第七十九章 刀を持つ者
小名木川へ向かう道の途中。
新之介は、まだ刀を持っていなかった。
腰には空の鞘すらない。
「本当に拾うつもりか」
玄斎が問う。
「分かりません」
「川へ捨てた場所は覚えておるのだろう」
「おおよそ」
「なら探せ」
「今から?」
「左京が『六人目には刀を持たせよ』と書いた」
「その通りにするのですか」
玄斎が黙る。
「相手の問いへ入るな、と言ったのは先生でしょう」
「わしはそこまで賢いことは申しておらぬ」
「では」
「ただ」
玄斎は杖をついた。
「そなたが刀を持つことから逃げるのも違うと思っただけだ」
「逃げる」
「ああ」
「使いたくないから持たぬ」
「それも一つの選びだ」
「悪いですか」
「悪いとは申しておらぬ」
「なら」
「だが」
玄斎は新之介を見る。
「刀がないから斬らなかったのか」
「刀があっても斬らなかったのか」
「その二つは同じではない」
新之介は答えなかった。
隣を歩く家定が言った。
「私は」
「何です」
「刀を持たぬ方がよいと思います」
「なぜ」
「持てば」
「周りが『使うかもしれない』と思う」
「それが力になる」
「だから怖い」
水野が横から言う。
「だが武士が刀を持たねば」
「相手が安心して襲ってくる」
「それも力の話ですね」
家定が返す。
水野が苦笑する。
「そうなる」
新之介は夜の川面を見る。
「では」
「何です」
「現地で決めます」
玄斎が呆れた。
「本当に後へ送るな」
「後で決められることを」
「今決めない」
「聞き飽きた」
「皆、同じことを申します」
「それも聞き飽きた!」
◇
一行は三つに分かれていた。
先行。
水野と海防掛。
現地確認。
旧御救小屋跡の周囲に誰がいるかを見る。
二陣。
新之介。
家定。
玄斎。
清太郎。
久。
そして真崎半九郎。
三陣。
真崎玄十郎と志乃。
負傷した松平宗一郎――これまで御影宗太郎と名乗っていた老人は再起館へ残した。
辰蔵。
お園。
孝庵。
吉松も残る。
江戸城側には。
阿部。
神谷。
家慶候補の一人。
沢渡玄隆。
鷹見宗一郎。
御影宗一を名乗る男。
そして。
消えたもう一人の家慶。
久松主膳。
「人を分けすぎではありませんか」
家定が問う。
「一か所へ集めた方が見やすい」
「一か所へ集めると」
新之介が答える。
「一度に全部を動かされます」
「だから分ける」
「はい」
「伝達が遅れる」
「はい」
「その間に何かあれば」
「その場の人が決める」
「一人で?」
「いいえ」
「できるだけ複数で」
「できるだけ?」
「できない時もあります」
家定が少し笑った。
「完璧ではない」
「最初からそう申しています」
「それでもやる」
「はい」
「なぜ」
「完璧になるまで待っていたら」
「何も始まらない」
玄斎が振り返る。
「それは珍しく早い答えだな」
「急ぐことと」
「急がせられることは違います」
「面倒だ」
「知っています」
◇
小名木川。
旧御救小屋跡は。
今では倉庫の崩れた土台と。
草に埋もれた石垣しか残っていなかった。
川沿いに一本。
古い柳。
その下。
灯り。
六つ。
「人がいます」
水野が戻ってくる。
「何人」
「五人」
「灯りは六つ?」
「ああ」
「六つ目は空席だ」
玄斎が新之介を見る。
「そなたの席だな」
「そう決めない」
「分かっておる」
「相手は」
「確認できた範囲で」
水野が答える。
「久松主膳」
「消えた家慶」
「女一人」
「老人一人」
「若い男一人」
「名は」
「まだ聞いていない」
「見捨役五人?」
家定が問う。
「それもまだ」
「近づきます」
「武器は」
「見える範囲では、久松だけ脇差」
「ほかは」
「なし」
「伏兵」
「分からぬ」
「なら周囲を」
「海防掛が見ています」
「町方は」
「まだ来ていない」
「なぜ」
「阿部側から一隊向かっているが」
「城門で止められた」
「誰に」
「別の家慶名義の命令」
新之介が目を細める。
「まだ命令が増えている」
◇
灯りへ近づく。
久松が立っていた。
「来たか」
「はい」
「遅い」
「急がせる方を疑っていますので」
久松が苦笑した。
「それも松平宗一郎の受け売りか」
「誰のでもよいでしょう」
「そちらの方々を」
新之介は五人を見る。
「名を聞きます」
「今から?」
「今だからです」
一人目。
久松主膳。
「生まれた名は」
「久松源之助」
「姓も」
「ああ」
二人目。
徳川家慶の顔をした男。
「今の名は」
「徳川家慶」
「生まれた名を」
「……新吉」
「姓は」
「ない」
家定の顔が僅かに揺れる。
「では」
新之介が言う。
「家慶殿ではなく」
「今は新吉殿と呼びます」
男が苦く笑った。
「将軍の顔で新吉か」
「嫌ですか」
「いや」
「むしろ楽だ」
三人目。
女。
五十ほど。
顔に薄い火傷。
「名は」
「藤尾」
家定が顔を上げる。
「大奥の御年寄?」
「違う」
「では」
「藤尾という名を使っていた」
「生まれた名は」
「お夏」
「姓は」
「ない」
家定の顔がさらに険しくなる。
「私の居間へ来た藤尾殿は」
「別人?」
「おそらく」
女が答える。
「私は十年前に大奥を出た」
「今は」
「見捨役の記録係」
「誰に任じられた」
「松平左京」
四人目。
老人。
八十近い。
背は曲がっているが、目は鋭い。
「名を」
「松平左京」
全員が止まった。
久松が振り返る。
「……左京」
「久しいな、主膳」
「生きて」
「今のところ」
新之介が老人を見る。
「生まれた名は」
老人が笑う。
「最初からそこか」
「はい」
「松平左京は役ではない」
「では」
「生まれた名だ」
「確認は」
「好きにしろ」
「後で」
「今は行いを」
「よい」
五人目。
若い男。
三十ほど。
右目の下に傷。
「名は」
「松平宗一郎」
久が一歩出る。
「また」
「そなたと同じ名?」
「ああ」
「生まれた名は」
「喜代松」
「姓は」
「ない」
「誰に宗一郎の名を」
若い男――喜代松は。
松平左京を見る。
「この人から」
◇
「五人」
新之介が言う。
「久松殿」
「新吉殿」
「お夏殿」
「松平左京殿」
「喜代松殿」
「これが見捨役五人?」
左京が答える。
「違う」
「では」
「今日の見分人だ」
「誰が決めた」
「私だ」
「一人で?」
「そうだ」
「なら」
新之介は六つ目の灯りを見る。
「私を呼んだのも」
「私だ」
「なぜ」
「そなたに六人目をやらせる」
「断ります」
「まだ役目を説明していない」
「名前を先につけたので」
左京が笑う。
「松平宗一郎から聞いた通りだ」
「何を」
「問いを作った者から疑う」
「はい」
「では疑え」
「そなたが刀を持って来なかったことも含めて」
玄斎が小声で言う。
「まだ持っていないからな」
左京が聞きつける。
「川へ捨てた刀」
「知っていますか」
「ああ」
「誰から」
「見ていた者がいた」
「名は」
左京が柳の陰を見る。
一人の老人が出てくる。
七人目。
玄斎が怒鳴る。
「五人ではなかったのか!」
左京が平然と答える。
「見分人が五人」
「見届けが一人」
「先に言え!」
「聞かれなかった」
「その言い方が嫌いだ!」
◇
柳の陰から出た老人。
細身。
頭巾。
片目だけ。
「名を」
新之介が問う。
「伊三郎」
「生まれた名」
「同じだ」
「何を見た」
「そなたが刀を川へ捨てた時」
「どこから」
「舟の下」
「何」
「潜っていた」
新之介の顔が変わる。
「なぜ」
「刀を拾うため」
「拾った?」
「ああ」
伊三郎が風呂敷を置く。
ゆっくり開く。
鞘。
刀。
錆はある。
だが。
新之介はすぐ分かった。
「私の刀です」
「確認は」
玄斎が言う。
「そなた自身で」
新之介は刀へ触れない。
「鍔」
「柄」
「傷」
「似ています」
「決めぬのか」
「拾われた後、別の刀へ似せた可能性も」
「そこまで」
伊三郎が笑った。
「聞いた以上だ」
「誰から」
「松平左京」
「また」
◇
「刀を持て」
左京が言う。
「嫌です」
「怖いか」
「使わされる形が嫌です」
「なら」
「自分の意志で持て」
「その言葉も」
「私を動かすためですね」
「そうだ」
左京は否定しない。
「私はそなたを試している」
「なぜ」
「見捨役を終わらせるため」
「人を試して?」
「ああ」
「それで何人傷ついた」
「多い」
「宗太郎殿を斬らせた?」
「命じていない」
「久殿へ、捨てられた者が見捨役になるべきだと」
「私の息子へ教えた考えが」
「役を通じて流れた」
「止めなかった?」
「止められなかった」
「止めようとは」
「した」
「どこで」
「今日」
玄斎が杖を叩く。
「遅い!」
「そうだ」
左京は静かに答えた。
「遅かった」
◇
「見捨役を終わらせたいのに」
新之介が問う。
「なぜ五人を集め」
「六人目へ刀を」
「一人制の欠陥を」
「見せるため」
「誰に」
「家定公」
家定が顔を上げる。
「私?」
「ああ」
「なぜ」
「次の将軍だからだ」
「将軍を一人で続けるか」
「分けるか」
「やめるか」
「そなたの代で選ばねばならぬ」
家定が言う。
「だから私へ試験を」
「違う」
「では」
「そなたに」
「人が選ばされる場を見せる」
「それ自体が」
新之介が口を挟む。
「また人を使っています」
左京が頷く。
「分かっている」
「ならやめれば」
「やめれば」
左京の声が低くなる。
「今日ここに集めた意味が消える」
「意味のために人を使うな」
「……」
「そなた」
新之介は老人を見る。
「自分の失敗を」
「最後に立派な教訓へ変えようとしている」
左京の顔が強張る。
「違うか」
「……」
「見捨役を作った」
「息子を捨てた」
「久松殿を後継にした」
「その結果」
「人が死んだ」
「名が増えた」
「代替が作られた」
「だから最後に」
「自分が正しく終わらせた人になりたい」
「榊原!」
久松が止める。
だが左京が手を上げた。
「続けろ」
「そなたは」
「最後まで自分を中心に置いている」
「……」
「見捨役を終わらせる話なのに」
「最後の答えを」
「松平左京が作ろうとしている」
長い沈黙。
川の音だけ。
「そうかもしれぬ」
左京が初めて言った。
「かもしれぬ?」
「ああ」
「分からないのですか」
「分からぬ」
新之介は少しだけ表情を緩めた。
「なら」
「何だ」
「そこからです」
◇
「では」
左京が六つの灯りを見る。
「問いを変える」
「何」
「誰を捨てるかではない」
「何を」
「誰が」
「自分の行いを引き受けるか」
久松が眉をひそめる。
「それは見分では」
「ある」
「どうやって」
左京が一人目を見る。
「久松主膳」
「はい」
「そなたは」
「人を捨てた」
「ああ」
「榊兵庫へ罪を被せた」
「ああ」
「その責を」
「どう取る」
久松は黙る。
新之介が口を挟む。
「今決めさせない」
左京が睨む。
「なぜ」
「責任の形を」
「そなたがこの場で即答させる必要はない」
「逃げるぞ」
「逃げたら」
「逃げたことを記録する」
清太郎が頷く。
久松が苦笑した。
「逃げにくい仕組みだな」
「完璧ではありません」
「知っている」
◇
二人目。
新吉。
「私は」
影武者として。
家慶薨去の偽高札を認めた。
「責任は」
「ある」
「どうする」
「今は」
新吉が少し考える。
「自分を家慶と名乗るのをやめる」
「それだけ?」
「それだけでは足りない」
「だが」
「まず」
「家慶の名で出した命令を」
「全部洗い直す」
新之介が言う。
「誰と」
「阿部」
「家慶候補のもう一人」
「町方」
「海防掛」
「そして」
「影響を受けた者」
新之介が頷く。
「よいと思います」
「許すのか」
「許していません」
「では」
「責任の取り方として」
「一つの案だと」
「……厳しいな」
◇
三人目。
お夏。
「私は」
大奥の声を集めた。
「誰の命で」
「松平左京」
「本人から」
「はい」
「何のため」
「将軍が動けぬ時」
「代わりの声を作るため」
家定が顔を伏せる。
「何人の声を」
「三十七」
「本人の同意は」
「ない」
「今は」
「後悔しています」
「それだけ」
「違う」
お夏は言う。
「記録場所を全部話す」
「誰へ」
「一人ではない」
新之介を見る。
「複数へ」
「場所を公開すれば」
「さらに悪用される」
「なら」
「破棄?」
「それも一人で決めない」
お夏が苦笑する。
「本当に面倒な方法だ」
「はい」
◇
四人目。
喜代松。
「私は」
「松平宗一郎の名を受けた」
「なぜ」
「見捨役の痛みを継ぐため」
「誰に教えられた」
「左京」
「本人」
「ああ」
左京が目を閉じる。
「私は」
喜代松が続ける。
「その痛みを使って」
「他人へ役を渡した」
「誰に」
「久」
久の顔が変わる。
「そなたが」
「私を」
「そうだ」
「私は」
久が一歩出る。
「お前に会ったことが」
「ある」
「どこで」
「十二歳」
「沢渡の工房」
「顔を作られた日」
喜代松が頷く。
「私が見ていた」
「何のため」
「見捨役候補が」
「痛みに耐えられるか」
久の拳が飛ぶ。
喜代松の頬へ。
誰も止められなかった。
男が倒れる。
「久!」
新之介が言う。
「一発です」
「何」
「それ以上は」
「……」
久の拳が震える。
「なぜ一発なら」
「よいとは言っていません」
「では」
「今の行いも」
「記録します」
久が涙を流しながら笑う。
「本当に」
「逃げ道がない」
「あります」
「何」
「これ以上殴らない」
久は手を下ろした。
◇
「五人目」
左京が家定を見る。
「徳川家定」
「私はまだ」
「何も捨てていないと思っている?」
「……いいえ」
「何を」
「自分の腕を傷つけた」
「それは自分だ」
「ほかに」
「将軍を終わらせると言った」
「その言葉で」
「徳川家に仕える多くの者の人生を」
「一瞬」
「頭の中から消した」
阿部。
旗本。
大奥。
御家人。
商人。
将軍家という制度へつながる無数の人。
「私は」
「仕組みを変えることだけ見て」
「変えられる側を見ていなかった」
新之介が言う。
「だから変えるな、ではありません」
「はい」
「見る人を増やす」
「はい」
「時間がかかります」
「はい」
「その間」
「私が将軍になれば」
「私一人で進めない」
「今の言葉」
清太郎が記す。
家定が頷いた。
◇
「そして六人目」
左京が新之介を見る。
「榊原新之介」
「私は見分人を受けていません」
「だが」
「聞きます」
「何を」
「そなたは何を捨てた」
新之介は黙る。
「刀」
「家」
「命」
「そういう立派な答えは」
「いりません」
左京が少し驚く。
「では」
「私が捨てたのは」
新之介は川を見る。
「決めることです」
「何」
「いつも」
「後へ」
「複数へ」
「確認へ」
「送りました」
「それの何が悪い」
「それで」
新之介は清太郎を見る。
「誰かが苦しんでいる時」
「私が自分で言うべきことまで」
「記録や見分へ逃がしたことがあります」
玄斎が黙る。
半九郎も。
家定も。
「例えば」
左京が問う。
「半九郎殿へ」
「父を許すかどうか」
「本人の話だと」
「言って黙った」
「それは正しいのでは」
「正しいかもしれません」
「でも」
「友として」
「そばにいると言うことはできた」
半九郎が新之介を見る。
「言っていましたよ」
「全部ではありません」
「……」
「私は」
「一人で決めることを恐れるあまり」
「自分が言うべき言葉まで」
「他人へ返す時がある」
左京が静かに問う。
「なら」
「今」
「何を言う」
新之介は久を見る。
「久殿」
「はい」
「母上を探します」
「一緒に」
「会うかどうかは」
「そなたが決める」
「でも探すところまでは」
「私もやります」
久の顔が崩れる。
次に。
半九郎。
「半九郎殿」
「はい」
「父上とのこと」
「私は決めません」
「ですが」
「逃げたくなったら」
「一緒に逃げ道を探します」
「変な言い方ですね」
「今はこれで」
半九郎が笑う。
「十分です」
◇
左京は六つの灯りを見た。
「これで」
「何です」
「見捨役は終わる」
「誰が決めた」
新之介が即座に問う。
左京が止まる。
「……またか」
「はい」
「では」
「終わらせる案を」
「ここにいる者だけで決めない」
「誰を入れる」
「捨帳へ載った町」
「日本橋」
「蔵前」
「深川」
「品川」
「その人たち」
「大奥」
「武家」
「寺」
「商人」
「船」
「そして」
「過去に実際に捨てられた側の者」
左京が笑った。
「時間がかかるぞ」
「かかります」
「私は」
老人は自分の手を見る。
「そこまで生きられぬ」
「それでも」
「そなたが決める必要はない」
「……」
「始めた者が」
「終わらせる者までやらなくてよい」
左京の目から。
静かに涙が落ちた。
「それは」
「逃げではないか」
「逃げるなら」
「逃げたと記録します」
左京が笑いながら泣いた。
「最後まで容赦がないな」
「よく言われます」
◇
「では刀は」
玄斎が言う。
「どうする」
伊三郎が拾った刀。
川辺の風呂敷。
新之介は近づく。
刀を取る。
重い。
懐かしい。
そして。
嫌だった。
「抜くのか」
左京が問う。
「はい」
新之介が鞘から抜く。
刃。
月光。
全員が身構える。
新之介は。
刀を左京へ向けなかった。
久松へも。
喜代松へも。
自分へも。
ただ。
川沿いの古い杭へ。
一度。
刃を当てる。
縄を切る。
杭に結ばれていた。
六つの灯りを囲む縄。
人を六つの位置へ縛るための境界。
縄が落ちる。
「何を」
左京が問う。
「席をなくします」
「六人の役を」
「はい」
「刀を使って?」
「使いました」
「人ではなく」
「縄を斬った」
「はい」
玄斎が笑った。
「悪くない」
「褒めないでください」
「なぜ」
「格好をつけたように見える」
「実際そうだ」
「先生!」
◇
だが。
その瞬間。
川の向こう。
銃声。
一発。
灯りの一つが消える。
「伏せろ!」
水野が叫ぶ。
全員が地面へ。
もう一発。
今度は。
松平左京の肩。
老人が倒れる。
「左京!」
久松が駆け寄る。
「人が先!」
新之介が叫ぶ。
「水野様!」
「狙撃手を追う!」
「一人で行かない!」
「分かっている!」
海防掛二名が続く。
家定と清太郎が左京の傷を見る。
「浅い!」
久松が叫ぶ。
「弾は抜けている!」
「医者を!」
「呼ぶ!」
◇
川向こう。
人影。
二人。
逃げる。
新之介が刀を持ったまま追いかけようとして。
止まる。
「榊原!」
玄斎が叫ぶ。
「行かぬのか!」
「水野様たちが追っています」
「だが」
「私は」
新之介は刀を見る。
今。
追えば。
刀を持って。
逃げる者を。
斬る可能性がある。
怖いから行かないのか。
それとも。
役を分けるから行かないのか。
自分でも分からない。
「……半九郎殿!」
「はい!」
「水野様の後へ!」
「行きます!」
「玄十郎殿と二人!」
「父上!」
「来い!」
二人が走る。
「私は左京殿を見ます!」
玄斎が新之介を見る。
「今のは」
「何です」
「逃げたのか」
「分かりません」
「そうか」
「はい」
「なら後で考えろ」
「はい」
◇
左京は意識がある。
「六人目」
「その呼び方をやめてください」
「榊原」
「何です」
「今」
「私を助けるのか」
「はい」
「なぜ」
「人が先です」
「私は」
「多くを捨てた」
「それでも」
「今ここで死なせる理由にはならない」
「裁くのは」
「後です」
「間に合わなければ」
「それでも助けます」
左京は。
笑った。
「私は昔」
「それができなかった」
「何が」
「救小屋の外」
「三十二人」
「中へ入れれば」
「中の米が足りなくなると思った」
「だから外へ」
「ああ」
「その時」
「一人の女が」
「何と」
「『中へ入れてから考えろ』と」
新之介の手が止まる。
「誰です」
「名を聞かなかった」
「……」
「私は」
「役人として」
「名前を聞く必要がないと思った」
左京の目から涙。
「その女は」
「翌朝死んだ」
「だから」
「見捨役を?」
「違う」
「最初は」
「もう迷わない役を作ろうとした」
「それが」
「見捨役」
「ああ」
「全部」
「そこから」
「……」
新之介は左京の傷を押さえる布を強くする。
「今度は」
「何だ」
「その女の名を」
「探しましょう」
「四十年以上前だぞ」
「それでも」
「記録にあるかもしれない」
「なければ」
「知っている家族を探す」
「なければ」
「なかったと記録する」
左京が目を閉じる。
「そうか」
◇
遠くから。
半九郎の声。
「榊原殿!」
「捕えたか!」
「一人!」
「もう一人は!」
「川へ!」
「生死不明!」
「捕えた者の名は!」
少し間。
そして。
「久松主膳です!」
全員が。
目の前の久松を見る。
左京の傷を押さえている男。
「私はここだ」
久松本人が呟く。
玄斎が天を仰ぐ。
「またか!」
半九郎たちが戻ってくる。
縄をかけた男。
顔は。
久松主膳。
声も。
歩き方も。
ほとんど同じ。
「名を!」
新之介が問う。
捕らえられた男は笑った。
「久松主膳」
「生まれた名を!」
「……」
「分からない?」
「違う」
「では」
「言えば」
男は本物の久松を見る。
「この男が困る」
「なぜ」
「私の生まれた名は」
一呼吸。
「久松源之助」
本物の久松が凍りつく。
先ほど。
自分が生まれた名だと申した名。
「何」
「そなたも?」
捕らえられた男が笑う。
「兄上」
久松の顔から血の気が消える。
「……兄?」
「忘れたか」
「いや」
「弟は」
「死んだ」
「誰が確認した」
男がそう言った瞬間。
新之介も。
玄斎も。
半九郎も。
誰も驚かなかった。
ただ。
玄斎だけが小さく呟いた。
「もう」
「本当に」
「それは聞き飽きた」
捕らえられた男は。
さらに続けた。
「兄上」
「見捨役を作ったのは」
「松平左京ではない」
左京が目を開く。
「何だと」
「最初に」
「救小屋の外へ三十二人を残せと命じた者」
「そなたではない」
「では」
「誰だ」
男は。
ゆっくり新之介を見る。
「始帳に」
「家斉公の署名があっただろう」
新之介の顔が険しくなる。
「まだ真筆確認は」
「それでよい」
「何が」
「なぜなら」
男は笑った。
「あれは家斉公の署名ではない」
「誰の」
川の風が吹く。
六つの灯りのうち。
三つが消える。
「松平左京」
男は老人を見た。
「そなた自身の筆だ」
左京の顔が。
完全に止まった。
(第八十章へ続く)

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