東野圭吾を模倣し、元首相暗殺事件を題材にしたオリジナル小説『二発目の空白』第二十一章

目次

第二十一章 父のもう一つの名前

一 写真の中の父親

十月十九日、午前七時二十分。

奈良県警本部の資料室には、まだ朝の冷たい空気が残っていた。

真壁修司は、机の上に並べられた十七枚の写真を見つめていた。

一九七〇年から一九八一年まで。

父親の真壁修一が写っている写真だった。

警察学校の集合写真。

若い刑事たちの記念写真。

捜査本部の前で撮影された一枚。

そして、奈良中央記念病院の廊下で撮られた写真。

どれも、父親の遺品から見つかったものだった。

「真壁さん」

野村亮介が紙コップを差し出した。

「コーヒーです」

「ありがとう」

真壁は受け取ったが、口をつけなかった。

視線は一枚の写真に向けられていた。

一九七三年五月。

奈良県警察学校。

卒業記念写真。

中央付近に、若い真壁修一が立っている。

痩せた顔。

真っすぐな鼻筋。

少しだけ下がった目尻。

真壁は父親の若いころの顔を、何度も見てきた。

だが、この写真には奇妙な点があった。

「野村」

「はい」

「この写真を見てくれ」

野村が隣へ来た。

「何かありますか」

「父の右隣だ」

野村は写真を覗き込んだ。

そこには、もう一人の若い男が立っていた。

顔の半分が、前列の人物に隠れている。

しかし、見えている部分は真壁修一によく似ていた。

「兄弟でしょうか」

野村が言った。

「父には兄弟がいないと聞いている」

「戸籍上は?」

「一人っ子だ」

野村は写真を拡大した。

「でも、よく似ていますね」

真壁は頷いた。

「似ている」

しばらくして、野村が言った。

「名簿はありますか」

「ある」

真壁は古い卒業名簿を開いた。

真壁修一。

その隣に記載された名前。

《黒田修一》

野村が顔を上げた。

「同じ名前ですね」

「ああ」

「姓だけが違う」

真壁は名簿を見つめた。

真壁修一。

黒田修一。

二人の修一。

一九七三年。

同じ警察学校に在籍していた。

「偶然でしょうか」

野村が訊いた。

「それを確かめる」

真壁は静かに答えた。

そのとき、真壁の携帯電話が震えた。

非通知。

画面には、短いメッセージが表示された。

《黒田修一を見つけましたね》

真壁は眉を寄せた。

野村も画面を見た。

「また監視されています」

「そうだな」

続けて、二通目が届いた。

《その男は、あなたのお父様ではありません》

真壁は画面を見つめた。

三通目。

《ですが、あなたのお父様は、かつて黒田修一でした》

野村が息を呑んだ。

「どういうことですか」

真壁は携帯電話を伏せた。

「わからん」

そして、卒業名簿を閉じた。

「だから調べる」


二 黒田修一という名前

午前九時十分。

奈良県警本部。

真壁と野村は、警察学校の古い人事記録を確認していた。

一九七三年。

真壁修一。

奈良県出身。

一九四八年生まれ。

黒田修一。

京都府出身。

一九四八年生まれ。

二人は同い年だった。

警察学校への入校日も同じ。

しかし、卒業後の経歴は違っていた。

真壁修一は奈良県警へ配属。

黒田修一は京都府警へ配属される予定だった。

ところが。

「黒田修一は、卒業直前に退校しています」

野村が言った。

真壁は顔を上げた。

「理由は」

「病気療養とあります」

「その後は」

野村が資料をめくった。

「記録がありません」

真壁は眉を寄せた。

「死亡記録は」

「確認できません」

「戸籍は」

「照会中です」

真壁は椅子へ座った。

黒田修一。

父親と同じ名前。

同じ年齢。

よく似た顔。

そして、警察学校を去った男。

「父は、黒田と親しかったのかもしれん」

野村が頷いた。

「写真では隣に立っています」

「ああ」

「同じ名前だから、仲良くなった可能性もありますね」

真壁は少し笑った。

「ありそうな話だ」

しかし、その笑みはすぐに消えた。

一九七四年。

奈良中央記念病院。

杉浦千鶴が目撃した、真壁修一と同じ顔の男。

それが黒田修一だった可能性がある。

だが、写真だけで同一人物とは言えない。

真壁は名簿を見つめた。

「当時の教官を探そう」

「存命でしょうか」

「わからん」

「五十年以上前ですよ」

「ああ」

真壁は頷いた。

「だが、同級生なら誰か生きているかもしれない」

野村は名簿を確認した。

卒業生四十二人。

そのうち、現在の連絡先が判明しているのは十一人だった。

真壁は一人ずつ名前を確認した。

そして、ある人物の名前で手を止めた。

《小野寺正夫》

野村が顔を上げた。

「小野寺さん?」

「ああ」

真壁は静かに言った。

「俺の昔の上司だ」

小野寺正夫。

かつて真壁が所属していた捜査班の責任者。

二〇一〇年、真壁が京都で倒れたときにも関わっていた人物だった。

真壁は名簿を閉じた。

「会いに行こう」


三 退職刑事の証言

奈良市郊外。

小野寺正夫は、古い平屋に一人で暮らしていた。

庭には盆栽が並び、縁側には洗濯物が干されていた。

玄関を開けた小野寺は、真壁を見るなり笑った。

「珍しいな、修司」

「ご無沙汰しています」

「仕事か」

「はい」

小野寺は野村へ視線を向けた。

「若いのも連れてきたな」

野村が頭を下げた。

「野村亮介です」

「知ってるよ。岸田から聞いてる」

小野寺は二人を居間へ通した。

お茶が出された。

真壁は写真を机に置いた。

一九七三年の警察学校。

小野寺は写真を見た瞬間、目を細めた。

「懐かしいな」

「覚えていますか」

「ああ」

「父の隣にいる男です」

真壁は黒田修一を指した。

小野寺の表情が変わった。

「黒田か」

「ご存じですね」

「ああ」

「どんな人物でした」

小野寺は写真を見つめた。

「変わった男だった」

「どう変わっていたんです」

「頭がよかった」

真壁は黙った。

「記憶力が異常によくてな」

「……」

「一度見た書類は、ほとんど覚えていた」

野村が言った。

「写真のように記憶できたんですか」

小野寺は首を振った。

「そういう大げさな話じゃない」

そして続けた。

「ただ、細かいところまで覚えていた。誰が何を言ったか、何時に何をしたか。そういうことをな」

真壁は頷いた。

「父とは親しかった?」

「ああ」

「なぜ」

小野寺は少し笑った。

「同じ名前だったからだ」

真壁も小さく笑った。

「やはり」

「最初は冗談で呼び合っていた」

「どんな」

「真壁の修一と、黒田の修一」

小野寺は懐かしそうに言った。

「二人とも似た顔だったから、よく間違えられていた」

真壁は身を乗り出した。

「どのくらい似ていましたか」

小野寺は答えた。

「遠目には区別がつかんこともあった」

「顔だけですか」

「声も似ていた」

真壁の目が細くなった。

「声も?」

「ああ」

「身長は」

「ほぼ同じだった」

真壁は黙った。

小野寺は写真を指した。

「だが、決定的に違うところがあった」

「何です」

「手だ」

真壁が顔を上げた。

「手?」

「ああ」

「どちらの」

小野寺は答えた。

「黒田は左利きだった」

真壁は息を止めた。

父親は右利きだった。

そして、父親の右手の小指は曲がっていた。

黒田は左利き。

「ほかには」

真壁が訊いた。

小野寺は少し考えた。

「黒田は、左手の小指を怪我していた」

真壁の表情が変わった。

左手の小指。

二〇二二年七月九日。

野村の前に現れた老人。

父親に似た顔。

左手の小指が曲がっていた。

真壁は野村を見る。

野村も息を呑んでいた。

「小野寺さん」

真壁が言った。

「黒田修一は、今も生きていますか」

小野寺は黙った。

「……」

「ご存じですか」

長い沈黙。

そして。

小野寺は静かに答えた。

「生きている」

真壁は動かなかった。

「どこに」

小野寺は答えなかった。

真壁は続けた。

「小野寺さん」

「……」

「黒田は、どこにいるんです」

小野寺はゆっくり顔を上げた。

「京都だ」

真壁の目が細くなった。

「住所は」

「知らん」

「連絡は取れる?」

小野寺は首を振った。

「最近はな」

「最後に会ったのは」

小野寺は答えた。

「二〇二二年だ」

真壁は息を止めた。

「いつ」

「七月九日」

野村が顔を上げた。

同じ日。

秋月の研究室。

父親に似た老人。

黒田修一。

真壁は静かに言った。

「その日、黒田は何をしていたんです」

小野寺は答えた。

「修一の遺品を探していた」


四 父親の遺品

「父の遺品?」

真壁が訊いた。

小野寺は頷いた。

「ああ」

「何を探していたんです」

「記録だ」

真壁は眉を寄せた。

「どんな」

小野寺は答えた。

「一九七四年の記録だ」

真壁は息を止めた。

また一九七四年。

杉浦千鶴。

奈良中央記念病院。

薬剤。

患者の死。

そして、父親に似た男。

「黒田は、何を知っているんです」

小野寺は静かに言った。

「全部だ」

真壁は動かなかった。

「全部?」

「ああ」

「何を」

小野寺は写真を見つめた。

「一九七四年に何があったのか」

真壁は身を乗り出した。

「小野寺さん」

「何だ」

「黒田は、薬剤を投与した男ですか」

小野寺は答えなかった。

真壁は続けた。

「杉浦千鶴さんが目撃した、父と同じ顔の男」

小野寺は目を閉じた。

「……」

「黒田修一ですね」

長い沈黙。

そして。

小野寺は頷いた。

「そうだ」

真壁は息を止めた。

「黒田が薬剤を投与した?」

小野寺は答えた。

「その可能性が高い」

真壁の表情が変わった。

「可能性?」

「ああ」

「あなたは現場を見ていないんですね」

「見ていない」

真壁は頷いた。

「では、誰から聞いたんです」

小野寺は答えた。

「黒田本人だ」

真壁は黙った。

「黒田が、自分で話したんですか」

「ああ」

「何と」

小野寺は静かに言った。

「俺がやった、と」

真壁は息を止めた。

野村も動かなかった。

小野寺は続けた。

「だが、そのあとで言った」

「何を」

「俺は殺していない、と」

真壁は眉を寄せた。

「どういう意味です」

小野寺は首を振った。

「わからん」

「薬剤は投与したが、殺意はなかったということですか」

「そうかもしれん」

「事故だった?」

「それもわからん」

真壁は椅子へ座った。

黒田修一。

父親に似た男。

薬剤を投与した可能性。

しかし、殺していないと主張している。

「黒田は、その後どうしたんです」

真壁が訊いた。

小野寺は答えた。

「警察を辞めた」

「卒業前に?」

「ああ」

「そして」

「姿を消した」

真壁は頷いた。

「父は、黒田を探しましたか」

小野寺は静かに答えた。

「探した」

「見つけた?」

「ああ」

「いつ」

小野寺は言った。

「一九八一年だ」

真壁は息を止めた。

一九八一年。

母親が幼い真壁を抱いていた写真。

岸田兄弟。

そして、黒田修一。

「父は、黒田をどうしたんです」

小野寺は答えた。

「警察へ連れてこようとした」

「できた?」

小野寺は首を振った。

「できなかった」

「なぜ」

小野寺は静かに言った。

「黒田が、ある証拠を持っていたからだ」

真壁の目が細くなった。

「何の証拠」

小野寺は答えた。

「真壁修一が、一九七四年の事件を隠したという証拠だ」

真壁は動かなかった。

父親。

真壁修一。

隠蔽。

「父が?」

小野寺は頷いた。

「そうだ」

「何を隠したんです」

小野寺は答えた。

「杉浦千鶴の死だ」

真壁は息を止めた。

「なぜ」

小野寺は静かに言った。

「美津子を守るためだ」

真壁は目を閉じた。

また同じ言葉。

守るため。

それが、何度も繰り返されていた。


五 守るという罪

「小野寺さん」

真壁は静かに言った。

「父は、何を隠したんです」

小野寺は答えた。

「美津子が、現場にいたことだ」

真壁は眉を寄せた。

「母が?」

「ああ」

「それはすでに知っています」

小野寺は首を振った。

「違う」

「何が」

「美津子は、ただ見ていたわけじゃない」

真壁は動かなかった。

「どういう意味です」

小野寺は答えた。

「薬剤を運んだのは、美津子だった」

真壁は息を止めた。

「母が?」

「ああ」

「誰に頼まれて」

「黒田だ」

真壁は黙った。

小野寺は続けた。

「美津子は、薬剤の中身を知らなかった」

「……」

「ただ、研究室から病室へ運ぶように言われた」

「それで」

「患者に投与された」

真壁は目を閉じた。

母親。

美津子。

薬剤。

患者の死。

そして、姉の千鶴。

「姉は、それを知ったんですか」

真壁が訊いた。

小野寺は頷いた。

「そうだ」

「それで告発しようとした」

「ああ」

「父は」

小野寺は答えた。

「美津子が共犯者として扱われることを恐れた」

真壁は黙った。

「だから、記録を隠した」

「そうだ」

真壁は深く息を吐いた。

父親は、真実を守ろうとした。

同時に、母親を守ろうとした。

その二つが衝突したとき、父親は母親を選んだ。

「父は、証拠を偽造したんですか」

真壁が訊いた。

小野寺は首を振った。

「そこまでは知らん」

「では、何をした」

「美津子の名前を、捜査記録から消した」

真壁の表情が変わった。

「父が?」

「ああ」

「正式な記録を?」

「そうだ」

真壁は椅子へ深く座った。

警察官。

真壁修一。

その父親が、記録を改変した。

守るために。

だが、それは犯罪を隠す行為だった。

真壁は静かに言った。

「父は、間違っていたんですね」

小野寺は黙った。

「そうでしょう」

小野寺はゆっくり頷いた。

「ああ」

真壁は目を閉じた。

父親を尊敬していた。

厳格で、正義感が強く、間違ったことを許さない人間だった。

だが、その父親も間違えた。

しかも、最も大切な場面で。

「小野寺さん」

真壁は顔を上げた。

「はい」

「父は、そのことを後悔していましたか」

小野寺は静かに答えた。

「一生な」

真壁は黙った。

「修一は、あの日から変わった」

「……」

「記録を残すことに執着するようになった」

真壁は父親の手帳を思い出した。

何十冊ものノート。

日付。

名前。

場所。

会話。

すべてが細かく書かれていた。

「二度と、記録を消さないために?」

真壁が訊いた。

小野寺は頷いた。

「そうだ」

真壁は静かに息を吐いた。

父親の手帳。

あれは、単なる捜査記録ではなかった。

父親自身の罪を忘れないための記録だった。


六 黒田の手紙

小野寺は立ち上がり、奥の部屋へ入った。

しばらくして、古い封筒を持って戻ってきた。

「これを預かっていた」

真壁が顔を上げた。

「何です」

「黒田からの手紙だ」

真壁は息を止めた。

「いつの」

「二〇二二年七月九日」

野村が顔を上げた。

同じ日。

秋月の研究室。

父親に似た老人。

黒田修一。

小野寺は封筒を差し出した。

「修司に渡してくれと言われた」

真壁は封筒を受け取った。

表。

《真壁修司様》

筆跡は、父親のものに似ていた。

だが、少し違った。

真壁は慎重に封筒を開いた。

中には、二枚の便箋。

《真壁修司君へ》

《君は、私のことを知らないだろう。》

《私は黒田修一という。》

《君の父親と同じ名前を持っていた男だ。》

真壁は続きを読む。

《君の父親とは、警察学校で出会った。》

《私たちはよく似ていた。》

《そのため、何度も間違えられた。》

《最初は、それを面白がっていた。》

《だが、ある事件をきっかけに、そのことが恐ろしい意味を持つようになった。》

真壁の手が止まった。

《一九七四年六月十二日。》

《私は、奈良中央記念病院にいた。》

《そこで、一人の患者に薬剤を投与した。》

《その患者は死亡した。》

真壁は息を止めた。

《私は、殺すつもりではなかった。》

《だが、私がしたことに責任がないとは言えない。》

《薬剤が何であるか、十分に確認しなかったからだ。》

真壁は黙った。

《そして、もっと大きな罪を犯した。》

《私は、自分がしたことを、真壁修一の責任にしようとした。》

真壁の目が細くなった。

《私たちは似ていた。》

《声も、顔も、背格好も。》

《だから、彼になりすますことは難しくなかった。》

《私は彼の名前を使った。》

《彼の署名を真似た。》

《そして、彼が薬剤を投与したように見せる記録を作った。》

真壁は拳を握った。

《しかし、修一は私を告発しなかった。》

《なぜなら、彼は美津子さんを守ろうとしていたからだ。》

《美津子さんは、薬剤を運んだだけだった。》

《だが、研究側は彼女を共犯者として扱おうとした。》

《修一は、それを恐れた。》

真壁は目を閉じた。

《私は、その弱さにつけ込んだ。》

《そして、逃げた。》

長い沈黙。

真壁は次のページを開いた。

《その後、私は何度も修一に会った。》

《彼は、私に自首するよう説得した。》

《私は拒み続けた。》

《そして、時間だけが過ぎた。》

《一九八一年。》

《修一は、私を最後に警察へ連れていこうとした。》

《だが、そのとき私は、別の記録を持っていた。》

真壁は息を止めた。

《一九七四年六月十七日。》

《杉浦千鶴が亡くなった旅館の記録だ。》

《そこには、修一が知らない事実が残されていた。》

真壁は続きを読む。

《千鶴さんは、薬剤の事故だけを告発しようとしていたのではない。》

《もっと大きなことに気づいていた。》

《それは、警察が人間の記憶を利用して、捜査記録を変えようとしていたことだ。》

真壁は黙った。

《そして、その計画を始めた人物は、水島圭介ではなかった。》

《水島は、記録を管理していただけだ。》

《本当に計画を作った人間は、別にいる。》

真壁の目が細くなった。

《その人物の名前を、私は知っている。》

真壁は息を止めた。

しかし。

次の行は、黒く塗りつぶされていた。

真壁は眉を寄せた。

「小野寺さん」

「何だ」

「この部分は、最初から消されていたんですか」

小野寺は首を振った。

「いや」

真壁の表情が変わった。

「では」

小野寺は答えた。

「俺が消した」

真壁は動かなかった。

「なぜ」

小野寺は静かに言った。

「その名前を、まだお前に知らせるわけにはいかなかった」

真壁の拳が握られた。

「また、それですか」

小野寺は黙った。

真壁は続けた。

「父も、岸田さんも、あなたも」

「……」

「いつも同じことを言う」

真壁は声を低くした。

「守るためだと」

小野寺は目を伏せた。

真壁は手紙を机へ置いた。

「小野寺さん」

「何だ」

「もう、誰かに守ってもらうつもりはありません」

長い沈黙。

そして。

「名前を教えてください」

小野寺は答えなかった。

真壁は続けた。

「今度は、あなた自身の言葉で」

小野寺はゆっくり顔を上げた。

「修司」

「はい」

「その名前を知れば、お前は今の警察を信用できなくなるかもしれん」

真壁は静かに答えた。

「信用できるかどうかは、事実を調べてから決めます」

小野寺は長く息を吐いた。

そして、言った。

「わかった」

真壁は身を乗り出した。

小野寺は静かに続けた。

「だが、その前に一つだけ確認させてくれ」

「何です」

「お前は、二〇一〇年六月十八日のことを、どこまで思い出している」

真壁の表情が変わった。

二〇一〇年。

岡崎玲子の転落。

記憶の空白。

父親に似た男。

黒いバンド。

そして、管理者の継承。

「全部は思い出していません」

真壁が答えた。

小野寺は頷いた。

「そうか」

「なぜです」

小野寺は静かに言った。

「その日、お前は黒田修一に会っている」

真壁は息を止めた。

「俺が?」

「ああ」

「どこで」

「京都の研究所だ」

真壁は黙った。

小野寺は続けた。

「そして、お前は黒田から一つの名前を聞いた」

真壁の目が細くなった。

「誰の名前です」

小野寺は答えた。

「最初の計画者だ」

真壁は動かなかった。

「俺は、その名前を聞いた?」

「ああ」

「でも、覚えていない」

小野寺は頷いた。

「そうだ」

真壁は目を閉じた。

また記憶。

また空白。

だが、今度は違った。

記憶を取り戻すことだけに頼る必要はない。

記録がある。

証言がある。

そして、生きている人間がいる。

真壁は静かに言った。

「小野寺さん」

「何だ」

「名前を教えてください」

小野寺は長い時間、真壁を見つめていた。

そして、ゆっくり口を開いた。

「最初に計画を作ったのは」

真壁は息を止めた。

「奈良県警の人間だ」

「それは知っています」

「だが、刑事じゃない」

真壁の目が細くなった。

「では」

小野寺は答えた。

「警察の記録を管理していた、事務官だ」

真壁は黙った。

「名前は」

小野寺は静かに言った。

「相沢信一」

真壁は動かなかった。

相沢。

相沢美紀。

野村真紀の妹。

神谷直人と関わっていた女性。

そして、二〇二〇年に死亡したことになっていた人物。

真壁は息を止めた。

「相沢美紀の……」

小野寺は頷いた。

「父親だ」

部屋が静まり返った。

野村も動かなかった。

相沢信一。

一九七四年。

奈良県警の事務官。

記録管理。

そして、観測計画。

真壁はゆっくり椅子へ座った。

「野村」

「はい」

「相沢信一を調べる」

野村が頷いた。

「はい」

真壁は手紙を封筒へ戻した。

そして、静かに言った。

「ようやく、最初の人間にたどり着いた」

小野寺は何も言わなかった。

真壁は窓の外を見た。

奈良の午後。

薄い雲の向こうに、弱い日差しが見えていた。

父親。

真壁修一。

黒田修一。

二人の修一。

その間にあった、長い沈黙。

そして、相沢信一。

真壁は静かに呟いた。

「親父」

誰も答えなかった。

「今度こそ、終わらせる」

そのとき。

野村の携帯電話が震えた。

差出人不明。

短いメッセージ。

《相沢信一を調べる必要はありません》

野村が顔を上げた。

次。

《本人が、あなたたちを待っています》

真壁は画面を見る。

そして。

《場所は、奈良県警本部》

真壁の表情が変わった。

さらに一通。

《相沢信一は、今も警察の中にいます》

真壁はゆっくり立ち上がった。

「野村」

「はい」

「本部へ戻るぞ」

野村が頷いた。

「わかりました」

真壁は小野寺へ頭を下げた。

「ありがとうございました」

小野寺は静かに言った。

「修司」

真壁が振り返る。

「何です」

小野寺は答えた。

「気をつけろ」

真壁は頷いた。

「はい」

そして、玄関へ向かった。

その背中を見送りながら、小野寺は小さく呟いた。

「修一」

誰もいない居間。

古い写真。

二人の修一。

そして、黒く塗りつぶされた名前。

小野寺は静かに目を閉じた。

「お前の息子は、とうとうここまで来たぞ」

その声は、誰にも届かなかった。

第二十二章に続く

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