第三十五章 地下三階の署名
一 午前六時の侵入者
十月三十日、午前六時十二分。
奈良中央記念病院旧館の正面玄関には、昨夜からの雨が細かな水滴となって残っていた。
真壁修司が到着すると、玄関前で野村亮介が待っていた。
「おはようございます」
「ああ。何かあったのか」
野村は手帳を開いた。
「昨夜、地下二階で警報が作動しています」
「何時だ」
「午後十一時四十三分です」
真壁の足が止まった。
昨夜、水島澄子は地下三階の存在を明かした。
その数時間後に、地下二階で警報が鳴ったという。
「警備員は確認したのか」
「はい。ただ、異常は発見できなかったそうです」
「監視カメラは」
「地下二階の廊下に一台あります。しかし、該当時刻の映像が欠けています」
真壁は野村を見た。
「欠けている?」
「午後十一時三十九分から四十七分まで、記録がありません」
「機器の故障か」
「まだわかりません」
真壁は病院を見上げた。
窓の向こうは暗かった。
「警報の作動記録と映像装置を保全してくれ。それから、昨夜の警備員全員に話を聞こう」
「はい」
野村は少し声を落とした。
「真壁さん。誰かが地下三階へ入ったんでしょうか」
「その可能性はある」
真壁は答えた。
「だが、まだ侵入者がいたと決まったわけじゃない」
野村は頷いた。
真壁は玄関のガラス扉に映った自分の顔を見た。
眠れなかったせいか、目の下に深い影がある。
昨夜、水島澄子は電話でこう言った。
『あなたが忘れたのは、階段の事故だけではありません』
真壁はその言葉を思い出していた。
二〇一〇年六月十八日。
京都の研究施設。
階段の下に倒れていた女性。
そして、白いシャツの男。
映像には、確かに自分が写っていた。
しかし、その後の記憶がない。
忘れたのか。
忘れさせられたのか。
それとも、思い出せないことを誰かに利用されているのか。
真壁は小さく息を吐いた。
「行こう」
二人は旧館へ入った。
地下三階。
そこに何が残されているのか。
今日、その一部が明らかになるはずだった。
二 水島澄子の条件
午前八時二十五分。
地下二階、B―17。
水島澄子は、約束の時間より十五分早く到着していた。
濃紺の上着。
白い髪。
小さな革の鞄。
その表情には、いつもの落ち着きがあった。
真壁は挨拶を済ませると、すぐに訊いた。
「昨夜、この病院に来ましたか」
水島は首を振った。
「いいえ」
「地下二階で警報が鳴りました」
「そうですか」
水島の声は変わらなかった。
「地下三階の存在を知っている人間は、ほかにもいますか」
「います」
「誰です」
水島は少し考えた。
「少なくとも、三人」
「名前を教えてください」
「相沢信一さん。岸田昭彦さん。それから……」
水島は言葉を止めた。
真壁は待った。
「もう一人は、私が名前を知っていると思っていた人物です」
「どういう意味です」
「その人は、長い間、別の名前で生きていました」
真壁は眉を寄せた。
また、名前の問題だった。
「本当の名前は」
水島は首を振った。
「確かめてから話します」
真壁は、その言葉に不満を覚えた。
しかし、表情には出さなかった。
「水島さん。あなたが知っていることを小出しにすると、証拠が失われる危険があります」
「わかっています」
「では、なぜ」
水島は真壁を見た。
「私自身も、間違って覚えていることがあるからです」
真壁は黙った。
水島は続けた。
「この事件では、人の名前を信用できません。顔も、証言も、書類も」
「だから、確かめる必要があります」
真壁は答えた。
「ええ」
水島は頷いた。
「私も、そう思っています」
野村が口を開いた。
「水島さん。地下三階に、母の記録はありますか」
水島は野村を見た。
「あるはずです」
「母が、その後どうなったかも?」
「それは、わかりません」
野村は唇を結んだ。
水島は静かに言った。
「亮介さん。あなたのお母様について、私は一つだけ確かな記憶があります」
「何ですか」
「二〇一〇年七月、私は真紀さんと会いました」
野村は息を止めた。
「本人だったんですね」
水島は頷いた。
「私は、そう確信しています」
真壁は言った。
「そのときの写真や、手紙は残っていますか」
水島は首を振った。
「ありません」
「では、今日見つかる記録と照合しましょう」
水島は頷いた。
「そうしてください」
真壁は腕時計を見た。
午前八時三十八分。
鑑識員と施設管理者の準備が整った。
「案内をお願いします」
水島は、ゆっくり立ち上がった。
三 存在しない階段
地下二階の廊下は、冷え切っていた。
水島はB―17の奥を通り、記憶記録保管室へ向かった。
そこには、金属製の棚が並んでいる。
古い録音テープ。
映像フィルム。
紙の記録。
前日までに、その一部が押収されていた。
水島は一番奥の棚を指した。
「これを動かしてください」
真壁は鑑識員に確認を求めた。
棚の周囲を撮影し、床と壁の状態を調べたあと、作業が始まった。
棚は重かった。
四人がかりで少しずつ移動させると、背後から灰色の壁が現れた。
その中央に、細い縦の線があった。
「扉ですね」
鑑識員が言った。
真壁は頷いた。
「開閉装置は」
水島は壁の下部を指した。
「ここです」
床から三十センチほどの位置に、小さな金属板が埋め込まれていた。
水島は鞄から古い鍵を取り出した。
真壁は、その鍵を見た。
銀色。
先端に二つの切り込み。
母親の遺品から見つかった鍵と、よく似ていた。
「その鍵は、どこで手に入れたんです」
「杉浦美津子さんから預かりました」
真壁の目が細くなった。
「いつ」
「一九八七年です」
真壁は頷いた。
「鍵の使用前に、状態を記録させてください」
水島は素直に鍵を渡した。
鑑識員が写真を撮り、番号を確認する。
鍵には、小さく《S―00》と刻まれていた。
やがて、金属板の奥から鈍い音がした。
壁の一部が、ゆっくり開いた。
その向こうに、階段が現れた。
狭い階段だった。
コンクリートの壁。
錆びた手すり。
下へ向かう階段の先は、暗闇に沈んでいる。
野村が懐中電灯を向けた。
「本当に地下三階が……」
真壁は階段を見下ろした。
「まず、安全を確認しよう」
建物の構造と空気の状態を調べるため、施設管理者と専門員が先に確認した。
古い地下施設には、酸素不足や有害な気体が溜まることがある。
真壁は、急いで階段を下りようとはしなかった。
水島は、その様子を黙って見ていた。
やがて、安全確認を終えた担当者が戻ってきた。
「進入可能です。ただし、奥の区画は未確認です」
真壁は頷いた。
「わかりました」
そして、野村を見た。
「行こう」
二人は階段を下り始めた。
靴音が、コンクリートの壁に反響した。
地下三階。
図面に存在しない階。
そこには、何十年もの間、誰にも見られなかった記録が眠っているのかもしれなかった。
四 原記録管理室
午前十時十二分。
地下三階。
階段の先には、長い廊下が続いていた。
左右に、いくつもの扉が並んでいる。
壁には、古い番号札が残されていた。
《01》
《02》
《03》
真壁は懐中電灯を向けた。
廊下の一番奥に、鉄製の扉があった。
《原記録管理室》
真壁は立ち止まった。
「ここですね」
水島は頷いた。
「はい」
扉には、鍵が掛かっていなかった。
鑑識員が状態を確認する。
扉の下には、新しい擦過痕があった。
「最近、開閉された可能性があります」
担当者が言った。
真壁は頷いた。
「昨夜の警報と関係があるかもしれませんね」
野村は廊下を振り返った。
誰もいない。
ただ、古い換気装置の音が聞こえるだけだった。
扉が開かれた。
室内には、机と棚が並んでいた。
壁には、古い写真が掛けられている。
一九七四年六月十二日。
奈良中央記念病院。
若い研究者たちが写っていた。
杉浦千鶴。
杉浦美津子。
三崎俊夫。
相沢信一。
そして、中央に立つ男。
真壁は写真に近づいた。
男は相沢信一に似ていた。
しかし、右眉の上に小さな傷がある。
「水島さん」
「はい」
「この人は誰です」
水島は写真を見た。
その表情が変わった。
「……この写真が、まだ残っていたんですね」
真壁は黙った。
水島は、ゆっくり答えた。
「石倉正一さんです」
真壁は息を止めた。
石倉正一。
一九四八年十一月二十日生まれ。
一九八一年の事故に関わったとされる記録管理者。
二〇二二年七月に姿を消した男。
真壁は写真を見つめた。
「相沢信一さんではないんですね」
「違います」
水島は答えた。
「石倉さんです」
「二人は、よく似ていますね」
「ええ」
水島は頷いた。
「それが、後になって問題になりました」
真壁は顔を上げた。
「どういうことです」
水島は少し考えた。
「石倉さんは、相沢さんの代わりに会議へ出席することがありました」
「代わりに?」
「はい」
「なぜです」
「相沢さんが表に出られないとき、石倉さんが説明をしていたんです」
真壁は黙った。
また、代理人。
また、名前の入れ替わり。
「その際、石倉さんは相沢信一を名乗っていたんですか」
水島は首を振った。
「少なくとも、私が知る限りでは違います」
真壁は頷いた。
「わかりました」
野村が写真を見た。
「この人が、二〇一八年に神谷直人さんの前に現れた人物でしょうか」
真壁は答えた。
「可能性はある」
神谷直人は、父親に似た男に会ったと話していた。
その男は、実際には石倉正一だった可能性がある。
しかし、本人確認はまだ終わっていない。
真壁は写真から目を離した。
「まず、室内を調べよう」
五 消えた一枚
午前十一時四十分。
原記録管理室の机には、古い封筒が並べられていた。
鑑識員が一枚ずつ確認している。
その中に、真壁の名前が書かれた封筒があった。
《真壁修司へ》
真壁は、しばらくその文字を見つめた。
昨夜、誰かがこの部屋に入ったのだとすれば。
この封筒は、その人物が置いていったものかもしれない。
「開封前の状態を記録してください」
真壁が言った。
鑑識員は頷いた。
封筒には、封をした痕跡がなかった。
中には、一枚の紙が入っていた。
《一九七四年六月十二日》
《第二投与実施者》
真壁は息を止めた。
探していた別紙だった。
一九七四年。
小野寺孝一が死亡した日。
第二投与を実施した人物の名前だけが、長い間、記録から消されていた。
真壁は、ゆっくり文字を読んだ。
《実施者 石倉正一》
野村が顔を上げた。
「石倉正一……」
真壁は黙った。
水島も、紙を見つめていた。
「石倉さんが?」
真壁は水島を見た。
「ご存じなかったんですか」
水島は首を振った。
「私は、千鶴さんが関わったと聞いていました」
「誰から」
「兄からです」
「水島圭介さんですね」
「はい」
真壁は頷いた。
「では、あなたも石倉さんが実施したことは知らなかった」
「そうです」
真壁は資料を見つめた。
石倉正一。
相沢信一に似た男。
記録管理者。
一九八一年の事故に関わった人物。
そして、一九七四年の第二投与実施者。
しかし、真壁はすぐに気づいた。
「野村」
「はい」
「この紙には、作成者の署名がない」
野村が資料を見た。
確かに、記載されているのは実施者の名前だけだった。
「原本かどうかも、まだわからない」
真壁は続けた。
「しかも、昨夜ここへ入った人物が置いた可能性がある」
野村は頷いた。
「つまり、誰かが僕たちに石倉正一を疑わせようとしている可能性もある」
「そうだ」
真壁は紙を鑑識員に戻した。
「紙とインク、筆跡、作成時期を調べてください」
担当者が頷いた。
真壁は室内を見回した。
「それから、この封筒がどこに置かれていたのか、詳しく記録しておいてください」
「了解しました」
水島が小さく言った。
「石倉さんは、記録を守る人だったはずなのに……」
真壁は、その言葉を聞き逃さなかった。
「水島さん」
「はい」
「石倉正一さんは、誰の記録を守っていたんですか」
水島は答えなかった。
長い沈黙。
そして、静かに言った。
「自分自身の記録です」
真壁は目を細めた。
「どういう意味です」
水島は壁の写真を見た。
「石倉さんは、最初から記録管理者だったわけではありません」
「では、何だったんです」
水島は答えた。
「観測対象者です」
真壁は動かなかった。
「石倉正一も、観測されていた?」
「はい」
水島は頷いた。
「相沢信一さんが、最初に選んだ人間の一人でした」
真壁は静かに訊いた。
「識別番号は」
水島は答えた。
「K―04です」
真壁は息を止めた。
K―04。
これまで、岸田昭彦に関係すると考えられていた番号。
だが、最初に割り当てられたのは石倉正一だった。
真壁は、ゆっくり息を吐いた。
「番号が、別の人間へ引き継がれている……」
水島は頷いた。
「そうです」
「S―00と同じように」
「ええ」
真壁は資料を見つめた。
M―17。
N―18。
K―04。
識別番号は、必ずしも一人の人間を示していなかった。
その事実が、事件の構造をさらに複雑にしていた。
六 二〇一〇年の署名
午後一時二十分。
原記録管理室の奥に、もう一つの棚があった。
そこには、二〇一〇年の記録がまとめられていた。
《平成二十二年六月十八日》
《京都研究施設》
《事故後処置》
真壁は、慎重にファイルを開いた。
一枚目。
《患者A》
《頭部外傷》
《意識障害》
二枚目。
《患者B》
《左腕外傷》
《意識清明》
三枚目。
《患者C》
《外傷なし》
《意識清明》
真壁は頷いた。
地下二階で見つかった記録と一致している。
しかし、次のページには、見覚えのない項目があった。
《移送計画変更》
《変更理由 身元保護》
真壁の目が細くなった。
「身元保護?」
野村が顔を上げた。
「何ですか」
真壁は資料を指した。
「患者Bを、別の施設へ移す計画があったらしい」
野村はページを見た。
《移送対象者 患者B》
《移送先 奈良中央記念病院地下二階》
その下に、署名欄があった。
《移送責任者》
《真壁修司》
真壁は動かなかった。
自分の名前。
そして、署名。
以前見つかった移送指示書と、よく似ている。
だが、今回は署名の横に日付があった。
《平成二十二年六月十九日》
真壁は、長い時間、その文字を見つめた。
「真壁さん」
野村が声をかけた。
「覚えていますか」
真壁は首を振った。
「いや」
「署名したことも?」
「覚えていない」
野村は黙った。
真壁は、資料を机に置いた。
「ただ、覚えていないからといって、署名していないとは言えない」
野村は頷いた。
「そうですね」
真壁は続けた。
「逆に、名前が書かれているからといって、俺が署名したとも限らない」
野村は静かに答えた。
「鑑定が必要ですね」
「ああ」
真壁は頷いた。
そのとき、鑑識員が声を上げた。
「真壁さん。裏面に記載があります」
真壁は資料を裏返した。
そこには、小さな文字があった。
《本人同意確認済》
真壁の目が細くなった。
「誰の同意だ」
野村が訊いた。
真壁は答えた。
「わからん」
その下に、もう一つの欄があった。
《同意確認者》
《岡崎玲子》
真壁は息を止めた。
岡崎玲子。
階段から転落したとされる女性。
二〇一〇年六月十九日に死亡したことになっている人物。
その名前が、移送の同意確認者として記されていた。
「おかしいですね」
野村が言った。
「岡崎さんが意識不明だったなら、同意確認なんてできないはずです」
真壁は頷いた。
「そうだ」
しかし、別の可能性もあった。
岡崎玲子は、実際には意識があったのかもしれない。
あるいは、別の人物が岡崎玲子の名前を使っていたのかもしれない。
真壁は資料を閉じた。
「この署名も、鑑定に回そう」
野村は頷いた。
「はい」
真壁は、しばらく考え込んだ。
そして、水島に訊いた。
「水島さん」
「はい」
「二〇一〇年六月十九日、私はこの病院にいましたか」
水島は、ゆっくり頷いた。
「いました」
真壁は息を止めた。
「何をしていたんです」
水島は答えた。
「女性を一人、運んできました」
野村が顔を上げた。
「誰ですか」
水島は野村を見た。
そして、静かに言った。
「あなたのお母様です」
野村は動かなかった。
「野村真紀さんを、真壁さんが運んできたんです」
真壁は、長い時間、何も言えなかった。
自分が。
野村の母親を。
この病院へ運んだ。
しかし、その記憶はない。
真壁は静かに訊いた。
「そのとき、母親は生きていましたか」
水島は頷いた。
「はい」
「会話は」
「できました」
野村は息を止めた。
「母は、何か言っていましたか」
水島は答えた。
「亮介を頼む、と」
野村は目を伏せた。
真壁は、ゆっくり息を吐いた。
「その後、野村真紀さんはどうなったんです」
水島は答えなかった。
長い沈黙。
そして。
「私にも、わかりません」
真壁は眉を寄せた。
「なぜです」
水島は静かに言った。
「その日の夜、別の人間が迎えに来たからです」
真壁の目が細くなった。
「誰です」
水島は答えた。
「岸田昭彦です」
真壁は動かなかった。
K―04。
一九八一年の事故。
二〇一〇年の階段。
そして、野村真紀の移送。
その男が、再び現れた。
七 岸田昭彦の目的
午後三時十分。
地下三階の原記録管理室。
真壁は、水島の証言を整理していた。
二〇一〇年六月十九日。
真壁修司が野村真紀を奈良中央記念病院へ運んだ。
その夜、岸田昭彦が迎えに来た。
そして、野村真紀は姿を消した。
真壁は静かに訊いた。
「水島さん」
「はい」
「岸田昭彦は、どこへ連れていったんですか」
水島は首を振った。
「知りません」
「車は」
「黒いワゴン車でした」
「ナンバーは」
「覚えていません」
真壁は頷いた。
「同行者はいましたか」
「一人いました」
真壁の目が細くなった。
「誰です」
水島は答えた。
「石倉正一です」
真壁は息を止めた。
石倉正一。
K―04の最初の観測対象者。
一九七四年の第二投与実施者と記された男。
そして、二〇一〇年の野村真紀の移送に関わっていた。
真壁は静かに言った。
「二人が一緒にいたんですね」
水島は頷いた。
「はい」
「野村真紀さんは、自分の意思で車に乗ったんですか」
水島は少し考えた。
「拒否している様子はありませんでした」
「それだけでは、同意したとは言えません」
真壁は言った。
水島は頷いた。
「そうですね」
野村が口を開いた。
「母は、どこへ行くと言っていましたか」
水島は野村を見た。
「安全な場所へ行く、と」
「安全な場所?」
「ええ」
野村は黙った。
水島は続けた。
「真紀さんは、何かを恐れていました」
真壁が訊いた。
「何を」
水島は答えた。
「相沢信一さんです」
真壁は目を細めた。
「なぜ」
「S―00の記録を持っていたからです」
真壁は頷いた。
「では、岸田昭彦と石倉正一は、記録を守るために彼女を連れ出した?」
水島は首を振った。
「そこまではわかりません」
真壁は黙った。
水島は続けた。
「二人が何を考えていたのか、私にはわかりませんでした」
真壁は資料を閉じた。
「わかりました」
そして、野村を見た。
「野村」
「はい」
「お前の母親が二〇一〇年六月十九日に生きていたという証言が、複数出てきた」
野村は頷いた。
「はい」
「だが、その後の所在はまだ不明だ」
野村は静かに答えた。
「わかっています」
真壁は続けた。
「必ず、追跡しよう」
野村は深く頷いた。
「お願いします」
八 署名の下にあった文字
午後六時四十五分。
奈良県警本部。
真壁は、地下三階から持ち帰った資料を整理していた。
机の上には、二〇一〇年六月十九日の移送指示書が置かれている。
《移送責任者 真壁修司》
その署名を、真壁は何度も見つめていた。
自分の字に似ている。
しかし、どこか違う。
真壁は、過去の自分の署名を取り出した。
二〇〇九年の捜査報告書。
二〇一一年の事情聴取記録。
二〇一〇年の移送指示書。
三つを並べる。
「修」の字。
「司」の字。
筆圧。
文字の傾き。
真壁は眉を寄せた。
「野村」
「はい」
「これを見てくれ」
野村が近づいた。
「何です」
「署名の最後だ」
野村は資料を見た。
真壁修司。
その下に、小さな点のようなものがある。
「インクの汚れですか」
「そうかもしれん」
真壁は答えた。
「だが、ほかの署名にはない」
野村は頷いた。
真壁は続けた。
「鑑定結果を待とう」
そのとき、電話が鳴った。
鑑識の担当者だった。
『真壁さん。移送指示書の件で、少し確認したいことがあります』
「何です」
『署名の下に、別の文字が残っています』
真壁は息を止めた。
「別の文字?」
『はい。消された筆跡のようです』
「読めますか」
『一部だけですが』
真壁は静かに言った。
「お願いします」
短い沈黙。
そして。
『杉浦、という二文字が確認できます』
真壁は動かなかった。
杉浦。
母親の姓。
杉浦千鶴。
杉浦美津子。
そして、水島澄子が使っていた名前。
真壁は静かに訊いた。
「その後は」
『まだ解析中です』
「わかりました」
電話が切れた。
真壁は、しばらく資料を見つめていた。
自分の署名の下に、杉浦という文字がある。
誰かが、先に杉浦という名前を書いた。
そして、その上から真壁修司と書き直した可能性がある。
真壁は、ゆっくり息を吐いた。
「野村」
「はい」
「この書類は、最初から俺の名前で作られたものじゃないかもしれん」
野村は頷いた。
「そうですね」
真壁は資料を閉じた。
「誰が、いつ、名前を書き換えたのか」
その答えは、まだ出ていなかった。
九 最後の管理者
午後十一時二十分。
奈良中央記念病院旧館。
地下三階。
原記録管理室。
部屋には、誰もいなかった。
警察の立入禁止テープが、扉に張られている。
しかし、廊下の奥で、小さな音がした。
金属が擦れる音。
そして、足音。
一人の男が、暗闇の中から現れた。
黒い上着。
白い手袋。
男は、原記録管理室の扉を見つめた。
「遅かったか」
小さく呟いた。
扉には、警察の封印が残っている。
男は、しばらくその封印を見ていた。
そして、静かに笑った。
「それでも、まだ全部は見つけていない」
男は廊下の奥へ向かった。
そこには、もう一つの扉があった。
《記録照合室》
男は鍵を取り出した。
扉が開く。
室内には、古い机と金属製の棚が並んでいた。
男は、一番奥の棚へ向かった。
そこには、一冊の台帳があった。
《S―00 継承記録》
男は台帳を開いた。
一九七四年。
杉浦千鶴。
一九七四年七月。
杉浦美津子。
一九八七年。
岡崎玲子。
二〇一〇年。
野村真紀。
そして。
《最終継承予定者 真壁修司》
男は、その名前を見つめた。
「ようやく、ここまで来たか」
そして、次のページを開いた。
そこには、別の名前があった。
《管理責任者》
《石倉正一》
男は、長い時間、その文字を見つめていた。
そして、静かに呟いた。
「名前を返す時が来た」
そのとき、携帯電話が震えた。
画面には、短いメッセージが表示されていた。
《真壁修司が、署名の下の文字を見つけた》
男は、ゆっくり頷いた。
返信する。
《予定どおり》
送信。
男は台帳を閉じた。
そして、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
《二〇一〇年六月十九日》
《移送責任者》
そこには、二つの名前が書かれていた。
一つ目。
《杉浦千鶴》
二つ目。
《真壁修司》
男は、しばらくその二つを見つめていた。
そして、静かに言った。
「どちらも、同じ場所にいた」
誰も答えなかった。
男は紙を封筒に入れた。
封筒の表には、こう書かれていた。
《真壁修司へ》
その下に、小さな文字。
《あなたが運んだのは、誰だったのか》
男は、部屋の明かりを消した。
暗闇の中に、古い台帳だけが残された。
翌朝。
真壁修司は、まだ知らなかった。
二〇一〇年六月十九日の移送記録には、自分以外にもう一人、責任者がいたことを。
そして、その人物が、杉浦千鶴という名前を使っていたことを。
その名前の持ち主が、誰だったのか。
本来の杉浦千鶴か。
杉浦美津子か。
水島澄子か。
あるいは、まだ知られていない別の人物か。
答えは、地下三階のさらに奥に残されていた。
そして、そこには、二〇一〇年六月十八日の事故に関する最後の記録が眠っていた。
《観測終了》
《対象者M―17》
《記憶誘導処置》
《実施者》
その欄には、ただ一つの名前が記されていた。
《真壁修一》
真壁修司の父親。
二〇〇九年に死亡したはずの男だった。
第三十六章に続く

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