西村京太郎を模倣し、『JR福知山線脱線事故』を題材にした小説、「終着駅の迷宮」(ラビリンス)第四十五章・第四十六章

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 第四十五章 逆転の証言

 大阪地方裁判所の大法廷。傍聴席は、開廷前から異様な熱気に包まれていた。記者席には全国紙やテレビ局の記者が陣取り、ペンを走らせる音やカメラのシャッター音が、抑えきれない期待と緊張を物語っていた。

 この日の審理は、いよいよ大詰めを迎えていた。福知山線脱線事故をめぐる裁判は、単なる鉄道事故の責任追及ではなく、鉄道会社の構造的な問題、さらには社会全体の安全意識にまで議論が及んでいた。そのなかで、今日予定されている証人尋問は「裁判の帰趨を決定づける」と噂されていた。

 検察側が呼んだ証人は、事故当時、鉄道会社の運行管理センターに勤務していた元社員である。彼は、これまで証言を拒み続けていたが、ついに法廷の場に立つことを決意したと伝えられていた。


 裁判官が入廷し、一同が起立した。重苦しい空気が一瞬にして張りつめ、裁判の開始が告げられた。

 「それでは、証人を入廷させてください」

 裁判長の言葉とともに、法廷の扉が静かに開かれた。姿を現したのは、五十代半ばの男性であった。やや痩せた体格、緊張を隠しきれない硬い表情。だが、その眼差しには、ある種の覚悟が宿っていた。

 証言台に立った彼は、裁判長から形式的な宣誓を受け、ゆっくりと深呼吸をした。その瞬間、傍聴席のざわめきが完全に止み、法廷全体が一つの呼吸を待つような沈黙に包まれた。


 まず、検察官が口火を切った。

 「証人、あなたは事故当日、運行管理センターでどのような業務を担当していたのですか」

 「……ダイヤの調整と、列車運行の監視です」

 淡々と答える声。だが、検察官の表情は鋭さを増していく。

 「あなたは当日、事故を起こした列車の運転士に対し、到着遅延を回復するよう指示を出したのではありませんか?」

 傍聴席からどよめきが広がる。証人は一瞬、言葉を詰まらせた。しかし、逃げることなく視線を正面に向け、はっきりと口を開いた。

 「……はい、出しました」

 その言葉は、法廷に重く響いた。記者たちは一斉にノートに走り書きを始め、シャッター音が鳴り響く。

 「つまり、会社として、列車の遅延を取り戻すことを最優先にしていたということですか」

 「そうです。上層部からは常に、『一秒たりとも遅れるな』という圧力がありました。運転士もそれを理解していました」

 裁判官の表情が厳しく引き締まる。これまで会社側は「遅延回復の強要はなかった」と一貫して主張してきた。しかし、この証言はそれを根底から覆すものだった。


 弁護側がすぐさま反対尋問に立つ。

 「証人、あなたの証言は、個人的な解釈に過ぎないのではありませんか? 遅延を回復せよというのは、単なる業務上の一般的な指示であり、運転士に無理な運転を強いたものではないのでは?」

 証人はしばし沈黙した。その間、法廷全体が息を潜めて見守る。やがて、彼は苦渋の表情を浮かべながら、力強く言った。

 「……違います。私はあの日、無理を承知で指示を出しました。運転士は限界に追い込まれていたのに、私はそれを黙認した。……いや、命令したのです」

 彼の声が震えた。だが、その震えは恐れからではなく、長年抱えてきた罪悪感から来るものだった。傍聴席の中には涙を拭う遺族の姿もあった。


 裁判長が静かに問いかける。

 「証人、あなたはその命令が事故の要因となったと考えますか」

 「……はい。あの列車が制限速度を超えてカーブに突入したのは、私が無理を強いた結果です」

 法廷は再びざわめいた。検察官の視線が鋭く光り、弁護人は言葉を失ったかのように沈黙する。

 裁判長が木槌を軽く打ち、場を鎮める。

 「証人、最後に確認します。この証言に偽りはありませんね」

 「偽りは……ありません。これは、私が背負わねばならない事実です」


 証言が終わった瞬間、傍聴席は静まり返った。遺族の一人が小さく嗚咽を漏らし、その音がやけに大きく響いた。記者たちは一斉に原稿を書き始め、この日の証言が「裁判の分岐点」として歴史に残ることを直感していた。

 弁護側の戦略は大きく崩れ、検察は確かな勝機を掴みつつあった。

 しかし、この裁判が終わりを迎えるには、なお幾つもの山場が待ち構えている。鉄道会社全体の責任、管理職の指示系統、さらには政治的な影響力――そのすべてが次の争点となるのは明らかだった。


 その日の夕方。法廷を出た証人は、報道陣に囲まれながらも、静かに言葉を残した。

 「私は逃げることをやめました。亡くなった方々に、少しでも償えるなら……それだけでいい」

 記者のマイクに向けられたその言葉は、ニュース番組の冒頭で繰り返し流され、多くの視聴者の胸に突き刺さった。

 夜の大阪の街に、まだ裁判の余波が色濃く残る。人々は口々に「これで真相が明らかになるのか」と語り合い、居酒屋でもタクシーの中でも、この日の証言の話題で持ちきりだった。

 そして――裁判の行方は、いよいよ最終段階へと進みつつあった。

 

第四十六章 経営陣の沈黙

 翌日も、大阪地方裁判所の大法廷には、朝から多くの人々が詰めかけていた。前日の証人尋問は世間に大きな衝撃を与え、新聞やテレビは「事故の真因を突く証言」と大きく報じた。その余波で、この日の審理にはさらに多くの遺族や報道陣が押し寄せ、法廷の外には入廷を待つ人々の長い列ができていた。

 この日、証人として呼ばれたのは、当時鉄道会社の経営幹部であった人物だった。かつて運行管理を統括し、事故後も一貫して「現場判断の誤り」と責任を限定してきた男。だが昨日の証人の告白により、その主張は揺らいでいた。

 ――会社の上層部は何を知っていたのか。どこまで関与していたのか。

 世間の関心は、すべてその一点に集まっていた。


 「証人、入廷を」

 廷吏の声とともに、法廷の扉が開く。姿を現したのは六十代半ばの男。髪には白いものが目立つが、背筋は真っ直ぐで、いまだに経営者らしい威圧感を漂わせていた。彼は証言台に立ち、宣誓を終えると、無表情のまま座席に腰を下ろした。

 検察官が立ち上がり、静かに切り出す。

 「証人、あなたは事故当時、運行管理部門を統括する立場にありましたね」

 「はい、そうです」

 「ではお尋ねします。昨日の証人が述べた『遅延回復の強要』について、あなたはご存じでしたか」

 法廷内が一斉に静まり返る。経営幹部の口から出る言葉が、この裁判を大きく左右することを誰もが知っていた。

 男は一瞬視線を伏せ、そして顔を上げると淡々と答えた。

 「そのような具体的な指示を、私が出した覚えはありません」

 傍聴席から小さなどよめきが起きる。検察官はすかさず畳みかけた。

 「では確認します。日常的に、遅延を一切許さないという社内風土が存在していたことは否定されませんね?」

 「……それは、鉄道会社として当然の目標です。お客様に時間通りに列車を運ぶのは我々の責務ですから」

 「責務と強要は違います。証人、昨日の証人は『無理を承知で指示した』と述べました。あなたは部下が無理をすることを黙認していたのではありませんか?」

 経営幹部の顔に、かすかな動揺が走った。唇を結び、わずかに肩が震える。だが、彼はすぐに冷静を装い、低い声で答えた。

 「……現場の判断に、私は逐一関与していません」


 傍聴席の空気が険しさを増していく。遺族の中から、思わず声を上げそうになる人を、係員が必死に制した。

 弁護側が立ち上がり、経営幹部を守ろうとする。

 「裁判長、この尋問は誘導的です。証人はすでに『具体的な指示を出していない』と明言しました。それ以上の追及は不当です」

 裁判長はしばし黙考し、やがて静かに告げた。

 「検察官、質問の仕方に注意してください。ただし証人、あなたの立場からすれば、現場の行動に影響を与え得る言葉を発した可能性がある。その点については明確に答えていただきたい」

 法廷の緊張がさらに高まる。


 検察官は資料を机に置き、ページを開いた。

 「ここに社内の内部文書があります。事故の前年に作成されたもので、あなたが決裁した記録が残っています」

 スクリーンに映し出されたのは、「定時運行最優先」という太字のスローガン。さらに、社内研修の指導要領には「遅延は重大な過失とみなす」と明記されていた。

 「この文書について、証人、あなたは何と説明されますか」

 経営幹部は資料を睨みつけ、苦々しげに言った。

 「これは……あくまで社員への意識付けのためのものです。現場に過度な負担をかける意図はありませんでした」

 「しかし、結果として過度な負担が現場にのしかかり、事故につながった。そうはお考えになりませんか?」

 「……それは、結果論に過ぎません」

 証言台の声は、次第に力を失っていった。


 弁護人が再び立ち上がり、話を打ち切ろうとする。

 「裁判長、この件はすでに十分に審理されています。証人を追及することは、この裁判の趣旨を超えています」

 だが裁判長は、証人に視線を向けたまま動かない。

 「証人、あなたは会社の責任をどうお考えですか。個々の運転士や社員に過失を押し付けるだけでなく、組織全体としての責任について、あなたの見解をお聞かせください」

 法廷内の視線が一斉に証人に集まる。彼は喉を鳴らし、言葉を探すように口を開きかけた。だが、すぐに閉じた。額に汗がにじみ、沈黙が続く。

 やがて、絞り出すような声が響いた。

 「……私は、当時の判断が正しかったと、今も信じています」

 その瞬間、傍聴席の遺族の一人が立ち上がり、震える声を上げた。

 「正しい? あの日、私の娘は帰ってこなかった! それでも正しいと言えるのですか!」

 廷吏が慌てて制止し、裁判長が木槌を打った。

 「静粛に! 傍聴席は発言を慎んでください」

 だが、すでに法廷の空気は収拾がつかないほど張り詰めていた。


 尋問は予定時間を大幅に超えて続けられたが、経営幹部の口から「責任」という言葉が明確に出ることはなかった。彼はあくまで「現場の判断」「組織の慣習」という言葉を繰り返し、自らの責任を回避し続けた。

 審理終了を告げる木槌の音が響いたとき、傍聴席からは押し殺した溜息が漏れた。記者たちは一斉に法廷を飛び出し、速報を打ち始めた。「経営幹部、責任を否定」「逆風強まる企業側」という見出しが踊るのは時間の問題だった。


 夜。大阪の街に灯りがともり、ニュース番組のトップにはこの日の証言が大きく取り上げられた。コメンテーターは「企業体質そのものが裁かれている」と口を揃え、街頭インタビューでは「やっぱり会社は逃げるつもりだ」「遺族がかわいそうだ」という声が次々と流れた。

 一方、経営幹部本人はホテルに戻り、記者の追及から逃れるように部屋に閉じこもっていた。窓の外のネオンが、彼の孤独を際立たせる。手元のグラスを握りしめながら、彼は呟いた。

 「……正しいと、言い続けるしかない」

 その言葉が自らを守る最後の盾であると同時に、彼を縛る鎖でもあった。

 そして裁判は、次なる山場――経営責任の核心に迫る最終局面へと進んでいく。


(第四十七章につづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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