上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第三十五章

目次

第三十五章 木更津の潜り

 夜明け前の江戸湊には、まだ町の騒がしさが届いていなかった。

 水面に浮かぶ船影は黒く、帆柱だけが薄明かりの中へ突き出ている。

 新之介は伊助の舟へ乗り込む前に、腰の刀を確かめた。

 品川沖で鞘ごと投げたため、鯉口の辺りに新しい傷がついている。

 刀は武士の魂だと教える者なら、顔をしかめるだろう。

 だが人の命を守るために投げた傷なら、恥じる必要はない。

「今日は海へ投げないでください」

 背後から源太郎が言った。

「必要がなければ投げぬ」

「必要があっても投げないでください」

「では、そなたが代わりに投げられろ」

「刀より役人の方が重いです」

「そうか」

「真面目に聞いてください」

 源太郎は小さな荷包みを舟へ積んだ。

 町方の手勢は連れていない。

 水野隼人正の配下が新之介たちの動きを見張っている可能性があるため、大勢で動けば木更津へ着く前に相手へ知られる。

 同行するのは、新之介、源太郎、真崎半九郎、黒川玄斎、伊助。

 そして辰蔵だった。

「なぜそなたがいる」

 新之介が問う。

「元船頭の弥助が来るはずでは」

「弥助は昨日の舟板で腰を打ちました」

「先生と同じか」

「わしの腰は打っておらぬ」

 玄斎が舟の中から答えた。

「では辰蔵が船を扱えるのか」

「火消しになる前、材木を運ぶ筏に乗っていました」

「筏と海は違う」

「燃える家と燃える船ほどは違いません」

「船を燃やす話ではない」

「何が起きるか分かりませんから」

 辰蔵は鳶口を舟底へ置いた。

 新之介は止めるのを諦めた。

「再起館は」

「志乃殿とお園、それに兵馬たちがおります。戸田様の家臣も二人、見張りに来てくださいました」

「宗次郎は」

「不機嫌です」

「なぜだ」

「置いていかれたからでしょう」

「傷人が当然だ」

「本人は、歩けると申しております」

「歩けることと船に乗れることは違う」

 玄斎が言った。

「今のお前が申すと、説得力があるな」

「先生は私を病人だと思っておられるのですか」

「寝不足は病に近い」

「先生も同じです」

「わしは年寄りだから、いつも眠い」

 伊助が舵の横で舌打ちした。

「喋ってばかりなら、置いていくぞ」

 五人は急いで舟へ乗った。

 岸綱が解かれる。

 舟は静かに江戸湊を離れた。

 東の空が、少しずつ白くなり始めていた。

 ◇

 木更津までは、風がよければ半日とかからない。

 だが江戸湾の潮は、川とは違う。

 伊助は風向きと波を見ながら、帆を上げたり畳んだりした。

 新之介たちは舟の釣り合いを崩さぬよう、言われた場所から動けない。

「海鼠屋甚八の倅について、何か分かりましたか」

 半九郎が源太郎へ問う。

「名は重吉。三十五歳。父が死んだ後、海へ潜る仕事を継いでいました」

「妻子は」

「妻は三年前に病死。子はいません」

「ほかに身内は」

「妹が一人。請西村から少し離れた漁村へ嫁いでいます」

「妹は無事か」

「今のところは」

「今のところ、ですか」

「水野様の配下が先に動いているかもしれません」

 源太郎は懐の書付を確かめた。

 南町奉行所から木更津の代官所へ宛てた添書である。

 正式な捕物ではない。

 海鼠屋重吉の死について話を聞き、相模屋の件との関わりを調べるためのものだった。

「代官所は協力するでしょうか」

 新之介が問う。

「書付がある以上、門前払いはできません」

「できないだけか」

「喜んで助けるとは限りません」

「水野隼人正の名が出れば、なおさらだな」

 海防掛は幕府の役目。

 地方の代官が正面から逆らう相手ではない。

 重吉の死が、すでにただの水難事故として処理されていても不思議ではなかった。

「長兵衛は、重吉が殺されたことを知っていたのでしょうか」

 半九郎が言う。

「私たちへ教えた時には、知らなかったはずだ」

 新之介は答えた。

「船にいたからな」

「では重吉を殺した者は、長兵衛とは別に動いていた」

「水野かもしれぬ」

「青山新六郎かもしれません」

 源太郎がすぐに言った。

「青山殿は警告へ来ただけだ」

「それが芝居かもしれません」

「疑うことと決めつけることは違う」

「分かっています。だから疑っております」

 新之介は苦笑した。

 自分の言葉が、今度は源太郎から返ってきた。

「半九郎」

「はい」

「父上は海鼠屋甚八を知っていたと思うか」

「分かりません」

「弁財丸の荷を追っていたなら、海底の品を拾う者とは接点があったはずだ」

「父の遺品には、海鼠屋の名はありませんでした」

「遺品を全て見たのか」

「私が整理しました」

「誰かに渡した物は」

 半九郎は考え込んだ。

「道具の多くは、父の弟子だった男へ」

「名は」

「藤吉です。父の最期まで身の回りを手伝っていました」

「今どこに」

「木更津です」

 新之介と源太郎が同時に半九郎を見た。

「なぜ先に申さなかった」

「木更津にいることは知っていましたが、海鼠屋と関わりがあるとは」

「何の仕事をしている」

「網を繕う職人です」

 伊助が舵を握ったまま口を挟んだ。

「網直しは、海の話を集める」

「なぜだ」

「漁師は破れた網と一緒に愚痴も置いていくからよ」

「藤吉殿のところへ先に行く」

 新之介が言った。

「代官所よりもですか」

 源太郎が眉を寄せる。

「先に役所へ行けば、こちらが何を探しているか広まる」

「筋を通すのでは」

「書付は使う。だが順序は選ぶ」

「筋を通しながら急ぐ、ですか」

「ああ」

「便利な言葉になってきましたね」

 源太郎は呆れたように言った。

 ◇

 昼前、木更津の浜が見えてきた。

 江戸とは違い、海と陸の境が近い。

 低い家々。

 干された網。

 砂浜へ引き上げられた小舟。

 潮と魚と海藻の匂いが混じっている。

 伊助は人の少ない入り江へ舟を入れた。

「表の船着き場へ着けぬのか」

 玄斎が問う。

「目立ちたいなら、そうする」

「歩く距離が増えるな」

「腰が痛いか」

「今は膝だ」

「先生は海へ来るたび悪いところが増えますね」

 辰蔵が言う。

「歳を取れば分かる」

「その前に火事で死なないよう気をつけます」

 舟を下りると、伊助は漁師らしい男へ声をかけ、藤吉の居場所を尋ねた。

 男は警戒するように一行を見た。

「江戸の侍が何の用だ」

「網を直してもらう」

「網なんぞ持ってねえじゃねえか」

「心の網だ」

 伊助が真顔で答える。

 男はしばらく伊助を見つめた後、笑った。

「相変わらず口だけは達者だな」

「知り合いか」

 新之介が問う。

「昔、一緒に船へ乗った」

「なら最初からそう言え」

「面白くない」

 漁師は藤吉の小屋を教えた。

 浜から北へ少し歩き、松林の手前。

 だが最後に、声を落とした。

「今朝から役人がうろついている」

「代官所の者か」

 源太郎が問う。

「見たことのない侍だ。浜の者へ重吉のことを聞いている」

「何人」

「四人。江戸者の話し方だった」

 水野の手の者か。

 あるいは青山新六郎自身が来ているのか。

「藤吉の小屋へも」

「さあな。ただ、今朝の藤吉は仕事場へ出ていない」

 半九郎の顔が曇る。

「急ごう」

 ◇

 藤吉の小屋は、網と綱に囲まれていた。

 戸は閉じている。

 表に人の気配はない。

 新之介が戸へ手をかける前に、玄斎が言った。

「中にいる」

「分かるのですか」

「息を殺している者の気配がする」

「本当か」

「半分は勘だ」

 新之介は戸を叩いた。

「藤吉殿。真崎半九郎だ」

 返事はない。

 半九郎が前へ出る。

「藤吉。私だ。玄十郎の倅だ」

 中で何かが倒れる音がした。

 新之介は戸を開けた。

 鍵はかかっていない。

 薄暗い小屋の奥で、一人の男が短刀を握っていた。

 五十ほど。

 日に焼けた顔。

 右耳が半分欠けている。

 男は刃を自分の喉へ向けていた。

「近づくな」

「藤吉」

 半九郎が呼ぶ。

 男の目が揺れた。

「若様……」

「その呼び方はやめろと申しただろう」

「なぜ来た」

「父上のことを聞きに来た」

「帰れ」

「海鼠屋重吉が殺された」

 藤吉の手が震えた。

「誰から聞いた」

「江戸で」

「なら、もう遅い」

「何がだ」

「皆、殺される」

 藤吉は短刀を下ろさない。

 新之介は刀へ手をかけず、一歩だけ小屋へ入った。

「誰に追われている」

「分からぬ」

「今朝、江戸の侍が来たか」

「来た」

「何を聞かれた」

「弁財丸の荷をどこへ隠したか」

 新之介たちは顔を見合わせた。

「藤吉殿は知っているのか」

「知らぬ」

「ではなぜ殺される」

「知らぬと信じてもらえぬからだ」

 藤吉は半九郎を見る。

「若様、戻れ。玄十郎様と同じになる」

「父は何を知っていた」

「話せぬ」

「私にもか」

「そなたにこそ話せぬ」

「なぜだ」

「玄十郎様が命を懸けて隠したからだ」

 半九郎の顔が強張る。

「父は私へ何も残さなかった」

「残した」

「何を」

「そなたを生かした」

 藤吉の声が震えた。

「帳面を持つより、名を知るより、生きる方を残した」

「そのために父は十二年苦しんだ」

「そうだ」

「ならば、私は知らぬままでよいのか」

「よい」

「よくない!」

 半九郎の声が小屋へ響いた。

「父の傷を見て育った。右手が震えるたび、筆を持てぬたび、何も聞けなかった。聞けばもっと苦しませると思った」

 藤吉は目を伏せる。

「それでも父は死んだ。私は何も知らぬままだ」

「玄十郎様は、それを望んだ」

「父が望んだことが、すべて正しいとは限らない!」

 藤吉が顔を上げた。

 半九郎は涙を見せなかった。

 だが拳を強く握っている。

「守るための沈黙が、別の者を傷つけることもある。父が正しかったかどうかではない。父が何を選び、その結果何が起きたのかを知りたい」

「知って、どうする」

「決める」

「何を」

「父と同じように隠すか。皆へ明らかにするか」

 藤吉は長く半九郎を見つめた。

 短刀を握る手から、少しずつ力が抜ける。

「若様は、玄十郎様より怖いことを申す」

「なぜだ」

「隠すより、明らかにする方が多くの敵を作る」

「もう敵はいる」

 半九郎は一歩近づいた。

「ならば、せめて何のために狙われるのか知りたい」

 藤吉の手から短刀が落ちた。

 床板へ乾いた音を立てる。

 新之介は短刀を足で遠ざけた。

「水を」

 藤吉は呟いた。

 辰蔵が水筒を渡す。

 藤吉は両手で受け取り、一口飲んだ。

「重吉は、三日前に私のところへ来た」

「何を話した」

 新之介が問う。

「海底で見つけた、と」

「弁財丸をか」

「船ではない」

「では何を」

「鐘だ」

「鐘?」

「船鐘だ」

 伊助が眉を寄せた。

「船に鐘を積むことはあるが、弁財丸のものと分かったのか」

「鐘の胴に名が彫られていた」

「どこで見つけた」

「請西村の沖ではない」

 藤吉は周囲を気にするように声を落とした。

「富津の南。岩瀬の瀬だ」

「弁財丸は浦賀沖で沈んだことになっている」

「だから誰も探さなかった」

「船は木更津へ戻った後、富津へ向かったのか」

「そうだ」

「船鐘のほかには」

「鉄の箱を見つけた」

 半九郎が身を乗り出す。

「帳面か」

「箱は開かなかった。重吉は海底で縄をかけ、翌日引き上げるつもりだった」

「翌日とは」

「殺された日だ」

 重吉は箱を見つけた直後に殺された。

 ならば相手は、海底の場所を聞き出そうとしたはずである。

「場所を誰かへ話したか」

「私だけだと申していた」

「なぜそなたへ」

「玄十郎様から預かった物を見せたからだ」

「何だ」

 藤吉は小屋の奥へ進んだ。

 網の山を動かす。

 その下に、古い木箱が隠されていた。

 箱を開ける。

 中には、腐食した小さな銅板があった。

 半九郎が手に取る。

 海水に長く晒された跡がある。

 表面に文字が刻まれていた。

 ――弁財丸。

「父が持っていたのか」

「十二年前、玄十郎様が重傷で戻った時、懐に入っていた」

「海鼠屋甚八から受け取ったのか」

「そう申していた」

「ほかには」

「一枚の紙」

 藤吉は木箱の底を外した。

 二重底になっている。

 中から油紙に包まれたものを出した。

 開くと、小さな海図が現れた。

 江戸湾。

 木更津。

 富津。

 浦賀。

 いくつかの場所に墨で印がついている。

 岩瀬の瀬にも、丸印があった。

 そして、その横に小さく書かれている。

 ――鐘の下、三尋。箱二つ。

「二つ」

 源太郎が言った。

「重吉は一つしか申さなかったのか」

「一つ見つけたと」

「もう一つある」

 新之介は海図を見た。

 鷹見帳の元本。

 異国の銀。

 どちらがどちらの箱へ入っているかは分からない。

 あるいは両方とも違うものかもしれない。

「なぜ今まで隠していた」

 半九郎が問う。

「玄十郎様との約束だ」

「何と」

「若様が自ら父上の傷の理由を追う日まで、渡すなと」

 半九郎の顔が変わった。

「父は、私が追うことを知っていたのか」

「追わぬことを願っていた。だが、追うなら止められぬとも」

 藤吉は頭を下げた。

「だから私は待った」

「十二年も」

「約束だった」

 半九郎は海図を見つめた。

 父が自分へ何も残さなかったわけではない。

 ただ、受け取る時を選ばせた。

「重吉は、この海図を見たのか」

「ああ」

「写しを」

「作っていない」

「本当に」

「字が苦手な男だった。場所を頭へ入れただけだ」

 新之介は小屋の外へ目を向けた。

 人の気配。

 先ほどまでなかった足音が、砂を踏んでいる。

「伏せろ」

 新之介が叫んだ。

 戸板を貫いて矢が飛び込む。

 藤吉の肩をかすめ、壁へ刺さった。

 続けて二本。

 玄斎が木刀で一本を叩き落とす。

 辰蔵が藤吉を網の陰へ引いた。

「囲まれた!」

 源太郎が戸の隙間から外を見る。

 松林の側に二人。

 浜側に三人。

 全員が編笠を深くかぶり、刀を差している。

「今朝の侍か」

 藤吉が怯えた声で言う。

「同じか」

「分からぬ。顔を見ていない」

 外から声がした。

「藤吉を渡せ」

「名を申せ!」

 源太郎が返す。

「江戸の町方に名乗る必要はない」

「こちらを知っているな」

「海図も渡せ」

 新之介たちは顔を見合わせた。

 小屋の中で話したことを聞かれていたのか。

 それとも最初から海図の存在を知っていたのか。

「水野隼人正の命か」

 新之介が問う。

 一瞬の沈黙。

「答える必要はない」

「青山新六郎殿か」

 返事はない。

 だが外の者たちが動いた。

 戸の両側へ分かれる。

 火をつけるつもりかもしれない。

「裏口は」

 辰蔵が問う。

「ない」

 藤吉が答える。

「床下は」

「網を入れる穴がある」

「人が通れるか」

「子どもなら」

「大人が通れるようにする」

 辰蔵は鳶口を床板へ差し込んだ。

「壊すのか」

「火消しは、出口がなければ作ります」

「まだ火は出ていない」

「出てからでは遅い」

 辰蔵と伊助が床板を剥がし始める。

 源太郎は藤吉の肩を布で押さえた。

「海図を隠せ」

 新之介が半九郎へ言う。

「どこへ」

「着物の内側だ」

「奪われれば同じです」

「ならば覚えろ」

 半九郎は海図へ目を落とした。

 印の場所。

 岩瀬の瀬。

 鐘の下、三尋。

 箱二つ。

「覚えました」

「早いな」

「父の字です」

 半九郎は海図を油紙へ戻した。

 その時、小屋の屋根へ何かが落ちた。

 油の匂い。

「火だ!」

 辰蔵が叫ぶ。

 屋根の藁へ炎が走った。

 外の者たちは、小屋ごと証を焼くつもりである。

「水を!」

 伊助が桶を探す。

「間に合いません!」

 辰蔵は床板をさらに剥がした。

 人一人が通れる穴が開く。

 下は湿った砂地。

「藤吉殿から出せ!」

 源太郎と伊助が藤吉を穴へ降ろす。

 半九郎が続く。

 玄斎は戸の前に立った。

「先生も早く」

 新之介が言う。

「背を向ければ入ってくる」

「私が残ります」

「お前は海図を持つ者を守れ」

「先生は」

「木刀は燃えやすい。急がねばな」

「冗談を申している場合ですか」

 戸が蹴破られた。

 敵の一人が入ってくる。

 玄斎の木刀が喉元を打つ。

 男が倒れる。

 二人目の刀を受け、手首を返して刃を壁へ逸らす。

 天井から火の粉が落ち始めた。

 新之介も刀を抜いた。

「先生、二人で下がります」

「命じるな」

「弟子ではなく後見役として申します」

「なお悪い」

 三人目が窓を破って入る。

 新之介が刀の峰で肩を打つ。

 相手は倒れながら、懐から短筒を出した。

 銃口が玄斎へ向く。

 新之介は蹴った。

 銃声。

 弾は屋根を抜いた。

 燃える藁が崩れ、小屋の中へ落ちてくる。

「今だ!」

 玄斎が男を戸口へ投げ飛ばした。

 新之介と玄斎は床穴へ向かう。

 辰蔵が先に降り、下から手を伸ばしている。

「先生から!」

「年寄り扱いするな!」

「今だけです!」

 玄斎が穴へ降りる。

 新之介も続いた。

 最後に辰蔵が鳶口で近くの網を引き寄せ、穴の上へかぶせた。

 火の粉を防ぐためである。

 床下は低い。

 這うようにして小屋の裏へ抜ける。

 外へ出ると、藤吉と半九郎、源太郎、伊助が松林の陰にいた。

「敵は」

 新之介が問う。

「三人は小屋へ入りました。二人は浜側です」

 源太郎が答える。

「舟を押さえるつもりだ」

 伊助が走り出そうとする。

 新之介が止めた。

「待て。海図を狙っているなら、舟へ先回りする」

「ではどうする」

「藤吉殿、ほかに舟は」

「重吉の小舟が入り江にある」

「場所は」

「この先の崖下だ」

「使えるか」

「櫂はある。帆はない」

「十分だ」

 小屋の火が大きくなった。

 敵の一人が外へ飛び出し、周囲を見回す。

「見つかるぞ」

 玄斎が言う。

「二手に分かれる」

 新之介は素早く決めた。

「源太郎、藤吉殿と海図を持って重吉の舟へ。半九郎も行け」

「榊原殿は」

「伊助、辰蔵、先生と敵を引きつける」

「海図は私が」

 半九郎が言う。

「狙われるぞ」

「だからです。父の遺したものです」

「死ねば意味がない」

「生きて運びます」

 半九郎の目は揺れていなかった。

 新之介は頷いた。

「岩瀬の瀬で落ち合う」

「今から潜るのですか」

「敵より先に箱を上げる」

「潜りがいません」

「藤吉殿、潜れるか」

 藤吉は傷ついた肩を押さえた。

「浅ければ」

「三尋だ」

「六間ほどか。傷がなければ行ける」

「今は無理だ」

 伊助が言う。

「重吉の道具が舟にあるかもしれねえ」

「道具だけでは潜れぬ」

「潜れる者なら一人いる」

 伊助は浜の方を見た。

「誰だ」

「わしだ」

 新之介は伊助を見た。

「船頭ではなかったのか」

「若い頃は潜りもやった」

「先に申せ」

「聞かれなかった」

「できるのか」

「昔ほど息は続かねえ」

「三尋なら」

「一度は行ける」

 岩瀬の瀬には箱が二つある。

 一度で引き上げられるとは限らない。

「私も潜る」

 辰蔵が言った。

「そなたまでか」

「筏から落ちて覚えました」

「泳げるだけでは潜れぬ」

「縄をかけるくらいなら」

 伊助が辰蔵の身体つきを見る。

「若い。息も続きそうだ」

「決まりです」

 辰蔵は笑った。

「火消しが海底の箱を引き上げるのか」

「沈んだ家だと思えば同じです」

「何が同じか分からぬ」

 小屋の方から敵の声が近づく。

 迷っている時間はなかった。

「行け」

 新之介が命じた。

 源太郎、半九郎、藤吉が松林の奥へ走る。

 新之介、玄斎、伊助、辰蔵は反対側へ姿を見せた。

「こちらだ!」

 辰蔵がわざと大声を上げる。

 敵二人が追ってくる。

 新之介たちは浜へ向かって走った。

 ◇

 砂浜では足を取られる。

 敵は刀を抜いて追ってきた。

 新之介たちの舟を見張っていた二人も加わり、四人になった。

 小屋へ入った三人のうち一人は倒したままだが、残りが追ってくれば六人になる。

「先生、走れますか」

「走っておる」

「遅いです」

「砂が悪い」

「歳では」

「砂だ」

 玄斎は文句を言いながらも、新之介とほぼ同じ速さで走っている。

 伊助が先に舟へ着いた。

「綱を切れ!」

 辰蔵が綱を解く。

 だが敵の一人が弓を構えた。

「危ない!」

 新之介は辰蔵を押し倒す。

 矢が舟縁へ刺さる。

 二本目。

 玄斎が木刀で払う。

「今日も矢か」

「先生の木刀は便利ですね」

「刀より投げぬからな」

 敵が間合いへ入る。

 新之介は刀を抜いた。

 一人目の刃を受け、砂へ足を沈めながら押し返す。

 陸の道場とは違う。

 踏み込みが利かない。

 相手も同じだが、人数が多い。

 辰蔵は鳶口で敵の刀を絡める。

「斬る道具ではないので!」

 引く。

 敵の身体が崩れる。

 伊助が櫂で膝を打った。

 玄斎は木刀で二人を相手にしている。

 一人の突きを避け、もう一人の手首を打つ。

 だが背後から、さらに二人が浜へ現れた。

「六人です!」

 辰蔵が叫ぶ。

「数えなくてよい!」

 新之介は相手の刃を払い、柄頭で顎を打つ。

 男が倒れる。

 その編笠が外れた。

 見覚えのある顔だった。

「そなたは」

 戸田家上屋敷で、新之介を病間へ案内した家臣の一人。

 沢井新八ではない。

 名は思い出せない。

 だが戸田家の者である。

「三宅の手の者か」

 男は答えず、砂を掴んで新之介の顔へ投げた。

 新之介は腕で目を庇う。

 その隙に男が起き上がり、逃げようとした。

 玄斎の木刀が足を払う。

「知っておる者か」

「戸田家の家臣です」

「では水野の手ではないのか」

「分かりません」

 倒れた男へ刀を突きつける。

「名を申せ」

「……戸田家用人、井沢敬之助」

「なぜここにいる」

「答える必要はない」

「水野隼人正の命か」

 井沢は口を閉じた。

 別の敵が新之介へ斬りかかる。

 伊助の櫂が横から飛び、肩へ当たった。

「話は後だ! 舟を出すぞ!」

 残る敵たちは、負傷した仲間を置いて退き始めた。

 逃げる方向は小屋ではない。

 重吉の小舟がある崖下。

「半九郎たちを追うつもりだ!」

 新之介が走ろうとする。

 玄斎が止めた。

「待て」

「なぜ」

「わざと見せている」

 敵二人は崖下へ向かうように見せ、途中で松林へ消えた。

 追えば伏兵がいるかもしれない。

「では先に海へ出る」

 伊助が舟を押した。

 辰蔵も加わる。

「井沢はどうする」

「連れていく」

 源太郎がいない以上、縄を打つ者がいない。

 新之介は井沢の帯を抜き、両手を縛った。

「歩けるか」

「情けは要らぬ」

「情けではない。証人だ」

 井沢を舟へ乗せる。

 玄斎も乗り込んだ。

 辰蔵が舟を押し、最後に飛び乗る。

 伊助はすぐに帆を上げた。

 風が膨らむ。

 舟は浜を離れた。

 燃える藤吉の小屋が、岸で黒い煙を上げている。

「半九郎たちは」

 辰蔵が崖下を見る。

 小舟の姿はない。

「先に出たようだ」

 新之介は海面を探した。

 遠くに一艘、小さな舟が南へ進んでいる。

 源太郎が櫂を漕ぎ、半九郎が舵を取っている。

 藤吉は舟底に横たわっているようだ。

「追いつけるか」

「こちらは帆がある」

 伊助は風を読む。

「だが岩瀬の瀬に着く前に、別の舟が来る」

「どこだ」

 伊助が沖を指した。

 大きめの快速船が一艘、北から南へ向かっている。

 帆に印はない。

 だが舳先には武士が立っていた。

 紺の羽織。

 昨夜、再起館へ来た男。

「青山新六郎」

 新之介が呟いた。

 青山もこちらへ気づいた。

 快速船は少し進路を変え、新之介たちへ近づいてくる。

 井沢敬之助の顔色が変わった。

 その反応を、新之介は見逃さなかった。

「青山殿を知っているな」

「……」

「同じ側か」

 井沢は答えない。

 だが目に浮かんだのは安心ではない。

 恐れだった。

「青山殿に捕まると困るのか」

「黙れ」

「水野様の命で動いているのではないな」

 井沢の唇が震える。

 玄斎が静かに言った。

「こやつらは、水野の名を使っているだけかもしれぬ」

「誰の命だ」

 新之介は井沢へ詰め寄った。

「申せ」

 快速船から声が飛んだ。

「榊原殿!」

 青山だ。

「舟を止めよ!」

 伊助は新之介を見る。

「どうする」

「止めぬ」

「海防掛の船だぞ」

「岩瀬の瀬へ急ぐ」

 青山の船がさらに近づく。

「海鼠屋重吉殺しの疑いで、藤吉を引き渡せ!」

 半九郎たちの小舟へ向けた言葉だった。

「藤吉が重吉を殺しただと」

 辰蔵が驚く。

「偽りです!」

 井沢が突然叫んだ。

 全員が彼を見る。

「青山は藤吉を捕え、口を塞ぐつもりだ!」

「なぜそう思う」

 新之介が問う。

「青山は水野の犬だ!」

「そなたは違うのか」

 井沢は苦しげに顔を歪めた。

「私は……戸田家を守る」

「誰の命で」

「三宅様だ」

「三宅殿は捕えられている」

「捕えられる前に命じられた!」

「海図を奪えと」

「違う!」

「では」

「元帳を水野より先に取り戻せと!」

 新之介は言葉を失った。

 三宅主膳は戸田を殺そうとする以前から、鷹見帳の元本を追っていた。

 戸田家の借財。

 三河屋との取引。

 相模屋。

 すべてを隠すためではなく、元帳を手に入れて何かをしようとしていた。

「取り戻して、どうする」

「殿へ渡す」

「戸田様へ」

「三宅様は申された。御家を立て直すには、帳面に記された借財と贈金の流れを先に押さえねばならぬと」

「ならば、なぜ藤吉を殺そうとした」

「私は殺していない!」

「火をつけただろう」

「藤吉を脅して海図を出させるだけのはずだった!」

「仲間が火を放った」

「私の命ではない!」

 井沢の声に、嘘だけではない混乱があった。

 同じ一団の中に、別の命を受けた者が混じっていたのかもしれない。

「重吉を殺したのは」

「知らぬ」

「本当に」

「我らが来た時には死んでいた」

 新之介は青山の快速船を見る。

 水野の配下。

 三宅の手勢。

 さらに別の者。

 誰もが元帳を探している。

 誰が重吉を殺したか、まだ決められない。

「榊原殿!」

 青山の声が再び響いた。

「その男を渡せ!」

「どの男だ!」

 新之介が返す。

「戸田家用人、井沢敬之助! 重吉殺しの下手人だ!」

 井沢の顔が青ざめた。

「違う……」

「青山殿は、そなたの名を知っている」

「罠だ」

「何の」

「全てを私へ負わせるつもりだ」

 青山の船から弓が構えられた。

 狙いは新之介ではない。

 井沢敬之助。

「伏せろ!」

 矢が飛ぶ。

 新之介は井沢を舟底へ倒した。

 矢が帆柱へ刺さる。

「青山殿!」

「その男は危険だ!」

「ならばなぜ射る!」

「逃げるからだ!」

「縄を打ってある!」

 二本目の矢。

 玄斎が木刀で弾く。

「話し合う気はなさそうだ」

「先生、木刀が折れます」

「お前の刀より長持ちしておる」

 伊助が舵を切った。

 舟は大きく右へ傾き、青山の船から離れる。

「追われるぞ!」

「岩瀬の瀬まで逃げる!」

「場所を知られる!」

「すでに知っているかもしれぬ!」

 前方の半九郎たちも速度を上げた。

 二艘の小舟。

 一艘の快速船。

 南へ向かう海上で、追走が始まった。

 ◇

 岩瀬の瀬は、海面からは何も見えなかった。

 ただ周囲より波が複雑に交わり、ところどころ白く砕けている。

 伊助は海図の写しも持たず、藤吉から聞いた言葉と海の形だけで場所を探した。

「もっと左だ!」

 先を行く藤吉が叫ぶ。

 源太郎たちの小舟が岩礁の手前で止まる。

 新之介たちも追いついた。

 青山の快速船は岩礁へ近づけず、少し離れた場所で帆を下ろした。

 小舟を降ろす支度をしている。

「時間がない」

 伊助は海へ手を入れ、潮の流れを確かめた。

「辰蔵、潜るぞ」

「はい」

「腰へ縄を結べ。箱を見つけても、すぐ引くな」

「なぜです」

「海底で何に絡んでいるか分からねえ。無理に引けば、こっちが沈む」

「分かりました」

「本当に分かったか」

「火事場でも、梁を無理に引けば屋根が落ちます」

「何でも火事にするな」

 辰蔵は着物を脱ぎ、褌姿になった。

 伊助も上着を脱ぐ。

 歳を取っているが、肩と背には船乗りの筋肉が残っていた。

 源太郎が藤吉の傷を確かめる。

「場所はここで間違いないか」

「鐘が沈んだ位置から、南へ七間」

「海図には鐘の下と」

「潮で動いた。重吉が見つけた時、鐘は箱から離れていた」

「先に言ってください」

「今、思い出した」

「皆そればかりです!」

 半九郎は海図を広げ、周囲の岩の形と見比べた。

「父の印は、あの岩を向いています」

 海面から突き出た、平たい岩。

 その延長線上。

 伊助が頷いた。

「そこだ」

 腰縄の端を新之介と玄斎が持つ。

「一度引けば、まだ潜っている。二度なら箱を見つけた。三度なら引き上げろ」

 伊助が言った。

「辰蔵は」

「同じ合図だ。縄を混ぜるなよ」

「分かっている」

 伊助と辰蔵は舟縁へ立った。

 青山の船から小舟が二艘降ろされる。

 青山本人も乗っている。

「急げ!」

 伊助と辰蔵が海へ飛び込んだ。

 水しぶき。

 二人の姿が海面から消える。

 縄が少しずつ繰り出される。

 一尋。

 二尋。

 三尋。

 さらに下へ。

 新之介は縄の震えを手のひらで感じた。

 海底で人が動いている。

「合図は」

 玄斎が問う。

「まだです」

 半九郎は別の縄を握っている。

 辰蔵の縄。

 源太郎は青山の小舟を見張る。

「近づいてきます」

「止められるか」

「町方の書付を見せます」

「海の上で役に立つか」

「役人の理屈を試します」

 源太郎は奉行所の添書を掲げた。

「南町奉行所の詮議中だ! 近づくな!」

 青山は立ち上がった。

「海防に関わる品だ! こちらへ引き渡せ!」

「まだ何も見つけていない!」

「ならば潜るのをやめよ!」

「なぜだ!」

「異国船の火薬が沈んでいる恐れがある!」

 新之介は眉を寄せた。

 火薬。

 長兵衛の船倉にもあった。

 弁財丸が異国の銀を積んでいたなら、火薬や武器も運んでいた可能性がある。

「伊助たちを上げるか」

 半九郎が問う。

「待て」

 縄が一度引かれた。

 伊助からの合図。

 まだ潜っている。

「火薬なら箱を動かすのは危険です」

 源太郎が言う。

「だが青山殿が真実を申しているとは限らぬ」

 玄斎が答える。

 辰蔵の縄が二度引かれた。

「見つけた!」

 半九郎が叫ぶ。

 続いて伊助の縄も二度。

 二人とも箱へ辿り着いた。

「引き上げる準備を!」

 藤吉が船底から滑車のような木具を出した。

 重吉が使っていた潜り道具である。

 縄を通し、箱へかけた綱を巻き上げる。

「辰蔵の縄が三度!」

 半九郎が叫んだ。

「引け!」

 新之介たちは身体ごと縄を引いた。

 重い。

 辰蔵の身体だけではない。

 何かに絡んでいる。

「動かぬ!」

「箱を抱えているのかもしれない!」

「引きすぎるな!」

 伊助の縄も三度引かれた。

 二人とも上げろという合図。

 源太郎と藤吉が伊助の縄へ加わる。

 青山の小舟が近づく。

「潜りを上げろ! 海底の品に触れるな!」

「もう触れている!」

 源太郎が返す。

「危険だ!」

「ならば射るな!」

 青山の部下が弓へ手をかけたため、源太郎が怒鳴った。

 青山は部下を止めた。

「矢は使うな!」

 その声には、本気で潜りの命を案じる響きがあった。

 新之介は一瞬だけ青山を見る。

 敵と決めつけられない。

 だが今は縄を引く。

「来るぞ!」

 水面へ泡が上がった。

 最初に辰蔵の頭が出る。

 荒い息。

 片腕で縄を抱えている。

「箱が!」

 辰蔵の背後から、鉄の角が水面へ現れた。

 小さな箱ではない。

 長さ三尺ほど。

 黒く錆びた鉄箱。

 伊助も少し離れた場所へ浮かぶ。

 こちらも別の縄を持っている。

「二つともあった!」

 箱二つ。

 海図の記載どおり。

 新之介たちは辰蔵を舟へ引き上げる。

 伊助も源太郎たちの舟へ上がった。

 二つの鉄箱は、半分だけ海面へ浮かんでいる。

 重い。

 小舟へ載せれば沈む恐れがある。

「筏にする!」

 辰蔵が息を切らしながら言った。

「箱へ浮き樽を結べ!」

 重吉の舟には、潜りの荷を浮かせるための空樽が積まれていた。

 縄で箱の両側へ結ぶ。

「青山の舟が来ます!」

 半九郎が叫ぶ。

 青山の小舟が、もう十間ほどまで迫っている。

「その箱を渡せ!」

「中身を確認してからだ!」

 新之介が答える。

「海防掛の役目だ!」

「町方の詮議でもある!」

「幕府の役目へ逆らうか!」

「幕府の役目を名乗れば、全て従うと思うな!」

 青山は刀を抜かなかった。

 代わりに、一枚の書付を掲げた。

「水野隼人正様の命書だ!」

「近くで見せよ!」

「箱を渡せば見せる!」

「順序が逆だ!」

 玄斎が呟いた。

「どちらも同じことを申しておるな」

「先生、今は黙っていてください」

「役に立たぬ時の己を知っておる」

「十分です」

 箱へ浮き樽が結ばれる。

 一つ目は沈まずに済んだ。

 二つ目へ取りかかる。

 その時、井沢敬之助が舟底で笑った。

「遅い」

 新之介が振り返る。

「何がだ」

「箱は開けられぬ」

「鍵か」

「違う」

 井沢は青山の船を見た。

「開ければ燃える」

「何だと」

「三宅様が申していた。弁財丸の箱には、開けた者を焼く仕掛けがあると」

「火薬か」

「分からぬ」

 青山が危険だと叫んだ理由と一致する。

 だが、なぜ三宅も知っていたのか。

「先に申せ!」

「聞かれなかった」

「皆そればかりだ!」

 源太郎が怒鳴る。

 その瞬間、二つ目の鉄箱から小さな音がした。

 かちり。

 錆びた内部で、何かが動いた音。

 辰蔵が顔を上げる。

「縄をかけた時、蓋が少し動きました」

「離れろ!」

 新之介が叫んだ。

 箱の隙間から白い煙が漏れ始める。

 火薬の黒煙ではない。

 刺すような臭い。

「毒煙か!」

 青山の顔色が変わった。

「風上へ逃げろ!」

 青山の小舟が急いで向きを変える。

 伊助も舵を切った。

「箱を切り離せ!」

 新之介が刀を抜く。

 だが半九郎が止めた。

「父が守ったものです!」

「命より大事か!」

「違う!」

 半九郎は濡れた布を手へ巻き、煙の出る箱へ近づいた。

「蓋を押さえる!」

「触るな!」

「動いたから煙が出た。戻せば止まるかもしれない!」

 半九郎は箱の蓋へ体重をかけた。

 煙が濃くなる。

 咳き込む。

 新之介も布で口を覆い、箱へ手を伸ばした。

「一人でするな!」

 二人で蓋を押す。

 錆びた金属が軋む。

 少しずつ元の位置へ戻る。

 かちり。

 再び音がした。

 煙が弱まった。

 完全には止まらないが、量は減る。

「離れろ!」

 辰蔵と源太郎が二人を引いた。

 新之介は激しく咳き込んだ。

 目が痛い。

 半九郎も舟底へ倒れる。

「息は」

「できます」

「目は」

「見えます」

 伊助が箱を見た。

「こいつは岸へ運べねえ」

「ではどうする」

「海へ戻す」

 半九郎が起き上がる。

「駄目です」

「また煙が出れば全員死ぬ」

「一つ目は」

「そちらは動いていない」

 鉄箱は二つ。

 一つは仕掛けが動いた。

 もう一つは今のところ無事。

「煙の箱へ印をつけて沈め直す」

 新之介が言った。

「場所を記録する」

「それでは誰かに奪われます」

 半九郎が言う。

「ならば青山殿へ見張らせる」

 全員が青山を見る。

 青山もこちらを見ていた。

「水野の手の者です」

 半九郎が低く言う。

「だからだ」

「信じるのですか」

「信じぬ」

 新之介は咳をこらえた。

「だが海防掛なら、この海域を封じられる」

「箱を奪うかもしれない」

「その時は、水野が奪ったと分かる」

「危険です」

「今ここで皆が死ぬよりよい」

 新之介は青山へ叫んだ。

「青山殿! 一つの箱を沈め直す!」

「触れるなと申した!」

「もう触れた!」

「煙を吸ったのか!」

「ああ!」

「すぐ海水で目を洗え!」

 青山の反応は早かった。

 本当に毒煙の危険を知っている。

「この箱を見張れるか!」

「場所を示せ!」

「その前に命書を見せよ!」

 青山はしばらく新之介を睨んだ。

 やがて部下へ命じ、書付を油紙へ包ませた。

 縄の先へ結び、海へ流す。

 伊助が鉤で引き寄せた。

 源太郎が開く。

 水野隼人正の署名と印。

 弁財丸に関わる沈没品は、海防掛が回収する。

 勝手に開封することを禁ずる。

 理由は、異国製の毒薬および火器が含まれる可能性。

「命書は本物に見えます」

 源太郎が言う。

「見えるだけか」

「印形を奉行所で確かめねば断定できません」

「今はそれでよい」

 新之介は青山へ向いた。

「煙の箱は沈める! こちらで位置を記す!」

「承知した!」

「もう一つは奉行所へ運ぶ!」

「ならぬ!」

「なぜ」

「二つとも海防掛へ渡せ!」

「それはできぬ!」

「命書がある!」

「相模屋と水野様の関わりを疑っている!」

 青山の顔が険しくなる。

「水野様を侮辱するか」

「疑うことと決めつけることは違う!」

 青山は一瞬黙った。

 昨夜、自分が使った言葉を返されたのだ。

「一つは町方、一つは海防掛」

 源太郎が言った。

「双方で証を持てば、勝手に消せません」

「分けるのか」

 半九郎が問う。

「元帳と銀が別々なら、片方しか真実を見られぬ」

「だから双方立ち会いで開ける」

 新之介が決めた。

「煙の箱も、後日仕掛けを外せる者を連れて引き上げる」

「誰が立ち会う」

「戸田様。南町奉行所。海防掛」

「大事になるぞ」

 玄斎が言う。

「すでに大事です」

 煙の箱へ新たな縄と重石をつける。

 海図に位置を書き足す。

 平たい岩から南へ九間。

 水深三尋。

 新之介たちは慎重に縄を緩めた。

 鉄箱が海へ沈んでいく。

 白い煙も水中へ消えた。

 もう一つの箱は浮き樽で支え、二艘の小舟の間へつないだ。

 青山の小舟は一定の距離を保っている。

 互いを見張る形になった。

 誰も相手を信じていない。

 だが、同じ箱を江戸へ運ぶ。

 奇妙な同行だった。

 ◇

 帰路につく前、源太郎は井沢敬之助へ再び問うた。

「重吉殺しについて、本当に知らぬのか」

「知らぬ」

「三宅様からの命は、元帳の回収だけか」

「そうだ」

「藤吉の小屋へ火をつけたのは誰だ」

「我らの一人だが、私の知らぬ者だった」

「知らぬ者を連れていたのか」

「三河屋から寄越された案内役だと聞いた」

「名は」

「佐平」

「顔は」

「頬に火傷の跡がある」

 源太郎は新之介を見る。

 品川沖の相模屋の船で、火薬を扱っていた者の中に頬へ火傷のある男がいた。

 捕縛した者の中にはいない。

 逃げた一人かもしれない。

「長兵衛の手の者か」

「長兵衛が捕えられた後も動いている」

「別の命令を受けていたのだろう」

「誰から」

「それを長兵衛に聞く」

 青山の小舟が近づきすぎぬよう、伊助はゆっくり舟を進めた。

 半九郎は海図を胸へ入れ、鉄箱を見つめている。

「父は中身を知っていたと思いますか」

「分からぬ」

 新之介は答えた。

「元帳なら、なぜ自分で引き上げなかったのでしょう」

「傷を負ったからかもしれぬ」

「十二年あった」

「そなたを守るためかもしれぬ」

「守るために残したものが、今また人を殺しています」

「そうだな」

「父は間違えたのでしょうか」

 新之介はすぐには答えなかった。

 海面には、二つの舟の影が揺れている。

「間違えたかもしれぬ」

 半九郎が顔を上げる。

「ですが、父上は」

「正しい者でも間違える」

「……」

「間違った者にも、正しかったことはある」

 新之介は箱を見た。

「人を一つの選びだけで決めれば、長兵衛と同じになる」

「相模屋と」

「人は損得だけで動く。正しさなどない。そう決めれば、すべてを同じにできる」

「父を正しい者だと決めるのも、同じですか」

「ああ」

 半九郎は海図の上から胸へ手を置いた。

「では、箱を開けてから考えます」

「急いで答えを出すな」

「志乃殿の言葉ですね」

「皆から同じことを教わる」

「後見役なのに」

「後見役だからだ」

 玄斎が隣から言った。

「人へ教える者ほど、自分が分かっていないと知る」

「先生もですか」

 半九郎が問う。

「わしは最初から分かっておらぬ」

「威張ることではありません」

 新之介が言う。

「だが、分からぬと申すのは難しい」

 玄斎は海を見た。

「分かったふりをする方が、剣を抜くより楽だからな」

 ◇

 夕暮れ近く、木更津の浜へ一度戻った。

 藤吉の小屋は焼け落ちていた。

 幸い、周囲の網小屋へは燃え移らなかった。

 浜の者たちが水をかけ、火を抑えていた。

 藤吉は焼け跡の前に立った。

 父のように慕った玄十郎との約束。

 十二年間守った海図。

 仕事道具。

 暮らし。

 すべてが黒い灰になっている。

「すまぬ」

 半九郎が言った。

「若様が謝ることではない」

「私たちが来たから」

「来なくても、いずれ焼かれた」

 藤吉は灰の中へ入り、焼けた網針を拾った。

 柄は失われ、鉄だけが残っている。

「これは使える」

「もう仕事場は」

「作り直す」

「命を狙われる」

「江戸へ行く」

「再起館へ来るか」

 半九郎の言葉に、藤吉は驚いた顔をした。

「私のような者が」

「網を直せる者がいる」

「剣術道場だろう」

「今は米を干し、帳面を読み、罪人が寝ています」

「何の道場だ」

「再起館だ」

 藤吉は初めて少し笑った。

「玄十郎様が聞けば、喜ぶか呆れるか」

「両方だろう」

「では世話になる」

 藤吉は焼け跡から、小さな壺を掘り出した。

 中には銭と、玄十郎から受け取った手紙が数通残っていた。

 火を避けるため土へ埋めていたのだという。

「手紙は見せてもらえるか」

 半九郎が問う。

「江戸へ着いてからだ」

「なぜ今ではない」

「急いで読めば、大事なところを見落とす」

 半九郎は苦く笑った。

「皆、同じことを申す」

「玄十郎様の口癖だった」

 新之介はその言葉を覚えておこうと思った。

 急いで読めば、大事なところを見落とす。

 帳面も、人も、罪も同じである。

 ◇

 江戸へ戻る舟には、鉄箱が一つ増えた。

 藤吉も乗った。

 井沢敬之助は縄を打たれたまま。

 青山新六郎の快速船が少し離れて並走している。

 空が赤く染まり始める。

 海面には夕日の道ができていた。

 箱の中に何があるかは分からない。

 鷹見帳の元本。

 異国の銀。

 火薬。

 あるいは、誰も予想していないもの。

 だが中身以上に、新之介には気になることがあった。

 三宅主膳は、なぜ弁財丸の箱の仕掛けを知っていたのか。

 水野隼人正は、本当に帳面を燃やそうとしているのか。

 青山は敵なのか、役目に忠実なだけなのか。

 重吉を殺したのは誰か。

 頬に火傷のある佐平。

 相模屋長兵衛。

 三河屋。

 戸田家。

 海防掛。

 いくつもの糸が鉄箱へ絡みついている。

「榊原」

 玄斎が声をかけた。

「何です」

「箱ばかり見るな」

「危険かもしれません」

「危険なのは箱だけではない」

 玄斎は青山の船を見た。

 そして井沢。

 藤吉。

 半九郎。

「人も見ろ」

「見ています」

「ならば、あの舟を見ろ」

 後方に、小さな漁舟が一艘あった。

 夕暮れの中、一定の距離を保ってついてくる。

 漁をする様子はない。

「いつから」

「木更津を出た時からだ」

 伊助が答えた。

「青山の手の者か」

「違う」

 青山の快速船も、後方の舟を警戒している。

 ならば第三の勢力。

 新之介は目を凝らした。

 漁舟の舳先に立つ男。

 頬に黒い痕があるように見える。

「佐平か」

 井沢が震える声で言った。

「間違いないか」

「遠くて分からぬ。だが、あの立ち方は」

 漁舟の男が何かを掲げた。

 火矢ではない。

 筒状の物。

「伏せろ!」

 新之介が叫ぶ。

 男が筒へ火をつけた。

 空へ向ける。

 轟音。

 火の玉が高く上がり、夕空で弾けた。

 赤い火花が散る。

 合図だ。

 その直後、海の左右から帆が現れた。

 一艘。

 二艘。

 さらに三艘。

 小型の快速船が、新之介たちの進路を塞ぐように近づいてくる。

 青山の船でもない。

 町方でもない。

 旗印はない。

「囲まれるぞ!」

 伊助が舵を切る。

 だが鉄箱を曳いているため、速度が出ない。

 青山の快速船から号令が飛ぶ。

「榊原殿! 箱の綱を切れ!」

「渡せというのか!」

「違う! 沈めろ!」

「せっかく上げたものを!」

「奪われれば、江戸へ火がつく!」

 青山の声には、これまでにない切迫があった。

「箱の中身を知っているな!」

 新之介が叫ぶ。

 青山は答えない。

 代わりに刀を抜き、迫る船へ向けた。

「海防掛の命である! 近づけば撃つ!」

 相手の船から返事はない。

 舷側に弓と火縄銃が並ぶ。

 狙いは鉄箱。

 いや、箱を運ぶ者すべて。

 伊助が新之介を見る。

「切るか」

 新之介は綱を握った。

 海へ戻せば、証は守れるかもしれない。

 だが再び引き上げられる保証はない。

 位置は知られた。

 敵が先に潜れば奪われる。

 このまま運べば、多くの者が死ぬ。

「榊原」

 半九郎が言った。

「箱を守ってください」

「人よりか」

「違います」

「では」

「箱を餌にします」

 半九郎は海図を取り出した。

「どうする」

「箱を切り離し、別の浮き樽を流す」

「囮か」

「敵がどちらを追うか見ます」

「本物を見分けられるぞ」

「夕暮れです。遠目には分かりません」

 辰蔵がすぐに空樽へ縄を結び始めた。

「中へ石を入れます」

「なぜ」

「軽ければ流れ方が違う」

 源太郎も手を貸す。

 玄斎は刀を抜かず、木刀を持ったまま敵船を見ている。

「先生」

「何だ」

「役に立たぬ時ではありません」

「ようやくか」

「箱を守ってください」

「人を守る」

「両方です」

「注文が多い」

 新之介たちは二つの浮き樽を用意した。

 一方には鉄箱。

 もう一方には石を詰めた網。

 伊助が潮の流れを読む。

「右へ偽物。左へ本物を流す」

「本物も流すのか」

「舟へつないだままでは逃げられねえ」

「後で拾えるか」

「印をつける」

 辰蔵が偽物の浮き樽へ赤い布を結んだ。

 本物には何もつけない。

「普通は逆では」

 源太郎が問う。

「目立つ方を本物と思わせます」

 迫る船から銃声。

 弾が海面へ落ちる。

「急げ!」

 新之介が鉄箱の綱を切る。

 伊助が本物を左の潮へ押し出す。

 辰蔵たちは偽物を右へ放った。

 赤い布が夕暮れの海で揺れる。

「舟を分けるぞ!」

 敵船の一艘が赤い布を追う。

 二艘目も続く。

 だが三艘目は進路を変えない。

 新之介たちの舟へ来る。

「囮を見抜いたか」

「箱ではなく人を狙っている」

 玄斎が言った。

 漁舟の佐平が叫んだ。

「海図を渡せ!」

 狙いは箱だけではない。

 岩瀬の瀬に沈め直した、もう一つの箱。

 その位置を記した海図。

「半九郎!」

「ここです!」

「声を出すな!」

 佐平の船が近づく。

 火縄銃が構えられる。

 青山の快速船が横から割って入った。

「撃て!」

 海防掛の船から一斉に銃声が響く。

 佐平の船の帆が破れる。

 敵も撃ち返す。

 青山の部下が一人倒れた。

 海上で火花と煙が交差する。

「青山殿が守っている」

 源太郎が呟く。

「箱を奪うためかもしれぬ」

 新之介は刀を抜いた。

「それでも今は同じ敵だ」

 佐平の船が青山を避け、新之介たちの横へ迫る。

 鉤縄が投げられた。

 舟縁へかかる。

「切れ!」

 辰蔵が鳶口で縄を外そうとする。

 敵の一人が縄を伝って乗り移ってきた。

 新之介が迎える。

 刃と刃がぶつかる。

 狭い舟。

 背後には半九郎。

 足元には縄を打たれた井沢。

 藤吉も傷を負っている。

 一歩も下がれない。

「海図を出せ!」

 敵が斬り込む。

 新之介は受け流し、肘を打つ。

 刀が落ちる。

 だが二人目が舟縁へ手をかけた。

 玄斎の木刀が指を打つ。

 男は悲鳴を上げて海へ落ちた。

「先生、手加減を」

「泳げるかもしれぬ」

「源太郎よりは」

「私は泳げません!」

 源太郎は井沢を庇いながら、十手で敵の短刀を受けた。

 辰蔵が鉤縄を切る。

 二艘の船が離れる。

 佐平が船上から弓を引いた。

 狙いは半九郎。

「伏せろ!」

 藤吉が半九郎を突き飛ばした。

 矢が藤吉の背へ刺さる。

「藤吉!」

 半九郎が叫ぶ。

 藤吉は倒れながら、海図を持つ半九郎の胸を押さえた。

「落とすな……」

「喋るな!」

「玄十郎様との……約束だ」

 矢は背の右側。

 急所かどうか分からない。

 源太郎が傷を押さえる。

「岸まで持たせます!」

「必ずだ!」

 半九郎の顔から血の気が失せる。

 新之介は佐平を見た。

 怒りが込み上げる。

 刀を抜き、船へ飛び移れば届くかもしれない。

 だが今、自分が舟を離れれば半九郎たちが危ない。

 追うか。

 守るか。

 新之介は一歩踏み出し、止まった。

 戻る場所を間違えるな。

 宗次郎の言葉が蘇る。

 今守るべきは、敵の命を奪う機会ではない。

 藤吉の命。

 海図。

 ここにいる者たち。

「伊助、江戸へ急げ!」

「佐平を逃がすぞ!」

「顔は見た!」

「また来る!」

「その時に捕える!」

 伊助が帆を張る。

 青山の快速船が佐平の船を追おうとしたが、別の敵船から攻撃を受けて動けない。

 本物の鉄箱は、夕闇の潮へ流されていく。

 どの船もまだ気づいていない。

 新之介は位置を目へ焼きつけた。

 富津の岬。

 夕日の沈む線。

 二つ並んだ帆柱の間。

 後で必ず拾う。

 失われたものすべては救えない。

 だが浮いているものまで見捨てない。

 品川沖の米と同じである。

「藤吉殿!」

 半九郎が呼び続ける。

 藤吉は薄く目を開けた。

「若様……」

「その呼び方をやめろ」

「最後くらい……よいだろう」

「最後ではない!」

「玄十郎様も……そう申した」

「何を」

「最後ではない、と」

 藤吉は苦しげに笑った。

「十二年……生きた」

「ならば、そなたも生きろ」

「命令か」

「頼む」

 藤吉は目を閉じた。

 息はある。

 源太郎が懸命に血を止めている。

 辰蔵は破れた布を裂き、傷へ当てた。

 玄斎は舟の後方に立ち、追ってくる船を見張る。

 新之介は刀を握ったまま、動けなかった。

 目の前の敵を追わなかったことが正しかったか。

 藤吉が助からなければ、悔いるだろう。

 箱を奪われれば、悔いるだろう。

 佐平を逃せば、また誰かが傷つくかもしれない。

 どれを選んでも、失うものがある。

 長兵衛が言った。

 若い者は、選べると思う。

 確かに、すべてを選ぶことはできない。

 だが、何を選ばなかったかは残る。

 新之介は佐平を追うことを選ばなかった。

 藤吉を生かす方を選んだ。

 その責を、後で負わねばならない。

「榊原」

 玄斎が言った。

「何です」

「迷うのは後にせよ」

「分かっています」

「顔が迷っておる」

「先生には隠せませんか」

「弟子の顔を長く見すぎた」

 新之介は刀を納めた。

 今は藤吉を江戸へ運ぶ。

 鉄箱の位置を忘れない。

 青山が生きていることを確かめる。

 井沢を詮議へ渡す。

 半九郎の海図を守る。

 一つずつだ。

 すべてを同時に始末しようとすれば、また大事の前の小事という言葉へ近づく。

 目の前の一人を、小事にしてはならない。

 夜の海へ、月が上がり始めた。

 その光の下で、鉄箱は潮に揺られながら、ゆっくり江戸湾の北へ流れていく。

 箱の中身は、まだ誰も知らない。

 だがその箱を巡り、すでに何人もの血が流れた。

 新之介は胸の中で、流された位置を繰り返した。

 富津の岬。

 二つの帆柱。

 月の昇る方角。

 必ず戻る。

 箱のためだけではない。

 藤吉が守った約束。

 玄十郎が遺した問い。

 そして、誰かが再び人を斬らせる仕組みを、今度こそ明らかにするために。

(第三十六章へ続く)

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