上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第四十一章

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第四十一章 第五の帳面

 門の外に立っていた女は、三十を少し越えたほどに見えた。

 鼠色の小袖。

 黒い頭巾。

 足元には旅の泥がついている。

 相模屋の娘と聞いて新之介が思い浮かべた、裕福な商家の女主人とは違った。

 供もいない。

 駕籠もない。

 ただ、胸へ小さな包みを抱えている。

「名は」

 新之介が問う。

「お志津と申します」

「相模屋長兵衛の実の娘か」

「はい」

「証は」

 お志津は懐から印籠を出した。

 相模屋の屋号が彫られている。

 だが新之介は受け取らなかった。

「屋号の品なら、誰でも持てる」

「父の右足には、指が四本しかございません」

 道場の奥で兵庫が眉を動かした。

「知っているのか」

 新之介が問う。

「昔、船の綱へ足を挟まれた」

 兵庫が答えた。

「本人しか知らぬ話か」

「船員なら知っている」

 お志津は続けた。

「父は左の奥歯へ、小さな金をかぶせております。若い頃、長崎で異国人に殴られた傷だと聞きました」

「長崎へ行ったことがあるのか」

「父はないと申しております」

「では、なぜ」

「父は、真を話す時ほど嘘を混ぜます」

 新之介は女を見つめた。

 長兵衛の娘であることを証明する言葉としては、不思議なほど説得力があった。

「入れ」

 門を開く。

 お志津は一礼し、再起館へ入った。

 門が閉じられる。

 宗次郎、半九郎、玄斎、兵庫、志乃たちが道場へ集まった。

 辰蔵は裏口を確認する。

 兵馬は窓の外を見張る。

 佐平はすでに町方と海防掛の二重の縄を打たれ、別室へ置かれていた。

「父からの伝言とは」

 新之介が問う。

 お志津は抱えていた包みを膝前へ置いた。

「四冊には続きがある、と」

「五冊目か」

 半九郎が問う。

「父は『第五冊』とは申しませんでした」

「では」

「続帳でございます」

 清太郎が筆を取る。

「続帳」

「鷹見静山様の四冊が作られた後、十五年にわたり書き足された記録です」

「誰が書いた」

「相模屋。三河屋。松波屋。そのほか、廻船問屋と札差の一部」

「一冊にまとめたのか」

「いいえ」

 お志津は首を振った。

「普段の商い帳へ混ぜました」

「どの帳面か分からぬようにか」

「はい」

「ならば、何冊ある」

「分かりません」

「父上は知っているのでは」

「父も全ては知りません」

 長兵衛ですら全体を知らない記録。

 誰か一人が捕えられても、仕組みそのものは残るように作られている。

「四冊は過去だと、父は申しました」

 お志津が言う。

「続帳には、今も動いている金と船と人が記されています」

「今も」

「今夜、深川の松波屋へ船が入ります」

 新之介は青山が無音寺から持ち帰った紙片を思い出した。

 ――松波屋。

 ――深川。

 ――七月二十六日、夜。

「今日が二十六日か」

 源太郎が懐の暦を確かめる。

「ああ」

 無音寺。

 本所の火事。

 再起館の襲撃。

 休む間もなく日が進み、すでに約束の日になっていた。

「船の積み荷は」

「銀と武器」

「誰へ渡す」

「松波屋を通して、江戸の内側へ」

「誰が買う」

 お志津は答えなかった。

「知らぬのか」

「名を申す前に、父の文をお読みください」

 包みを開く。

 中には短い手紙。

 そして、黒く塗られた木札が半分。

 割符である。

 新之介が手紙を開いた。

 長兵衛の字は、商人らしく細く整っている。

 ――榊原新之介殿。

 ――四冊を見つけたなら、次に帳面そのものを疑え。

 新之介の手が止まった。

「帳面を疑え」

 清太郎が繰り返す。

 新之介は続きを読む。

 ――鷹見静山の帳面は、見たものを記した。

 ――続帳は、見せたいものを記した。

 ――真と偽りを混ぜ、誰が金を受け取ったか、誰が異国と通じたか、誰が裏切ったかを作り直している。

 ――続帳を握る者は、人を買うのではない。

 ――買われた人間を作る。

「買われた人間を作る」

 戸田の名を偽って記せば、戸田は疑われる。

 水野が異国人から金を受け取ったと書けば、海防掛の信用は崩れる。

 実際に金を渡す必要さえない。

 帳面へ名を書き、印を似せ、証人を買えばよい。

「帳面は人より正直だと、佐平は申した」

 半九郎が言った。

「人が正直に書けば、だ」

 新之介は答えた。

 帳面そのものに心はない。

 真を書くのも人。

 嘘を書くのも人。

 新之介は文の続きを読んだ。

 ――今夜、松波屋で続帳の主帳が異国人へ渡る。

 ――その中には幕府、大名家、町方、海防掛の者の名がある。

 ――実際に金を受け取った者と、受け取っていない者が混じっている。

 ――見分ける鍵は、お志津が知る。

 ――私は娘を商いへ使った。

 ――それも私の罪である。

 ――娘の言葉を信じよとは申さぬ。

 ――ただし、娘が話す機会だけは奪うな。

 手紙はそこで終わっていた。

「父は、そなたを帳面作りへ使ったのか」

 玄斎が問う。

「十三の頃からです」

 お志津は自分の手を見た。

「父が読み上げる数字を写しました。屋号を別の品物へ置き換え、船の名を魚の名に変えました」

「意味を知っていたのか」

「最初は知りませんでした」

「いつ知った」

「夫が死んだ時です」

「夫も相模屋の者か」

「番頭でした」

「なぜ死んだ」

「帳面の数字が合わぬと、父へ申し出ました」

 お志津の声は平らだった。

 平らにしなければ話せないのだろう。

「三日後、川へ落ちたことになりました」

「長兵衛が殺したのか」

「父は命じていないと申しました」

「信じたか」

「信じたかった」

 お志津は顔を上げた。

「ですが、父は誰が殺したかを調べませんでした」

「それで父を疑った」

「いいえ」

「違うのか」

「父が命じたかどうかは、今も分かりません」

「では」

「調べなかったことは、父が選んだことです」

 新之介は黙った。

 知らなかった。

 命じなかった。

 止められなかった。

 それらの言葉で、人は自分の責を薄くする。

 だが知ろうとしなかったことも、一つの選びである。

「続帳を見分ける鍵とは」

 清太郎が問う。

「書き損じです」

「何」

「父は嘘の記録へ、必ず一つだけ間違いを入れました」

「なぜ」

「自分だけが真偽を見分けられるように」

「どのような間違いだ」

「日付、船名、数量。決まりはありません」

「それでは、そなたにも分からぬ」

「父は私へ、間違いの置き方を教えました」

「なぜ」

「父が死んだ時、続帳を売るためです」

 お志津は自嘲するように笑った。

「娘へ財産を残すつもりだったのでしょう」

「人の弱みを財産としてか」

「相模屋の商いとは、そういうものです」

 ◇

「今夜、松波屋へ行く」

 新之介が言った。

 源太郎がすぐに止めた。

「まず奉行所へ知らせます」

「知らせれば、内通者にも届く」

「町方を外すおつもりですか」

「そなたは町方だ」

「私一人では役所になりません」

「だから役に立つ」

「褒められている気がしません」

 水野へ知らせるか。

 戸田へ知らせるか。

 坂崎へ知らせるか。

 全員を集めれば、松波屋は逃げる。

 誰にも知らせなければ、新之介たちが続帳を隠したと疑われる。

「書付を残す」

 清太郎が言った。

「誰が、いつ、どこへ向かったかを」

「それだけでは止められません」

 源太郎が答える。

「でも、後で嘘をつきにくくなります」

「誰へ預ける」

「三通作ります」

「水野様、戸田様、坂崎様か」

「いいえ」

 清太郎は志乃を見る。

「一通は西徳寺の了順様。一通は戸田様。一通は坂崎様」

「水野様を外すのか」

「海防掛には大場様から伝えます」

「四つでは」

「はい」

 清太郎は筆を取った。

「同じ文を四つ書きます」

「間違いが出るぞ」

 吉松が言う。

「読み上げて確かめてください」

「また私ですか」

「字が上手くないから」

「それは褒めていません」

「役に立っています」

 玄斎が笑う。

「よい組み合わせだ」

 ◇

 松波屋へ向かう者は絞られた。

 新之介。

 半九郎。

 榊兵庫。

 源太郎。

 辰蔵。

 そして、お志津。

「女を連れていくのか」

 兵庫が問う。

「割符と帳面の見分け方を知るのは私だけです」

 お志津が答える。

「危険だ」

「十三の頃から危険の中におりました」

「それとこれは違う」

「何が違います」

「今夜は刀と銃が出る」

「帳面の前でも、人は死にます」

 兵庫は言葉を失った。

「私が行かねば、父の嘘と真を見分けられません」

「父上を助けたいのか」

 新之介が問う。

「分かりません」

「憎んでいるか」

「分かりません」

「便利な言葉か」

「いいえ」

 お志津は首を振った。

「苦しい言葉です」

 新之介は頷いた。

「行こう」

 再起館は玄斎、宗次郎、志乃、兵馬たちが守る。

 佐平もここには置かない。

 町方と海防掛双方の者へ引き渡す。

 第一冊の場所はすでに移されているが、門人印や再起館の者たちを狙う者が来るかもしれない。

「先生」

 出立前、新之介が玄斎へ言った。

「膝を休めてください」

「守りへ残る者に休めと申すか」

「座って守ってください」

「剣は座って振れぬ」

「問いを投げてください」

「敵が逃げるな」

 宗次郎が口を挟む。

「私が刀を持つ」

「傷人は寝ていろ」

 新之介と玄斎の声が重なった。

「またか」

「まただ」

 ◇

 深川へは、水路を使った。

 伊助の舟。

 昼間から松波屋へ近づけば目立つため、日が落ちるまで葦の多い入り江で待つ。

 松波屋は材木置き場と船宿を兼ねている。

 表から見れば、夜も荷を動かす普通の商家。

 裏手には大横川から引き込んだ細い水路がある。

「異国船が直接入るわけではないのだな」

 半九郎が問う。

「沖で廻船へ積み替えます」

 お志津が答える。

「今夜来るのは、その廻船か」

「表向きは薩摩からの砂糖船です」

「武器はどこへ隠す」

「砂糖樽の底」

「銀は」

「二重にした船板の中です」

 伊助が舌打ちした。

「よく沈まねえな」

「沈んだ船もございます」

「人もか」

「はい」

 お志津は目を伏せた。

「帳面には、荷だけが失われたと書かれます」

 人の名はない。

 何人死んだかもない。

 商い帳では、船員の命より砂糖の損が大きく記される。

「今夜は人の名も書かせる」

 新之介が言った。

「捕えられれば」

 源太郎が現実を返す。

「逃げられた時も記す」

「それで捕るのは次ですか」

「ああ」

「逃がさぬ方を先に考えてください」

 ◇

 夜。

 松波屋の裏水門へ舟を寄せた。

 お志津が黒い割符を出す。

 水門脇の小窓を三度叩く。

 内側から声。

「潮は」

「満ちても、舟は空」

 お志津が答える。

「空の舟へ何を積む」

「名のない銀」

 小窓が開く。

 片目の男が割符を見る。

「片割れを」

 男が内側から残り半分を出した。

 木目が合う。

 水門が上がった。

 伊助の舟が中へ入る。

 狭い水路。

 両側は高い板壁。

 奥に蔵が三つ並んでいる。

 人足たちは新之介たちを見ても、顔を上げない。

 皆、何も見ないよう訓練されている。

「相模屋のお志津様」

 片目の男が言った。

「お一人では」

「用心棒です」

「多いですね」

「父が捕えられましたので」

「それはお気の毒に」

「思ってもいないことを申さないで」

 男は笑った。

「松波屋様がお待ちです」

 新之介たちは刀へ手をかけず、蔵の奥へ通された。

 ◇

 松波屋の主人は、久世屋文吉を名乗った。

 年は四十ほど。

 剃り上げた額。

 町人髷。

 だが鼻が高く、瞳の色がわずかに薄い。

 異国の血が混じっているのかもしれない。

「お志津殿」

「文吉殿」

「長兵衛様は、娘まで差し出されましたか」

「父の使いではありません」

「では、誰の」

「自分の用です」

 文吉は新之介たちを見る。

「武士を連れて」

「帳面を見せてください」

「何の」

「続帳です」

 部屋の空気が変わった。

「そのような物はございません」

「父が申しました」

「牢の中の商人は、何でも申します」

「では、この割符は」

「昔の取引に使った物です」

「今夜の合言葉で門が開きました」

「使用人が間違えたのでしょう」

 お志津は文吉を見つめた。

「父は、あなたの嘘には数がないと申していました」

「何」

「商人の嘘は、数を混ぜる。あなたは数そのものを申さない」

 文吉の笑みが消えた。

「長兵衛様は、娘へ余計なことまで」

「続帳を出してください」

「断れば」

 源太郎が名札を出す。

「南町奉行所の詮議とする」

「正式な手入れですか」

「相模屋の抜け荷に関する聞き取りだ」

「聞き取りにしては物々しい」

「逃げる者が多いので」

 文吉は立ち上がった。

「帳面などございません」

「ならば蔵を見せても問題はない」

「商家の帳面を、理由もなく」

「理由は申した」

「不足です」

 その時、建物の奥から鐘が一度鳴った。

 文吉の顔がわずかに動く。

「何の合図だ」

 新之介が問う。

「時を知らせただけです」

 二度目。

 間を置き、三度目。

「船が着いた」

 お志津が言った。

 文吉は後退した。

「お引き取りを」

「帳面を見てからだ」

「では仕方がない」

 文吉が畳を強く踏んだ。

 床下で音がした。

 ごう、と水が流れ込む音。

「何をした!」

「帳面はございません」

 文吉は奥の戸へ走る。

 兵庫が追う。

 だが天井から竹格子が落ち、二人の間を塞いだ。

「水だ!」

 辰蔵が叫ぶ。

 蔵の床下から水が上がってくる。

 裏水路の堰を開いたのだ。

 帳面を水へ沈め、墨を流す仕掛け。

「続帳は地下です!」

 お志津が床の隅を指した。

「父から聞きました!」

「入口は」

「算盤台の下!」

 半九郎が大きな算盤台を動かす。

 下に鉄輪。

 引くと床板が上がった。

 地下階段。

 すでに水が膝の高さまで入っている。

「辰蔵!」

「行きます!」

 辰蔵が先に下りる。

 新之介とお志津が続く。

「お志津殿は残れ!」

「見分けるのは私です!」

「水が増える!」

「だから急ぎます!」

 源太郎と半九郎は上で文吉の逃げ道を追う。

 兵庫は竹格子を斬ろうとした。

「帳面が先です!」

 新之介が叫ぶ。

「文吉を逃がすぞ!」

「顔は見た!」

「またそれか!」

「今は帳面と人だ!」

 兵庫は舌打ちし、地下へ続いた。

 ◇

 地下蔵には、数百冊の帳面が棚へ並べられていた。

 水が下から上がる。

 低い棚の帳面はすでに濡れている。

「どれだ」

 辰蔵が問う。

「表紙に印はありません」

 お志津が棚を見回す。

「では全部」

「運べません!」

「主帳を探せ!」

 お志津は帳面の背を一冊ずつ見る。

 砂糖。

 材木。

 米。

 油。

 普通の商い帳。

 だが、その中に偽りが混じっている。

「父は主帳へ、決して扱わぬ品を書きます」

「何だ」

「花です」

「花」

「枯れて値が残らぬ物を嫌っていました」

 棚の奥。

 一冊だけ、背に『花仕入』と書かれた帳面。

「あれです!」

 新之介が手を伸ばす。

 だが帳面は棚へ鎖でつながれている。

「切る!」

 兵庫が刀を抜く。

「待て!」

 辰蔵が止める。

「鎖の先が壁へ」

 壁の中に仕掛けがある。

 無理に切れば、さらに水が流れ込むか、火薬が動くかもしれない。

「鍵は」

 お志津が帳面の背へ手を入れた。

「父なら、嘘の品の近くへ真の鍵を」

 隣は『鉄釘』。

 帳面を抜く。

 その後ろに小さな鍵。

「ありました!」

 鎖を外す。

 お志津が『花仕入』を抱える。

 その時、地下の奥から声が聞こえた。

「助けてくれ!」

 男の声。

 辰蔵が灯りを向ける。

 水の中に、若い手代が倒れていた。

 足を棚の下へ挟まれている。

「帳面を先に!」

 兵庫が叫ぶ。

 辰蔵はすでに手代へ向かっていた。

「人が先です!」

「水が上がる!」

「だから早く手を貸してください!」

 兵庫は一瞬迷い、刀を納めた。

 棚へ肩を入れる。

 新之介も加わる。

「上げるぞ!」

 三人で棚を持ち上げる。

 手代が脚を抜く。

 だがその間にも水は腰まで来た。

「階段へ!」

 辰蔵が手代を背負う。

 お志津が主帳を頭上へ掲げる。

 新之介と兵庫が両脇を支える。

「一人で持つな!」

「濡れます!」

「人も帳面も落とすな!」

 階段へ向かう。

 背後で棚が倒れた。

 何百冊もの帳面が水へ落ちる。

 紙が開き、墨が黒い雲のように水中へ広がった。

 十五年分の嘘と真が、同じ水へ溶けていく。

 ◇

 地上へ出ると、文吉は逃げた後だった。

 半九郎と源太郎が裏水門まで追ったが、別の小舟で水路へ出たという。

「また逃がした」

 兵庫が新之介を見る。

「帳面はある」

「文吉は次も人を使う」

「手代も生きている」

「どちらも小事ではない、か」

「ああ」

「腹の立つ言葉だ」

「知っている」

 伊助が舟を水門へ寄せた。

「早く乗れ! 堰が壊れる!」

 松波屋の蔵は、水圧で床が軋んでいる。

 新之介たちは救い出した手代と主帳を舟へ運んだ。

 お志津は濡れた帳面を膝へ置く。

「開けるな」

 源太郎が言う。

「墨が移ります」

「乾かしてからだ」

「今、確かめねばならない名があります」

「誰だ」

 お志津は答えず、帳面の端を慎重に開いた。

 花の名。

 数量。

 日付。

 その横に、人の名が小さく記されている。

 梅。

 桜。

 菊。

 牡丹。

 花の種類が、金の出所を示す符号らしい。

「これが真か偽りか分かるのか」

 新之介が問う。

「見ます」

 お志津は最初の頁を確かめる。

「この行は偽りです」

「なぜ」

「二月に朝顔を仕入れたとあります」

「季節が違う」

「父の間違いです」

 次の頁。

「これは真です」

「どうして」

「花と日付が合っています」

「それだけで真と」

「父の決まりでは」

「父の決まり自体が嘘かもしれぬ」

 新之介の言葉に、お志津の手が止まった。

「……はい」

「だから一行ずつ確かめる」

「時間がかかります」

「かける」

 お志津は頷いた。

 舟が松波屋を離れる。

 後方では蔵の床が崩れ、水路へ沈んでいった。

「この頁を」

 お志津が呟く。

「何だ」

「三日前に書かれています」

 末尾に近い頁。

 新しい墨。

 まだ水にも完全には滲んでいない。

 花は白菊。

 日付は七月二十三日。

 受取人の名。

 新之介は、その文字を見た。

 ――榊原新之介。

 金百両。

 異国船入津の便宜。

 受取済。

 舟の中が静まり返った。

 源太郎が新之介を見る。

 半九郎も。

 兵庫の目が細くなる。

「私は受け取っていない」

 新之介が言った。

「分かっています」

 半九郎が答える。

「本当にか」

 兵庫が問う。

 新之介は兵庫を見た。

「疑うのか」

「帳面にはある」

「続帳は、買われた人間を作るものだ」

「それも長兵衛の言葉だ」

「では私を信じるか」

 兵庫は答えなかった。

 お志津は日付と花を見つめる。

「白菊は、父の決まりでは真を示します」

「では私が受け取ったと」

「いいえ」

 お志津は首を振った。

「父以外の者が、父の決まりを知って書いた可能性があります」

「誰が知る」

「私。父。夫」

「夫は死んだ」

「はい」

「ほかには」

 お志津の顔から血の気が引いた。

「もう一人おります」

「誰だ」

「帳面の書き方を、最初に父へ教えた者です」

「名を申せ」

 お志津は震える声で答えた。

「鷹見静山様でございます」

 玄斎の師。

 十五年前に亡くなったはずの男。

 舟の底で、水滴が帳面から落ちた。

 一滴。

 また一滴。

 墨が滲み、新之介の名がゆっくり崩れていく。

 死んだ者の名を使い、誰かが生きた者へ罪を着せているのか。

 それとも鷹見静山には、まだ誰も知らない続きがあるのか。

 新之介は濡れた主帳を見つめた。

 四冊の元帳は、過去を記していた。

 第五の帳面は、未来の罪を先に作っていた。

(第四十二章へ続く)

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