上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第九章

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第九章 登城の朝

 夜が明けた。

 江戸の空は、何事もなかったかのように澄んでいた。

 鷹見塾の焼け跡から戻った新之介は、ほとんど眠らぬまま朝を迎えた。

 屋敷の庭では、露を含んだ松葉が静かに光っている。

 父・忠左衛門は奥座敷で手当てを受けていた。

 傷は深い。

 だが命に別状はない。

「若様」

 家僕が障子の外から声をかけた。

「庄司様がお見えです」

「通せ」

 源太郎は疲れ切った顔で入ってきた。

 昨夜捕えた間宮作兵衛と黒装束たちは、すでに奉行所へ送られている。

「吐きましたか」

「まだです」

 源太郎は首を振った。

「間宮は口を閉ざしています。ただ、捕えた者の一人が妙なことを申しました」

「何と」

「今朝の登城は、まだ止まっていない、と」

 新之介の目が細くなった。

「やはり別働隊がいる」

「ええ」

「狙いは戸田備前守様か」

「それも分かりません」

 源太郎は声を落とした。

「もしかすると、戸田様を狙うという話そのものが囮かもしれません」

 新之介は黙った。

 矢代。

 間宮。

 大久保家。

 借財整理。

 すべての糸が戸田備前守へ向かっているように見えた。

 だが、そう見せられている可能性もある。

 敵は一度、矢代を使い捨てた。

 ならば次も駒を捨てる。

「登城路を固めるだけでは足りない」

「はい」

「江戸城内にも手が入っているかもしれぬ」

 源太郎は息を呑んだ。

 江戸城。

 そこは武家の中心である。

 その内部に敵がいるなど、軽々しく口にできることではない。

 だが新之介は、もはやその可能性を避けなかった。

 ◇

 朝餉の席に、忠左衛門が姿を見せた。

 肩に布を巻き、顔色は悪い。

 それでも袴を正し、刀を差している。

「父上、まだお休みください」

「登城の朝に寝ている武士があるか」

「傷が開きます」

「傷より重いものがある」

 忠左衛門は座した。

「戸田備前守様には、鷹見塾の一件で恩がある」

「恩?」

「二十年前、鷹見静山の塾が潰された後、門人の何人かを密かに救ったのが戸田様だ」

 新之介は驚いた。

「では、父上も」

「私は直接ではない。だが、鷹見先生の名誉を守ろうとした数少ないお方だった」

「矢代はそれを」

「知っていたはずだ」

 忠左衛門は苦い顔をした。

「それでも狙った。いや、だからこそ狙ったのかもしれぬ」

「どういうことです」

「恩ある者まで斬れば、過去を完全に断てる」

 新之介は胸が痛んだ。

 矢代は死んだ。

 だが、矢代の怒りがどこへ向いていたのか、まだ分からないままだった。

 忠左衛門は続けた。

「新之介」

「はい」

「今日、お前は役目を越えて動くことになる」

「承知しています」

「それは時に罪となる」

「はい」

「それでも行くか」

 新之介は迷わなかった。

「行きます」

 忠左衛門は静かに頷いた。

「ならば、家の名を背負って行け」

「父上」

「お前一人の義ではない。榊原家として、民と幕府を守れ」

 その言葉は、許しであった。

 同時に、重い命令でもあった。

 新之介は深く頭を下げた。

 ◇

 登城の列は、辰の刻に動き出す。

 江戸の町はすでに賑わっていた。

 橋の上には町人が行き交い、店先では商人が声を張る。

 だが、その日だけはどこか空気が違った。

 南町奉行所の同心たちが、さりげなく通りに散っている。

 火消しも各所に控えている。

 表向きは通常の警戒。

 しかし源太郎の手配で、筋違橋、神田橋、日本橋周辺には目が置かれていた。

 新之介は町人姿に着替え、笠を深くかぶっていた。

 刀は脇差だけ。

 目立たぬためである。

 玄斎もまた、老商人のような格好で隣を歩いている。

「似合いませぬな」

 新之介が言うと、玄斎は鼻を鳴らした。

「お前の町人姿よりはましだ」

 二人は神田の通りを歩いた。

 戸田備前守の駕籠は、予定どおり小石川から出たという知らせが入っている。

 源太郎は筋違橋にいる。

 奉行所の目もそこへ集めていた。

 だが新之介は、あえて日本橋へ向かった。

 理由は一つ。

 敵が本当に戸田を狙うなら、最も警戒される筋違橋は避ける。

 ではどこか。

 混雑し、人が多く、逃げ道も多い場所。

 そして江戸の象徴でもある場所。

 日本橋。

 ここで騒ぎが起これば、江戸中に噂が広がる。

 ◇

 巳の刻前。

 日本橋は人で溢れていた。

 魚河岸の者。

 旅人。

 行商人。

 奉公人。

 托鉢の僧。

 子を背負う女。

 その中に、敵が紛れていても分からない。

 新之介は橋の欄干にもたれ、川面を見た。

 舟が何艘も行き来している。

「先生」

「いるな」

 玄斎は短く答えた。

 新之介も感じていた。

 町の流れに、わずかな淀みがある。

 荷を背負った男が、いつまでも同じ場所にいる。

 飴売りが、子どもを見ていない。

 托鉢僧の足元が、僧にしては軽い。

「三人」

「いや、五人」

 玄斎が言った。

 新之介は静かに息を吐いた。

 その時、橋の向こうから一台の駕籠が見えた。

 戸田備前守のものではない。

 だが、供の数が多い。

「誰の駕籠だ」

 新之介が呟く。

 玄斎の目が鋭くなった。

「大久保主膳だ」

 駕籠の脇には、大久保家の家紋が見えた。

 なぜこの時刻に日本橋を通るのか。

 新之介はすぐに悟った。

 囮。

 あるいは口封じ。

 大久保主膳は間宮と矢代に関わった者である。

 生かしておけば、背後の者にとって危険だ。

 敵は戸田ではなく、大久保を消す気かもしれない。

 その瞬間、橋の上で悲鳴が上がった。

「火だ!」

 荷を背負った男の背から煙が上がる。

 乾いた藁に火がつき、人々が一斉に逃げ出した。

 混乱。

 怒号。

 子どもの泣き声。

 駕籠の足が止まる。

 托鉢僧が錫杖を捨てた。

 中から短刀が現れる。

「来た」

 新之介は走った。

 ◇

 橋の上は一瞬で修羅場となった。

 火を恐れた人々が押し合い、駕籠の周囲が乱れる。

 大久保家の供侍が刀を抜こうとするが、人混みが邪魔で身動きが取れない。

 托鉢僧に化けた男が駕籠へ飛びかかる。

 新之介は脇差を抜き、間に入った。

 刃を受ける。

 軽い。

 だが速い。

 相手は浪人ではない。

 訓練された者だ。

「どけ」

 男が低く言った。

「断る」

 新之介は相手の手首を斬った。

 短刀が落ちる。

 背後で玄斎の木刀が唸った。

 飴売りに化けた男が倒れる。

 だが敵はまだいる。

 火のついた荷が転がり、橋板に燃え移りかけていた。

「火を消せ!」

 新之介が叫ぶ。

 町人たちの中から、魚河岸の若者が桶を持って走ってきた。

「任せろ!」

 水がかけられる。

 火消しでも武士でもない。

 だが彼らもまた、江戸を守る者だった。

 新之介は駕籠の戸を開けた。

「大久保殿、ご無事か」

 中の主膳は顔面蒼白であった。

「榊原殿……」

「ここは危険です。下りてください」

 その時、川面から銃声が響いた。

 駕籠の屋根が砕ける。

 新之介は主膳を引き倒した。

「舟だ!」

 玄斎が叫ぶ。

 橋の下に小舟が一艘。

 そこから火縄銃が構えられている。

 二発目。

 新之介は主膳を庇いながら欄干の陰へ転がった。

 銃弾が石を削る。

 周囲の町人が悲鳴を上げる。

 源太郎が橋の向こうから駆けてきた。

「榊原様!」

「舟を止めろ!」

「承知!」

 源太郎は同心たちに合図した。

 川岸から捕り方が走る。

 しかし小舟はすでに逃げ始めていた。

 新之介は欄干へ飛び乗った。

「若様!」

 玄斎の声。

 だが止まらなかった。

 新之介は橋から小舟へ飛び降りた。

 足が船板を踏む。

 舟が大きく揺れる。

 鉄砲持ちが驚いて振り返った。

 新之介は脇差を振るった。

 銃身を弾く。

 もう一人が櫂で打ちかかる。

 肩に痛みが走る。

 それでも踏みとどまった。

 狭い舟の上では、刀の長さより足場が物を言う。

 新之介は相手の膝を蹴り、川へ落とした。

 残る一人が懐から短筒を出した。

 間に合わない。

 その瞬間、川岸から投げられた縄が男の腕に絡んだ。

 源太郎だった。

「引け!」

 捕り方が縄を引く。

 男の体勢が崩れる。

 新之介は柄頭で男の顎を打った。

 舟は橋脚にぶつかり、ようやく止まった。

 ◇

 日本橋の騒ぎは半刻ほどで収まった。

 火は消え、大久保主膳は無事だった。

 捕えた者は三人。

 逃げた者もいる。

 だが、小舟の鉄砲持ちの懐から、一枚の書付が見つかった。

 そこには、こう記されていた。

 ――大久保を消せ。戸田は次。

 源太郎は唇を噛んだ。

「やはり戸田様も狙われています」

「順番が変わっただけだ」

 新之介は濡れた袴のまま言った。

 大久保主膳は震える手で書付を見つめていた。

「私は……殺されるはずだったのか」

「口を封じるためでしょう」

 新之介は冷静に答えた。

 主膳は膝をついた。

「話す」

「何を」

「私が知るすべてを話す」

 ようやく口を開く気になったらしい。

 だが、時間はなかった。

 戸田備前守の駕籠は、すでに江戸城へ向かっている。

 日本橋が囮なら、次は本命。

 新之介は源太郎へ言った。

「戸田様の駕籠は」

「神田橋を過ぎた頃です」

「急ぐぞ」

 玄斎が濡れた新之介を見て笑った。

「川に落ちる癖がついたな」

「落ちたのではありません。飛びました」

「同じだ」

 その軽口に、新之介はわずかに笑った。

 だがすぐに表情を引き締める。

 江戸城は近い。

 敵の刃は、まだ鞘に収まっていない。

 武士の世を守るのか。

 正すのか。

 その問いの答えは、城門の前で待っている気がした。

(第十章へ続く)

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