上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第十二章

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第十二章 家名の帳面

 裏帳簿に記された名は、確かに榊原家であった。

 新之介は、蔵前の川風の中でしばらく動けなかった。

 父・忠左衛門が不正に関わったとは思えぬ。

 だが帳面は嘘をつかぬ。

 いや、父は言った。

 帳面は嘘をつくことがある、と。

「これは誰が書いた」

 新之介は松井弥十郎へ問うた。

 松井は縄を打たれたまま、疲れた顔で答えた。

「大黒屋の手代だろう」

「榊原家へ金が流れた覚えはない」

「私もそう思う」

「ではなぜ名がある」

 松井は黙った。

 その沈黙が、答えを知っていることを示していた。

「松井殿」

「榊原殿」

 松井は苦く笑った。

「家名とは便利なものだ。本人が知らずとも、誰かが使える」

「名義貸しか」

「あるいは、偽の証文」

 新之介の胸が冷えた。

 榊原家を陥れるためか。

 それとも、榊原家の名を使って金を動かした者がいるのか。

 どちらにせよ、家は傷つく。

 源太郎が低く言った。

「この帳簿をそのまま出せば、榊原家も詮議を受けます」

「分かっている」

「それでも出しますか」

 新之介は裏帳簿を見つめた。

 燃やせば家は守れる。

 だが不正は闇に戻る。

 矢代の顔が浮かんだ。

 松井の問いも浮かんだ。

 壊れ方を選ぶしかない。

 自分で言った言葉だった。

「出す」

 新之介は静かに言った。

「榊原家の名があるなら、なおさら隠せぬ」

 松井は目を伏せた。

「強いな」

「強くはない」

 新之介は帳簿を懐に収めた。

「ただ、逃げたくないだけだ」

 ◇

 榊原家へ戻ると、忠左衛門はまだ床に伏していた。

 熱は引いていない。

 だが目だけは澄んでいた。

 新之介は裏帳簿を父の前に置いた。

「榊原家の名がありました」

 忠左衛門は驚かなかった。

 むしろ、来るべきものが来たという顔だった。

「そうか」

「父上、ご存じだったのですか」

「心当たりはある」

「誰です」

 忠左衛門はしばらく黙っていた。

「お前の叔父だ」

「叔父上……」

 榊原頼母。

 忠左衛門の弟である。

 部屋住みの身で、十年前に榊原家を出て小普請組に入った。

 新之介には、酒好きで陽気な叔父という記憶しかない。

「頼母叔父上が」

「大黒屋から借りていた」

「榊原家の名で?」

「おそらくな」

 忠左衛門は目を閉じた。

「昔、頼母は家のためだと言って金を用立てたことがある。だが私は出所を問わなかった」

「なぜ」

「問えば、家の内が壊れると思った」

 父の声には悔いがあった。

「また逃げたのですね」

 新之介の言葉は鋭かった。

 だが忠左衛門は怒らなかった。

「ああ」

 新之介は唇を噛んだ。

 父もまた、完全な武士ではない。

 迷い、逃げ、悔いている。

 それを知ることは、父を軽んじることではなかった。

 むしろ、新之介には初めて父が人として見えた。

「叔父上は今どこに」

「浅草の裏長屋にいるはずだ」

「会いに行きます」

「新之介」

「はい」

「頼母を憎むな」

「分かりません」

 正直な答えだった。

 忠左衛門はかすかに笑った。

「それでよい。憎む前に、聞け」

 ◇

 浅草の裏長屋は、湿った匂いがした。

 昼過ぎだというのに、日当たりは悪く、細い路地には洗濯物が垂れている。

 武士の家を出た者が暮らすには、あまりに侘しい場所だった。

 新之介は源太郎とともに、奥の一軒を訪ねた。

 戸を叩く。

 しばらくして、痩せた男が顔を出した。

 榊原頼母。

 かつては陽気だった面影は薄れ、頬はこけ、目だけがぎらついていた。

「新之介か」

「叔父上」

「立派になったな」

 頼母は笑おうとしたが、笑いにならなかった。

 部屋の中は質素だった。

 畳は擦り切れ、壁には古い羽織が掛けられている。

 酒の匂いがした。

「大黒屋の裏帳簿に榊原家の名がありました」

 新之介は単刀直入に言った。

 頼母は目を逸らした。

「そうか」

「叔父上が借りたのですか」

「借りた」

「なぜ家名を使った」

「私一人の名では誰も貸さぬ」

「父上はご存じではなかった」

「知れば止めただろう」

「当然です」

 頼母は笑った。

「お前は若いな」

「若さの問題ではありません」

「では何だ」

「家を汚したのです」

 頼母の顔が歪んだ。

「家、家、家……兄上もお前もそればかりだ」

「叔父上」

「家に残れなかった者のことなど、お前に分かるか」

 新之介は言葉を失った。

 頼母は続けた。

「兄上は嫡男。お前も嫡男。家を継ぐ者には役目がある。だが継げぬ者には何がある」

「それで不正を」

「不正ではない。生きるためだ」

「その金が矢代に流れた」

 頼母の顔色が変わった。

「私は知らぬ」

「本当に?」

「知らぬ!」

 叫び声が長屋に響いた。

 頼母は肩で息をしていた。

「私はただ、大黒屋に証文を渡しただけだ。榊原家の名を使えば利が下がると言われた。それだけだ」

「誰に」

「大黒屋の手代だ」

「名は」

「佐吉」

 源太郎が反応した。

「佐吉は昨日から姿を消しています」

 やはり消されたか、あるいは逃げたか。

 新之介は叔父を見た。

「叔父上、証言してください」

「すればどうなる」

「罪は問われます」

「ならば嫌だ」

「逃げても追われます」

「逃げ慣れている」

 頼母は自嘲した。

 新之介は静かに言った。

「父上も逃げたと申していました」

 頼母の目が揺れた。

「兄上が?」

「はい」

「兄上は昔から強かった」

「違います」

 新之介は首を振った。

「父上も弱かった。だから今、逃げぬために苦しんでいます」

 頼母は黙った。

 長屋の外から、子どもの笑い声が聞こえた。

 頼母はそれを聞きながら、ぽつりと言った。

「兄上に、すまぬと伝えてくれ」

「ご自分で」

「できるかどうか分からぬ」

「できます」

 新之介は立ち上がった。

「今度は私が連れて行きます」

 ◇

 頼母を連れて屋敷へ戻る途中、三人は浅草寺の門前を通った。

 参詣人で賑わっている。

 団子売り。

 飴細工。

 旅の僧。

 物乞い。

 江戸の明るさと暗さが、同じ道に並んでいた。

 その時、源太郎が足を止めた。

「尾けられています」

 新之介も気づいていた。

 人混みの中に、同じ歩調でついてくる男が二人。

 大黒屋の手の者か。

 それとも、さらに上の者か。

「叔父上、走れますか」

「昔ならな」

「今は」

「無理だ」

「ならば歩いてください」

 新之介は静かに刀の柄へ手をかけた。

 だが、ここは門前町。

 人が多すぎる。

 斬り合いになれば町人が巻き込まれる。

 敵もそれを狙っているのかもしれない。

 新之介は脇道へ入った。

 男たちも続く。

 人通りが少なくなったところで、源太郎が振り返った。

「何用だ」

 男たちは答えず、懐から短刀を抜いた。

 だがその背後から、木刀が唸った。

 一人が崩れる。

 玄斎であった。

「遅いぞ、新之介」

「先生、なぜここに」

「頼母を迎えに行くなら、邪魔が入ると思った」

 玄斎は二人目の短刀を弾き飛ばした。

 源太郎が取り押さえる。

 男は口を動かした。

 毒だ。

 新之介は素早く顎を押さえた。

「吐かせるな!」

 間に合った。

 男の口から小さな紙包みが落ちた。

 また口封じ用の毒。

 新之介は男の目を見た。

「誰に命じられた」

 男は答えない。

 玄斎が静かに言った。

「答えねば、毒より苦しい目に遭うぞ」

 老人の声は穏やかだった。

 だからこそ恐ろしい。

 男は震えた。

「……大黒屋の手代、佐吉」

「佐吉はどこだ」

「今夜、両国の船宿」

 ようやく次の糸が出た。

 ◇

 その夜、両国の船宿は賑わっていた。

 川面には屋形船の灯が揺れ、三味線の音が流れている。

 遊興の町は、昼の武家社会とはまるで違う顔を持つ。

 新之介、源太郎、玄斎は船宿の二階へ上がった。

 頼母は榊原家へ送り届け、父と対面させている。

 ここには連れて来なかった。

 船宿の奥座敷。

 そこに佐吉はいた。

 若い男である。

 だが顔は青ざめ、酒にも手をつけていない。

 逃げる準備をしていたのだろう。

 風呂敷包みが脇にある。

「佐吉だな」

 新之介が言うと、男は飛び上がった。

「ち、違います」

「嘘はよい」

 源太郎が戸口を塞ぐ。

 玄斎は窓際に立った。

 逃げ道はない。

 佐吉は膝をついた。

「私はただ言われた通りに」

「誰に」

「大黒屋様に」

「その上は」

 佐吉は震えた。

「言えば殺されます」

「言わなくても殺される」

 新之介は淡々と言った。

「今日もお前の代わりに二人が動いていた」

 佐吉は泣き出しそうな顔になった。

「私は帳面を書いただけです」

「榊原家の名を使ったのはお前か」

「はい」

「なぜ」

「大黒屋様が、榊原家は都合がよいと」

「都合がよい?」

「勘定方に古くから仕え、信用がある。疑われにくい、と」

 新之介の胸に怒りが湧いた。

 信用が利用された。

 それは父の人生を利用されたに等しい。

「金はどこへ流れた」

「大久保家、水野様、浪人たち……それから」

 佐吉は言葉を切った。

「それから何だ」

「もう一つ、別口があります」

「誰へ」

 佐吉は震える手で風呂敷包みを開いた。

 中から小さな帳面が出てきた。

「これは大黒屋様も知らぬ控えです。自分の身を守るために」

 新之介は帳面を受け取った。

 そこには、大黒屋からさらに上へ渡った金の記録があった。

 水野監物よりも上。

 戸田備前守と同格に近い人物。

 名を見た瞬間、源太郎が息を呑んだ。

「老中御用掛……酒井丹波守」

 部屋の空気が凍った。

 ついに幕府中枢の名が出た。

 矢代も、大久保も、水野も、大黒屋も、駒に過ぎなかった。

 新之介は帳面を閉じた。

「佐吉、これを証言できるか」

「守ってくださるなら」

「守る」

 新之介は即答した。

「ただし、罪は消えぬ」

「分かっています」

 その時、川の方で爆ぜる音がした。

 屋形船の一つから火が上がっている。

 同時に船宿の下で怒号。

「火事だ!」

 また火。

 証人を消す時、敵はいつも火を使う。

 玄斎が窓の外を見た。

「囲まれたな」

 新之介は佐吉を立たせた。

「源太郎、帳面を持て」

「榊原様は」

「佐吉を連れて出る」

「出口は」

 下から黒煙が上がってくる。

 階段は塞がれた。

 新之介は窓を開けた。

 眼下には隅田川。

 屋根伝いに行けば、隣の船宿へ渡れるかもしれない。

 玄斎が笑った。

「今度は屋根か」

「川よりはましです」

「そうでもない」

 炎は船宿の壁を舐め始めていた。

 新之介は佐吉の腕を掴んだ。

「飛べ」

「無理です!」

「武士でなくとも、今は飛べ」

 佐吉は泣きそうになりながら頷いた。

 新之介たちは窓から屋根へ出た。

 背後で炎が広がる。

 下では黒装束の男たちが待ち構えている。

 前には夜の屋根。

 手には幕府中枢へ繋がる帳面。

 家名を汚した闇は、ようやく姿を見せ始めた。

 だが、それを白日の下へ出すには、まだ命を賭けねばならなかった。

(第十三章へ続く)

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