第十八章 死んだ女の名前
一 もう一人の千鶴
京都へ向かう車の中で、真壁修司は一枚の写真を見つめていた。
一九七四年。
奈良中央記念病院の職員証。
そこには、二人の杉浦千鶴がいた。
同じ名前。
同じ生年月日。
しかし、異なる顔。
一人は、後に真壁の母親となった女性。
もう一人は、一九七四年六月十七日に死亡した女性。
「真壁さん」
運転席の野村亮介が言った。
「何だ」
「本当に、今日行くんですか」
「どこへ」
「亡くなった女性の家族です」
真壁は写真から目を離した。
「もちろんだ」
「でも、四十五年以上前の話ですよ」
「だからこそだ」
真壁は窓の外を見た。
高速道路の向こうに、京都の山並みが見え始めていた。
「記録は何度も書き換えられてきた」
「はい」
「だが、人間の生活そのものを全部書き換えることはできない」
野村は黙って聞いていた。
「その女にも家族がいたはずだ」
「……」
「友人も、知人も、暮らしていた家もあった」
「はい」
「名前だけを追っているうちは、相手の思うつぼだ」
真壁は写真を封筒へ戻した。
「今日は、その女がどんな人間だったのかを調べる」
野村は頷いた。
「わかりました」
車は京都南インターチェンジを降りた。
午前九時三十六分。
京都の空には薄い雲が広がっていた。
真壁は腕時計を見ようとして、左手首が空であることに気づいた。
父親の形見。
十六年間、身につけていた時計。
今は証拠品として保管されている。
何もない手首が、妙に軽かった。
真壁はその軽さに、少しだけ寂しさを感じた。
父親がいなくなったときも、こんな気持ちだったのかもしれない。
二 死亡診断書の空白
京都府警の古い資料室には、紙の匂いが染みついていた。
段ボール箱。
黄ばんだ書類。
薄くなったインク。
一九七四年の死亡記録は、複数の台帳に分かれて保存されていた。
「こちらです」
案内した刑事が、一冊のファイルを差し出した。
真壁は手袋をはめ、慎重にページを開いた。
《杉浦千鶴》
《一九五四年二月十日生》
《一九七四年六月十七日死亡》
死亡場所。
京都市内。
死因。
急性薬物中毒。
真壁の指が止まった。
「薬物中毒?」
野村が顔を上げた。
「前の資料では死因不明でしたね」
「ああ」
真壁はページをめくった。
検査記録。
当時の法医学的所見。
薬物の種類については、確定できなかったと記されている。
「事故か、自殺か、他殺か」
野村が訊いた。
真壁は答えた。
「判断されていない」
「事件性は」
「不明のままだ」
真壁はさらに資料を確認した。
発見場所。
京都市東山区。
古い旅館の一室。
発見者。
旅館の従業員。
そして、同行者の欄。
《不明》
真壁は眉を寄せた。
「一人で宿泊していたのか」
京都府警の刑事が答えた。
「宿泊名簿には一人とあります」
「身分証明は」
「当時の記録では、本人が提示したとされています」
「原本は」
「残っていません」
真壁は頷いた。
一九七四年。
半世紀以上前。
すべてが残っているはずはない。
だが、残っているものもある。
「遺体の身元確認は誰が」
刑事が資料を指した。
《杉浦正男》
真壁は顔を上げた。
「父親ですか」
「そう記されています」
「住所は」
奈良市内。
真壁は野村を見る。
「母方の祖父と同じ名前だ」
野村が息を呑んだ。
「では、亡くなった女性も、真壁さんのお母様の家族だった?」
「まだわからん」
真壁は答えた。
「同姓同名の父親という可能性もある」
だが、その可能性は低そうだった。
真壁は次のページを開いた。
親族関係。
父。
杉浦正男。
母。
杉浦澄江。
真壁は動きを止めた。
母方の祖父母と、完全に同じ名前だった。
「真壁さん」
野村が言った。
「これは……」
真壁は頷いた。
「同じ家族だ」
「では、二人の杉浦千鶴は」
真壁は静かに答えた。
「姉妹だった可能性がある」
野村は資料を見た。
「でも生年月日が同じです」
真壁は言った。
「双子かもしれん」
室内が静まり返った。
二人の杉浦千鶴。
同じ名前。
同じ生年月日。
違う顔。
もし双子なら、同じ日に生まれたことは説明できる。
しかし、同じ名前で届け出られていた理由は説明できない。
「戸籍を確認しよう」
真壁が言った。
野村は頷いた。
「はい」
真壁は資料を閉じた。
死亡診断書。
薬物中毒。
旅館。
身元確認した父親。
そして、同じ名前を持つ二人の娘。
その家族には、何かが隠されていた。
三 双子ではなかった
戸籍の記録を確認した結果、意外な事実が明らかになった。
杉浦正男と澄江の間には、娘が二人いた。
長女。
杉浦千鶴。
一九五四年二月十日生まれ。
次女。
杉浦美津子。
一九五六年八月三日生まれ。
真壁は資料を見つめた。
「千鶴は一人だけだ」
野村が頷いた。
「はい」
「美津子という妹がいた」
「そうですね」
「母に妹がいたとは聞いていない」
真壁は眉を寄せた。
母親の実家。
奈良市内。
幼いころ、何度か訪れた記憶がある。
祖父。
祖母。
古い家。
庭の柿の木。
しかし、叔母の存在を聞いたことはなかった。
「美津子さんは、どうなったんでしょう」
野村が訊いた。
真壁は次のページを開いた。
杉浦美津子。
一九七四年六月十八日。
転出。
京都市内。
その後。
記録が途切れている。
「転出先の戸籍を追おう」
真壁が言った。
野村が頷いた。
そして、数時間後。
新たな記録が見つかった。
杉浦美津子。
一九七四年七月。
改名。
《杉浦千鶴》
真壁は動きを止めた。
「改名?」
野村が頷いた。
「はい」
「理由は」
「家庭裁判所の許可記録が必要ですが、当時の資料が残っているか確認中です」
真壁は椅子へ座った。
美津子。
妹。
姉の死。
そして、姉と同じ名前への改名。
「なぜ、死んだ姉の名前を使ったんだ」
野村は答えなかった。
真壁は資料を見つめた。
一九七四年六月十七日。
長女・千鶴が死亡。
翌日。
次女・美津子が転出。
翌月。
美津子が千鶴へ改名。
そして後年。
真壁修一と結婚。
真壁修司を出産。
「野村」
真壁が言った。
「はい」
「俺の母親は、美津子だったのかもしれん」
野村は頷いた。
「記録上は、そう考えられます」
真壁は目を閉じた。
母親の名前。
真壁千鶴。
その名前は、母親が生まれたときの名前ではなかった。
亡くなった姉の名前だった。
「母は、どうしてそんなことを」
野村は静かに答えた。
「まだわかりません」
真壁は頷いた。
「そうだな」
そして、ゆっくり立ち上がった。
「母のことを知っている人を探そう」
四 柿の木のある家
奈良市郊外。
古い住宅街。
真壁が幼いころ訪れた祖父母の家は、すでになくなっていた。
代わりに新しい住宅が建っていた。
しかし、庭の隅には柿の木が残っていた。
真壁はその木を見上げた。
「まだあったんだな」
野村が訊いた。
「覚えているんですか」
「ああ」
「何か思い出がありますか」
真壁は少し笑った。
「秋になると、祖父が柿を取ってくれた」
「いい思い出ですね」
「そうだな」
真壁は木を見つめた。
祖父は無口だった。
祖母はよく笑った。
母親が亡くなったあと、祖父母は真壁に会うたび、何か言いたそうな顔をしていた。
だが、結局何も言わなかった。
今ならわかる気がした。
二人は、娘の秘密を知っていたのだ。
現在の住人へ事情を説明すると、近所に昔から住む女性を紹介してくれた。
八十代後半。
杉浦家の隣人だった女性。
名前は松原文江。
真壁が訪ねると、女性は驚いた顔をした。
「あら、修司ちゃん?」
真壁は頭を下げた。
「ご無沙汰しています」
「まあ、立派になって」
文江は真壁の顔を見つめた。
「お父さんにそっくりねえ」
真壁は少し笑った。
「よく言われます」
居間に通され、お茶が出された。
真壁は写真を二枚並べた。
一九七四年の職員証。
二人の杉浦千鶴。
文江は写真を見た瞬間、表情を変えた。
「これは……」
真壁が訊いた。
「ご存じですか」
文江は頷いた。
「ええ」
「二人とも?」
「もちろん」
真壁は息を止めた。
「どんな関係だったんです」
文江は答えた。
「姉妹よ」
真壁は頷いた。
「姉が千鶴さん、妹が美津子さんですね」
「そう」
「姉の千鶴さんは、一九七四年に亡くなった」
文江は目を伏せた。
「ええ」
「妹の美津子さんは、その後、千鶴と名乗るようになった」
文江は静かに頷いた。
「そうだったわ」
真壁は身を乗り出した。
「なぜですか」
文江はしばらく黙った。
そして言った。
「お姉さんが、そうしてほしいと言ったのよ」
真壁の目が動いた。
「亡くなる前に?」
「ええ」
「なぜ」
文江は答えた。
「美津子ちゃんを守るためだって」
真壁は息を止めた。
また同じ言葉。
守るため。
野村真紀も、そう言った。
父親も。
母親も。
誰かを守るために、名前を変える。
死亡記録を作る。
記憶を隠す。
真壁は静かに訊いた。
「美津子さんは、何から守られたんですか」
文江は顔を上げた。
「男の人よ」
「男?」
「ええ」
「誰です」
文江は少し考えた。
「名前は覚えていないけれど、病院の人だったと思う」
「奈良中央記念病院ですか」
「そう」
真壁は頷いた。
「どんな男でした」
文江は答えた。
「背が高くて、いつも白いシャツを着ていたわ」
野村が顔を上げた。
「黒いバンドは?」
文江は首を傾げた。
「何のこと?」
真壁は野村を見た。
「先入観を与えるな」
野村は小さく頷いた。
「すみません」
真壁は文江へ向き直った。
「その男は、何をしていたんです」
文江は答えた。
「美津子ちゃんに、何度も会いに来ていたの」
「交際相手ですか」
「違うと思う」
「なぜ」
文江は声を落とした。
「美津子ちゃん、その人を怖がっていたから」
真壁は黙った。
「千鶴ちゃんが亡くなる少し前、二人で家へ来たことがあったの」
「誰と誰が」
「千鶴ちゃんと美津子ちゃん」
「何を話していました」
文江は答えた。
「お父さんに、もう病院へ行きたくないって」
真壁は息を止めた。
「なぜ」
「病院で、変なことをされるって」
「変なこと?」
文江は頷いた。
「写真を見せられて、何か質問されるって言っていたわ」
真壁は野村を見る。
記憶の研究。
写真。
質問。
一九七四年。
すでに行われていた。
「そのあと、何があったんです」
真壁が訊いた。
文江は目を伏せた。
「千鶴ちゃんが亡くなったの」
「……」
「美津子ちゃんは、しばらくいなくなった」
「……」
「戻ってきたときには、千鶴と名乗っていた」
真壁は黙った。
「お父さんもお母さんも、何も言わなかった」
「なぜでしょう」
文江は首を振った。
「わからないわ」
そして、静かに続けた。
「でも、美津子ちゃんは変わってしまった」
真壁が顔を上げた。
「どんなふうに」
「笑わなくなったの」
文江は目を伏せた。
「昔は、よく笑う子だったのに」
真壁は母親の顔を思い出した。
優しい笑顔。
静かな声。
だが、どこか寂しそうな表情。
あれは、姉を失った悲しみだったのかもしれない。
五 姉の遺言
文江は立ち上がり、古い箪笥から小さな箱を取り出した。
「これ、預かっていたの」
真壁が顔を上げた。
「何ですか」
「千鶴ちゃんから」
「亡くなった姉の?」
文江は頷いた。
「そう」
箱の中には、一通の手紙が入っていた。
封筒。
《美津子へ》
真壁は息を止めた。
「開けてもいいんでしょうか」
文江は頷いた。
「千鶴ちゃんは、いつか美津子ちゃんの子どもが来たら渡してほしいって言っていたの」
真壁は封筒を受け取った。
四十五年以上。
待ち続けていた手紙。
真壁は慎重に開いた。
中には二枚の便箋。
《美津子へ》
《あなたがこの手紙を読むころ、私はもういないかもしれません。》
《でも、お願いがあります。》
《私の名前を使ってください。》
真壁の手が止まった。
続きを読む。
《私は、あの人たちに名前を知られています。》
《あなたは、まだ知られていません。》
《だから、私がいなくなったあと、私の名前で生きてください。》
真壁は眉を寄せた。
矛盾している。
名前を知られているなら、その名前を使う方が危険ではないか。
続きを読む。
《あの人たちは、名前で人間を管理しています。》
《記録にある名前だけを追っています。》
《だから、私の名前を使えば、あなたを私だと思うでしょう。》
真壁は息を止めた。
記録を利用した身代わり。
姉が妹を守るため、自分の名前を残した。
《ただし、気をつけてください。》
《私の名前を使うということは、私の過去も引き受けるということです。》
《あなたには、何も悪いことをしてほしくありません。》
《ただ、生きていてほしい。》
真壁は目を閉じた。
最後の一行。
《いつか、あなたに子どもが生まれたら、その子には本当のことを話してください。》
《名前は変えられても、生きた時間は変えられないのだから。》
真壁は便箋を下ろした。
母親。
美津子。
亡くなった姉の名前で生きた女性。
その女性が、真壁修司を産んだ。
そして、十歳の真壁を残して亡くなった。
真壁はしばらく動かなかった。
野村も何も言わなかった。
文江が静かに言った。
「修司ちゃん」
真壁が顔を上げた。
「はい」
「あなたのお母さんは、美津子ちゃんよ」
真壁は頷いた。
「はい」
「でもね」
文江は微笑んだ。
「千鶴という名前で生きていた時間も、あの子の人生だったの」
真壁は目を閉じた。
名前。
記録。
戸籍。
写真。
そのどれもが、母親のすべてではなかった。
真壁は深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
文江は静かに頷いた。
六 病院の地下
午後四時。
真壁と野村は、奈良中央記念病院の跡地へ向かった。
病院は二〇〇一年に閉院。
現在は、民間の医療関連施設として使われていた。
古い建物の一部が残っている。
真壁は建物を見上げた。
「ここか」
野村が頷いた。
「はい」
施設の管理者へ事情を説明し、古い図面を確認させてもらった。
一九七四年。
地下に小さな研究室があった。
《記録分析室》
真壁の目が細くなった。
「ここで写真を使った実験を?」
野村が言った。
「可能性があります」
管理者が説明した。
「地下部分は、閉院後ほとんど使われていません」
「入れますか」
「立ち会いがあれば」
真壁は頷いた。
地下へ下りる階段。
古い蛍光灯。
湿った空気。
廊下の奥に、鉄製の扉があった。
《記録分析室》
真壁は立ち止まった。
四十五年以上前。
母親と、その姉が働いていた場所。
二人の名前が入れ替わるきっかけになった場所。
管理者が鍵を開けた。
扉が軋む。
中は薄暗かった。
古い机。
棚。
埃をかぶった機器。
壁には、写真を貼っていた跡が残っていた。
野村が言った。
「何もないですね」
真壁は頷いた。
「そうだな」
だが、部屋の奥に小さな扉があった。
《暗室》
真壁は管理者へ訊いた。
「ここも使っていないんですか」
「はい」
「開けられますか」
「鍵を探してみます」
しばらくして、扉が開いた。
暗室。
狭い部屋。
古い現像器具。
棚。
そして、金属製の箱。
真壁は箱を見つめた。
「これは」
管理者が答えた。
「以前からあります」
「中身は」
「確認していません」
真壁は頷いた。
正式な手続きを経て、箱の中身を調べることになった。
中には、写真のネガフィルムが入っていた。
一九七四年。
六月。
人物写真。
病院の廊下。
研究室。
そして、一枚。
真壁は息を止めた。
二人の女性。
杉浦千鶴。
杉浦美津子。
姉妹が並んでいる。
その背後。
白いシャツの男。
顔ははっきり写っていた。
野村が言った。
「この男……」
真壁は画面を見つめた。
見覚えがある。
だが、すぐには思い出せない。
真壁は写真を拡大した。
男の胸元。
名札。
《研究主任》
その下。
名前。
《三崎俊夫》
真壁の表情が変わった。
「三崎……」
野村が言った。
「さっき会った三崎遼一さんのお父さんですね」
真壁は頷いた。
「そうだ」
「でも、三崎俊夫さんは写真を作った技術者だったはずです」
「ああ」
「研究主任でもあった?」
真壁は写真を見つめた。
「そのようだな」
三崎俊夫。
一九七四年。
奈良中央記念病院。
研究主任。
二人の杉浦姉妹。
そして、記憶の実験。
真壁は小さく呟いた。
「最初の管理者は、三崎だったのか」
野村は答えなかった。
七 残された録音
金属製の箱には、もう一つのものが入っていた。
小さな録音テープ。
ラベル。
《1974.6.17》
真壁は息を止めた。
姉の千鶴が亡くなった日。
テープは専門の機関へ持ち込まれた。
劣化が激しかったが、音声の一部は再生できた。
ノイズ。
機械音。
そして、女性の声。
『やめてください』
真壁は身を乗り出した。
別の女性。
『お姉ちゃん』
真壁の表情が変わった。
姉妹だ。
姉の千鶴。
妹の美津子。
男性の声。
『落ち着いてください』
女性。
『もう、やめてください』
男性。
『研究は終わります』
女性。
『本当に?』
男性。
『はい』
短い沈黙。
そして、別の男性の声。
『終わりません』
真壁は息を止めた。
低い声。
落ち着いた口調。
どこかで聞いたことがある。
男性が続けた。
『観測は、まだ始まったばかりです』
女性の声。
『誰ですか』
男性。
『記録を管理する者です』
真壁は目を閉じた。
また同じ言葉。
四十五年以上前から。
女性が言った。
『名前を言ってください』
男性は答えた。
『名前に意味はありません』
真壁の拳が握られた。
次の瞬間。
物音。
椅子が倒れる音。
女性の悲鳴。
そして、短い沈黙。
男性の声。
『記録を終了します』
音声が途切れた。
真壁は椅子へ座った。
一九七四年六月十七日。
杉浦千鶴が死亡した日。
その場には、複数の人間がいた。
研究主任。
三崎俊夫。
姉妹。
そして、名前を名乗らない男。
真壁は静かに言った。
「野村」
「はい」
「この声を調べる」
「わかりました」
「二〇一〇年の映像にあった声と比較してくれ」
野村が頷いた。
「はい」
真壁は続けた。
「ただし、同じ人物だと決めつけるな」
「はい」
「録音年代も、加工の有無も確認する」
野村は頷いた。
真壁は目を閉じた。
一九七四年。
一九九八年。
二〇一〇年。
二〇二二年。
そして二〇二六年。
同じ言葉が繰り返されている。
《記録を終了します》
誰が言っているのか。
同じ人間なのか。
それとも、役割を引き継いだ別人なのか。
真壁は静かに呟いた。
「最初の声を見つける」
八 最初の嘘
午後十時。
奈良県警。
真壁と野村は、三崎俊夫について調べていた。
一九七四年。
研究主任。
一九八一年。
写真技術者。
二〇一五年。
死亡。
その経歴には、不自然な空白があった。
一九七五年から一九八〇年。
五年間。
勤務記録がない。
野村が言った。
「海外にいた可能性があります」
真壁が顔を上げた。
「どこに」
「資料には記載されていません」
「出入国記録は」
「確認中です」
真壁は頷いた。
「息子の三崎遼一は、この経歴を知っているのか」
「わかりません」
「もう一度話を聞こう」
野村が頷いた。
そのとき、解析室から連絡が入った。
「真壁さん」
担当者の声。
「一九七四年の音声について、少しわかったことがあります」
「何だ」
「最後に話している男性の声です」
真壁は身を乗り出した。
「二〇一〇年の音声と一致した?」
「いいえ」
真壁は眉を寄せた。
「違う?」
「はい」
「では誰だ」
担当者は答えた。
「一九七四年の録音の男性と、二〇二二年のある音声が、似ています」
真壁の目が細くなった。
「何の音声」
「京都のホテルで録音されたものです」
「誰の」
担当者は答えた。
「秋月浩平です」
真壁は動きを止めた。
秋月。
二〇二二年に死亡したことになっていた教授。
野村の恩師。
そして、研究の中心人物。
「秋月は一九七四年には何歳だ」
真壁が訊いた。
野村が資料を確認する。
「二十代前半です」
真壁は頷いた。
「不可能ではない」
「はい」
「だが声が似ているだけでは証拠にならん」
「その通りです」
担当者が続けた。
「ただ、もう一つあります」
「何だ」
「録音の最後に、非常に小さな声が入っています」
真壁が顔を上げた。
「何と言っている」
担当者は答えた。
「はっきりとは聞き取れません」
「再生してくれ」
ノイズ。
男性の声。
『記録を終了します』
その直後。
小さな声。
『先生……』
真壁は息を止めた。
女性の声だった。
そして。
『秋月先生……』
真壁は動かなかった。
野村も顔を上げた。
秋月浩平。
一九七四年。
奈良中央記念病院。
二人の杉浦姉妹。
三崎俊夫。
そして、記録を管理する男。
真壁はゆっくり椅子へ座った。
「野村」
「はい」
「秋月を探すぞ」
野村は頷いた。
「はい」
「今度は、教授としてじゃない」
真壁は画面を見つめた。
「一九七四年に、何をしていたのかを調べる」
そのとき。
野村の携帯電話が鳴った。
非通知。
短いメッセージ。
《秋月浩平を探しても、答えは出ません》
野村が真壁を見る。
次。
《なぜなら》
真壁は画面を覗き込んだ。
《一九七四年の秋月浩平は、まだ秋月浩平ではなかったからです》
真壁は動きを止めた。
名前。
改名。
身分。
記録。
そして。
母親の人生。
真壁は静かに言った。
「また名前か」
野村は頷いた。
「はい」
真壁は窓の外を見る。
奈良の夜。
遠くに街の灯り。
「だが、今度は違う」
野村が顔を上げた。
「何がです」
真壁は答えた。
「名前が変わっても、過去の行動は消えない」
そして続けた。
「一九七四年の研究主任も、記録を管理した男も、必ず何かを残している」
野村は頷いた。
真壁は机の上に、二枚の写真を並べた。
杉浦千鶴。
杉浦美津子。
二人の姉妹。
一人は死に。
一人は生き残った。
そして、その生き残った女性が、真壁修司の母親になった。
真壁は写真を見つめた。
「母さん」
小さく呟いた。
「ようやく、少しだけわかったよ」
そのとき。
捜査室の電話が鳴った。
野村が受話器を取る。
「はい」
短い沈黙。
野村の表情が変わった。
「真壁さん」
「何だ」
「京都府警からです」
「何があった」
野村は答えた。
「三崎俊夫さんの死亡記録について、確認が取れたそうです」
真壁が顔を上げた。
「それで」
野村は息を呑んだ。
「三崎俊夫さんは、二〇一五年に亡くなっています」
「それは知っている」
「でも」
野村は続けた。
「亡くなったときの戸籍上の名前は、三崎俊夫ではありませんでした」
真壁の目が細くなった。
「何だった」
野村は答えた。
「秋月浩平です」
真壁は動かなかった。
一九七四年の研究主任。
三崎俊夫。
二〇二二年に死亡したことになっていた教授。
秋月浩平。
その二つの名前が、同じ人物の記録に残されていた。
真壁はゆっくり立ち上がった。
「野村」
「はい」
「もう一度、最初から調べ直すぞ」
野村が頷いた。
「わかりました」
真壁は二枚の写真を封筒へ戻した。
そして静かに言った。
「今度は、名前じゃない」
「では何を」
真壁は答えた。
「人間を調べる」
窓の外では、夜が深まっていた。
そして、真壁はまだ知らなかった。
三崎俊夫と秋月浩平。
その二つの名前の間には、
もう一つ、
誰にも知られていない名前が存在していた。
その名前こそ、
四十五年以上続いた観測計画の、
最初の管理者の名前だった。
第十九章に続く

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