第三十七章 海防掛の屋敷
再起館の門外には、六人の武士が並んでいた。
全員が紺の羽織を着ている。
袖口には、波を図案にした小さな縫い取り。
海防掛の者であることを隠す気はないらしい。
先頭に立つ男は、四十前後。
面長で、髭をきれいに剃っている。
腰の大小も、履物も、乱れがない。
整いすぎている。
役人の姿とは、時に鎧より固い。
「黒川玄斎殿。榊原新之介殿」
「そうだ」
新之介が答えた。
「御船手頭支配、海防掛組頭付・高梨勘兵衛と申す」
男は名札を見せた。
「水野隼人正様より、出頭を命じられている」
「任意か」
「命である」
「罪人としてか」
「今のところは違う」
今のところ。
わざわざ付け加えた言葉に、玄斎が笑った。
「先のことまで親切だな」
「黒川殿」
「何だ」
「軽口を申す場ではない」
「どの場でも口は同じだ」
高梨の眉がわずかに動いた。
だが怒りは表へ出さない。
「刀は預かる」
「断る」
玄斎が即座に答えた。
「出頭先は海防掛の役宅である」
「だから何だ」
「帯刀のまま、上役の前へ出ることは許されぬ」
「ならば木刀だけ持つ」
「それも預かる」
「これは刀ではない」
「黒川殿が持てば刀以上に危険だと聞いている」
玄斎は新之介を見た。
「評判がよいな」
「先生の評判です」
「お前のせいかもしれぬ」
「なぜです」
「弟子が騒ぎを起こすと、師の名が広まる」
高梨が咳払いした。
「話は役宅で」
「私たちだけか」
新之介が問う。
「誰を望む」
「町方の立ち会い」
「不要だ」
「相模屋の件、井沢敬之助の件、弁財丸の箱。すべて南町奉行所の詮議と重なる」
「海上の禁制品は海防掛の役目だ」
「だからこそ、片方だけで話すべきではない」
「命へ条件をつけるか」
「身を守るためだ」
高梨は新之介をじっと見た。
「水野様がそなたを呼ぶ理由が分かった」
「何と申していた」
「問いが多い」
「よく言われる」
玄斎が横で頷く。
「それは鷹見先生のせいだ」
「先生のせいにするな」
新之介は門内へ目をやった。
宗次郎が縁側へ出ている。
兵馬と辰蔵が、その両側に立っている。
吉松は柱の陰から海防掛の武士たちを睨んでいた。
志乃は何も言わず、高梨の袖の印を見ている。
新之介は源太郎へ視線を送った。
源太郎は小さく頷いた。
すでに町方へ使いを出すつもりらしい。
「刀を預ける」
新之介が言った。
玄斎が振り向く。
「よいのか」
「役宅へ入る前までです」
「条件をつけるな」
高梨が言う。
「門へ戻るまで預ける。それ以上は断る」
「捕縛ではないと申した」
「ならばよいだろう」
高梨は少し考え、部下へ顎を引いた。
刀袋が差し出される。
新之介は刀を抜かず、鞘ごと渡した。
玄斎は木刀を持ったまま動かない。
「先生」
「何だ」
「渡してください」
「これは鷹見先生から貰った」
「無くしません」
「お前の刀は投げても戻った。これは戻らぬかもしれぬ」
「先生」
「分かった」
玄斎は不満そうに木刀を高梨へ渡した。
「傷をつけるな」
「すでに傷だらけだ」
「その傷にも順がある」
高梨は答えず、部下へ持たせた。
新之介と玄斎が門を出る。
宗次郎が声をかけた。
「榊原」
「何だ」
「遅ければ迎えに行く」
「寝ていろ」
「歩ける」
「歩くな」
「では這って行く」
「吉松」
「はい」
「門を守れ」
「分かりました」
吉松は宗次郎の前へ立った。
「子どもを使うな」
「そなたには効く」
宗次郎は舌打ちした。
高梨がその様子を眺めていた。
「ここは剣術道場か」
「再起館だ」
玄斎が答える。
「何を教えている」
「今は、傷人を寝かせることだ」
◇
海防掛の役宅は、築地の先にあった。
江戸湊に近く、役所というより大きな武家屋敷に見える。
表門の両側には槍を持つ番士。
内側には役人、船頭、荷改めの者が行き交っている。
庭の一角には、異国船から取り上げたらしい品が並べられていた。
長い筒。
曲がった刃。
見慣れぬ形の羅針盤。
樽。
錨。
海から来る物は、形からして江戸の者へ不安を与える。
「珍しいか」
高梨が問う。
「見たことのない物は珍しい」
新之介が答える。
「怖くはないか」
「分からぬ物は怖い」
「正直だな」
「分かったふりをするよりは」
玄斎が言った。
「鷹見先生の弟子は皆、同じ口をきく」
「嫌われていたそうだな」
「役人からはな」
「では、そなたたちは役人を嫌うか」
「役目による」
「人ではなく」
「人も見る」
高梨はそれ以上問わなかった。
役宅の奥へ通される。
座敷は広いが、飾り気がない。
正面に男が一人座っていた。
五十を越えている。
痩せた顔。
白髪の混じる髷。
羽織は濃紺。
胸元に海防掛の印。
水野隼人正。
新之介が想像していたより、静かな男だった。
大声で人を従わせる者ではない。
目だけが鋭い。
その横には青山新六郎がいた。
左肩へ布を巻いている。
顔色は悪い。
だが生きている。
さらに一人。
新之介はその顔を知っていた。
戸田備前守である。
「戸田様」
「久しいと言うほどでもないな」
戸田は少し疲れた顔で笑った。
「なぜこちらへ」
「私も呼ばれた」
「先に知らせてくだされば」
「知らせれば、そなたは来ぬかもしれぬ」
「来ました」
「今はな」
戸田の隣には、南町奉行所の与力・坂崎修理も座っていた。
源太郎の上役である。
町方の立ち会い。
新之介が望んだ形が、すでに用意されていた。
「高梨殿」
水野が言った。
「刀は返せ」
「は」
高梨が少し驚いた。
「話をするのに、刀を預ける必要はない」
「しかし」
「斬る気なら、刀がなくとも黒川殿は人を倒す」
玄斎が水野を見る。
「わしまで詳しいな」
「十五年前から知っている」
「会ったことは」
「ない」
「ならば、よい話だけ聞いたのだろう」
「鷹見静山からは、厄介な弟子だと聞いた」
玄斎の表情が変わった。
「先生と会ったのか」
「何度も」
高梨が新之介と玄斎の刀を返す。
新之介は帯へ差したが、玄斎は木刀を膝へ置いた。
「座れ」
水野が命じた。
二人は戸田の向かいへ座った。
「まず申しておく」
水野は全員を見回した。
「この場で刀を抜けば、何者であれ捕える」
「抜かせる話をするつもりか」
玄斎が問う。
「聞く者による」
「では先に聞こう」
「黒川殿」
新之介が止める。
「何だ」
「呼ばれたのはこちらです」
「呼んだ者が先に申すべきだ」
水野はわずかに口元を緩めた。
「十五年前と変わらぬ」
「十五年前のわしを知っているように申すな」
「鷹見から聞いている」
「何と」
「問いの前に木刀を出す男だと」
「嘘だ」
「なぜ分かる」
「昔は木刀ではなく真剣だった」
戸田が顔を伏せた。
笑いをこらえているようだ。
坂崎修理は眉間を押さえていた。
「本題へ入ってください」
青山が言った。
肩の傷が痛むのか、声に余裕がない。
「その前に」
新之介は青山を見る。
「無事でよかった」
「敵と思っていたのでは」
「疑っていた」
「今は」
「まだ疑っている」
「正直だな」
「そなたも私を疑っているだろう」
「疑っている」
「ならば同じだ」
青山は少しだけ笑った。
水野は机の上へ一枚の紙を置いた。
捕えた敵船から出た異国文字の書付。
端には日本語で、
――四冊揃えば、国を買える。
とある。
「これは見たな」
「源太郎から」
「意味は分かるか」
「四冊の元帳を使い、役人や大名家を脅すつもりだと考えています」
「半分だ」
「残りは」
「帳面へ書かれた借財と贈金だけなら、国は買えぬ」
「では何がある」
水野は青山へ目を向けた。
青山が別の書付を出す。
海図らしい。
日本の沿岸。
浦賀。
下田。
長崎。
さらに北の蝦夷地まで線が引かれている。
「第四冊には、異国との取引だけではない」
水野が言う。
「幕府が秘かに調べた海防の弱点が記されている」
「なぜ鷹見先生がそのようなものを」
「勘定方と海防掛の金の流れを追えば、船の配置も弾薬の量も分かる」
「帳面からか」
「役所は金で動く。砲台を作れば石代、火薬を買えば銀、船を出せば米が要る」
水野は海図を指した。
「支出を追えば、どこが守られ、どこが空いているか見える」
新之介は紙を見た。
帳面は単なる悪事の記録ではない。
国の守りの形そのものを示す。
「異国へ渡れば」
「江戸湾のどこから入ればよいか。どの砲台に弾が少ないか。どの役人へ金を渡せば船を見逃すか。すべて分かる」
坂崎修理が低く言った。
「だから海防掛が四冊を求める」
「燃やすためか」
新之介が問う。
水野はすぐに答えなかった。
「長兵衛は、そなたが燃やすと申した」
「長兵衛は己が助かるためなら、誰でも悪人にする」
「そなたも同じことをしているかもしれぬ」
座敷の空気が張る。
高梨が一歩動きかけた。
水野が手で止める。
「その問いをするために呼んだ」
「何」
「私は元帳を回収し、海防に関わる部分を封じるつもりだ」
「残りは」
「役人と大名家の名が記された部分も、世へ出せぬ」
「なぜ」
「国が乱れる」
「隠せば、また同じことが起きる」
「明らかにすれば、明日から起きる」
「何が」
「取り付けだ」
水野は戸田を見る。
「大名家がどれほど札差へ借財しているか、民が知ればどうなる」
「驚くだろう」
戸田が答える。
「驚くだけでは済まぬ。貸し手は一斉に返済を迫る。大名家は蔵米を売る。米価は落ちる。その後、買い占めが起き、逆に高騰する」
「役職売買が明らかになれば」
「役人への信は失われる」
「すでに信がない者もいる」
「だからといって、全て壊してよい理由にはならぬ」
水野の声は静かだった。
だが言葉には重さがある。
「そなたは、帳面を世へ出すつもりか」
「まだ決めていない」
「真崎半九郎は写しを増やすと言ったそうだな」
新之介の目が鋭くなる。
「どこで聞いた」
「海防掛には耳がある」
「西徳寺にもか」
「寺に限らぬ」
「それは見張りか」
「守りでもある」
「同じ言葉を使うな」
新之介の声が低くなる。
守る。
その言葉で、何人が何を隠したか。
「水野様」
戸田が口を開いた。
「榊原が怒る理由は分かる」
「戸田殿も、元帳を欲したのでは」
「欲した」
「家を守るために」
「ああ」
「三宅主膳を使って」
「違う」
戸田の顔が固くなる。
「三宅が私へ知らせず、水野様と取引した」
「だが借財を消す条件は、戸田家に利がある」
「その利を受けるつもりはない」
「今はそう申せる」
水野は戸田を見た。
「元帳を目の前へ置かれても同じか」
戸田は答えなかった。
自分の家臣へ給金を払い、領民を守り、家を残す。
そのために借財を消せるなら、心が揺れぬ者はいない。
「水野様ご自身は」
新之介が問う。
「元帳を手にしても、公には出さない」
「そうだ」
「では誰が、そなたを見張る」
「幕府だ」
「元帳に名のある幕府がか」
高梨の顔色が変わる。
青山は黙っている。
水野だけが新之介から目を逸らさなかった。
「よい問いだ」
「答えは」
「ない」
水野は認めた。
「私を完全に見張れる者はいない」
「ならば、そなた一人へ渡せぬ」
「その通りだ」
新之介は意外な答えに黙った。
「私も、自分一人で持つつもりはない」
「では」
「南町奉行所、勘定奉行、海防掛、老中へ分けて保管する」
「元帳を分けるのか」
「写しを作り、封印する」
「それでは真崎殿の考えと同じでは」
「違う」
「何が」
「世へは出さぬ」
半九郎は広く写しを配るつもり。
水野は役所の中だけで分けるつもり。
同じ分散でも、向きが逆である。
「役所の中で腐る」
新之介が言う。
「世へ出せば燃える」
「どちらが正しい」
「分からぬ」
水野は答えた。
「だから、そなたを呼んだ」
「私に決めろと」
「違う」
「では」
「一緒に迷え」
玄斎が水野を見た。
「役人が弟子へ、迷えと申すか」
「私は答えを持っておらぬ」
「十五年前は持っていたように振る舞った」
玄斎の声が変わった。
「鷹見先生を捕えたのは、そなただな」
座敷が静まった。
戸田も坂崎も、水野を見る。
「そうだ」
水野は否定しなかった。
「何をした」
「詮議した」
「半年で死んだ」
「知っている」
「拷問したのか」
高梨が口を挟む。
「黒川殿、言葉を」
「黙れ」
玄斎は木刀へ手を置いた。
まだ抜いてはいない。
水野は高梨を手で止めた。
「私自身は手を下していない」
「では誰が」
「勘定方の詮議役」
「そなたの命で」
「私が捕縛を求めた」
「同じことだ」
「そうだ」
水野の答えは短かった。
「先生は何も話さなかった」
「ああ」
「それで身体を壊した」
「ああ」
「そなたは悔いているか」
「悔いている」
「ならば何をした」
「海防掛へ移り、元帳を探した」
「悔いのためか」
「最初は違う」
「何」
「国を守るためだと思っていた」
水野は膝の上で拳を握った。
「鷹見の帳面が異国へ渡れば危険だ。だから場所を吐かせるべきだと信じた」
「今は」
「半分しか信じていない」
「残り半分は」
「自分の役目を失うのが怖かった」
玄斎の目が揺れた。
玄十郎の手紙。
人を守るという言葉の半分は、自分の臆病。
水野も同じことを言った。
「鷹見は、詮議の最後に私へ申した」
「何と」
「国を守ると言う者ほど、己の役目を守っているだけかもしれぬ、と」
「先生らしい」
「腹が立った」
「図星だったからか」
「そうだ」
水野は玄斎を見る。
「私は鷹見を捕えた。死へ追いやった責がある」
「ならば縄を受けるか」
「今、受ければ四冊を追う者が一人減る」
「それも役目を盾にする言葉だ」
「分かっている」
水野は逃げなかった。
「だから元帳が揃い、この件が終われば、私は自ら老中へ申し出る」
「何を」
「鷹見静山への違法な詮議と、海防掛内部の隠蔽を」
高梨が顔を上げる。
「水野様!」
「高梨。これは私が決めた」
「そのようなことをすれば」
「役目を失う」
「それだけでは済みません」
「分かっている」
玄斎は水野を睨み続けた。
「今、そなたを打ちたい」
「打てば捕える」
「正直だな」
「役目だからな」
「またそれか」
玄斎の手が木刀から離れる。
「今は打たぬ」
「なぜ」
「鷹見先生が望まぬ」
「どうして分かる」
「分からぬ」
玄斎は苦く笑った。
「だから今は打たぬ」
◇
水野は次に、鉄箱について話した。
「漂流した箱は、海防掛の船が探している」
「町方もだ」
坂崎が言う。
「先に見つけても勝手に開けるな」
「そちらもです」
「分かっている」
水野は青山へ向いた。
「青山。煙の箱について申せ」
「は」
青山は肩を押さえながら、鉄箱の仕掛けを説明した。
弁財丸には、異国人から買った防盗用の箱が積まれていた。
鍵を使わず蓋を動かせば、中の小瓶が割れる。
石灰と薬液が混じり、白い煙を出す。
「毒なのか」
新之介が問う。
「大量に吸えば肺を傷める。火も起こす可能性がある」
「なぜ知っている」
「同じ箱を海防掛で一つ押収した」
「水野様が三宅殿へ教えたのも」
「私だ」
水野が答えた。
「元帳を回収させるために、仕掛けを知らせた」
「三宅殿を使った」
「使った」
「戸田家の借財を消すと条件を出して」
「ああ」
「それが三宅殿をさらに追い込んだ」
「否定できぬ」
戸田の顔が険しくなる。
「水野様」
「何だ」
「三宅を裁く前に、自らの働きも詮議へ出していただく」
「承知している」
「今ではなく」
「元帳を」
「元帳が見つからなくてもだ」
水野は戸田を見た。
やがて頷く。
「分かった」
「書付にしてください」
「私を信じぬか」
「信じておりません」
戸田は静かに答えた。
「私自身も、元帳を前にすれば何を選ぶか分からぬ。だから書付を残す」
戸田は懐から紙を出した。
「私も、自家の借財について全て奉行所へ申告する」
「殿」
同席していた戸田家臣が驚く。
「隠せば、また三宅を生む」
「御家が」
「御家を守るために隠すことを、もう選ばぬ」
戸田は水野を見る。
「そなたも選べ」
水野はしばらく黙っていた。
やがて高梨へ筆と紙を命じた。
「書く」
◇
水野、戸田、坂崎。
三者の署名が入った書付が作られた。
元帳が見つかった場合、いずれの役所・家も単独で保管、開封、処分しない。
全ての写しと封印には三者の立ち会いを置く。
海防に関わる部分は公開を制限する。
借財、役職売買、賄賂については、裁きの方法を別途協議する。
水野の過去の詮議と三宅への取引も、元帳の発見にかかわらず調査する。
「これで足りるか」
水野が問う。
新之介は書付を読んだ。
「足りぬ」
高梨が眉を吊り上げる。
「まだ申すか」
「民の立ち会いがない」
「何」
「役人同士で決めれば、役人に都合よくなる」
「誰を立ち会わせる」
「分からぬ」
「では無責任だ」
「分からぬから考える」
水野が新之介へ問う。
「商人か」
「商人だけでは、長兵衛のようになる」
「僧か」
「寺にも利がある」
「浪人か」
「私たちにも恨みがある」
「ならば誰も駄目ではないか」
「一人を選ぶからだ」
新之介は半九郎の言葉を思い出した。
一人へ渡さない。
一冊だから奪われる。
「町人、商人、寺、武家。それぞれから一人ずつ立ち会わせる」
「秘密は漏れる」
「秘密を守るために、これまで人が死んだ」
「海防の情報まで漏らせぬ」
「そこは分ける」
水野は考え込んだ。
「鷹見帳を最初から全て世へ出すつもりはないのだな」
「まだ決めていない」
「またそれか」
「急いで決めるなと教わった」
玄斎が横から言う。
「わしではない」
「皆からです」
戸田が書付へ一行を加えた。
――民間より複数の立会人を置くことを検討する。
「検討、か」
新之介が言う。
「今、名を決められぬ」
「逃げの言葉にもなる」
「ならば、そなたが見張れ」
「役目にされるのは嫌です」
「すでにしている」
戸田は笑った。
「後見役なのだろう」
「再起館のです」
「江戸の後見も少し引き受けろ」
「重すぎます」
「皆、重いものを持っている」
◇
本題が一段落したところで、新之介は銅片を出した。
「水野様」
「何だ」
「無音寺をご存じか」
水野の目が変わった。
「どこでそれを」
「先生の稽古帳から」
銅片を机へ置く。
――寺。
――無音。
水野は手を伸ばさなかった。
「鷹見から聞いたことがある」
「行ったのか」
「いや」
「なぜ」
「罠だと思った」
「何の」
「元帳を探す者を集めるための」
玄斎が言う。
「先生はわしへ、行くなと申した」
「私には、行けば何もないと申した」
「別のことを言った」
「相手によって変えたのだろう」
「なぜ」
「どちらが裏切るか、分からなかったからだ」
玄斎の顔が強張る。
「先生は、わしを疑ったのか」
「私も疑われた」
「そなたと同じにするな」
「鷹見にとっては同じだったのかもしれぬ」
「何が」
「役目、忠義、師への思い。どれも人を縛る」
水野は銅片を見た。
「無音寺へ行くつもりか」
「ああ」
「止める」
「なぜ」
「佐平も場所を知っている可能性がある」
「ならば先に行く」
「待て」
「また役目か」
「違う」
水野は青山を見る。
「昨夜、捕えた船員の一人が、無音寺の名を口にした」
「何」
「佐平は鉄箱だけを追っていたのではない。第二冊の場所も探している」
「いつ向かった」
「分からぬ」
「ならば急ぐ」
「だから待て」
水野は立ち上がった。
「海防掛から兵を出す」
「大勢で行けば気づかれる」
「相手も武装している」
「兵を出せば、帳面を焼かれる」
「少人数では殺される」
「前にも同じことがあった」
「鷹見のことか」
「ああ」
「だから今回は兵を出す」
「だから今回も失うかもしれぬ」
水野と新之介の視線がぶつかる。
どちらも正しさの一部を持っている。
大勢なら人は守れる。
だが証は消される。
少人数なら秘密裏に動ける。
だが命を失う。
「二手に分ける」
青山が言った。
皆が彼を見る。
「榊原殿たちが先に少人数で入る。海防掛は離れて待機する」
「佐平がいれば」
水野が問う。
「合図を出します」
「合図を出す前に殺される」
「その可能性はあります」
「傷人が申すな」
「傷人だから申します」
青山は肩の布を見た。
「大勢で追えば、佐平は逃げる。昨夜もそうでした」
「逃がした責は私にある」
「違う」
新之介が言う。
「藤吉殿を運ぶことを選んだのは私だ」
「ならば佐平を逃がした責も」
「私が負う」
「一人でか」
「一人ではない」
新之介は青山を見る。
「そなたも生きている」
「責を分けるつもりか」
「選びを分ける」
青山はしばらく黙った後、頷いた。
「では私も行く」
「傷は」
「動く」
「動けることと行けることは違う」
「そなたが宗次郎へ申した言葉か」
「どこで聞いた」
「海防掛には耳がある」
「便利だな」
「嫌われるがな」
水野は青山を止めようとした。
だが青山は首を振った。
「水野様」
「何だ」
「私も確かめたい」
「何を」
「無音寺に、あなたの名があるか」
座敷が再び静まる。
青山は水野を疑っている。
水野もそれを知っている。
「行け」
水野は短く言った。
「ただし、生きて戻れ」
「できぬ約束はしません」
新之介が思わず青山を見る。
「誰に教わった」
「昨夜、聞いた」
◇
出立は翌日の夜明けと決まった。
新之介、玄斎、青山、源太郎、半九郎。
半九郎は藤吉の容体次第。
海防掛の兵は二里ほど離れて追う。
南町奉行所の捕り手も別の道から近づく。
戸田家は、無音寺周辺の村へ事前に手を回さない。
情報が漏れるのを防ぐためである。
「木更津の鉄箱はどうする」
戸田が問う。
「探索を続ける」
水野が答えた。
「煙の箱は」
「封鎖した海域を夜ごと見張る」
「佐平が先に潜れば」
「潜りを見張っている」
「見張る者を誰が見張る」
新之介が問う。
高梨が呆れた顔をした。
「きりがない」
「だから複数にする」
「海防掛、町方、戸田家から一人ずつ出します」
戸田が言う。
「それでよい」
水野は頷いた。
「新之介」
戸田が呼ぶ。
「はい」
「そなたは今夜、再起館へ戻れ」
「そのつもりです」
「西徳寺にも寄れ」
「藤吉殿のところへ」
「ああ」
「なぜ戸田様が」
「人を置いて帳面だけを追うなと、そなたが言いそうだからだ」
「言いません」
「顔に出ている」
新之介は黙った。
玄斎が笑う。
「弟子の顔は分かりやすい」
◇
役宅を出ると、日はすでに傾いていた。
青山が門まで見送りに来た。
「肩は本当に大丈夫か」
新之介が問う。
「大丈夫ではない」
「ならば残れ」
「大丈夫でない者も必要です」
「なぜ」
「無理をする者の気持ちが分かる」
「役に立つのか」
「止める時に」
「そなた自身を誰が止める」
「榊原殿が」
「断る」
「後見役でしょう」
「再起館のだ」
「戸田様から、江戸の後見も頼まれていました」
「聞いていたのか」
「役宅には耳があります」
「海防掛は嫌われるな」
「知っています」
青山の顔から、少し笑みが消える。
「水野様を信じますか」
「信じぬ」
「私もです」
「だが」
「はい」
「今のところ、逃げてはいない」
青山は頷いた。
「私が海防掛へ入った時、水野様は申しました」
「何と」
「海を守る役目は、海を見ぬ者から嫌われる。だが嫌われることを、正しさの証だと思うな、と」
「よい言葉だ」
「本人が守っているかは分かりません」
「確かめるのか」
「無音寺で」
「帳面に名がなければ」
「それだけでは信じません」
「名があれば」
「それだけで敵と決めません」
新之介は青山を見た。
「鷹見塾へ入れたかもしれないな」
「遠慮します」
「なぜ」
「問いが増えます」
「すでに多い」
「これ以上は眠れません」
◇
西徳寺へ寄ると、藤吉は眠っていた。
医師によれば、熱はあるが、脈は朝より少し強い。
半九郎は枕元で父の手紙を読み返していた。
「無音寺へ行く」
新之介が告げた。
「私も」
「藤吉殿は」
「了順様と医師が見てくださいます」
「それだけか」
「藤吉にも聞きました」
「目を覚ましたのか」
「少しだけ」
「何と」
「行けと」
半九郎は手紙を畳んだ。
「自分が生きているうちに、父の選びを確かめてこいと」
「無理をして話させたのでは」
「いいえ」
「本当に」
「藤吉は、止めても話します」
「皆同じだな」
「榊原殿もです」
新之介は反論できなかった。
「第四冊の場所は」
「旧宅を調べました」
「誰が住んでいる」
「古道具屋の夫婦です」
「『海』の字は」
「家の柱に残っているそうです」
「柱?」
「幼い頃、墨で書いたらしい」
「叱られなかったのか」
「父は、そのまま残しました」
「その下とは」
「柱の下か、床下か」
「今夜調べるのか」
「源太郎殿の手の者が、夫婦へ事情を話します」
「危険だ」
「だから無音寺へ行く前に確認するべきです」
「二手に分かれるか」
「はい」
新之介は考えた。
第二冊。
第四冊。
同時に動けば、どちらかが罠かもしれない。
だが時間をかければ佐平が先に着く。
「第四冊は町方へ任せる」
「私が行くべきでは」
「父上の字が必要か」
「場所を見れば分かります」
「ならば、そなたは無音寺へ」
「なぜ」
「先生が一人で行かなかった場所だ」
半九郎は玄斎を見る。
「私が必要ですか」
「わしには分からぬ」
玄斎は正直に答えた。
「だが玄十郎殿の子が来れば、鷹見先生が残したものを、わし一人の過去にせずに済む」
「分かりました」
半九郎は頷いた。
◇
再起館へ戻ると、夕餉の匂いがした。
米と大根を炊いた粥。
海から拾った米の最後の分である。
塩気はまだ残っている。
吉松が椀を並べていた。
「お帰りなさい」
「ただいま」
「捕まりませんでしたか」
「今のところは」
「次はいつ捕まりますか」
「縁起でもないことを申すな」
宗次郎が奥から出てきた。
「水野隼人正は」
「会った」
「敵か」
「分からぬ」
「またか」
「すぐ決めるな」
「そなたの答えは、いつもそれだな」
「便利だ」
「源太郎殿に怒られるぞ」
「もう怒られた」
宗次郎は粥の椀を受け取った。
片手で持ちにくそうにしている。
吉松が盆ごと膝へ置いた。
「世話をするな」
「こぼされると掃除が増えます」
「そなたは口が悪くなった」
「皆のせいです」
新之介も粥を受け取った。
一口。
薄い塩味。
品川の長屋で子どもが「しょっぱい」と笑った味。
「明朝、下総へ向かう」
新之介が一同へ告げた。
「無音寺を調べる」
「何があるのですか」
清太郎が問う。
「鷹見帳の一冊」
「役職売買と賄賂の記録ですか」
「おそらく」
「持ち帰るのですか」
「見つかれば」
「再起館へ置くのですか」
「置かぬ」
「なぜ」
「ここへ危険を持ち込む」
吉松が顔を上げる。
「もう危険は来ています」
「そうだな」
「では同じです」
「違う」
「何が」
「危険が来ることと、自分から呼ぶことは違う」
宗次郎が口を挟む。
「榊原。再起館へ置かぬなら、どこへ置く」
「複数の場所へ写しを分ける」
「水野と同じか」
「役所だけには置かぬ」
「では誰へ」
「まだ決めていない」
志乃が静かに言った。
「帳面を持つ者ではなく、読む者を選ぶべきです」
「どういう意味だ」
新之介が問う。
「持つだけなら、隠すか売るかになります」
「読む者なら」
「書かれたことを確かめられる」
「誰がよい」
「一人では駄目です」
「それも半九郎と同じだな」
「はい」
志乃は粥を見た。
「米も、一つの蔵へ集めれば燃やされます」
「分けすぎれば足りなくなる」
清太郎が言う。
「だから帳面が要ります」
皆が少年を見る。
「誰へどれだけ分けたか、書いておく」
「帳面を守るための帳面か」
兵馬が呆れる。
「必要です」
「それも奪われる」
「さらに写します」
「きりがない」
「きりがないから、全部は奪えません」
新之介は清太郎を見た。
半九郎と同じ考えへ、少年も自分で辿り着いている。
「清太郎」
「はい」
「明日、そなたは第四冊の探索に立ち会え」
「本当ですか」
「旧宅の柱と床下を調べ、見つけた物を記録する」
「町方と一緒に」
「ああ」
「できます」
「浮かれるな」
「はい」
「危険を感じたら逃げろ」
「帳面は」
「置いて逃げろ」
「でも」
「人が先だ」
清太郎は少し迷い、頷いた。
「分かりました」
宗次郎が言った。
「皆、役目を持つのだな」
「そなたもある」
「米から石を拾うことか」
「傷を治すことだ」
「それだけか」
「それが一番難しい」
「楽をしているようで落ち着かぬ」
「ならば」
新之介は少し考えた。
「藤吉殿へ手紙を書け」
「何を」
「父君のこと。真崎殿のこと。そなたが知ったこと」
「なぜ藤吉へ」
「生きて読む相手がいると思えば、そなたも言葉を選ぶ」
「稽古か」
「責だ」
宗次郎はしばらく黙った。
やがて清太郎から紙と筆を受け取った。
「何から書けばよい」
「自分で決めろ」
「後見役は不親切だな」
「皆に言われる」
◇
夜半。
新之介は道場の縁側に座っていた。
明日の道を頭の中で辿る。
江戸から下総。
船橋。
佐倉道。
成田の東。
香取へ向かう途中。
無音寺。
鷹見塾の隠れ場所。
玄斎が十五年間、行けなかった場所。
新之介の隣へ玄斎が座った。
「眠らぬのか」
「先生こそ」
「怖いと眠れぬ」
「正直ですね」
「歳を取ると、隠すのが面倒になる」
「無音寺に何があると思います」
「第二冊」
「それだけですか」
「鷹見先生の問い」
「何を問われる」
「なぜ来なかった、と」
「先生は何と答えます」
「怖かった」
「それでよいのでは」
「十五年分には短すぎる」
「長く申せば正しくなるものでもない」
玄斎は庭を見る。
月明かりに、干し終えた筵が白く浮かんでいる。
「新之介」
「はい」
「水野をどう思う」
「分かりません」
「そればかりだな」
「先生は」
「憎い」
「それだけですか」
「それだけなら楽だった」
「では」
「鷹見先生を捕えた者。だが今、帳面を守ろうとしている」
「信用できますか」
「できぬ」
「では共に動くのは」
「必要だ」
玄斎は苦く笑った。
「憎い者と同じ舟へ乗る。お前たちが海でしてきたことと同じだな」
「舟は沈みやすい」
「だから見張れ」
「先生もです」
「ああ」
少し沈黙が続いた。
「先生」
「何だ」
「無音寺で水野様の名が出たら」
「すぐには打たぬ」
「本当ですか」
「先に読む」
「その後は」
「分からぬ」
新之介は笑った。
「先生も使うようになりましたね」
「便利だな」
◇
翌朝。
まだ空に星が残る頃、一行は再起館を出た。
新之介。
玄斎。
半九郎。
源太郎。
青山新六郎。
青山は肩を吊っている。
それでも馬へ乗ると言い張ったため、源太郎が止めた。
「駕籠へ」
「侍が駕籠で探索へ行けるか」
「傷人が馬から落ちるよりましです」
「片腕でも乗れる」
「落ちた時は両腕を使います」
「落ちなければよい」
「宗次郎殿と同じことを申しますね」
青山は不満そうに駕籠へ入った。
玄斎は徒歩。
馬を用意されても断った。
「膝が痛いのでは」
新之介が問う。
「歩けば温まる」
「途中で動かなくなったら」
「お前が背負え」
「断ります」
「後見役だろう」
「再起館のです」
半九郎が小さく笑った。
源太郎は道中の書付を確認している。
「海防掛の兵は」
「二里後ろです」
「町方は」
「別街道から」
「戸田家は」
「江戸へ残ります」
「第四冊は」
「清太郎と捕り手二人が旧宅へ向かいました」
「子どもを行かせるのか」
青山が駕籠の中から問う。
「記録役です」
「危険だ」
「本人も知っている」
「それでもか」
「行くことを選んだ」
「大人が止めるべきでは」
新之介は青山を見る。
「そなたも止められなかっただろう」
「私は大人です」
「傷人だ」
「……同じにするな」
再起館の門前で、宗次郎が見送っていた。
吉松に支えられている。
「寝ていろと言った」
「見送りは寝ながらできぬ」
「戻ったら詮議だぞ」
「分かっている」
「逃げるな」
「逃げぬ」
「約束できるか」
「できる」
宗次郎は新之介を見た。
「今度は、そなたが戻れ」
「戻る」
「簡単に約束するな」
「戻る場所を間違えぬ」
宗次郎は頷いた。
玄斎が門を出る。
半九郎が続く。
新之介は一度だけ振り返った。
再起館。
弟子たち。
干された米。
傷人。
帳面を写すための紙。
国を揺らす話が進む中でも、朝の掃除は始まっている。
その普通の営みを守るために帳面を追う。
帳面を守るために、人を犠牲にしない。
言葉にすれば簡単だ。
だが道の先では、必ず選ばねばならない時が来る。
新之介たちは東へ向かった。
下総の空は、江戸より少し広く見えた。
昼前、船橋宿を越えた辺りで、先を行く農夫が道端に倒れているのを見つけた。
源太郎が駆け寄る。
男の背には、短い矢が刺さっていた。
「生きている」
半九郎が脈を取る。
男は薄く目を開けた。
「寺へ……行くな」
「無音寺か」
新之介が問う。
農夫の目が見開かれる。
「鐘が……鳴った」
「廃寺ではないのか」
「誰も……いないのに」
「誰に撃たれた」
「顔に……火傷」
佐平。
すでに先へ入っている。
「ほかに何を見た」
農夫は震える手で、道の先を指した。
「侍が……一人、吊られている」
「誰だ」
「波の印……」
海防掛の者。
青山が駕籠から降りようとした。
「部下かもしれない」
「待て」
新之介が止める。
「罠です」
「それでも」
「だからこそ急いで、慎重に行く」
「同時にはできない」
「する」
源太郎が農夫の手当てを始めた。
「近くの村へ運びます」
「そなたは残るのか」
「いえ。後ろの町方へ引き渡します」
「時間が」
「人が先です」
新之介は源太郎を見た。
「そうだ」
農夫は息を切らしながら、もう一度言った。
「鐘が……三度」
その直後、遠くから音が響いた。
ごうん。
低い鐘の音。
山の向こう。
一度。
間を置いて、二度。
そして三度。
無音寺。
音のない寺と呼ばれた場所で、鐘が鳴っている。
玄斎の顔から血の気が引いた。
「先生」
「十五年前も」
「何」
「同じように三度鳴った」
「誰が」
「鷹見先生が捕えられた日だ」
風が道を渡った。
草が一斉に揺れる。
その向こうに、寺へ続く細い山道がある。
佐平は待っている。
第二冊とともに。
あるいは、帳面など最初からなく、新之介たちを誘い込むためだけに。
青山が刀へ手を置いた。
「行くぞ」
新之介も頷く。
「ただし一つずつだ」
「何を」
「吊られた者を先に助ける」
「帳面は」
「その後だ」
玄斎が山道を見上げた。
「鷹見先生も、そう申すだろう」
「分かるのですか」
「分からぬ」
玄斎は歩き始めた。
「だから今度は、自分で選ぶ」
鐘が、もう一度鳴った。
今度は一度だけ。
合図か。
警告か。
弔いか。
新之介たちは山道へ入った。
木々が空を覆い、朝の光が消えていく。
無音寺は、その奥で待っていた。
(第三十八章へ続く)

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