読むとき、私はもうそばにいないかもしれません》
真壁は、ゆっくり読み進めた。
《私は、長い間、姉の名前を使ってきました》
《姉が残した記録を守るためでした》
《でも、そのために、あなたにも嘘をつきました》
真壁は便箋を持つ手に力を込めた。
《修司》
《あなたのお父さんは、悪いことをした人です》
真壁の目が止まった。
父親。
真壁修一。
《でも、悪いことだけをした人ではありません》
《あの人は、誰かを守ろうとして、別の誰かを傷つけました》
真壁は黙った。
《私は、それを止められませんでした》
《だから、あなたには同じことをしてほしくありません》
真壁は、ゆっくり息を吐いた。
《記録を守るために、人を犠牲にしないでください》
《名前を守るために、別の名前を消さないでください》
真壁は目を閉じた。
母親の言葉は、二〇一〇年に起きたことを知っているかのようだった。
しかし、この手紙の日付は一九八八年だ。
二十二年も前。
母親は、未来の事件を予言したわけではない。
過去に繰り返されてきた過ちを、息子に伝えようとしたのだろう。
真壁は最後の行を読んだ。
《もし、あなたがS―00を引き継ぐことになったら》
《記録を隠す人ではなく、記録を確かめる人になってください》
その下に、署名があった。
《杉浦美津子》
真壁は、長い時間、その文字を見つめた。
杉浦千鶴ではない。
杉浦美津子。
母親は、最後に自分の名前で手紙を書いていた。
真壁は小さく呟いた。
「母さん……」
その声は、資料室の静けさに吸い込まれた。
七 第三者の正体
午後九時十分。
奈良県警本部。
三崎が持っていた写真の高精細な複写が、机の上に並べられていた。
真壁と野村は、鑑識担当者の説明を聞いていた。
「二枚目の写真について、拡大画像を作成しました」
担当者が画面を示した。
階段の上。
壁に伸びた影。
そして、写真の右端。
そこには、白いシャツの袖がわずかに写っていた。
「この部分です」
担当者が言った。
真壁は画面を見つめた。
白い袖。
その先に、腕がある。
しかし、顔は写っていない。
「人物の特定は難しいですね」
野村が言った。
担当者は頷いた。
「はい。ただし、別の情報があります」
「何です」
「袖口に、文字のようなものが見えます」
画面が拡大された。
白い布の端。
そこには、小さな黒い文字があった。
《K―04》
真壁は動かなかった。
K―04。
岸田昭彦に関係する識別番号。
父親の腕時計に残されていた通信記録にも、その番号があった。
野村が小さく言った。
「岸田昭彦……」
真壁は首を振った。
「番号が一致しただけだ」
「はい」
「本人かどうかは、まだわからん」
真壁は画面を見つめた。
K―04。
一九八一年の事故。
二〇一〇年の研究施設。
そして、二〇二六年。
同じ番号が、何度も現れている。
真壁は静かに言った。
「この服を着ていた人物を探そう」
野村は頷いた。
「はい」
そのとき、真壁の携帯電話が震えた。
差出人不明。
短いメッセージ。
《K―04を見つけましたね》
真壁は画面を見つめた。
続けて、二通目。
《彼は、階段の下にいた女性を知っています》
三通目。
《ただし、彼が見た女性は二人ではありません》
真壁の目が細くなった。
四通目。
《三人です》
真壁は動かなかった。
野村が画面を見た。
「三人?」
真壁は頷いた。
「ああ」
写真には、二人の女性が写っている。
倒れている女性。
膝をつく女性。
そして、端に写り込んだ相沢美紀。
三人。
しかし、匿名の情報提供者が言う三人とは、その三人なのか。
それとも、別の女性がいたのか。
真壁は静かに言った。
「野村」
「はい」
「写真に写っている人間だけで、現場にいた人数を決めてはいけない」
野村は頷いた。
「そうですね」
真壁は続けた。
「撮影された範囲の外にも、誰かがいた可能性がある」
野村は画面を見つめた。
「では、三崎先生の証言をもう一度確認しますか」
「ああ」
真壁は頷いた。
「ただし、先に写真の出所を調べる」
野村は顔を上げた。
「榊原徹ですね」
「そうだ」
真壁は静かに続けた。
「撮影者が何を見たのか。それが重要だ」
八 階段の下に残されたもの
午後十一時四十分。
奈良県警本部。
真壁は、一人で二〇一〇年のノートを読み返していた。
《午後四時二十八分》
《観測中断》
《午後四時三十一分》
《転落事故発生》
《午後四時三十四分》
《第三者、現場に到着》
その下には、まだ読んでいないページがあった。
真壁は、ゆっくりめくった。
《事故後処置記録》
《患者A》
《頭部外傷》
《意識障害》
《患者B》
《左腕外傷》
《意識清明》
真壁は頷いた。
救急搬送記録と一致する。
しかし、次の行を見た瞬間、目が止まった。
《患者C》
真壁は動かなかった。
三人目。
記録には、確かに三人目の患者がいた。
《患者C》
《外傷なし》
《意識清明》
《観測対象外》
真壁は、ゆっくり息を吐いた。
三人目の女性。
匿名の情報提供者が示した存在。
だが、その正体はまだわからない。
真壁は続きを読んだ。
《患者C、患者Aの身元確認を要求》
《患者C、患者Bの氏名を訂正》
真壁の目が細くなった。
氏名を訂正した。
誰が。
誰の名前を。
真壁は次のページをめくった。
そこには、手書きの文章があった。
《患者Aの氏名は、野村真紀ではない》
真壁は息を止めた。
《患者Bの氏名は、岡崎玲子ではない》
真壁は、長い時間、動かなかった。
二人の女性。
三崎遼一は、患者Aを野村真紀、患者Bを岡崎玲子だと認識していた。
しかし、原記録には違うことが書かれている。
真壁は続きを読んだ。
《患者Cによる訂正申告》
《患者A 岡崎玲子》
《患者B 野村真紀》
真壁は目を閉じた。
三崎の説明とは、完全に逆だった。
倒れていたのは岡崎玲子。
意識があったのは野村真紀。
もし、この記録が正しければ。
二〇一〇年六月十九日に亡くなったのは、岡崎玲子だった可能性がある。
そして、野村真紀は生きていた。
真壁は、ゆっくり息を吐いた。
だが、すぐに考え直した。
これは、患者Cの申告を記録したものにすぎない。
患者Cが誰なのかも、まだわからない。
三崎の証言と、どちらが正しいのか。
その判断には、別の証拠が必要だった。
真壁は、最後のページをめくった。
《患者C 氏名》
そこには、黒いインクで名前が書かれていた。
《杉浦千鶴》
真壁は動かなかった。
杉浦千鶴。
一九七四年に死亡した姉。
一九八八年に死亡したとされる母親。
そして、一九八七年からその名前を使っていた水島澄子。
二〇一〇年の研究施設に、杉浦千鶴を名乗る第三の女性がいた。
真壁は、静かに呟いた。
「誰だ……」
その下には、さらに一行があった。
《本人確認資料 別紙》
真壁はページをめくった。
別紙は、そこにあった。
今度は抜き取られていなかった。
一枚の小さな写真。
研究施設の階段。
倒れた女性。
膝をつく女性。
そして、その背後に立つ第三の女性。
真壁は、写真を見つめた。
白い髪。
細い身体。
濃い色の上着。
その顔には、見覚えがあった。
水島澄子。
昨日まで、真壁たちに記録を渡していた女性だった。
真壁は、長い時間、その写真を見つめていた。
二〇一〇年六月十八日。
水島澄子は、研究施設にいた。
そして、二人の女性の名前を訂正していた。
真壁は静かに言った。
「水島さん……」
誰も答えなかった。
そのとき、携帯電話が鳴った。
表示された名前を見て、真壁は目を細めた。
水島澄子。
真壁は電話に出た。
「真壁です」
しばらく、沈黙があった。
そして、女性の声が聞こえた。
『写真を見つけましたね』
真壁は動かなかった。
「なぜ、それを」
女性は答えなかった。
代わりに、静かに言った。
『真壁さん』
「はい」
『二〇一〇年六月十八日、階段の下に倒れていたのは、岡崎玲子さんです』
真壁は黙った。
『そして、野村真紀さんは生きていました』
「あなたは、その場にいたんですね」
『はい』
真壁は静かに訊いた。
「では、なぜ今まで話さなかったんです」
長い沈黙。
そして、女性は答えた。
『あなたが、まだ思い出していなかったからです』
真壁の目が細くなった。
「何を」
女性は静かに言った。
『あなたは、あの日、階段の下にいた二人を見ています』
「……」
『そして、どちらが誰なのかも知っていました』
真壁は、ゆっくり息を吐いた。
「では、なぜ俺は覚えていないんです」
女性は答えた。
『それを調べるために、あなたはS―00の最終継承者に選ばれたんです』
真壁は黙った。
『真壁さん』
「はい」
『明日、もう一度会いましょう』
「どこで」
女性は答えた。
『奈良中央記念病院です』
真壁は目を細めた。
『B―17の奥に、まだ一つ部屋があります』
「どんな部屋です」
女性は静かに答えた。
『記憶を記録する部屋です』
真壁は動かなかった。
『そこには、あなたが忘れた二〇一〇年六月十八日の記録が残っています』
「本当ですか」
『はい』
真壁は静かに言った。
「わかりました。ただし、現場は警察が管理しています。立ち会いの手続きを取ります」
女性は小さく笑った。
『刑事さんですね』
真壁は答えた。
「そうです」
短い沈黙。
そして、女性は最後に言った。
『真壁さん』
「はい」
『あなたが忘れたのは、階段の事故だけではありません』
真壁は息を止めた。
『そのあと、あなたは一人の女性を運びました』
真壁は黙った。
『その女性は、野村真紀さんです』
「……」
『そして、あなたは彼女を、死者としてではなく、生きた人間として運びました』
真壁は、長い時間、何も言えなかった。
女性は静かに続けた。
『だから、野村亮介さんに伝えてください』
真壁は息を止めた。
『お母様が亡くなったと、まだ決めないでください』
電話が切れた。
真壁は、携帯電話を見つめた。
窓の外には、奈良の夜景が広がっていた。
遠くを走る車のライトが、細い線になって流れていく。
真壁は、机の上の写真を見た。
階段。
二人の女性。
そして、三人目の女性。
水島澄子。
真壁は静かに呟いた。
「明日、確かめる」
誰も答えなかった。
「誰が、あの階段で倒れたのか」
そして、もう一度、写真を見つめた。
「誰が、生きていたのか」
その答えは、まだ記録の奥に隠されていた。
第三十四章に続く

コメント