第十六章 生まれる前の証言
一 扉の向こうの死者
「俺が死んだことにした日だ」
玄関の扉を隔てて、岸田正彦はそう言った。
真壁修司は鍵に手をかけたまま動かなかった。
午後十一時五十九分。
住宅街は静まり返っていた。
遠くを走る車の音が、時折聞こえるだけだった。
「岸田さん」
「何だ」
「一つ確認させてください」
「言ってみろ」
「あなたは今、一人ですか」
短い沈黙。
「一人だ」
「車は」
「表に停めてある」
「誰かに尾行されていませんか」
「わからん」
その答えを聞いて、真壁は鍵を開けた。
扉の向こうに立っていた岸田は、いつもより老けて見えた。
灰色の背広。
緩んだネクタイ。
目の下の深い隈。
右手には古い革鞄を持っていた。
「入ってください」
岸田は無言で頷いた。
居間に通すと、真壁はカーテンを閉めた。
「警戒してるな」
岸田が言った。
「当然です」
「俺を疑ってるのか」
「はい」
真壁は即答した。
岸田は苦笑した。
「正直だな」
「あなたに教わりました」
岸田の笑みが消えた。
「そうだったな」
二人は向かい合って座った。
真壁は父親の手帳を机に置いた。
開かれたページ。
一九九八年六月十七日。
《最初の対象者、死亡》
《岸田正彦》
岸田は、その文字を長い時間見つめた。
「修一さんの字だ」
「覚えていますか」
「ああ」
「何があったんです」
岸田は革鞄を開いた。
中から、古い封筒を取り出す。
茶色く変色した厚い封筒。
表には父親の筆跡で、
《岸田正彦に関する記録》
と書かれていた。
岸田は封筒を真壁の前に置いた。
「これを預かったのは、二〇〇九年の秋だ」
「父が亡くなる直前ですね」
「ああ」
「なぜ今まで渡さなかったんです」
岸田は答えた。
「渡すなと言われていた」
「誰に」
「修一さんにだ」
真壁は父親の手帳を見る。
「条件があった?」
「お前が自分から、一九九八年のことを調べ始めるまでは渡すなと」
「なぜ」
「それは俺にもわからん」
真壁は封筒を手に取った。
重い。
中には紙だけでなく、何か硬いものが入っている。
「開けても?」
岸田は頷いた。
「そのために持ってきた」
封筒の中には三つのものがあった。
一枚の写真。
古いカセットテープ。
そして、薄い報告書。
真壁は最初に写真を見た。
若い岸田。
若い真壁修一。
二人の間に立つ女性。
白いブラウス。
長い髪。
穏やかな表情。
真壁は、その女性を知っていた。
「母さん……」
思わず声が漏れた。
写真の女性は、真壁の母親だった。
真壁千鶴。
真壁修司が十歳のころに病気で亡くなった女性。
真壁は写真を裏返した。
日付。
一九八一年九月二十三日。
真壁が三歳のころだった。
その下に一行。
《第一回観測準備会》
真壁は顔を上げた。
「どういうことです」
岸田は答えなかった。
真壁は写真を机へ置いた。
「母も研究に関わっていたんですか」
岸田はゆっくり頷いた。
「そうだ」
真壁は息を止めた。
「父だけじゃなく」
「ああ」
「母も?」
岸田は言った。
「お前の母親が、最初に問題を見つけた人だった」
二 母親の研究
真壁千鶴。
旧姓・杉浦。
大学では心理学を学び、結婚後は家庭に入ったと聞いていた。
真壁の記憶にある母親は、静かな女性だった。
よく本を読んでいた。
料理をしながら歌を口ずさんでいた。
幼い真壁が転んで泣くと、必ず膝をついて目線を合わせてくれた。
その母親が、研究者だった。
「母は大学を卒業してから、研究を続けていたんですか」
真壁が訊いた。
岸田は頷いた。
「正式な研究員ではなかったがな」
「何を研究していた」
「子どもの記憶だ」
真壁は目を閉じた。
また同じだった。
野村真紀。
岡崎玲子。
そして自分の母親。
すべてが子どもの記憶へつながっている。
岸田は続けた。
「千鶴さんは、ある現象に興味を持っていた」
「何です」
「子どもが、自分の経験していない出来事を、経験したと思い込むことがある」
真壁は頷いた。
「記憶の混同ですね」
「そうだ」
「写真や他人の話によって起こることもある」
「千鶴さんは、それを研究していた」
真壁は写真を見る。
「俺も対象だった?」
岸田は黙った。
「岸田さん」
「……」
「答えてください」
岸田はゆっくり頷いた。
「そうだ」
真壁は椅子へ深く座った。
三歳。
まだ幼かったころ。
自分はすでに研究の対象だった。
「母は、俺を実験に使ったんですか」
岸田は首を振った。
「最初は違った」
「最初は?」
「千鶴さんは、お前の記憶に異変があることに気づいたんだ」
真壁が顔を上げた。
「異変?」
「お前が、会ったことのない人間の話をするようになった」
「誰の」
岸田は答えた。
「修一さんの同僚だ」
真壁は眉を寄せた。
「父の?」
「ああ」
「それが何か」
「その同僚は、お前が生まれる前に亡くなっていた」
真壁は黙った。
「お前は、その人間と遊んだと言った」
「……」
「顔も覚えていると」
「……」
「しかも、名前まで正確に言った」
真壁は写真を見つめた。
「誰かが教えたんでしょう」
岸田は頷いた。
「千鶴さんもそう考えた」
「調べた?」
「ああ」
「結果は」
岸田は答えた。
「修一さんの古いアルバムが原因だった」
真壁は息を吐いた。
「何だ」
「だが、それだけじゃなかった」
岸田の声が低くなった。
「アルバムには、写真が一枚増えていた」
「増えていた?」
「ああ」
「誰が」
「わからなかった」
真壁は眉を寄せた。
「どんな写真です」
岸田は答えた。
「亡くなった同僚と、幼いお前が並んでいる写真だ」
真壁は動きを止めた。
「不可能でしょう」
「そうだ」
「その人は俺が生まれる前に死んだ」
「だから千鶴さんは調べ始めた」
真壁は黙った。
「写真が加工されていたんですか」
「そうだった」
「誰が」
「そこが問題だった」
岸田は言った。
「写真を作った人間が、修一さんの周囲にいた」
真壁は目を閉じた。
父親の同僚。
警察官。
記録を扱う人間。
そして、写真。
「母は、その人物を見つけた?」
「見つけた」
「誰です」
岸田は答えた。
「俺だ」
真壁は顔を上げた。
岸田は静かに続けた。
「写真を作ったのは、俺だった」
三 若い刑事の過ち
「あなたが?」
真壁の声は低かった。
岸田は頷いた。
「そうだ」
「なぜ」
「当時、俺は修一さんの部下だった」
「それは知っています」
「ある捜査のために、写真を作った」
「捜査?」
岸田は説明した。
一九八一年。
奈良県内で発生した、ある行方不明事件。
失踪したのは三十代の男性。
警察は事件性を疑った。
しかし目撃証言は食い違っていた。
失踪当日、男を見たという人間。
前日に見たという人間。
一週間前に見たという人間。
証言は一致しなかった。
「そこで、俺たちは目撃者の記憶がどれほど変化するか調べようとした」
岸田が言った。
真壁の眉が動いた。
「捜査の中で?」
「ああ」
「正式な手続きは」
「なかった」
真壁は黙った。
「俺は、写真を使った」
「何の写真です」
「失踪者が、実際には行っていない場所にいるように見える写真だ」
真壁は息を吐いた。
「偽の証拠ですね」
「そうだ」
「目撃者に見せた?」
「何人かにな」
「証言は変わった?」
岸田は頷いた。
「変わった」
真壁は目を閉じた。
四十五年前。
すでに同じことが行われていた。
「その写真を、なぜ俺が見たんです」
岸田は答えた。
「修一さんの家へ持っていったからだ」
「父に?」
「ああ」
「母が見つけた」
「そうだ」
「それだけなら、俺の記憶に影響する理由がない」
岸田は黙った。
真壁は続けた。
「何を隠しています」
岸田は長く息を吐いた。
「千鶴さんが、写真を見たお前に話をしたんだ」
「どんな」
「写真の男を知っているか、と」
「俺は?」
「知っていると答えた」
真壁は黙った。
「千鶴さんは、なぜ知っているのかと訊いた」
「……」
「お前は、昨日一緒に遊んだと言った」
「それで」
「千鶴さんは、子どもの記憶が写真と質問によって変わることに気づいた」
真壁は顔を上げた。
「じゃあ母は、俺を実験に使ったわけじゃない」
「そうだ」
「異変を調べた」
「ああ」
「その原因は、あなたたちの捜査だった」
岸田は頷いた。
「そうだ」
真壁は椅子に座り直した。
「それが研究の始まりですか」
「結果的にはな」
「父はどうした」
「激怒した」
真壁は少し笑った。
「でしょうね」
岸田も苦笑した。
「修一さんは、俺を殴ったよ」
「父が?」
「ああ」
「珍しいですね」
「そうでもない」
岸田は言った。
「修一さんは、間違ったことをした人間には厳しかった」
真壁は黙った。
父親らしい。
だが、その父親が後に研究へ関わった。
なぜか。
「父は、どうして研究を続けたんです」
岸田は答えた。
「二度と同じことを起こさないためだ」
真壁は眉を寄せた。
「防止するため?」
「そうだ」
「でも研究は逆の方向へ進んだ」
「ああ」
岸田は目を閉じた。
「俺たちは、最初から間違っていたんだ」
四 一九九八年の死亡記録
真壁は封筒から報告書を取り出した。
表紙。
《一九九八年六月十七日》
《記憶誘導実験に関する事故報告》
対象者。
岸田正彦。
結果。
死亡。
真壁は岸田を見る。
「これを説明してください」
岸田は頷いた。
「一九九八年、俺は研究に参加した」
「被験者として?」
「ああ」
「目的は」
「自分が経験していない出来事を、どこまで本当だと思い込むか」
真壁は黙った。
「俺は、ある事件の犯人だと思い込まされた」
「何の事件」
「架空の殺人事件だ」
「方法は」
「映像と証言、それに偽の捜査資料だ」
真壁は眉を寄せた。
「あなたは警察官だった」
「ああ」
「偽の捜査資料を見抜けなかった?」
岸田は首を振った。
「最初は見抜いた」
「でも?」
「何度も見せられるうちに、自分が間違っているのではないかと思い始めた」
真壁は頷いた。
「記憶の混乱ですね」
「そうだ」
「それで死亡?」
岸田は黙った。
「どういうことです」
岸田は言った。
「実験の最終段階で、俺は自殺を図った」
真壁の表情が変わった。
「何?」
「自分が人を殺したと思い込んだんだ」
「……」
「その罪を償わなければならないと考えた」
真壁は報告書を見る。
「救命された?」
「そうだ」
「でも死亡記録がある」
岸田は頷いた。
「病院へ運ばれたあと、死亡と記録された」
「なぜ」
「研究側が、そういう記録を作った」
真壁は眉を寄せた。
「誰が」
「岡崎玲子だ」
真壁は動きを止めた。
「岡崎は当時三十四歳」
「ああ」
「研究に関わっていた?」
「そうだ」
「目的は」
岸田は答えた。
「死亡したという記録を見せられた人間が、どう反応するか調べるためだった」
真壁は息を吐いた。
「自分が死んだという記録を見せられた?」
「そうだ」
「あなたは」
「最初は笑った」
岸田が言った。
「馬鹿なことをするな、と」
「それから」
「だが、記録が増えた」
「何の」
「死亡診断書。葬儀の記録。新聞の訃報。警察の内部文書」
真壁は黙った。
「全部、俺が死んだことになっていた」
「……」
「それを何度も見せられた」
「あなたはどうなった」
岸田は答えた。
「自分が生きていることを、説明できなくなった」
真壁は岸田を見る。
「目の前に自分がいるのに?」
「そうだ」
岸田は静かに笑った。
「今考えれば馬鹿げている」
「……」
「だが、あのときは本当に怖かった」
真壁は何も言わなかった。
岸田は続けた。
「俺は自分の手を見た」
「……」
「脈を確かめた」
「……」
「鏡を見た」
「……」
「それでも、記録では俺は死んでいる」
真壁は目を閉じた。
記録と現実。
その矛盾。
人間は、どちらを信じるのか。
「父はどうした」
真壁が訊いた。
岸田は答えた。
「研究を止めた」
「いつ」
「一九九八年六月十八日」
真壁の目が動いた。
六月十八日。
二〇一〇年も同じ日だった。
「父は何をした」
「全部の記録を集めて、破棄しようとした」
「できた?」
岸田は首を振った。
「できなかった」
「なぜ」
「すでに複製が作られていた」
真壁は頷いた。
「誰が」
岸田は答えた。
「研究の管理者だ」
「岡崎?」
「違う」
「では」
岸田は言った。
「もっと前からいた人間だ」
真壁は息を止めた。
「誰です」
岸田は答えなかった。
「岸田さん」
「……」
「名前を教えてください」
岸田はゆっくり顔を上げた。
「俺も知らない」
真壁は椅子へ深く座った。
また同じ答えだった。
だが岸田は続けた。
「ただ、一つだけわかっていることがある」
「何です」
「その人物は、研究が始まる前から記録を集めていた」
「いつから」
岸田は答えた。
「一九七〇年代だ」
真壁は眉を寄せた。
「半世紀前?」
「ああ」
「そんな昔から?」
岸田は頷いた。
「最初は警察の内部資料だった」
「何の」
「目撃証言と捜査記録の食い違いを集めたものだ」
真壁は黙った。
「それが、いつの間にか人間を観測する研究になった」
「誰が変えた」
岸田は首を振った。
「わからん」
真壁は報告書を見た。
一九八一年。
一九九八年。
二〇一〇年。
二〇一八年。
二〇二二年。
そして現在。
四十五年以上。
同じ問いが繰り返されていた。
人間は何を信じるのか。
記録か。
記憶か。
それとも。
五 母親の声
「テープを聞いてくれ」
岸田が言った。
真壁は古いカセットテープを手に取った。
ラベル。
《千鶴》
母親の名前。
真壁の指が止まった。
「母の声ですか」
岸田は頷いた。
「そうだ」
「いつ録音した」
「一九八八年」
真壁は息を止めた。
母親が亡くなった年。
「誰が録音した」
「修一さんだ」
真壁はテープを見つめた。
母親の声。
三十八年ぶり。
真壁は古いラジカセを探した。
父親の遺品の中にあった。
電源を入れる。
テープを入れる。
再生。
ノイズ。
そして。
『修司へ』
真壁は動かなかった。
母親の声だった。
記憶の奥に残っていた、柔らかい声。
『この声を聞いているころ、あなたは大人になっているのでしょうね』
真壁は目を閉じた。
『お母さんは、あなたに謝らなければならないことがあります』
野村真紀のテープと、似た言葉だった。
真壁の胸に嫌な予感が広がった。
『あなたが小さいころ、お母さんはあなたの記憶を調べました』
『でも、それはあなたを実験に使いたかったからではありません』
『誰かが、あなたに嘘の記憶を与えていたからです』
真壁は息を止めた。
『その人は、お父さんの知り合いでした』
『警察の人でした』
岸田の表情が変わった。
真壁はテープを見つめた。
『私は、その人にやめてほしいとお願いしました』
『でも、やめてくれませんでした』
『その人は言いました』
『子どもは、大人より正直に記憶を語る』
『だからこそ、研究に必要なのだと』
真壁の拳が握られた。
『私は怖くなりました』
『そして、お父さんに相談しました』
『お父さんは、その人を研究から外そうとしました』
『でも、できませんでした』
ノイズ。
『修司』
母親の声が震えた。
『あなたが刑事になったら、いつかこのことを知るかもしれません』
『そのときは、お願いがあります』
真壁は息を止めた。
『お父さんを責めないでください』
『お父さんは、あなたを守ろうとしていました』
『そして』
短い沈黙。
『岸田さんを責めないでください』
真壁が顔を上げた。
岸田も動かなかった。
『岸田さんも、あの人に利用された一人です』
真壁はテープを見つめた。
『本当に責任を取らなければならないのは、別の人です』
ノイズ。
『その人の名前は』
真壁は身を乗り出した。
しかし。
テープが途切れた。
数秒の無音。
そして、別の音。
男性の声。
『記録を終了します』
真壁は動かなかった。
その声。
聞き覚えがある。
二〇一〇年の映像。
黒いバンドの男。
だが、その声とも少し違う。
もっと低い。
もっと年老いた声。
真壁は岸田を見る。
「誰です」
岸田は首を振った。
「わからん」
「本当に?」
「ああ」
真壁はテープを止めた。
そして、あることに気づいた。
「岸田さん」
「何だ」
「母の声は、一九八八年に録音されたんですね」
「そうだ」
「でも、この最後の声は」
真壁はテープを見る。
「後から入れられた可能性がある」
岸田が頷いた。
「俺もそう思う」
「誰が」
「わからん」
真壁は小さく息を吐いた。
「また、記録の中に記録を作った人間がいる」
岸田は黙った。
真壁は続けた。
「でも今度は、消された部分がある」
「そうだ」
「母は名前を言おうとした」
「ああ」
「その部分だけ消されている」
真壁は立ち上がった。
「元のテープを調べます」
岸田が頷いた。
「頼む」
六 最初の観測対象
午前一時を過ぎていた。
岸田は帰ろうとした。
真壁は玄関まで見送った。
「岸田さん」
「何だ」
「一つだけ」
「言ってみろ」
「父は、俺を研究対象にしたんですか」
岸田は真壁を見る。
長い沈黙。
そして首を振った。
「違う」
真壁は息を吐いた。
「そうですか」
「だが」
岸田は続けた。
「結果として、お前は対象になった」
真壁の表情が変わった。
「なぜ」
岸田は答えた。
「お前の母親が、研究を止めようとしたからだ」
真壁は黙った。
「研究側は、千鶴さんを警戒した」
「……」
「そして、お前を観測し続けることで、千鶴さんの行動を予測しようとした」
真壁の拳が握られた。
「母を動かすために、俺を使った?」
「そうだ」
真壁は目を閉じた。
三歳。
十歳。
母親の死。
父親の沈黙。
そして刑事になった自分。
人生のどこまでが、自分の選択だったのか。
真壁は岸田へ訊いた。
「母は、どうして死んだんです」
岸田の表情が変わった。
「病気だ」
「本当に?」
「……」
「死亡診断書だけじゃなく、あなたは母の死を確認したんですか」
岸田は黙った。
真壁は続けた。
「葬儀はありました」
「ああ」
「棺も見ました」
「……」
「でも俺は十歳だった」
岸田はゆっくり頷いた。
「そうだ」
「母は本当に死んだんですか」
長い沈黙。
そして岸田は答えた。
「死んだ」
真壁は岸田を見る。
「確かですか」
「ああ」
「なぜ」
岸田は静かに言った。
「俺が最期を看取ったからだ」
真壁は動かなかった。
「父じゃなく?」
「修一さんもいた」
「では」
「俺もいた」
岸田は真壁を見る。
「千鶴さんは、最後までお前のことを心配していた」
真壁は目を閉じた。
母親。
その死。
少なくとも岸田は、実際に看取ったと証言している。
だが、それでも確かめなければならない。
真壁は言った。
「ありがとうございます」
岸田は頷いた。
「お前は修一さんに似ている」
「そうですか」
「ああ」
「どこが」
岸田は少し笑った。
「疑い深いところだ」
真壁も笑った。
「それは困りましたね」
岸田は玄関を出た。
真壁は扉を閉めた。
そして居間へ戻った。
机の上。
父親の手帳。
母親のテープ。
岸田の報告書。
腕時計から取り出した記録装置。
すべてが揃っている。
しかし、肝心の名前だけがない。
最初に研究を始めた人間。
警察内部で記録を管理していた人物。
母親が名前を言おうとした人物。
真壁は椅子へ座った。
そのとき。
携帯電話が震えた。
野村からだった。
《真壁さん、起きていますか》
真壁は返信した。
《起きている》
すぐに電話が鳴った。
「どうした」
『調べていた資料に、妙なものがありました』
「何だ」
『二〇二二年七月九日の記録です』
真壁の目が細くなった。
「続けろ」
『僕が京都大学の研究室にいた日です』
「ああ」
『その日、訪ねてきた男のことを思い出しました』
真壁は身を乗り出した。
「誰だ」
野村は答えた。
『名前を名乗らなかったんです』
「それは聞いた」
『でも、帰り際に言った言葉を覚えています』
「何と」
野村は少し黙った。
そして。
『君のお母さんには、昔世話になった』
真壁の呼吸が止まった。
「それだけか」
『いいえ』
「続けろ」
『君が警察官になるなら、真壁修司という刑事を探しなさい、と』
真壁は目を閉じた。
野村が続ける。
『その人なら、最後まで調べてくれるから、と』
「……」
『そして』
野村の声が低くなった。
『自分は、もう長くないと言っていました』
真壁が顔を上げた。
「何?」
『病気だと』
「その男の特徴は」
『白髪でした』
「年齢は」
『七十代くらい』
「ほかには」
野村は答えた。
『右手の小指が、少し曲がっていました』
真壁の表情が変わった。
右手の小指。
父親と同じ特徴。
真壁修一。
しかし父親は二〇〇九年に死んでいる。
真壁は首を振った。
「野村」
『はい』
「その男が俺の父親だと決めるな」
『わかっています』
「でも調べる」
『はい』
真壁は電話を切った。
そして父親の手帳を開いた。
最後のページ。
そこに、これまで気づかなかった小さな文字があった。
《修司へ》
《もし俺に似た男が現れたら、そいつの右手を見ろ》
真壁は息を止めた。
続き。
《俺の小指は、子どものころの骨折で曲がっている》
《だが、あの男の小指は》
文字が途切れている。
ページの端。
破られた跡。
真壁は机の上に手帳を置いた。
父親に似た男。
右手の小指。
二〇二二年七月九日。
野村の前に現れた老人。
真壁は、もう一度手帳を開いた。
破れたページの下。
薄く残った鉛筆の跡。
紙を斜めから照らす。
文字が浮かぶ。
《左手だ》
真壁は動きを止めた。
父親は右手の小指が曲がっていた。
だが、父親に似た男は、
左手の小指が曲がっている。
鏡に映したように。
真壁は小さく呟いた。
「鏡……」
その瞬間。
二〇一〇年の研究所。
非常階段。
岡崎玲子の転落。
父親に似た男。
そして、
二〇二二年の地下駐車場。
ガラス。
反射。
黒いバンド。
すべての映像に共通するものがあった。
鏡像。
左右の反転。
真壁は立ち上がった。
「そういうことか……」
これまで見てきた映像の中に、
左右が反転したものがある。
それは単なる加工ではない。
同じ人物を、別人に見せるための方法だった。
真壁は携帯電話を取り出した。
野村へ電話。
「野村」
『はい』
「二〇一〇年の非常階段の映像をもう一度調べる」
『何をです』
「左右だ」
『左右?』
「男の手首を見ろ」
野村は黙った。
真壁は続けた。
「黒いバンドが、どちらの手についているか」
『左手です』
「本当に?」
『映像では』
真壁は言った。
「映像が反転していたら?」
沈黙。
そして野村が言った。
『右手になります』
真壁は頷いた。
「そうだ」
『でも、それが何を意味するんです』
真壁は答えた。
「俺たちは、ずっと同じ男を見ていたと思っていた」
『はい』
「だが、違うかもしれん」
『何が』
「黒いバンドの男は、一人じゃない」
真壁は窓の外を見た。
夜明け前の奈良。
街灯。
静かな道路。
「左右を反転させた映像で、別人を同じ人物に見せていた可能性がある」
野村は息を呑んだ。
『じゃあ、本当の管理者は』
真壁は答えた。
「まだわからん」
そして続けた。
「だが、少なくとも一人の男を追うだけでは、たどり着けない」
電話の向こうで、野村が言った。
『真壁さん』
「何だ」
『僕たち、何を見落としていたんでしょう』
真壁は少し考えた。
そして答えた。
「人間は、顔を見て人を覚える」
『はい』
「でも、映像の中では顔が見えないことが多かった」
『そうですね』
「代わりに、黒いバンドを見せられていた」
野村が息を止めた。
「それだけで、同じ男だと思い込んでいた」
真壁は静かに言った。
「俺たち自身が、観測実験の被験者になっていたんだ」
長い沈黙。
そして。
野村が言った。
『じゃあ、これからどうします』
真壁は答えた。
「黒いバンドを忘れよう」
『忘れる?』
「ああ」
「名前も、番号も、役割も」
真壁は父親の手帳を閉じた。
「一人ずつ、人間として調べ直す」
電話が切れた。
真壁は窓の外を見た。
空が少しずつ白み始めていた。
そして、机の上の時計を見た。
秒針は止まっている。
父親の時間。
十六年間の記録。
そのすべてが、まだ解かれていない。
だが真壁は、初めて一つの確信を持った。
この事件には、管理者が何人もいる。
しかし、
最初に嘘をついた人間は、
必ず一人いる。
その人物を見つける。
真壁は静かに呟いた。
「親父」
そして続けた。
「今度は、俺のやり方で調べる」
夜明けの光が、机の上に差し込んだ。
父親の手帳。
母親のテープ。
古い写真。
そして止まった腕時計。
四つの記録が、朝日に照らされていた。
そのとき。
真壁の携帯電話に、一通のメッセージが届いた。
差出人不明。
《最初の嘘を知りたいですか》
真壁は画面を見る。
次。
《では、最初の写真を見てください》
添付画像。
一九八一年。
若い真壁修一。
真壁千鶴。
岸田正彦。
そして、
幼い真壁修司。
四人が並んでいる。
真壁は写真を拡大した。
幼い自分。
三歳。
母親の腕に抱かれている。
父親。
岸田。
普通の家族写真に見えた。
だが、
写真の右端。
壁に掛けられた鏡。
そこに、
もう一人の男が映っていた。
白いシャツ。
黒いバンド。
そして、
その男の顔は、
若い岸田正彦と、
まったく同じだった。
真壁は動かなかった。
写真には岸田が二人いた。
一人は父親の隣。
もう一人は鏡の中。
二人の岸田。
同じ顔。
違う位置。
真壁は小さく呟いた。
「最初の嘘は……」
そして、
ようやく理解した。
二十八年前に死んだことになった岸田正彦。
現在、奈良県警にいる岸田正彦。
その二人が、
同じ人間であるという保証は、
どこにもなかった。
第十七章に続く

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