第八十一章 千の声
夜が明けきる前。
日本橋には、もう人がいた。
魚を運ぶ者。
荷を担ぐ者。
店先を掃く者。
寝ていない火消。
橋の袂で茶を沸かす女。
江戸という町は。
将軍が一人か二人か分からなくても。
朝になれば動く。
「不思議ですね」
家定が言った。
「何がです」
「城では」
「将軍が決まらなければ国が止まると」
「皆、申します」
「はい」
「でも」
家定は橋の向こうを見る。
「町は動いている」
新之介が答えた。
「将軍が魚を運んでいるわけではありませんから」
家定が苦笑する。
「もう少し有難い言い方は」
「事実です」
「それが有難くないのです」
◇
今回。
新之介は役所へ人を集めなかった。
逆に。
自分たちが町へ出た。
新之介。
家定。
水野隼人正。
清太郎。
志乃。
辰蔵。
兵馬。
玄斎。
そして真崎半九郎。
玄十郎は小名木川の旧御救小屋跡に残った。
松平左京。
久松兄弟。
次郎。
負傷者たち。
遺骨がある可能性の場所を、一人で動かさないためだ。
松平宗一郎と久は再起館。
家慶甲。
江戸城。
乙。
まだ不明。
「榊原様」
清太郎が問う。
「本当に」
「橋の上で聞くのですか」
「最初は」
「何人くらい」
「決めていません」
「それが一番困ります」
「では」
志乃が言った。
「先に聞き方を決めたらどうです」
「何を聞くか」
「はい」
「『幕府をどうしたいですか』では」
「大きすぎます」
「そうですね」
「『政へ民を入れるには』でも」
「難しい」
辰蔵が頭を掻く。
「俺なら帰るな」
「では辰蔵殿なら」
新之介が問う。
「何を聞かれたら答えます」
「そりゃ」
辰蔵は即答した。
「役人に勝手に決められて困ったことはあるか」
「それなら山ほどある」
「では」
「そこから」
◇
最初に声をかけたのは。
魚屋だった。
四十ほど。
荷を下ろしている。
「すみません」
新之介が言う。
「何だい」
魚屋は顔を上げ。
新之介の身なりを見て。
家定を見て。
水野を見て。
「……何か悪いことしたか、俺」
「していません」
「じゃあ何だ」
「役所に勝手に決められて」
「困ったことはありますか」
「は?」
「何でも」
「そりゃある」
「一つだけ」
「一つ?」
「はい」
「山ほどあるぞ」
「では最初の一つ」
魚屋は少し考えた。
「橋の通行」
「何が」
「火事の後」
「荷車を止められた」
「理由は」
「危ないから」
「危なかった?」
「危なかった」
「では正しかった?」
「半分な」
「半分?」
「荷車止めるのは分かる」
「でも」
「どこの道なら通れるか」
「誰も教えねえ」
「役人は『止まれ』しか言わねえ」
「魚は腐る」
「それで」
「裏道探して走った」
「何が困った」
「止められたことじゃねえ」
「その後を」
魚屋が言った。
「誰も考えてなかったことだ」
清太郎が筆を動かす。
――禁止そのものより、代替手段が示されないことが負担。
新之介が頷いた。
「名を」
魚屋が警戒する。
「何でだ」
「記録へ」
「悪いことじゃねえんだろうな」
「名前を出したくなければ」
「出さなくても」
魚屋が少し驚く。
「いいのか」
「はい」
「じゃあ」
「魚屋甲」
玄斎が吹き出した。
「また甲乙か!」
魚屋が怪訝な顔。
「何だ爺さん」
「いや」
「こちらの事情だ」
◇
二人目。
茶屋の女。
「勝手に決められて困ったこと?」
「はい」
「夜回り」
「何が」
「女は出るなって」
「誰に」
「町役人」
「理由」
「危ないから」
「危なかった?」
「危ないよ」
「だから」
「出ない方がよい?」
「違うよ」
女は笑った。
「男が足りない時」
「火事は待ってくれるのかい」
辰蔵が頷く。
「そうだな」
「火を見つけるのは」
「男も女もない」
「それなのに」
「女は邪魔だって」
「実際」
「邪魔な人もいるよ」
「男にも」
玄斎が笑った。
「その通りだ」
「爺さんは」
「かなり邪魔そうだね」
「何だと!」
志乃が肩を震わせる。
◇
三人目。
米問屋。
「困ったこと?」
「価格の触れだ」
「米価を抑えるため?」
「それ自体は分かる」
「だが」
「仕入れ値が上がってるのに」
「売値だけ止められれば」
「店が潰れる」
「では自由に」
「高く売りたい?」
「そう単純じゃない」
「何が」
「高くすれば」
「買えない人が出る」
「では」
「どうしてほしい」
「分からん」
米問屋が答えた。
「分からない?」
「ああ」
「でも」
「役人が全部分かってる顔をするのは腹が立つ」
清太郎が筆を止めた。
「その言葉」
「書いてよいですか」
「名前なしなら」
「はい」
――本人にも解決策はない。
――ただし、役所が全てを把握している前提で命ずることへの不信。
家定がそれを読む。
「分からない人を」
「政へ入れてよいのでしょうか」
志乃が家定を見る。
「お城の中は」
「皆、分かっている方ばかりですか」
家定が黙る。
「……違います」
「なら同じです」
◇
四人目。
大工。
「役所に困った?」
「建て直し」
「火事の後?」
「ああ」
「道を広げるから」
「ここへ建てるな」
「それで」
「移れと」
「補償は」
「少し」
「足りない?」
「足りない」
「でも」
大工は言った。
「道を広げた方が」
「次の火事にはいい」
「なら賛成?」
「半分」
「また半分」
「世の中そんなもんだろ」
大工は笑う。
「家を取られる俺は嫌だ」
「でも町全体は助かる」
「どっちが本当だと思う」
新之介は答えなかった。
「両方ですね」
「そうだろ」
「なのに役所は」
「『町のためだ』だけ言う」
「俺の家がなくなる方は」
「小さい話にされる」
玄斎が。
ふと左京を思い出したのか。
黙った。
大事。
小事。
大きいもののために。
小さいものを捨てる。
「家を失う人を」
新之介が言う。
「町のため、の中へ」
「入れないといけない」
「そういうことだ」
「でも」
「俺一人のために道を狭くしろとも」
「言いたくねえ」
「では」
「どう決める」
大工は首を振った。
「知らねえ」
「ただ」
「決める前に呼べ」
「決まってから説明に来るな」
家定の顔が変わった。
◇
「これですね」
家定が歩きながら言う。
「何が」
「民を政へ入れる」
「答えを決めさせるのではなく」
「決める前に」
「影響を受ける者を入れる」
「一つの形ですね」
「でも」
「誰を呼ぶかで」
「また選別が生まれる」
「はい」
「全員は無理」
「はい」
「では」
「また誰かが決める」
「そうです」
「終わらない」
「終わらなくてよいのでは」
「何」
新之介が橋の往来を見る。
「政は」
「一度正しい形を作って」
「終わるものではないでしょう」
「ずっと?」
「ずっと直す」
「面倒ですね」
「かなり」
「それを将軍が」
「続ける?」
「将軍一人でやらない話を」
「しているところです」
家定が笑った。
「そうでした」
◇
昼近く。
声は二十を超えた。
商人。
棒手振。
船頭。
髪結い。
寺男。
浪人。
店番の娘。
火消。
駕籠かき。
意見は。
ばらばらだった。
「役人を増やせ」
「減らせ」
「町人へ任せろ」
「町人ほど信用できねえ」
「金持ちの声ばかりになる」
「貧乏人は今日の飯で精一杯だ」
「寺を入れろ」
「寺こそ銭に汚い」
「女も入れろ」
「女に政が分かるか」
その一言で。
志乃が静かに前へ出た。
「では」
言った男が怯える。
「な、何だ」
「そなたは政が分かるのですか」
「俺は」
「分からねえ」
「私も全部は分かりません」
「では同じですね」
周囲が笑う。
「だが」
男は負けずに言う。
「女は家のことが」
「家の米」
「子の薬」
「火事の避難」
「井戸」
「全部、政とつながっています」
「……」
「家のことしか知らないなら」
「家のことを知らない役人より」
「一つ多く知っています」
辰蔵が笑った。
「志乃さん」
「強えな」
「普通のことです」
◇
しかし。
新之介は困っていた。
「清太郎殿」
「はい」
「何か見えましたか」
「声が多すぎます」
「ですよね」
「反対が多い」
「はい」
「同じ人の中でも」
「矛盾があります」
「はい」
「米を安くしろ」
「でも商人を潰すな」
「道を広げろ」
「でも家を取るな」
「治安を強くしろ」
「でも役人に口出しされるな」
「はい」
「これを」
「どうまとめれば」
新之介が答える。
「まとめない」
「何」
「全部残す」
清太郎が筆を止める。
「全部?」
「似たものは束ねても」
「反対した声を」
「少数だから消さない」
「でも」
「何百にもなれば」
「読めません」
「なら」
新之介は少し考え。
「層を分ける」
「何の」
「一致していること」
「割れていること」
「分からないこと」
「誰に影響が大きいか」
「それぞれ」
「それなら」
「書けます」
「ただし」
「何です」
「数だけで多数を正義にしない」
「人数も一つの材料」
「はい」
◇
玄斎が聞いていた。
「それでは」
「結局決まらぬぞ」
「決める時は決めます」
「誰が」
「案件ごとに」
「関係する役」
「影響を受ける側」
「実行する側」
「監督する側」
「何人だ」
「決めません」
「またか!」
「案件で違うでしょう」
「では」
「戦が始まった時は」
「町人を集めている暇はない」
「はい」
「その時は」
「権限を一時的に狭く預ける」
「誰へ」
「軍事なら軍事を知る者へ」
「水野か」
「水野様だけではなく」
水野が言う。
「私だけでは困る」
「聞こえております」
「海防掛複数」
「現地」
「必要なら家定殿」
「なぜ必要なら」
「将軍だからではなく」
「責任を負う位置にいるなら」
家定が頷いた。
「その権限は」
「いつ返す」
「最初に期限を決める」
「延長は」
「別の確認を」
「なるほど」
玄斎が言う。
「一度握った権限を」
「そのまま役にしない」
「はい」
「御影と同じにしないため」
「はい」
◇
その時。
橋の向こうで。
「殿様!」
声。
老人。
杖。
七十を越えている。
「殿様!」
誰を呼んでいるのか。
皆が振り返る。
老人は家定の前まで来た。
「そなた」
家定が言う。
「私を知っているのですか」
「知らん!」
玄斎が笑う。
「では何だ」
「一番偉そうなのがそなただ!」
「服で決めましたね」
「分かりやすい」
老人が家定を見る。
「殿様」
「はい」
「米を安くしろ」
「それだけですか」
「それだけだ」
「どうやって」
「知らん」
「商人が困ったら」
「知らん」
「蔵の米がなくなれば」
「知らん」
「でも安くしろ」
「そうだ」
家定が新之介を見る。
「こういう声は」
「どうします」
「残します」
「なぜ」
「本人の生活では」
「それが一番大きいから」
「政策として」
「そのまま使えなくても?」
「はい」
老人が怒る。
「何だ」
「聞くだけか!」
「今」
家定が答えた。
「すぐ米を安くすると約束はできません」
「役に立たん殿様だな!」
周囲がどっと笑う。
家定も。
少し遅れて笑った。
「そうかもしれません」
「でも」
「なぜ高いか」
「誰が困っているか」
「見ます」
「いつ」
老人が食い下がる。
「そこです」
新之介が言った。
「聞いて終わりでは」
「一番駄目です」
◇
「期限を」
志乃が言う。
「何の」
「答えを返す期限です」
「全部解決はできない」
「解決ではなく」
「どう扱ったかを返す」
清太郎が頷く。
「例えば」
「米価の声を」
「勘定方へ渡した」
「いつまでに見分する」
「結果はどこへ掲示する」
「採らなかった意見は」
「なぜ採らなかったか」
「残す」
家定の目が輝く。
「それなら」
「民の声が」
「穴へ落ちない」
「穴?」
志乃が聞く。
「城では」
家定が苦笑する。
「意見書がたくさん来ます」
「でも」
「出した人は」
「その後どうなったか知らない」
「捨てられたのか」
「読まれたのか」
「はい」
「それでは」
志乃が言う。
「聞いたことになりませんね」
「そうですね」
◇
昼を過ぎる頃。
仮の形が。
少しずつ。
でき始めた。
清太郎が紙を広げる。
「今のところ」
「一」
「決める前に、影響を受ける者から聞く」
「二」
「全員を呼べない場合、誰を選んだか、その理由を記録する」
「三」
「賛成だけでなく反対も残す」
「四」
「分からないことを分からないまま記す」
「五」
「緊急時の権限は期限と範囲を最初に決める」
「六」
「決定後、どう扱ったかを声を出した側へ返す」
「七」
「一度作った仕組みを固定しない」
「八」
「役職だけで本人確認をしない」
玄斎が笑った。
「最後だけ今までの騒ぎだな」
「重要です」
「九」
「名ではなく、誰がいつ何をしたかへ責任をつける」
「十」
清太郎が止まる。
「何です」
「まだ空白です」
「十個にする必要は」
「ありません」
「見栄えが」
「要りません」
「そうですか」
◇
その時。
日本橋の南から。
役人が走ってきた。
「榊原殿!」
「何が」
「江戸城より急ぎ!」
「家慶甲殿が!」
「何を」
「政務停止を撤回すると!」
家定の顔が変わる。
「なぜ」
「異国船接近の報!」
水野が立つ。
「どこだ!」
「浦賀!」
「何隻!」
「四隻!」
周囲の町人がざわめく。
「外国船?」
「戦か?」
「黒船か?」
新之介が問う。
「確認は」
「海防掛から!」
水野が紙を取る。
「私の配下の印だ」
「本人確認は後で」
「分かっている!」
「内容」
「大型四隻」
「湾外から進入」
「国籍は」
「米利堅と申す旗」
家定が青ざめた。
「本当に」
「来た」
◇
「だから」
役人が続ける。
「家慶甲殿は」
「非常時につき」
「将軍権限を復すと!」
「誰と相談」
「分かりません!」
「阿部殿は」
「反対!」
「久松は」
「不在!」
「城内が割れています!」
玄斎が新之介を見る。
「今度こそ」
「時間がないぞ」
「はい」
「町の声を」
「聞いている場合か」
「聞き続ける人を残します」
「何」
「全員で城へ戻る必要はありません」
「誰が残る」
新之介は志乃を見る。
「私?」
「嫌ですか」
「理由を」
「町で声を聞いた方々と」
「最も自然に話せる」
「それは」
「女だから?」
「違います」
「先ほどから一番」
「相手に言い返されているからです」
志乃が笑った。
「それなら」
「引き受けます」
「辰蔵殿も」
「俺も?」
「火消」
「職人」
「町人側」
「兵馬殿」
「はい」
「町方とのつなぎ」
「清太郎殿は」
「城へ?」
「いえ」
「残って記録を」
「では誰が城で」
新之介が家定を見る。
「家定殿」
「私?」
「そなたが」
「今聞いた声を持って戻る」
「一人で?」
「私も行きます」
「水野様も」
「もちろんだ」
「半九郎殿」
「私は」
「再起館へ」
「久殿たちに異国船の件を」
「はい」
「玄斎先生」
「わしは」
「城へ」
「膝は」
「今言うな!」
◇
動き始める。
だが。
家定が足を止めた。
「榊原殿」
「何です」
「今」
「異国船が来たから」
「結局」
「将軍へ権限を戻すのが一番早いのでは」
新之介は答えない。
「時間がない」
「はい」
「国防」
「はい」
「町人へ聞いている場合では」
「全部は聞けません」
「なら」
「将軍が決める?」
「いいえ」
「では誰が」
新之介は水野を見る。
「まず」
「事実を知る人」
「海防掛」
「はい」
「次」
「命令を実行する人」
「砲台」
「船」
「警固」
「はい」
「外交は」
「阿部殿たち」
「そして」
「家定殿」
「なぜ私」
「この後も政を担う可能性が高いから」
「将軍だからではなく?」
「はい」
「家慶甲殿は」
「同じ一人として」
「入る」
「乙殿が戻れば」
「乙殿も」
「意見を?」
「はい」
家定は唸った。
「遅い」
「遅くなります」
「では」
「最初の一刻だけ」
「水野様へ海上警備の範囲で一時権限を」
水野が即座に言う。
「範囲は」
「民間船の退避」
「砲台警戒」
「偵察」
「発砲は」
「別確認」
「期限」
「一刻」
「短い!」
「延長は再確認」
「誰と」
「阿部殿」
「家定殿」
「家慶候補の少なくとも一人」
「できれば海防掛二名」
「分かった」
水野が頷く。
「やる」
◇
家定が言う。
「これが」
「仮の決定方法?」
「一つです」
「異国船のたびに」
「変わる?」
「状況で」
「では法にならない」
「骨組みだけ法にする」
「何を」
「誰かへ非常権限を預ける時」
「範囲」
「期限」
「記録」
「再確認」
「後の見直し」
「これを外さない」
家定の目が変わった。
「十個目」
「何が」
「さっきの」
清太郎が遠くから叫ぶ。
「聞こえています!」
「書きます!」
――十。
――非常時ほど、権限の範囲と期限を先に記す。
玄斎が笑う。
「結局十になったな」
「見栄えがよいです!」
清太郎が叫んだ。
「そこですか!」
◇
城へ戻ろうとした。
その時。
先ほどの米問屋が。
新之介の袖を掴んだ。
「待て」
「何です」
「外国船が来たら」
「米は」
「何」
「また買い占めが起きる」
水野が振り返る。
「今それを」
「今だからだ!」
米問屋が声を上げる。
「戦になるって噂だけで」
「米を隠す奴が出る!」
「値が上がる!」
「町が荒れる!」
家定の顔が変わる。
「海だけでは」
「ない」
「はい」
新之介が言う。
「異国船一つで」
「米」
「火事」
「物流」
「治安」
「全部動く」
「なら」
「水野様だけに」
「非常権限を集めるのも」
「違う?」
「はい」
水野が頭を抱える。
「今、私に預けたばかりだぞ」
「海上警備だけです」
「それならよい」
「米は」
「町奉行」
「勘定方」
「商人」
「町人」
「別に」
家定が呟く。
「一つの危機を」
「一人の非常権限にしない」
「はい」
「分ける」
「はい」
「でも」
「つながりは見る」
「はい」
◇
そこへ。
別の使者。
「家定公!」
「何だ」
「江戸城より!」
家定が紙を受け取る。
家慶甲から。
短い。
――異国船来航。
――従来通り将軍が総裁すべし。
その下。
別筆。
阿部。
――反対。
――海防・外交・市中を分け、合議すべし。
さらに。
水野の配下。
――海防のみ即応必要。
そして。
最後。
見覚えのない筆。
――迷う時ではない。
――一人へ戻せ。
署名。
――徳川家慶。
家定が顔を上げる。
「父上の筆に」
「見えますか」
「見える」
「甲殿と」
「同じ?」
「ほとんど」
「二つの家慶命令」
「一つは総裁」
「一つは一人へ戻せ」
水野が言う。
「別人かもしれぬ」
「あるいは同じ人が」
「考えを変えた」
「あるいは」
「偽物」
「はい」
「結局」
玄斎が呻く。
「また声と筆か」
新之介は最後の紙を見る。
――迷う時ではない。
――一人へ戻せ。
誰かが。
この瞬間を。
待っていた。
異国船。
非常時。
時間がない。
だから一人へ。
「見捨役」
家定が呟く。
「形を変えて」
「戻ろうとしている」
「はい」
◇
新之介は日本橋を振り返った。
魚屋。
茶屋。
米問屋。
大工。
老人。
女。
商人。
火消。
まとまらない声。
千にもなる声。
遅い。
面倒。
矛盾。
だが。
その面倒を切り捨てた瞬間。
また一人が。
皆の代わりに決める。
「家定殿」
「はい」
「城へ戻ったら」
「何をします」
「まず」
家定は答えた。
「誰が将軍か」
「決めません」
「次に」
「異国船へ」
「すぐ撃つか」
「決めません」
玄斎が眉をひそめる。
「何も決めぬのか」
「違います」
家定は少し笑った。
「最初に」
「誰が、何を、どこまで決めるかを」
「決めます」
新之介が頷く。
「それでよいと思います」
「遅ければ」
「後で責任を」
「私も負います」
「将軍として?」
家定は首を振った。
「徳川家定として」
◇
その瞬間。
江戸湾の方角。
遠く。
低い轟音。
一度。
誰も動かなかった。
「砲声?」
水野が顔を上げる。
二度目。
さらに。
三度。
「誰が撃った!」
水野が叫ぶ。
使者が来るより先。
日本橋の人々が。
空を見る。
魚屋も。
茶屋の女も。
老人も。
皆。
同じ音を聞いた。
だが。
意味は。
誰にも分からない。
警告か。
交戦か。
外国船か。
台場か。
「水野様!」
馬が走る。
海防掛。
「品川台場より!」
「発砲したのか!」
「違います!」
「では」
「米利堅船です!」
「こちらへ?」
「空砲と思われます!」
「思われる?」
「はい!」
「被害は」
「なし!」
水野が息を吐く。
「まだ撃ち返すな」
「命令を!」
「私の名で」
一瞬。
水野が止まった。
新之介を見る。
「海上警備の範囲」
「はい」
「期限内」
「はい」
「立会い」
海防掛二名がいる。
「よし」
水野が使者へ。
「水野隼人正の一時命令」
「品川・御台場」
「敵対行為が明確になるまで発砲を禁ず」
「偵察船は距離を保て」
「民間船退避を優先」
「この命は」
「一刻限り」
「延長は再命を待て」
「復唱!」
使者が一字ずつ返す。
水野が頷く。
「行け!」
馬が走った。
◇
家定が小さく息を吐く。
「今」
「国が動きましたね」
「少しだけ」
「将軍の命なしで」
「水野様一人でもなく」
「はい」
「怖い」
「私もです」
家定が新之介を見る。
「それでも」
「やる?」
「はい」
「なぜ」
新之介は。
日本橋の人々を見る。
「一つの声に戻した方が」
「もっと怖いので」
そして。
橋の向こう。
また一騎。
今度は。
江戸城ではない。
再起館から。
「榊原殿!」
「何が!」
「御影宗太郎――」
使者が言い直す。
「松平宗一郎殿が!」
「どうしました」
「姿を消しました!」
玄斎の顔が変わる。
「傷人だぞ!」
「置き手紙が!」
「内容!」
清太郎が受け取る。
短い。
――新之介。
――異国船は偶然ではない。
新之介の目が細くなる。
――十五年前。
――弁財丸の向こう側にいた者が。
――今日、戻って来た。
家定が息を呑む。
「向こう側?」
紙は続く。
――四隻のうち。
――一隻に。
――御影の印がある。
玄斎が声を失った。
「外国船に」
「御影?」
最後の一行。
――私は、その船へ行く。
新之介は紙を握った。
十五年前。
六十三人。
四十七人。
十六人。
弁財丸。
外国へ渡った者。
帰ってきた者。
そして。
御影が。
海の向こうにも。
役を残していた。
「水野様」
「何だ」
「今の命」
「発砲禁止」
「はい」
「よかったかもしれません」
「なぜ」
新之介は江戸湾を見る。
「撃つ前に」
「乗っている人を」
「見なければならない」
海の向こうから。
今度は。
江戸そのものへ。
十五年前の帳面に載らなかった声が。
戻ろうとしていた。
(第八十二章へ続く)

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