第八十三章 三十一番の名中立の舟は。
江戸湾の真ん中で。
ゆっくり揺れていた。
日本側。
榊原新之介。
徳川家定。
水野隼人正。
鷹見宗一郎。
記録役の清太郎。
通詞。
米利堅側。
士官二名。
通訳。
弥十郎。
そして。
三十一番。
今はサラ・ミラーと名乗る女。
さらに。
傷を押して座る松平宗一郎。
誰が味方か。
誰が敵か。
そんな分け方では。
もう何も見えない。
「まず」
新之介が言った。
「軍艦の話より先に」
水野が眉をひそめる。
「先に?」
「はい」
「外国船が四隻来ておるのだぞ」
「だからです」
「何を聞く」
「十五年前」
サラは新之介を見た。
「私を聞く?」
「はい」
「時間がない」
「誰が決めました」
サラの目が僅かに動いた。
「米利堅側には」
「交渉の日程がある」
「それは」
「そちらの都合です」
「榊原」
水野が低く言う。
「言い方が」
「分かっています」
「だが言うのだな」
「はい」
サラが少し笑った。
「聞いた通りだ」
「その言葉」
「皆さん申しますね」
「嫌か」
「少し」
◇
「十五年前」
新之介が続けた。
「六十三人が集められた」
「はい」
「四十七人が弁財丸へ」
「はい」
「十六人が別路へ」
「はい」
「そなたは三十一番として」
「弁財丸へ乗った」
「はい」
「それなのに」
「なぜ十六人を抜く命令を出せた」
家定が顔を上げる。
「確かに」
「船に乗る側なのに」
サラは松平宗一郎を見る。
「この人が」
「私へ役を与えた」
「御影宗太郎?」
「はい」
「いつ」
「弁財丸へ入れられる前」
「どこで」
「西徳寺」
「本人から直接?」
「顔を見た」
「声も」
「手紙も」
「それで本人と」
新之介が言う。
「思った」
サラが笑う。
「やはりそこを聞く」
「はい」
「では言い直す」
「その時」
「私は」
「今ここにいる松平宗一郎と同じ顔の男から」
「御影宗太郎という役を一時的に渡された」
「期間は」
「三日」
「何のため」
「十六人を抜くため」
「そなた一人へ?」
「違う」
「何人」
「四人」
新之介の目が細くなる。
「四人の御影宗太郎?」
「三日間だけ」
「誰」
「私は三十一番」
「もう一人は十番」
「冬殿?」
「今はそう名乗っているなら」
「では」
「残り二人」
サラが答えた。
「弥吉」
「今の藤吉」
「それから」
一度。
海を見る。
「堀田新三郎」
水野が顔を上げた。
「また新三郎か」
玄斎がいれば。
間違いなく頭を抱えただろう。
◇
「本人の新三郎?」
「違う」
「代替の方?」
「さらに前」
「何」
清太郎の筆が止まる。
サラは淡々と言った。
「堀田新三郎という役は」
「十五年前より前からあった」
「何のため」
「御小納戸へ」
「緊急時に別の人間を入れるため」
「つまり」
家定が言う。
「家慶の代替より前から」
「役の代替が」
「はい」
「いつ始まった」
「分からない」
サラはすぐ言った。
「そこは分からないと記録して」
清太郎が少し驚く。
「分かりました」
「そなたも」
新之介が言う。
「分からないと残す?」
「海では」
「分からないものを」
「分かったことにすると死ぬ」
「陸でも同じです」
「今は知っている」
◇
「十六人を抜く案は」
「誰が最初に」
新之介が問う。
「真崎玄十郎」
「反対した者」
「鷹見宗一郎」
「御影宗太郎」
「つまり」
「今の松平宗一郎」
「そして私」
「反対?」
「最初は」
「なぜ」
「十六人だけ助ければ」
「残り四十七人はどうなる」
「そう思った」
「ならなぜ賛成へ」
「玄十郎が言った」
「今夜」
「全員を救う方法はない」
「十六人を戻せば」
「四十七人と一緒に売られる」
「だから」
「救える十六人を」
「先に」
「はい」
「その時」
サラは少し声を低くした。
「私は玄十郎を正しいと思った」
「今は」
「全部は思わない」
「どこが」
「十六人を救った後」
「その十六人を」
「役へ変えた」
「そなたも」
「はい」
◇
「なぜ」
家定が問う。
「救った後」
「元の生活へ戻さなかったのです」
サラが家定を見る。
「戻れなかった者もいた」
「追っ手が」
「家族が危険になる」
「戸籍のような記録も」
「名も」
「全部追跡の手掛かりになる」
「だから名を消した」
「はい」
「それで」
「安全だった?」
「一部は」
「では」
「なぜ後で返さなかった」
サラは答えない。
新之介も待つ。
やがて。
「便利だったから」
サラが言った。
舟の上の空気が変わった。
「何が」
家定が聞く。
「名前のない者は」
「どこへでも入れられる」
「寺」
「商家」
「武家」
「船」
「城」
「役を与えれば」
「別人として」
「使える」
「だから」
「安全のために消した名前を」
「道具として消したままにした」
「はい」
「そなた自身も」
新之介が問う。
「三十一番だった」
「はい」
「名前を奪われる痛みを」
「知っていた」
「はい」
「それでも」
「別の人へ同じことをした」
サラは。
まっすぐ新之介を見る。
「した」
◇
「言い訳は」
「あります」
「聞きます」
「しないのでは」
「聞いた上で」
「言い訳か理由か」
「分けます」
サラが苦笑する。
「では」
「生き残るためだった」
「誰が」
「十六人も」
「四十七人も」
「私も」
「追っていた者がいた」
「御影?」
「それだけではない」
「人買い」
「幕府内」
「商人」
「海外の買い手」
「なら」
「名を捨てれば追いにくい」
「役を変えれば生き延びやすい」
「そこまでは」
「分かります」
「でも」
「生き延びた後」
「返す場所がなくなった」
「名前を」
「はい」
「本当に?」
サラが止まる。
「何」
「返す場所がなかったのではなく」
「返せば」
「そなたたちの仕組みが崩れるから」
「返したくなかった?」
長い沈黙。
「……そうです」
◇
弥十郎が横から言った。
「サラ」
「何」
「そこまで」
「言うのか」
「ここまで来て」
「言わない方が」
「役を守ることになる」
「海の御影を」
「ああ」
「なら」
「終わらせるのか」
「それも」
サラは新之介を見る。
「まだ決めない」
新之介が少しだけ笑った。
「何です」
「いえ」
「何」
「少し」
「嫌な言葉を覚えましたね」
「そなたほどではない」
◇
「では」
新之介が言う。
「私の代替計画を」
「いつ始めた」
「十五年前」
「弥吉殿が榊原家へ入った直後?」
「はい」
「理由」
「そなたの考え方を」
「保存するため」
「誰に頼まれた」
「誰にも」
「自分で?」
「はい」
「なぜ」
「弥吉から報告が来た」
「何の」
「米が盗まれた事件」
新之介の記憶。
若い弥吉。
疑われた奉公人。
倉を調べ。
別の家臣が横流ししていた。
「弥吉が」
「『若様は私を疑わなかった』と?」
「違う」
「何と」
「『私を信じなかった』」
新之介の目が動く。
「そして」
「『疑った者も信じなかった』」
「『倉を見た』」
サラは続ける。
「私はそれを聞いた」
「それまで」
「御影は」
「人を見ると言いながら」
「結局」
「名簿」
「役」
「家」
「血」
「声」
「そういうものを使っていた」
「でも」
「そなたは」
「名を一度横へ置いた」
「だから」
「残す価値があると思った」
「人間を作って?」
「はい」
「なぜ」
「文章では駄目だと思った」
「教えでは」
「教えは」
「読んだ者が」
「都合よく使う」
「人なら」
「迷いも」
「失敗も」
「残せると思った」
「それで三人」
「はい」
「一人は死んだ」
「はい」
サラの声が初めて揺れた。
◇
「その方の名を」
「榊新太郎」
「生まれた名は」
「金次」
「どう死んだ」
「私が」
サラの口が止まる。
「申してください」
「私は」
「金次へ」
「新之介として」
「一人の男を止めろと命じた」
「どう止める」
「捕らえろ、と」
「相手は」
「御影の一人」
「何が起きた」
「争いになった」
「金次は」
「相手を斬らなかった」
「なぜ」
「本人確認ができない、と」
新之介の顔が強張る。
「私を真似て」
「はい」
「それで」
「相手に刺された」
舟の音だけ。
「死ぬ前」
「何か」
「言いました」
「何と」
サラの目から涙が落ちる。
「『これで私は』」
「『少しは本物に近づいたか』」
新之介は目を閉じた。
「そなたは」
「何と」
「何も」
「言えなかった」
「私は」
「その時」
サラの声が震える。
「初めて」
「人を保存したのではなく」
「人を榊原新之介という役へ」
「閉じ込めたと分かった」
◇
「それでも」
新之介は目を開く。
「残り二人を」
「やめなかった」
「はい」
「なぜ」
「もう始まっていた」
「それは理由になりますか」
「なりません」
「では」
「怖かった」
「何が」
「間違いだったと認めることが」
新之介は何も言わない。
「金次が」
「死んだ」
「もし代替計画をやめれば」
「金次の死が」
「無駄になる気がした」
「だから」
「続けた」
「はい」
「それは」
家定が小さく言った。
「人の死を」
「次の人を使う理由にした」
サラが頷く。
「はい」
◇
新之介は。
怒っていた。
声を上げるほどではない。
だが。
自分の言葉。
癖。
歩き方。
迷い方。
それを。
保存という名で。
別の人間へ背負わせた。
「サラ殿」
「はい」
「私の考えを残したかった」
「はい」
「なら」
「なぜ私に聞かなかった」
サラは答えられない。
「十五年前」
「私は生きていた」
「はい」
「弥吉殿を」
「屋敷へ入れられるほど近くにいた」
「はい」
「なぜ」
「『そなたの考えを他人へ写してよいか』と」
「聞かなかった」
「……断ると思った」
「なら」
「断ると分かっていることを」
「した?」
「はい」
水野が顔を背けた。
家定も黙る。
「つまり」
新之介が言う。
「そなたは」
「私の考えを守るために」
「私の考えへ背いた」
サラは。
声を出せなかった。
◇
松平宗一郎が。
ようやく口を開いた。
「私も」
新之介が見る。
「何です」
「賛成した」
「代替計画に」
「ああ」
「理由」
「御影が」
「長く一人の名へ権限を集め」
「腐った」
「なら」
「なぜ新之介という名を」
「また複数へ」
「当時は」
「一人へ集めないことが」
「答えだと思った」
「結果」
「名前だけ増えた」
「はい」
「そして」
「誰が本物かという争いを」
「作った」
「はい」
新之介は二人を見る。
「そなたたち」
「仕組みを壊すたび」
「形だけ反対の仕組みを作っています」
サラの目が上がる。
「御影が一人なら」
「複数にする」
「記録で縛ったなら」
「記録しない」
「名を固定したなら」
「名を消す」
「将軍一人なら」
「五人にする」
「でも」
「人へ聞かずに決めるところは」
「同じです」
◇
家定が。
深く息を吐いた。
「私も」
「五人へ分ければよいと」
「思いかけた」
「はい」
「人数ではない」
「はい」
「一人でも」
「五人でも」
「百人でも」
「外にいる者を」
「人として見なければ」
「同じ」
「そう思います」
「では」
「昨日の日本橋で」
「千の声を聞こうとしたのは」
「そのため?」
「まだ」
「試している途中です」
「答えではない」
「はい」
◇
米利堅側の士官が。
苛立った様子で通詞へ何か言った。
「何と」
水野が問う。
「時間を要しすぎる、と」
新之介がサラを見る。
「そちらも」
「急いでいる」
「はい」
「なぜ」
「艦隊は」
「長くここに留まれない」
「食料」
「水」
「命令」
「本国への報告」
「なら」
「そちらの都合で」
「日本へ答えを」
「急がせる?」
「交渉です」
「砲を持って?」
サラが黙る。
「空砲だった」
「はい」
「でも」
「町では」
「戦だと思った者がいる」
「……」
「米問屋は」
「買い占めを恐れた」
「魚屋は」
「舟を逃がすかもしれない」
「子どもは」
「泣く」
「そなたたちにとって」
「空砲でも」
「こちらには」
「別の意味になる」
◇
サラの顔が険しくなる。
「では」
「どうすればよかった」
「何が」
「武器を持たず来れば」
「幕府は会わなかった」
「小舟一艘で来れば」
「捕らえられたかもしれない」
「商船なら」
「追い返される」
「だから」
「軍艦が必要だった」
「そうですか」
「他に道があったか」
「分かりません」
「なら」
「責めるだけか」
「いいえ」
新之介は言った。
「必要だったかもしれない」
「でも」
「必要だったことと」
「正しかったことは」
「同じではない」
サラが黙る。
「そなたたちは」
「力を使った」
「その結果」
「こちらが話を聞いた」
「それは事実」
「同時に」
「力を見せられた側が」
「どんな恐怖を持ったか」
「それも事実」
「両方残す」
清太郎の筆が動く。
◇
「交渉条件を」
水野が言った。
「そろそろ聞く」
米利堅側士官も頷く。
通詞。
「第一」
「港を開くこと」
「どこを」
「複数」
「第二」
「遭難船への補給」
「第三」
「漂流民の扱い」
「第四」
「通商の協議」
「第五」
通詞が少し止まる。
「日本人の海外渡航について」
家定の顔が変わる。
「そこは」
「米利堅側条件?」
サラが答えた。
「私が入れた」
「なぜ」
「出たい者を」
「閉じ込めないため」
「本人へ聞いた?」
サラが苦笑した。
「またそれか」
「はい」
「日本人の中に」
「出たい者はいる」
「いるでしょう」
「なら」
「でも」
「出たくない者も」
「います」
「出る自由を作る話だ」
「なら」
「出ない自由も」
「同じように守る?」
「当然」
「その当然を」
「誰が保障」
サラが答えに詰まる。
「米利堅?」
「日本?」
「海の御影?」
「本人?」
新之介が続ける。
「道を開くことと」
「人を外へ動かすことを」
「混ぜないでください」
◇
弥十郎が頷いた。
「そこは」
「私もサラと争った」
「何と」
「サラは」
「最初」
「弁財丸で失った人数と同じだけ」
「日本から若い者を」
「海外へ学びに出す案を」
水野の顔が変わる。
「四十七人?」
「ああ」
「本人の同意は」
「取るつもりだった」
サラが言う。
「ですが」
「家や藩が許さなければ」
「押し切る?」
サラが黙る。
新之介は首を振る。
「数を合わせないでください」
「何」
「四十七人を奪われたから」
「四十七人を外へ出す」
「それは」
「帳尻です」
サラの顔が。
強く歪んだ。
「私は」
「取り戻したかった」
「何を」
「失われた十五年を」
「戻りません」
新之介の言葉は静かだった。
「人を四十七人出しても」
「弁財丸の四十七人は」
「十五年前へ戻らない」
「分かっている!」
「なら」
「数で償わない」
◇
サラが立ち上がった。
米利堅士官が身構える。
水野も。
新之介は動かない。
「私は」
サラが叫んだ。
「十六で売られた!」
舟が揺れる。
「名前を取られた!」
「言葉も分からぬ場所へ!」
「友が死んだ!」
「海へ捨てられた!」
「日本は」
「何もしなかった!」
「はい」
「幕府は」
「私たちがいたことすら」
「消した!」
「はい」
「だから!」
「戻って!」
「変えようとした!」
「はい」
「何が悪い!」
新之介は。
少し間を置いて答えた。
「変えようとしたことではありません」
「では!」
「変えられる側へ」
「聞かなかったことです」
サラの息が止まる。
「そなたが」
「十五年前」
「聞いてもらえなかったように」
◇
誰も話さない。
波。
舟板。
遠い蒸気音。
やがて。
サラは座った。
「……そうか」
小さい声。
「私は」
「帰ってきて」
「同じことを」
「したのか」
「同じではありません」
サラが新之介を見る。
「何」
「全く同じにすると」
「そなたが受けた被害まで」
「そなたの行いに飲み込まれる」
「……」
「売られたことは」
「そなたの責任ではない」
「代替を作ったことは」
「そなたの行い」
「軍艦で急がせたことも」
「そなたの行いの一部」
「分けてください」
サラの目から。
また涙が落ちた。
「善いことまで」
「そなたの被害で消さない」
「悪いことも」
「被害者だったことで消さない」
松平宗一郎が目を閉じた。
「それを」
「私は久へ」
「できなかった」
「はい」
「自分が捨てられたことを」
「久を見捨役へする理由にした」
「はい」
「……」
◇
しばらくして。
サラが言った。
「代替候補二人」
「庄吉殿と新八殿」
「はい」
「私は」
「二人に会う」
「何のため」
「謝る」
「それだけ?」
「違う」
「何を」
「何をされたと思っているか」
「聞く」
「その後」
「本人たちが」
「私に何を求めるか」
「聞く」
「求めなかったら」
「それも」
「残す」
新之介が頷いた。
「私にも」
「はい」
「謝る?」
「今は」
サラは新之介を見る。
「謝っても」
「自分が少し楽になるだけな気がする」
「では」
「先に」
「記録を全部出す」
「代替計画の?」
「はい」
「一人で?」
「海の御影側」
「陸側」
「両方の立会いで」
「どこに」
「一部は二番船」
「一部は長崎」
「一部は」
サラが止まる。
「米利堅」
水野が険しい顔。
「国外に?」
「はい」
「何が」
「榊原新之介の声」
「筆跡」
「行動記録」
「御影の役名簿」
「家慶影武者資料」
家定が息を呑む。
「それが」
「外国にある?」
「あります」
「誰が持つ」
「海の御影」
「米利堅政府では」
「ない?」
「全部ではない」
「では一部は」
サラが答えた。
「渡った可能性があります」
舟の上。
全員の顔が変わった。
◇
「いつ」
水野が問う。
「三年前」
「誰が渡した」
「私ではない」
「なら」
「舵守の前任」
「名は」
「今の名は」
「ジョナサン・ケイ」
「生まれは」
「日本」
「日本名」
サラは一度。
松平宗一郎を見る。
「鷹見宗一」
新之介の目が鋭くなる。
「御影宗一?」
「役名として」
「はい」
「今、江戸城に」
「宗一を名乗る人がいる」
「知っている」
「同じ?」
「違う」
「確認は」
「三年前」
「私はジョナサン本人と会った」
「では」
「少なくとも」
新之介は言う。
「三年前の時点で」
「別の鷹見宗一役が海外にいた」
「そうです」
◇
松平宗一郎が苦しそうに笑う。
「まだ」
「増えるか」
「増えたのではありません」
新之介が答える。
「見えていなかっただけです」
「それを増えたと言うのでは」
「気持ちは同じです」
家定が額を押さえる。
「父が何人いるかで」
「困っていた頃が」
「簡単に思えてきました」
「簡単ではありません」
「分かっています」
◇
「ジョナサン・ケイ」
水野が言う。
「今どこだ」
サラが四隻目を見る。
「四番船」
「乗っている?」
「おそらく」
「なぜ来た」
「私を止めるため」
「何」
「そなたが舵守なのに?」
「はい」
「前任が現任を止める」
「なぜ」
「私は」
「海の御影を終わらせるつもりだった」
「彼は」
「残すべきだと」
「理由」
「国は変わる」
「役は必要だ、と」
新之介が言う。
「また」
「何です」
「終わらせる者と」
「残す者」
「二つへ分ける」
「はい」
「どちらかを選べと」
「言われる?」
「おそらく」
「なら」
「選びません」
サラが新之介を見る。
「まだ話を聞いていない」
「はい」
「では」
「四番船へ」
水野が即座に言った。
「危険だ」
「はい」
「なら」
「ジョナサンを」
「こちらへ呼ぶ?」
「来ないでしょう」
「なぜ」
「彼は」
サラが答えた。
「日本側の船へ」
「乗らない」
「理由」
「十五年前」
「日本人の船に乗って」
「売られたから」
◇
新之介は黙った。
それは。
簡単に「こちらへ来い」とは言えない。
「では」
家定が言う。
「私たちが行く?」
「危険です」
水野が即答。
「家定公は行かせられぬ」
「将軍だから?」
「今後の政に必要だからだ」
家定が少し笑った。
「理由が変わりましたね」
「悪いか」
「いいえ」
「では」
「新之介殿」
「はい」
「そなたは」
「行きます」
「即答?」
「話す必要があります」
「一人で?」
「いいえ」
「誰と」
水野が言う。
「私も行く」
「水野様」
「何だ」
「海防の責任者が」
「外国船へ」
「だからだ」
「家定公は」
「残る」
家定が不満そうにする。
「理由を」
「今ここで」
「米利堅側と日本側の記録を」
「双方で確認する人が必要です」
「それを私が」
「嫌なら」
「やります」
「では」
「お願いします」
◇
サラが言った。
「私も行く」
「前任と」
「はい」
「決着を?」
「その言い方は嫌だ」
「では」
「話を」
「はい」
「弥十郎殿は」
「私も」
「なぜ」
「海の御影が」
「二人だけで決めるのを」
「止める」
サラが彼を見る。
「信用していない?」
「信用はしている」
「でも」
「見届ける」
新之介が少し頷いた。
「よいですね」
「何が」
「声には」
「前と後ろがある」
「人にも同じです」
弥十郎が眉をひそめる。
「誰の言葉だ」
「今は」
「誰のでもよいです」
◇
四番船。
黒い煙。
高い舷。
異国の旗。
その下。
見えない場所に。
日本人の名。
御影宗一。
ジョナサン・ケイ。
そして。
国外へ渡った。
家慶。
御影。
榊原新之介。
十五年分の記録。
水野が言った。
「榊原」
「何です」
「今度は」
「本当に国の外だぞ」
「はい」
「日本の役所の理屈は」
「通じぬかもしれん」
「なら」
「何を見る」
新之介は。
四番船を見た。
「同じです」
「誰が」
「いつ」
「何をしたか」
「名より先に」
「はい」
「そして」
サラが言う。
「誰が」
「何を奪われたかも」
新之介が頷く。
「それも」
小舟が。
四番船へ向かって進み始める。
その時。
船上。
一人の男が姿を見せた。
背が高い。
異国服。
白髪交じり。
顔は。
日本人。
男は。
新之介を見る。
そして。
日本語で。
はっきり言った。
「榊原新之介」
「はい」
「十五年前」
「そなたの代替を作る案に」
「私は反対した」
サラの顔が変わる。
「ジョナサン!」
「だが」
男は続ける。
「三年前」
「私は」
「そなた本人の代わりではなく」
「幕府そのものの代替を」
「作り始めた」
水野の顔が険しくなる。
「何だと」
ジョナサン・ケイは。
四隻の黒船と。
江戸を。
交互に見た。
「日本の幕府が」
「誰の命令を信じればよいか」
「分からなくなった時」
「海の外から」
「代わりに命令できる仕組みを」
「用意した」
新之介は。
ゆっくり顔を上げた。
将軍の代替。
御影の代替。
見捨役の代替。
人から。
役へ。
役から。
国そのものへ。
「それを」
新之介は問う。
「誰に頼まれて」
ジョナサンは答えた。
「誰にも」
そして。
ほんの少し。
苦く笑った。
「だから」
「私は」
「そなたたちと同じ間違いを」
「したのかもしれない」
(第八十四章へ続く)

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