上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第五十八章

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第五十八章 二人の新之介

 地上から響く声は、地下にいても分かった。

「榊原様だ!」

「新之介様が御高札場へ上がったぞ!」

「米蔵を開けると!」

 新之介は走り出した。

「出口は!」

「西徳寺へ戻るより、この先だ」

 御影宗伯が杖で右の通路を指した。

「日本橋へ近い水路へ出る」

「どこです」

「小網町」

「どのくらい」

「若い足なら四半刻」

 宗伯は自分の足を見る。

「私なら半日」

「そなたは残れ」

「九十一だぞ」

「先ほどから自分で申しています」

「年寄りを置いていくのか」

「年寄人です」

「その言葉を気に入ったのか!」

 玄斎が宗伯の肩を押した。

「爺は根帳を見ておれ」

「そなたも爺だ」

「わしは八十を越えておらぬ!」

「似たようなものだ」

「三十年違うわ!」

 新之介が振り返る。

「先生も残ってください」

「何だと」

「膝人です」

「新之介!」

「日本橋では、私の顔を見分ける者が要ります」

「なら行く」

「ですが走れない」

「走れる!」

「今、杖を持っています」

 玄斎が自分の手を見る。

 いつの間にか宗伯の杖を奪っていた。

「これは武器だ!」

「返せ」

 宗伯が手を出した。

「嫌だ」

「九十一の老人から杖を奪うな!」

「先生!」

 新之介が怒鳴った。

「今は遊んでいる時ではありません!」

「誰が遊んでおる!」

「行く者を分けます!」

 声が止まる。

「半九郎殿は私と」

「はい」

「お志津殿も」

「承知しました」

「四十七番」

「私も行く」

「今の御影を知っている可能性があります」

「ない」

「それでも顔を見てください」

「分かった」

「玄斎先生は」

「行く」

「……分かりました」

「最初からそう申せ」

「ただし途中で遅れたら置いていきます」

「弟子が師を」

「弟子では」

「今はよい!」

 宗伯が杖を取り返した。

「私は残る」

 新之介が宗伯を見る。

「根帳を開けないでください」

「九十一の老人一人で箱を四つ動かせると思うか」

「人へ命じるかもしれない」

「誰に」

 周囲には宮坂、高梨、源太郎、篠田、伊助。

 各陣営の者が四冊を囲んでいる。

「誰も一人の命では動かない」

 源太郎が言った。

「今度はな」

 新之介は頷いた。

「宗伯殿」

「何だ」

「もし今の御影から命が来ても」

「従わぬ」

「なぜ」

「三十年前に渡した役目へ、今さら従うほど素直ではない」

「では頼みます」

「日本橋で自分に会ってこい」

 宗伯が笑った。

「良い男なら連れてこい」

「腹が立ちます」

「皆、同じことを申す」

 ◇

 地下通路は、古い水路に沿って東へ伸びていた。

 天井が低い。

 場所によっては腰を曲げなければ進めない。

 玄斎が遅れる。

「先生」

「何だ」

「置いていきます」

「待て!」

「言いました」

「膝が痛いだけだ!」

「それを遅れていると」

「先へ行け!」

 新之介が止まる。

「本当に」

「日本橋で偽物がそなたの名を使っている!」

「ですが」

「わしが必要なら後から行く!」

「先生を一人には」

「四十七番を置け!」

 四十七番が眉を上げた。

「なぜ私が」

「そなたも左足を引いておる!」

「これは古傷だ」

「膝人二人で来い!」

「私は膝ではない!」

「細かい!」

 新之介は迷った。

 玄斎が杖で足を叩く。

「時間がない者ほど、他人の命を使うな」

 自分が新之介へ教えた言葉。

「だからこそ行け」

「……分かりました」

「素直で気味が悪い」

「先生が言ったのです」

「早く行け!」

 新之介、半九郎、お志津が先へ走る。

 玄斎と四十七番は後から。

 ◇

 小網町の古い船着き場へ出ると、町はすでに騒然としていた。

 人々が日本橋へ向かって走っている。

「何があった!」

 半九郎が一人を止める。

「榊原様が!」

「何を」

「幕府の悪事を全部話すってよ!」

「どんな姿だ」

「侍だ!」

「それでは分からない!」

「顔は」

 新之介が前へ出る。

 男が新之介を見た。

 目を見開く。

「……え?」

「日本橋にいる者と、同じ顔ですか」

「お前……」

「同じですか!」

「同じだ!」

 男が後退する。

「榊原様が二人いる!」

 周囲の者が振り返る。

 騒ぎが広がる。

「どっちが本物だ!」

「こっちも同じ顔だ!」

「着物は違う!」

「傷がある!」

 誰かが新之介の肩を指した。

「日本橋の榊原様には傷がなかったぞ!」

「偽物はこっちだ!」

「待て!」

 半九郎が前へ出る。

「本人は肩を負傷している!」

「なぜ知ってる!」

「私は真崎半九郎です!」

「誰だ!」

「説明すると長いです!」

「余計怪しいぞ!」

 お志津が叫ぶ。

「顔で決めないでください!」

「顔が同じなんだぞ!」

「だからです!」

 人々がざわめく。

 新之介は両手を上げた。

「私が本物だと、今ここで決めなくてよい!」

「何だと」

「日本橋へ行く!」

「二人並べて見ろ!」

「自分で見て、自分で聞いてください!」

 一人の魚屋が笑った。

「本物の榊原なら、そう言いそうだ」

「お前、本物知ってんのか」

「知らねえ!」

 少し笑い。

 だが恐れは消えない。

「行くぞ」

 新之介は日本橋へ向かった。

 後ろから何十人もの町人がついてくる。

「増えています」

 半九郎が言う。

「止めるか」

「無理でしょう」

「利用しているようで嫌だ」

「ならば命じなければよい」

 お志津が言った。

「ついてくるのは、その人たちの選びです」

「危険です」

「危険だと伝えてください」

 新之介は振り返った。

「日本橋で争いになるかもしれません!」

「来るなとは言わねえのか!」

「来るかは自分で決めろ!」

「刀は出るか!」

「出させないつもりだ!」

「じゃあ俺は行く!」

「俺も!」

「何でだ!」

「榊原が二人いるなんて、見逃したら一生損だ!」

「見世物ではない!」

「でも行く!」

 半九郎が笑いを堪える。

「民は一つの声ではありませんね」

「今、よく分かった」

 ◇

 日本橋の高札場は、人で埋まっていた。

 橋の上。

 河岸。

 店先。

 二階の窓。

 屋根の上にまで人がいる。

 中央に急造された台。

 その上へ一人の侍。

 榊原新之介。

 顔。

 髪。

 体格。

 着物の着方。

 遠目には本人としか見えない。

「……似ている」

 半九郎が呟く。

「私より、私らしい」

 新之介が答えた。

「褒めている場合ですか」

 偽物の声が広場へ響く。

「民の者よ!」

 新之介自身の声。

「私は四冊を読んだ!」

 本物は足を止めた。

「嘘だ」

「何が」

「私は全部をまだ読んでいない」

 台上の偽物は続ける。

「四冊には、幕府、大名、商人、寺、町方の罪が記されている!」

 群衆が騒ぐ。

「役人だけではない!」

「米を隠した商人!」

「民を売った船頭!」

「偽りを守った寺!」

「すべて同罪である!」

「違う!」

 本物の新之介が叫んだ。

 声は群衆へ埋もれる。

「もっと前へ!」

 半九郎が人を掻き分ける。

「通してください!」

「何だ!」

「榊原新之介です!」

「上にいるだろ!」

「こちらもです!」

「何人いるんだ!」

 人々が混乱する。

 偽物は台上で右手を上げた。

「ゆえに!」

「今日ここで、四冊を焼く!」

 群衆から歓声と怒号。

「焼け!」

「証拠を消すな!」

「役人の罪を残せ!」

「榊原様が決めたんだ!」

「米蔵を開けろ!」

 偽物は待っていた。

 声が荒れるのを。

 そして、静かに言った。

「その後、新しい帳面を作る」

 群衆が少し静まる。

「何を書く」

「罪人の名だ!」

「誰が決める!」

「民である!」

 歓声。

 新之介は顔をしかめた。

「巧い」

「何が」

 お志津が問う。

「自分が決めるとは言わない」

「民に選ばせる」

「だが選ぶ候補を用意するのは、あの男だ」

 偽物が紙を掲げた。

「まず、この十名!」

 名前を読み始める。

「水野隼人正!」

「戸田備前守!」

「相模屋長兵衛!」

「三宅主膳!」

「安西主税!」

 群衆が叫ぶ。

「罪人だ!」

「捕まえろ!」

「次!」

 偽物が続ける。

「鷹見静山!」

 玄斎がまだ到着していない。

 だが新之介の胸が沈む。

「そして――黒川玄斎!」

「先生まで」

 半九郎が言う。

 最後。

「榊原新之介!」

 群衆が一瞬静まり返った。

 台上の男は、自分自身の名を罪人として読んだ。

「何」

「自分も?」

「どういうことだ」

 偽物が声を張る。

「私も同じだ!」

「異国人から百両を受け取ったと帳面にある!」

「疑いがある者は、誰であろうと裁かれるべきだ!」

 歓声が起きた。

「榊原様は自分まで!」

「立派だ!」

「信用できる!」

 半九郎が歯を食いしばる。

「自分を罪人へ入れることで、信を得た」

「はい」

「そして裁く側へ立つ」

「巧いですね」

 新之介は台上の自分を見る。

 偽物は、自分より迷わない。

 言葉が短い。

 答えが明確。

 人々が聞きたい形で話す。

「私より人気が出そうだ」

「今それを申しますか」

「腹が立つ」

「皆、同じことを」

「それは今いい」

 ◇

「通せ!」

 新之介は人々へ叫んだ。

「もう一人の榊原新之介だ!」

 前方の者が振り返る。

 驚きが波となって広がる。

「榊原が!」

「もう一人!」

「同じ顔だ!」

 台上の偽物も、新之介を見た。

 笑った。

「来たか」

 声筒ではない。

 肉声。

 だがよく似ている。

「上がってこい」

 偽物が言った。

 群衆が左右へ分かれる。

 道ができる。

 新之介は進む。

 半九郎がついていこうとする。

「一人で来い!」

 偽物が命じた。

 新之介は止まらない。

「断る」

「何」

「私へ命じるな」

 群衆から小さな笑い。

 偽物の顔が僅かに動く。

「では、誰を連れてくる」

「半九郎殿とお志津殿」

「なぜ」

「私が誰かを、私一人で証明しないためだ」

「弱いな」

「何が」

「一人では自分の名も背負えぬ」

「背負う」

「では」

「だが、他人へ確かめてもらう」

「民よ!」

 偽物が群衆へ呼びかける。

「聞いたか!」

「この男は自分が榊原新之介かどうかすら、他人へ決めてもらう!」

 一部から笑い。

「私は違う!」

 偽物は胸を叩いた。

「私は私である!」

 歓声。

 新之介は台へ上がった。

 ついに二人が並ぶ。

 同じ顔。

 だが近くで見れば違う。

 偽物の皮膚は僅かに不自然。

 耳の付け根。

 顎の線。

 目尻。

 しかし十歩離れれば、ほとんど分からない。

「名を聞く」

 本物が言った。

「榊原新之介」

「それは私の名だ」

「今は私の名だ」

「生まれた名は」

「必要ない」

「あるだろう」

「捨てた」

「誰に」

「自分で」

「なぜ」

「この名の方が人を動かせる」

「人を動かしたいのか」

「国を動かす」

「そなたの答えへ」

「答えは皆が望んでいる」

「本当に」

「見ろ!」

 偽物が群衆を示す。

「迷いに疲れている!」

「米が高い!」

「役人は責を取らぬ!」

「大名は借財を隠す!」

「商人は帳面を売る!」

「皆、誰が悪いか知りたい!」

「知りたいことと、誰か一人を悪人にすることは違う!」

「だから十人挙げた!」

「十人ならよいのか!」

「必要なら百人でも!」

「最後は千人になる!」

「悪い者が千人なら千人裁けばよい!」

「誰が悪いと決める!」

「民だ!」

「民の誰だ!」

 偽物が止まる。

 新之介は群衆へ向く。

「三吉殿はいるか!」

 蔵前で会った男。

 しばらくして人込みから声。

「いるぞ!」

 三吉が手を上げる。

「おきよ殿は!」

「ここです!」

「徳松殿!」

「おります!」

「そなたたち三人は、同じ考えか!」

 三人が顔を見合わせる。

「違う」

 三吉が答える。

「俺は米が安くなりゃいい」

 おきよが言う。

「私は子どもを押し潰す騒ぎは嫌です」

 徳松は、

「商いが全部悪だと言われれば困ります」

 と答える。

「聞いたか!」

 新之介が群衆へ言う。

「民に一つの声はない!」

 偽物がすぐ返す。

「だから多数で決める!」

「少ない者は」

「従う!」

「腹が減っている者より、腹が満ちた者が多ければ」

「それも世だ!」

「では四冊を読む意味はない!」

「何」

「数の多い者だけで決めるなら、帳面に残された小さな声は最初から捨てられる!」

 群衆がざわめく。

 偽物の顔から笑みが消えた。

「問いばかりだ」

「そうだ」

「それで何が変わった!」

「蔵前で米を出した!」

「一蔵だけだ!」

「全部を奪うより、明日も残った!」

「戸田家の借財は!」

「本人が読むと決めた!」

「幕府は!」

「これから問う!」

「遅い!」

「早く決めて間違えれば、戻せない!」

「国は待たぬ!」

「その言葉を三宅も沢渡も使った!」

 新之介は一歩近づいた。

「そなたの名を聞く!」

「またか」

「何度でも聞く!」

「榊原新之介だ!」

「その前だ!」

 偽物の右手が僅かに震えた。

 顔型は新之介。

 声も。

 立ち方も。

 だが右手だけ、無意識に袖へ隠れる。

「右手を見せろ」

「なぜ」

「見せろ」

「命じるな」

「では頼む」

 偽物が睨む。

 群衆から声。

「見せろ!」

「何かあるのか!」

 偽物はゆっくり右手を出した。

 小指がない。

 お志津が息を呑む。

「小指……」

 西徳寺の竹筒を玄斎へ渡した女。

 鷹見千代を名乗った者も、右手の小指がなかった。

「そなたは男です」

 お志津が言う。

「だから何だ」

「十五年前、小指のない女がいました」

 偽物の目が動いた。

「知っているのか」

「知らぬ」

「今、知っている顔をしました」

「決めつけるな!」

「その言葉を使うのですね」

 新之介が言った。

 偽物が初めて苛立ちを露わにする。

 その時。

 群衆の後ろから玄斎の声が飛んだ。

「顔を見せろ!」

 人々が振り返る。

 杖をつきながら玄斎が来る。

 隣には四十七番。

「先生!」

「置いていくとは何事だ!」

「置いていけと」

「本当に置いていく弟子があるか!」

「今はそこではありません!」

 玄斎は台へ近づく。

 偽の新之介を見る。

 顔ではない。

 歩き方。

 肩。

 手。

「そなた」

「何だ、黒川玄斎」

「わしを知っているな」

「名簿で」

「違う」

 玄斎の目が細くなる。

「十五年前、西徳寺で会った」

 偽物の身体が固まった。

「先生」

 新之介が言う。

「女では」

「女だと思っていた」

「では」

「面を取った顔を、見なかった」

 玄斎は偽物の右手を見る。

「小指」

「声」

「背丈」

「歩幅」

「そなたが鷹見千代を名乗った女か」

 群衆がどよめく。

 偽物はしばらく黙っていた。

 やがて、自分の顔へ手をかけた。

 耳の後ろ。

 薄い皮を剥がす。

 新之介の顔が、ゆっくり崩れる。

 その下から現れたのは、六十ほどの男の顔だった。

 頬に古い火傷。

 右手の小指なし。

「ようやく」

 玄斎が呟く。

「顔を見た」

 男は新之介の声をやめた。

 本来の声。

 高くも低くもない、疲れた声だった。

「久しぶりだな、黒川玄斎」

「名を申せ」

 新之介が言う。

 男は笑った。

「ここまで来て、それか」

「そこからだ」

「御影だ」

「役目ではなく」

「今の御影だ」

「生まれた名だ!」

 男の笑みが消えた。

「……千代」

「何」

「鷹見千代」

 四十七番が前へ出る。

「嘘だ」

「宗山」

「兄の妻は死んだ」

「誰が確かめた」

 また同じ問い。

 男は自分の胸を指した。

「私は男として生まれた」

「だが、鷹見千代という役目を与えられた」

「誰に」

「御影宗伯」

 地下に残った九十一歳の老人。

「宗伯殿が」

「三十二年前だ」

「何のために」

「鷹見静山を見張るため」

「なぜ妻として」

「最も近くで見るためだ」

 玄斎が青ざめる。

「宗一郎先生は知っていたのか」

「途中で気づいた」

「それで」

「私を追い出した」

「なら十五年前、なぜまだ先生の周りに」

「御影の役目は終わっていなかった」

 新之介が問う。

「今、そなたは何をしようとしている」

 男――千代は群衆を見る。

「御影を終わらせる」

「ならなぜ、昔の御影と同じことをする!」

「終わらせるには最後の答えが必要だ!」

「誰の答えだ」

「民の答えだ!」

「また一つにするのか!」

「一度だけだ!」

「一度作った仕組みは残る!」

 千代の顔が歪む。

「私は三十二年、役目として生きた!」

「名を変え!」

「顔を変え!」

「女になり!」

「男になり!」

「死者の声を作り!」

「国が何も決めないのを見てきた!」

「だから自分で決める」

「誰かが決めねば終わらぬ!」

「そなた自身を終わらせたいだけではないのか」

 千代が凍りついた。

「何」

「御影という役目を終わらせるため、国全体へ一つの答えを押しつける」

「違う」

「なら、そなたは何になりたい」

「……」

「御影でなくなった後、何と呼ばれたい!」

 千代の唇が動かない。

 生まれた名。

 捨てた名。

 与えられた女の名。

 御影。

 榊原新之介。

 何十年も誰かの名を使い、自分の名を持たなかった男。

「分からぬ」

 千代が初めて言った。

「ならば、それを今決めるな」

「何」

「国の答えより先に、自分の名を考えろ」

「ふざけるな!」

「私は本気だ!」

 千代が懐へ手を入れた。

 半九郎が身構える。

「武器を!」

「違う!」

 千代が取り出したのは、小さな黒い箱。

 声筒。

「日本橋だけではない」

「何」

「同じ宣言は、今から江戸の十二か所で流れる」

 新之介の顔が変わる。

「どこだ」

「浅草」

「品川」

「本所」

「深川」

「神田」

「芝」

「麻布」

「四谷」

「赤坂」

「下谷」

「千住」

「そして――江戸城外」

「止めろ!」

「もう遅い」

「誰が動かす!」

「顔はいらぬ」

「声も私のものを使う」

「命令は」

「一つだ」

 千代は声筒の取っ手へ手をかけた。

「四冊を焼け」

「そして――」

 その時。

 日本橋の南から、馬の蹄が響いた。

 一騎。

 二騎。

 三騎。

 先頭の馬に乗っているのは水野隼人正。

 後ろには青山。

 さらに海防掛の早馬。

「榊原!」

 水野が叫んだ。

「江戸城から使者だ!」

「何が」

「将軍家の名で、そなたへ出頭命令が出た!」

 群衆がざわめく。

「本物ですか!」

 新之介が問う。

 水野は馬上で、苦い顔をした。

「分からぬ!」

 そして続けた。

「だから本人が来る!」

「誰が」

 水野は日本橋の向こうを見る。

「将軍家慶公だ!」

 橋の彼方。

 葵の紋を掲げた行列が、こちらへ近づいていた。

 本物の上意か。

 偽の行列か。

 それすらまだ、誰にも分からなかった。

(第五十九章へ続く)

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