山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第六十五章

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――第六十五章 客殿裏の整え――

 牧野家の裏口は、表門よりよほど口が堅そうに見えた。

 表には番所があり、槍を持つ者が立ち、来客の名を取り次ぐ。だが裏は違う。通用口は狭く、出入りする者も少ない。少ないぶん、顔を知っている者だけが通る。そういう口は、いったん通り道になれば、表より深く腐る。

 伊織は、捕らえた運び手を岡野の別口へ渡したあと、新兵衛とともに牧野家の裏手を見張っていた。

 日はもう傾き始めている。屋敷町の夕方は町人地より静かだ。下男が水を打ち、台所の煙が細く上がり、犬が一度だけ吠える。何事もない一日の終わりに見える。だがその何事もなさの裏で、紙は別の顔を与えられ、止められた文は再び息を吹き込まれる。

 伊織は、塀越しに見える客殿の屋根を見ながら思った。

 客殿裏。
 戻し帳にあった、あの曖昧な言葉。
 寺か屋敷かと迷ったが、今となってはその曖昧さ自体が仕掛けだったのだろう。客殿は、どこにでもある。どこにでもあるから、どこへでも化けられる。
 だが、人の出入りの癖までは化けられぬ。

「さっきの運び手、ほんとに下っ端だったな」

 新兵衛が低く言った。

「ああ」

「顔も何も知らねぇ。ただ箱を取って、次へ持ってくだけ」

「それで十分だったのだろう」

 伊織は答えた。

「紙の敵は、末端ほど何も知らぬように作る」

「知ってりゃ寝返るかもしれねぇしな」

「あるいは、怖くなって顔に出る」

 新兵衛が鼻を鳴らした。

「じゃあ、いちばん知ってるのは誰だ」

 伊織は少し考えた。

「……誰も全部は知らぬのかもしれぬ」

「は?」

「土井は土井の腹しか知らなかった。内膳は藩しか見ていなかった。榎本は今日の米、秋庭は白紙、沼田は止める理、杉浦は顔、嘉兵衛は箱、真壁は継ぎ目。――皆、自分の役の先を、知っていても少ししか知らぬ」

 新兵衛はしばらく黙っていたが、やがて吐き捨てるように言った。

「厄介極まりねぇな」

「そうだ」

 伊織は頷いた。

「だからこそ、こちらが繋がりを見ねばならぬ」

 そのとき、裏口がわずかに開いた。

 二人の目が同時に向く。

 出てきたのは、三十半ばほどの男だった。侍とも町人ともつかぬ身なりで、裃ではないが、町人にしては裾さばきが綺麗すぎる。手に箱はない。代わりに懐へ文を入れている。歩き方は急がぬ。だが無駄がなく、迷いもない。

「運び手じゃねぇな」

 新兵衛が言う。

「ああ」

 伊織の目が細くなる。

「整える手だ」

 男は裏道をまっすぐ行かず、一度表の辻へ出てから、また別の路地へ折れた。ついてくる者があるかどうかを見る歩き方だった。だが見られることを恐れる者の歩きではない。むしろ、見られても不自然でない顔を選んで歩いている。そういう者は、役に慣れている。

 二人は距離をとって追った。

 男はやがて、屋敷町の外れにある小さな茶店へ入った。茶店とはいっても、茶だけではない。軽い菓子と、時に書付の取次ぎもするような、半端な店だ。客はまばら。誰が一人増えても気づかれぬ。

「中で渡す気か」

 新兵衛が囁く。

「たぶん」

 伊織は答えた。

 茶店の横には、格子の割れ目がある。そこから中を覗くと、男は奥の席へ座り、すでに待っていた別の男と向かい合っていた。待っていた方は年配の侍で、顔を伏せている。だが背筋に見覚えがある。伊織は一瞬、息を止めた。

「……主馬殿のところで見た」

「誰だ」

「文を受け取りに来ていた客分のような男だ。名は知らぬ」

 男たちは声を潜めていたが、茶店の狭さが幸いした。

「これは写しだ」

 先に来た男が言う。

「原はまだ表へ出せぬ」

「十分だ」

 年配の侍が答える。

「筋だけ見えればよい」

「見えたところで、どうする」

「止める」

 その一言に、伊織の胸がざらりとした。

 また“止める”だ。
 だがこの止めるは、主水のものでも沼田のものでもない。
 もっと別の、客殿裏の“整え”を経た止め方だ。
 つまり、表へ出る前に筋だけを抜き、別の場所で先回りして止める。
 文が生まれ、文庫へ息を置き、真壁が継ぎ目で横へずらし、牧野家の客殿裏で顔を整え、そして茶店で筋だけが別の手へ渡る。
 なんと細く、なんと長い流れだろう。

 新兵衛が、ほとんど息だけで言った。

「もう、どこが本筋か分かんねぇな」

「本筋などないのかもしれぬ」

 伊織は低く答えた。

「細い筋がいくつも重なって、太く見えているだけだ」

 茶店の中で、年配の侍が文を懐へ入れた。立ち上がる。外へ出るつもりだ。

「動くぞ」

 伊織が言うと、新兵衛が頷いた。

 だがその時、不意に店の娘がこちらの方を見た。目が合う。まずい、と思う間もなく、娘が小さく息を呑む。中の男たちがその気配で振り向いた。

「誰だ!」

 年配の侍が立ち上がる。

 もう隠れている意味はなかった。

 伊織は格子戸を押し開けて中へ入った。

「榊原伊織」

 低く名乗る。

「文を置け」

 先に来た男――牧野家の裏口から出た“整える手”が、顔色を変えた。年配の侍の方は一瞬だけ怯んだが、すぐに懐へ手を入れる。刃ではない。紙だ。紙を握り潰そうとする。

「やめろ!」

 伊織が踏み込む。
 新兵衛が横から椅子ごと男を倒す。
 侍の手から文がこぼれ落ちる。
 同時に、整える手の男が奥の勝手口へ走った。

「そっちは任せろ!」

 新兵衛が叫ぶ。
 伊織は迷わず年配の侍へ向かった。
 この男が“筋だけを抜いて止める手”だ。
 ここを逃せば、また別の主馬、別の主水のところへ影が差す。

 侍は短刀を抜いた。
 遅い。
 剣ではなく、言葉と紙で生きてきた手の抜き方だ。

 伊織は柄でその手首を打ち、短刀を落とさせた。男が呻く。さらに踏み込んで肩を押さえつける。侍は畳の上に崩れた。

「名は」

 伊織が低く問う。

 侍は歯を食いしばったままだ。
 だが先ほどまでの落ち着きは消えている。
 この男は“止める”側にいた。
 止める側は、自分が追われることに慣れていない。
 そこが弱い。

「名を言え」

「……小野寺」

 ようやく絞り出した。

「小野寺何だ」

「小野寺兵部……」

 聞いたことのない名だ。だがそれでよい。知られぬ名こそ、この筋には都合がよい。

 そこへ新兵衛が戻ってきた。息は荒いが、血はついていない。

「逃がした」

「整える手か」

「ああ。裏の小路を抜けやがった。だが顔は見た」

 新兵衛が悔しそうに言う。

「もう一度会えば分かる」

「それでいい」

 伊織は答えた。
 いまは兵部と、この落ちた文がある。
 それで十分だ。
 整える手は逃げても、筋を抜く侍がここで取れたなら、流れはまた一つ見える。

 落ちた文を開くと、中身は主水の差し戻し文そのものではなかった。本文の写しのうち、要点だけを抜いた控えだ。人名、場所、刻限だけが残され、余分は削られている。

「やはり筋だけか」

 伊織が言うと、小野寺兵部が苦く笑った。

「それで足りる」

「何に」

「止めるのにだ」

「誰を」

 兵部は答えなかった。
 だがその沈黙で、逆に分かる。
 これは町方でも、奉行所でもない。
 “もう一つの止める手”へ渡すための筋だ。
 主水とは別の場所で、別の理で動く手。
 だからこそ、主水の差し戻し文から筋だけを抜いていたのだ。

 新兵衛が、低く唸る。

「ほんと、きりがねぇな」

 伊織は、その言葉に頷きながらも、胸のどこかで別の感覚を覚えていた。
 きりがない。
 だが同時に、輪の形も見え始めている。
 止める前の手。
 整える手。
 筋だけを抜く手。
 それらは別々に見えて、皆どこかで“止める”という一点へ寄っている。
 通すためではない。
 守るためでもない。
 ただ、自分たちの理に合う形に世を止めるために。

「小野寺兵部」

 伊織が言う。

「お前は何を守る」

 兵部は、しばらく黙っていた。
 やがて、力なく笑う。

「見苦しい裂け目を……見ぬようにしているだけだ」

 その答えは、これまでで最も空しかった。
 藩でもない。
 飯でもない。
 妹の薬でもない。
 ただ“見たくない”から止める。
 そこまで来ると、もう理ではなく癖だ。
 世の見苦しさを、自分の見えぬところへ押しやる。
 そのために紙を抜き、文を遅らせ、人の足を止める。

「お前たちの止める先に、何が残る」

 伊織が問うと、兵部は答えなかった。

 答えられないのだろう。
 見ぬようにしている者は、その先を見ていない。
 見ていないからこそ、止め続けられる。


 茶店の外へ出ると、空はもう暮れかけていた。

 夕方の町は、朝とは違う疲れを帯びる。働いた者が家へ戻り、売り手は店を畳み、子どもは呼び戻される。その“戻る”時間の中で、伊織は兵部を見下ろしていた。

 戻る者と、戻れぬ者。
 戻す手と、止める手。
 その違いは何か。
 主水の言葉は分かったつもりでいた。
 だが兵部の顔を見ると、まだ足りぬ気がした。
 この男は、戻す場所を持たずに止めていた。
 だから空っぽなのだ。
 見たくないものを見ぬようにするためだけに手を使い続ければ、人はこういう顔になるのかもしれぬ。

「主水殿へ出す」

 伊織が言うと、新兵衛が頷いた。

「ああ」

「整える手の顔は、また追う」

「こっちは覚えた」

 新兵衛が言う。

「次は逃がさねぇ」

 伊織は、小野寺兵部の懐から落ちた紙片を拾い上げた。
 小さな、ただの控えのような紙。
 だが端に、一つだけ墨の点が打たれている。
 点。
 丸の中の点。
 文庫の継ぎ目で見たあの印に似ている。
 真壁の前にも、さらに別の“点”があったのかもしれぬ。

 波瀾万丈の物語は、切ったはずの継ぎ目のさらに先に、まだ細い点を見つけてしまった。
 だが伊織は、もうそれに驚かなかった。
 驚くより先に、見て、結ぶことを覚え始めていた。
 それが成長なのか、危うさなのかは、まだ分からない。
 ただ一つ、戻る場所の灯だけは忘れぬようにしようと、そう静かに思った。

(第六十六章につづく)

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