西村京太郎を模倣し、『JR福知山線脱線事故』を題材にした小説、「終着駅の迷宮」(ラビリンス)第四十三章・第四十四章

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第四十三章 見えざる糸

 裁判の行方は、すでに新聞やテレビの報道を通じて全国民の注目を集めていた。だが、法廷の外でうごめく人間模様は、決して記事には載らない。傍聴席に座る人々の視線、遺族同士の囁き、弁護士や検察官の一瞬の表情の翳り――そうした細部が、まるで見えざる糸のように絡まり合って、この裁判をひとつの巨大な迷宮に変えていた。

 その日も神戸地方裁判所の大法廷は満席で、傍聴席には抽選で選ばれた市民たちがぎっしりと詰めかけていた。人々の関心は、被告である元運転士の証言に注がれていた。彼は相変わらず痩せこけた面持ちで、視線を落としたまま小さな声で応答を繰り返していた。

 「私は……速度を意識していました。遅れを取り戻さなければならないと思って……」

 その言葉が響くたびに、傍聴席の空気は重く沈んだ。責任を認めるようでありながら、どこか核心を避ける証言に、遺族たちの心は揺さぶられる。

 検察官はさらに追及する。

 「あなたは、そのとき心身ともに疲弊していたのではありませんか。会社からの指導や指示について、具体的に思い出せることは?」

 その問いに、運転士は一瞬だけ顔を上げ、目を泳がせた。

 「……教育というより、叱責が多かったです。失敗をすれば記録に残され、呼び出され……」

 法廷に沈黙が落ちた。記録員がタイプライターのような音を立てて、言葉を一字一句記録していく。その音だけが妙に耳に残る。

 傍聴席の最前列には、谷崎警部がいた。彼は休暇を理由に表向きは警察の任務から外れていたが、この裁判を自らの「未解決事件」として追い続けていた。福知山線脱線事故は、一人の運転士の過失だけで片付けられるものではない――そう直感していたからだ。

 谷崎は静かに手帳を開き、証言の要点を書き留めていた。その眼差しは、あくまで冷静に見えながらも、奥底では憤りが燻っていた。会社の体質、国鉄民営化以来の矛盾、指導という名の強圧的管理。それらがすべて、一本の線でつながっているとしか思えなかった。

 昼休憩に入ると、法廷の外の廊下で遺族たちが集まって声を潜めた。

 「やっぱり会社の体質が問題だったんやないか」

 「でも、結局はあの人(運転士)の判断やろ。うちの子を殺したのは……」

 意見は真っ二つに割れていた。怒りの矛先を一人に向ける者もいれば、組織全体を非難する者もいる。

 その様子を見ていた谷崎は、胸が締めつけられる思いだった。彼らは真実を求めているのに、裁判はその真実を示さぬまま、人々を分断していく。

 午後の審理で、弁護人が反論を展開した。

 「被告は会社の過重なプレッシャーのもとで、冷静な判断を奪われていました。これは一個人の過失ではなく、企業による安全管理の欠如が生んだ人災です」

 弁護士の声は法廷に響いたが、被告本人はうつむいたまま動かない。まるで自分の存在を消し去りたいかのように。

 その姿に、遺族席からすすり泣きが聞こえた。被告への憎しみと同情、その両方が入り混じった涙だった。

 その夜、谷崎は駅前の古びた喫茶店に足を運んだ。そこには、事故当時から独自に調査を続けていたジャーナリスト、柏木が待っていた。

 「谷崎さん、どうも裁判の流れが変わりそうですな。内部資料の一部が流出したという噂がある」

 柏木は低い声で告げた。

 「内部資料?」

 「はい。事故直前の速度記録、運転士への指導マニュアル、それに“日勤教育”の具体的な実態が……。もし本物なら、裁判の証拠として採用される可能性があります」

 谷崎の心臓がどくんと高鳴った。それこそ、彼が追い求めてきた「見えざる糸」の正体だった。すべてが、組織ぐるみの体質と結びついていたのだ。

 翌日の法廷。検察側から新たな証拠提出が宣言され、傍聴席はどよめいた。弁護士は即座に反発し、裁判官が静粛を促す。その場にいた誰もが、裁判が新たな局面を迎えたことを悟った。

 谷崎はその様子を見つめながら、心の中で呟いた。

 ――真実は、まだ迷宮の奥に隠されている。しかし、その糸口は確かにここにある。

 法廷の壁にかかった時計の針が静かに進む音だけが響いていた。時間は流れていく。しかし、真実へと続く糸は、まだ切れてはいなかった。

第四十四章 内部資料の影

 午前十時、神戸地方裁判所の大法廷。重苦しい空気が天井のシャンデリアのように垂れ込めていた。前日、検察が提示を予告した「新証拠」がいよいよ公開されるとあって、傍聴席には再び抽選で選ばれた市民たちが押しかけていた。報道関係者も多く、カメラのシャッター音が、まるで裁判の序曲のように響き渡った。

 裁判長が着席すると、静まり返った法廷に検察官の声が響いた。

 「本日、当方が提出するのは、被告の所属会社内部における“運転士指導マニュアル”の原本、それから事故直前の速度記録、及び被告に対して行われた“日勤教育”の詳細を記録した内部文書であります」

 法廷はざわめいた。被告の運転士が「指導」という名目で度重なる叱責を受け、精神的に追い詰められていたことはこれまでも証言で断片的に語られてきた。しかし、それが裏付けられる「記録」が存在するとなれば、裁判の構図そのものが変わる可能性があった。

 弁護側は即座に立ち上がった。

 「裁判長、この証拠の提出は手続き上の瑕疵がございます。出所の正当性が確認されていない以上、証拠能力に疑義があると考えます」

 検察官は譲らなかった。

 「この文書は、会社関係者から匿名で提出されたものです。だが内容の信憑性は極めて高く、既存のデータとも符合しています。公益性を鑑みれば、十分に審理に資するものです」

 裁判長は一瞬、険しい表情で両者を見比べ、最終的にこう告げた。

 「本件資料は、証拠採用の可否を後日改めて判断する。しかし、審理を進める上で参考として取り扱うことは許可する」

 その瞬間、傍聴席にどよめきが広がった。遺族席の一角からは小さな歓声さえ漏れた。彼らにとっては、事故の真因を突き止めるための“糸口”がようやく見えたように感じられたのだ。

 ◆

 昼休憩。裁判所のロビーは人の波で溢れかえっていた。遺族たちは互いに資料のコピーを見せ合いながら、口々に憤りを吐き出した。

 「やっぱり会社ぐるみやったんや」

 「運転士一人に責任押し付ける気やったんやな」

 一方で、別の遺族は顔を曇らせていた。

 「……でも、これで運転士さんの罪が軽くなるんやろか。うちの子が帰ってくるわけやない」

 谷崎警部は少し離れた柱の陰からその様子を見守っていた。彼は制服を着ていない。完全に一市民として裁判を追っていた。しかし、その瞳は刑事の鋭さを失っていなかった。

 ――やはり出てきたか。内部資料。

 それは、彼が数年前から独自に追い求めてきた“真実”の核心に近いものだった。

 そこへ、ジャーナリストの柏木が近づいてきた。

 「谷崎さん、どうやら提出されたのは本物のようですな。社内のごく一部しか見られない管理文書。それがどうして外に出てきたのか……興味深い」

 「内部告発……か」

 谷崎は低く呟いた。

 「ええ。しかし、単なる善意のリークとは限らない。会社内部の権力争いか、あるいは誰かが意図的に“切り札”として出してきたのか……」

 柏木の目は鋭かった。新聞記者として長年企業不祥事を追ってきた経験がそう言わせていた。谷崎も同感だった。事故の真相を求める者がいる一方で、裁判の行方を操ろうとする見えざる力が働いている可能性がある。

 ◆

 午後の法廷。内部文書の一部が読み上げられた。

 《失敗を繰り返す運転士に対しては“日勤教育”を実施する。これは当該職員の行動を反省させ、規律を徹底させるための教育である》

 《教育の間、運転士は一切の乗務を禁じられ、社内で雑務に従事させる。日誌に反省文を記載し、上司の前で繰り返し読み上げさせること》

 《改善が見られない場合は更なる処分を検討》

 読み上げが進むにつれ、傍聴席は静まり返っていった。あまりに厳しい内容が次々と明らかになり、それが「教育」とは名ばかりの懲罰であることが浮かび上がったからだ。

 被告席の運転士は震える手で膝を握りしめていた。額からは汗が滲み、口元は小刻みに震えている。彼にとって、この文書は過去の悪夢そのものだった。弁護人が静かに肩に手を置いたが、彼は反応しなかった。

 裁判長は深い息を吐いた。

 「本件事故が、単なる運転士一人の過失か否か。本日の資料は、その点を改めて問い直すものである」

 ◆

 その夜、谷崎は再び柏木と会った。場所は神戸の港を望む小さなバー。グラスに注がれたウイスキーが街の灯りを映して揺れていた。

 「谷崎さん、私は思うんです。この内部資料は、氷山の一角に過ぎない。もっと根深いものがある」

 「根深いもの?」

 「そうです。企業文化そのもの……いや、もっと言えば、国鉄から民営化に移行したときの“歪み”が今に続いているのでは」

 谷崎は黙ってグラスを傾けた。彼自身もそう感じていた。個人を追い詰め、効率を最優先にする構造。安全を犠牲にしてでも時間を守ろうとする企業体質。脱線事故はその帰結でしかなかったのではないか。

 窓の外には暗い海が広がっていた。その波間に、迷宮のように絡み合う人々の思惑が重なって見える気がした。

 ――見えざる糸は、まだ切れていない。だが、その先に待つ真実は、さらに深い闇を孕んでいる。

(第四十五章につづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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