上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第百三章

目次

第百三章 七日の決定

 七日。

 短い。

 国の形を。

 決めるには。

 あまりにも。

 短い。

 だが。

 船は。

 待たない。

 米は。

 減る。

 水は。

 要る。

 町は。

 動く。

 人は。

 帰ってくる。

「七日で」

 阿部が言った。

「何を」

「どこまで」

「決める」

 家定は。

 答えなかった。

 代わりに。

 大広間へ。

 集められた者を見る。

 大名。

 旗本。

 町人。

 百姓代。

 寺。

 商人。

 船頭。

 海防。

 帰国者。

 女。

 そして。

 役を。

 降りた者。

「全部は」

 家定が言う。

「決めません」

 ざわめき。

「何」

 老中の一人が。

 声を上げる。

「七日後には」

「米利堅へ」

「返答せねばならぬ」

「はい」

「それなのに」

「決めぬ?」

「決めるものと」

「決めないものを」

「決めます」

 新之介が。

 僅かに。

 目を細める。

 それでよい。

 ◇

 清太郎。

 大紙。

 中央。

 一本。

 縦線。

 左。

 ――七日以内。

 右。

 ――七日後も継続。

「まず」

 家定が言う。

「港」

「七日以内」

 阿部。

「通商」

「一部だけ」

「七日以内」

「恒久条件は」

「継続」

「漂流者」

 源七。

「帰還の原則は」

「七日以内」

「細則」

「継続」

「帰国者」

 喜兵衛。

「帰ることに」

「役を付けない」

「それは」

「七日以内に」

「決めてほしい」

「はい」

 清太郎。

 左へ。

 ――帰国意思と役受諾を分離。

「将軍」

 水野。

 部屋。

 静かになる。

 家定は。

 少し。

 息を吸う。

「七日以内に」

「将軍制そのものを」

「終わらせるかどうかは」

「決めません」

 ざわめき。

「では」

「何を」

「今」

「将軍が持っている権限を」

「仮に」

「分けます」

 ◇

「仮?」

 薩摩藩の使者。

「期間は」

「半年」

「半年後」

「見直す」

「誰が」

「その時の」

「将軍が?」

「いいえ」

 家定は。

 はっきり。

「将軍一人には」

「決めさせません」

 さらに。

 ざわめき。

「なら」

「将軍とは」

「何なのです」

 家定が。

 少し笑った。

「それを」

「半年」

「考えます」

 ◇

 武家たちの。

 顔。

 不満。

 恐れ。

 軽蔑。

 期待。

 全部。

 ある。

「家定様」

 一人。

 老臣。

「そのような」

「曖昧なことでは」

「国が」

「持ちませぬ」

「では」

 家定が問う。

「今まで」

「一人が」

「すべてを」

「持っていたから」

「国は」

「持ったのですか」

「……」

「偽の家慶」

「偽の家定」

「偽の阿部」

「偽の堀田」

「偽の榊原」

「名だけで」

「命令が」

「通った」

「それでも」

「一人の印が」

「安全ですか」

 老臣が。

 答えられない。

 ◇

「私は」

 家定が続ける。

「将軍の名を」

「軽くしたいのでは」

「ありません」

「何を」

「名より」

「決定の中身を」

「重くしたい」

 新之介が。

 家定を見る。

 以前なら。

 この言葉を。

 新之介が。

 言っただろう。

 今。

 家定自身が。

 言っている。

 ◇

 第一日。

 港。

 二港。

 米利堅側は。

 二つを。

 求めた。

 海防方。

 商人。

 船頭。

 漁師。

 周辺村。

 それぞれ。

 聞く。

「二港は」

「多い」

 漁師。

「なぜ」

「船が」

「入れば」

「魚場が」

「変わる」

「では」

「一港」

 商人。

「一港だけなら」

「荷が」

「集中する」

「値が」

「上がる」

「では」

「二港」

「それも」

「困る」

 水野が。

 額を押さえる。

「では」

「どうしろと」

「困ることを」

「先に」

「残してください」

 志乃が言った。

「何」

「二港でも」

「一港でも」

「困る人がいる」

「それを」

「なかったことにしない」

「決めるのは」

「その後」

 ◇

 第二日。

 米。

 薪。

 水。

 交換。

 通商。

 甚兵衛が。

 帳面を。

 見せる。

「外国船へ」

「売る米と」

「江戸へ」

「入る米」

「分けねば」

「値が」

「跳ねます」

「なら」

 阿部。

「外国用を」

「別に」

「積む?」

「誰が」

「その負担を」

「する」

「幕府」

「その金は」

「誰の税」

 阿部が。

 止まる。

「それを」

「書いてください」

 甚兵衛。

「『国が払う』では」

「人が消える」

 ◇

 第三日。

 帰国者。

 二十八人。

 全員。

 同じ部屋には。

 いない。

 帰る者。

 帰らない者。

 まだ。

 決めない者。

「数を」

 清太郎が読む。

「帰国希望」

「十八」

「非帰国」

「五」

「未定」

「五」

「以前と」

「変わった?」

「はい」

「誰」

「二人」

「帰国希望から」

「未定へ」

「一人」

「未定から」

「帰国希望へ」

「理由」

「書く?」

 喜兵衛が。

 首を振る。

「本人が」

「書きたいなら」

「書く」

「そうでなければ」

「数だけ」

「分かりました」

 ◇

「役」

 清太郎。

「継続希望」

「六」

「辞退」

「九」

「未定」

「三」

「役なし」

「帰国希望者のうち」

「数名」

「役を」

「受ける者が」

「増えた?」

「はい」

「なぜ」

 甚兵衛が言う。

「帰国と」

「役が」

「分かれたからだ」

「何」

「役を断っても」

「帰れる」

「それが」

「分かった」

「なら」

「逆に」

「やりたい役を」

「選べる」

 家定が。

 ゆっくり。

 頷く。

「強制を」

「外すと」

「役そのものまで」

「なくなるとは」

「限らない」

「はい」

 ◇

 梅。

「私は」

「医師として」

「働きたい」

「医師?」

 御典医。

「女が?」

 梅の目が。

 細くなる。

「薬草と」

「傷の手当ては」

「二十年」

「してきました」

「免許は」

「ない」

「なら」

「医師ではない」

「では」

「何なら」

「できます」

「……」

 家定が。

 割って入る。

「まず」

「働ける範囲を」

「見分しませんか」

「名を」

「先に」

「決めるのではなく」

 御典医が。

 不満そうに。

「役がなければ」

「責任が」

「曖昧になる」

「では」

 梅。

「私が」

「したことを」

「記録してください」

「治った人」

「悪くなった人」

「失敗」

「全部」

「それで」

「見てください」

 ◇

 第四日。

 将軍権限。

 これが。

 一番。

 荒れた。

「海防は」

「将軍」

「最終命令」

 水野。

「ただし」

「緊急時だけ」

「通常は」

「海防評議」

「外交」

 源七。

「交渉窓口と」

「締結確認を」

「分ける」

「財政」

 甚兵衛。

「将軍単独不可」

「救済」

 辰蔵。

「火事場で」

「将軍の印を」

「待つな」

「人が先」

 ◇

「裁許」

 一人の奉行。

「最後は」

「一人が」

「決めねば」

「ならぬ」

「なぜ」

 新之介。

「判が」

「必要だから」

「では」

「判を押す人と」

「決める人を」

「同じにする必要は」

「ありますか」

 奉行が。

 黙る。

「責任が」

「分かれる」

「はい」

「逃げる」

「だから」

「誰が」

「どこを」

「決めたか」

「残す」

「また」

「帳面か」

「はい」

 ◇

 玄斎が。

 後ろから。

「帳面を」

「増やしすぎると」

「読む前に」

「儂が死ぬぞ」

「先生は」

「読まなくてよいです」

「何だと」

「膝の記録だけ」

「残します」

「斬るぞ」

 部屋に。

 小さな笑い。

 緊張が。

 少し。

 ほどける。

 ◇

 第五日。

 町。

 江戸。

 城の中では。

 決められない。

 家定。

 新之介。

 志乃。

 辰蔵。

 数名。

 町へ。

 出る。

 身分を。

 完全には。

 隠さない。

 だが。

 大仰な行列も。

 付けない。

「将軍になる方が」

「町を」

「歩く?」

 八百屋。

「まだ」

「なっていません」

「徳川様だろ」

「はい」

「じゃあ」

「似たようなもんだ」

 家定が。

 困る。

「何を」

「聞きたい」

「港を」

「外国船へ」

「開くこと」

「米の値が」

「上がらなきゃ」

「好きにしろ」

「それだけ?」

「それだけって何だ」

「こっちは」

「毎日」

「米食ってんだ」

 ◇

 魚屋。

「外国人が」

「町へ来るのは」

「怖い」

「なぜ」

「言葉」

「違う」

「刀より」

「何するか」

「分からねえ方が」

「怖い」

「なら」

「来させない?」

「でも」

「珍しい魚を」

「買うなら」

「来てもいい」

 家定が。

 笑う。

「どちらです」

「知らねえよ」

「やってみなきゃ」

「分からねえ」

 新之介が。

 家定を見る。

 家定も。

 見る。

 答えは。

 一つでなくてよい。

 ◇

 長屋。

 女。

「戦にならないなら」

「それが一番」

「では」

「少し譲っても」

「戦を避ける?」

「何を」

「譲るかによる」

「港」

「港の人に」

「聞きなさい」

「米」

「それは」

「こっちにも」

「聞きなさい」

「国の面子」

 女が。

 鼻で笑う。

「腹の足しに」

「なるのかい」

 家定は。

 その言葉を。

 清太郎へ。

「残してください」

「はい」

 ◇

 第六日。

 反対派。

 城内。

 ついに。

 声を上げる。

「これは」

「政ではない」

「町人の」

「寄合だ」

「国は」

「そんなもので」

「動かぬ」

 家定が。

 前へ。

「では」

「今まで通り」

「私が」

「一人で」

「決めましょうか」

 相手が。

 一瞬。

 言葉を止める。

「それを」

「望みますか」

「将軍とは」

「そういうもの」

「では」

「その決定で」

「戦になり」

「江戸が焼けた時」

「誰が」

「責任を」

「取る」

「将軍」

「どうやって」

「腹を切る?」

 家定の声が。

 低い。

「それで」

「焼けた家は」

「戻りますか」

 ◇

「責任とは」

 家定が続ける。

「死ぬことでは」

「ありません」

「決める前に」

「聞く」

「決めた後に」

「起きたことを見る」

「誤りなら」

「変える」

「傷つけたなら」

「戻せるものを戻す」

「戻せないものは」

「戻せないと」

「書く」

「私は」

「そういう責任を」

「負いたい」

 新之介は。

 黙っていた。

 家定の。

 言葉だから。

 ◇

 その夜。

 父。

 家慶甲。

 子。

 家定。

 二人。

 対面。

「父上」

「何だ」

「明日」

「決めます」

「ああ」

「私は」

「将軍を」

「継ぎます」

 家慶甲は。

 目を閉じる。

「そうか」

「ただし」

「今までと」

「同じでは」

「ありません」

「分かっている」

「半年」

「仮」

「はい」

「外交」

「海防」

「裁許」

「財政」

「それぞれ」

「単独では」

「決めません」

「はい」

「非常時だけ」

「狭い範囲で」

「一時の命令」

「はい」

「そして」

「半年後」

「将軍を」

「続けるかも」

「見分する」

「はい」

 ◇

「怖いか」

 家慶甲が問う。

「はい」

「やめたいか」

「少し」

「それでも」

「やる?」

「はい」

「なぜ」

「私が」

「徳川家定だから」

 新之介なら。

 その言葉へ。

 役を。

 疑えと。

 言う。

 家定は。

 続けた。

「でも」

「それだけではありません」

「では」

「今」

「自分で」

「受けると」

「決めたからです」

 家慶甲が。

 少し笑った。

「なら」

「よい」

 ◇

「父上は」

「何を」

「します」

「何も」

 家定が。

 少し驚く。

「何も?」

「私は」

「三十四年」

「いや」

「それ以上」

「名と」

「役を」

「背負った」

「もう」

「私が」

「決める側へ」

「戻れば」

「そなたの半年が」

「意味を失う」

「では」

「隠居?」

「それも」

「まだ」

「名だ」

「何になりたい」

 家慶甲は。

 長く。

 考えた。

「父で」

「よい」

 家定の目が。

 少し。

 赤くなる。

「それが」

「一番」

「難しいと」

「昨日」

「言ったでしょう」

「ああ」

「だから」

「やる」

 ◇

 第七日。

 朝。

 江戸城。

 大広間。

 決定。

 清太郎が。

 読み上げる。

 第一。

 米利堅船への。

 薪水食料提供。

 期限。

 量。

 価格。

 明記。

 第二。

 二港のうち。

 一港を。

 試験的に。

 限定開港。

 もう一港は。

 三月後に。

 影響を見て。

 再協議。

 第三。

 通商。

 限定品目。

 限定期間。

 半年。

 その後。

 再見分。

 第四。

 漂流民。

 帰国希望者。

 本人意思を。

 第一とする。

 役。

 借金。

 身分。

 それらを。

 帰還条件へ。

 原則。

 結びつけない。

 第五。

 帰国者を。

 「帰国者」という。

 恒久の役へ。

 しない。

 ◇

 第六。

 外国との。

 約定。

 一人の名だけで。

 成立させない。

 交渉窓口。

 実行担当。

 記録。

 影響確認。

 それぞれ。

 署名。

 印。

 第七。

 将軍。

 徳川家定。

 ただし。

 半年間。

 権限を。

 限定。

 第八。

 非常時権限。

 範囲と。

 期限を。

 発令時に。

 明記。

 期限後。

 自動で。

 失う。

 第九。

 半年後。

 将軍権限。

 外交。

 海防。

 財政。

 裁許。

 救済。

 それぞれ。

 再見分。

 第十。

 反対意見。

 少数意見。

 不参加。

 未定。

 決定と。

 別に。

 記録。

 ◇

「以上」

 清太郎が。

 筆を置く。

 沈黙。

 家定が。

 前を見る。

「異論」

 ある。

 当然。

 手。

 声。

 次々。

 反対。

「開港反対」

「半年では短い」

「将軍権限が弱すぎる」

「逆に」

「将軍を残す必要がない」

「外国人を」

「町へ入れるな」

「帰国者へ」

「もっと調べを」

「先にすべき」

 家定は。

 全部。

 止めない。

 清太郎。

 書く。

 ◇

 最後。

「決定します」

 家定が言う。

「反対は」

「消しません」

「ですが」

「今日」

「動くため」

「この案を」

「日本側の」

「仮決定とします」

 印。

 一つではない。

 家定。

 阿部。

 水野。

 港役。

 町方。

 商人代表。

 帰国者代表。

 清太郎。

 さらに。

 反対者二名。

 反対者まで。

 印を。

 押す。

「なぜ」

 一人が問う。

「私は」

「反対だぞ」

「反対したことを」

「証明する印です」

 男が。

 驚く。

「賛成の印では」

「ありません」

 そして。

 反対の横へ。

 印。

 ◇

「これなら」

 家定が言う。

「後で」

「全員が」

「賛成していたとは」

「言えません」

「恥では」

 一人の武士。

「国の内で」

「割れていることを」

「外国へ」

「見せる?」

 新之介が。

 静かに言う。

「割れていない国など」

「あるのですか」

 ◇

 午後。

 中立舟。

 最後の。

 大交渉。

 日本側。

 家定。

 阿部。

 水野。

 源七。

 甚兵衛。

 港役人。

 町側。

 新之介。

 清太郎。

 米利堅側。

 ウィリアム。

 士官。

 商務担当。

 通詞。

 サラ。

 双方。

 文書。

 並ぶ。

 ウィリアムが。

 読む。

 長い。

 非常に。

 長い。

 そして。

「日本側は」

「一港のみ」

「今」

「開く」

「はい」

「我々は」

「二港を」

「求めた」

「はい」

「拒否?」

「一港は」

「今」

「もう一港は」

「三月後」

「影響を見て」

「再交渉」

「約束ではない?」

「再交渉の」

「約束です」

 ◇

 米利堅側。

 不満。

 軍人。

 強い声。

 通詞。

 追いつかない。

 源七。

 途中から。

 直接。

 応じる。

 ウィリアム。

 家定。

 互い。

 譲らない。

 だが。

 刀は。

 抜かれない。

 大砲も。

 動かない。

 ◇

「半年後」

 ウィリアムが言う。

「日本側の」

「将軍が」

「変わったら」

「この約束は」

「どうなる」

 家定。

「約束は」

「私の名前ではなく」

「決定手順へ」

「結びます」

「何」

「私が」

「半年後」

「将軍でなくても」

「今日の約定は」

「期間中」

「残る」

「誰が」

「保証」

 清太郎。

 文書を。

 示す。

「複数」

「人が」

「死んだら」

「役の後任」

「ただし」

「後任は」

「前任の人格を」

「引き継がない」

「責務だけ?」

「はい」

 ウィリアムが。

 少し笑う。

「やっと」

「役と人を」

「分けた?」

 サラが。

 訳しながら。

 苦く笑う。

「向こうに」

「言われました」

 ◇

 米利堅側も。

 条件。

 限定。

 受け入れる。

 一港。

 半年。

 通商。

 品目。

 漂流者返還。

 帰国希望者。

 そして。

 相互の。

 個人記録について。

 本人確認に。

 不要な情報を。

 原則。

 交換しない。

 旧記録。

 一括提出なし。

 必要な時。

 本人。

 または。

 本人が選んだ者。

 立会い。

 照合。

「宗太殿の件が」

 家定が。

 小さく言う。

「ここへ」

「つながりましたね」

「はい」

 新之介。

 ◇

 最後。

 署名。

 米利堅側。

 ウィリアム。

 士官。

 通詞。

 日本側。

 家定。

 阿部。

 水野。

 港役。

 清太郎。

 商人。

 そして。

 家定が。

 新之介を見る。

「新之介殿」

「はい」

「印を」

「私は」

「何の範囲を」

「負います」

 家定が。

 止まる。

 以前なら。

「立会人」

 と。

 簡単に。

 言っただろう。

「……この決定方法が」

「強制なしで」

「行われたことの」

「見分人」

「強制なし?」

 新之介が問う。

「時間の圧力は」

「ありました」

「米利堅船の」

「圧力も」

「ありました」

「はい」

「では」

「完全な自由とは」

「書かないでください」

 家定が。

 頷く。

「では」

 清太郎。

 追記。

 ――榊原新之介。

 ――決定過程見分。

 ――外圧・期限あり。

 ――ただし。

 ――参加者の発言機会を。

 ――可能な範囲で確保したことを確認。

「これなら」

 新之介が。

 印。

 ◇

 終わった。

 大きな。

 音は。

 なかった。

 大砲も。

 鳴らない。

 勝鬨も。

 ない。

 ただ。

 紙が。

 二枚。

 交換され。

 人が。

 立ち上がる。

「これで」

 水野が言う。

「戦は」

「なくなったか」

「いいえ」

 新之介。

「言うと思った」

「でも」

「今日」

「戦わない理由は」

「増えました」

「それで」

「よい」

 ◇

 夕方。

 江戸へ。

 戻る舟。

 家定が。

 海を見る。

「新之介殿」

「はい」

「終わりましたか」

 新之介が。

 少し考える。

「外交は」

「始まったばかりです」

「違います」

「何が」

「私たちの」

「この騒ぎ」

 新之介も。

 海を見る。

 黒船。

 夕陽。

「かなり」

「終わりへ」

「近づいたと思います」

「何が」

「残っています」

 ◇

「御影」

「はい」

「沢渡」

「はい」

「子替帳」

「はい」

「お久殿」

「まだ」

「見つかっていません」

「はい」

「松平左京」

「古い役」

「はい」

「そして」

 家定が。

 新之介を見る。

「そなた自身」

「私?」

「玄斎殿から」

「聞きました」

「余計なことを」

「役が終わったら」

「何をしたいか」

「決まっていないそうですね」

「……」

「それを」

「最後に」

「決める?」

 新之介は。

 首を振った。

「決めなくてよいと」

「思っています」

「未定?」

「はい」

 家定が。

 笑った。

 ◇

 だが。

 城へ。

 戻った時。

 一通の。

 文が。

 待っていた。

 差出人。

 なし。

 宛。

 榊原新之介。

 短い。

 ――子替帳を。

 ――終わらせたいなら。

 ――明日。

 ――深川。

 ――お滝の家へ。

 新之介の顔が。

 変わる。

 その下。

 もう一行。

 ――久を。

 ――連れて来るな。

 清太郎が。

 息を呑む。

「お久殿?」

「可能性は」

「あります」

「罠」

「それも」

 新之介は。

 文を。

 裏返す。

 裏。

 小さな。

 癖のある筆。

 ――新三郎を。

 ――今度こそ。

 ――本人として連れて来い。

 新之介が。

 目を閉じた。

 新三郎。

 久。

 お久。

 お澄。

 子替帳。

 最後に。

 残っているものが。

 ようやく。

 一つの場所へ。

 集まろうとしている。

「誰を」

 家定が問う。

「連れて行きます」

 新之介は。

 文を。

 畳んだ。

「まず」

「新三郎兄上へ」

「聞きます」

「久殿には」

「何も」

「言わない?」

「いいえ」

「伝えます」

「来るなと」

「書いてあるのに?」

「だからです」

「本人のことを」

「本人へ」

「隠して」

「守るのは」

「もう」

「やめます」

 ◇

 夜。

 新三郎。

 久。

 宗次郎。

 海の兵庫。

 新之介。

 五人。

 文を見る。

 最初に。

 久が。

 笑った。

「来るな」

「はい」

「なら」

「私は」

「行きません」

 新之介が。

 少し驚く。

「よいのですか」

「母かもしれない人が」

「私に」

「来るなと言っている」

「はい」

「今」

「無理に行って」

「『私は息子だ』と」

「押しつけたくない」

「……」

「でも」

「何です」

「私が」

「知っていることは」

「伝えてください」

「何を」

 久が。

 考える。

「会いたい」

「はい」

「でも」

「会うのは」

「怖い」

「はい」

「だから」

「今は」

「待つ」

「それだけ」

「分かりました」

 ◇

 新三郎。

「私は」

「行く」

「本人として」

「はい」

「榊原新三郎?」

「それが」

 新三郎は。

 少し笑う。

「まだ」

「未定だ」

「では」

「新三郎として」

「ああ」

「兄として?」

「それも」

「今日はいらぬ」

「何として」

「六歳で」

「沢渡へ送られた」

「その本人として」

 新之介が。

 頷く。

「分かりました」

 ◇

 宗次郎が。

「私も」

「行く」

「父上」

「お久は」

「お澄を」

「助けた」

「はい」

「そして」

「私が」

「新三郎を」

「探すのを」

「諦めた時も」

「おそらく」

「探し続けた」

「はい」

「聞くべきことが」

「ある」

「でも」

 新三郎が。

 宗次郎を見る。

「私のために」

「来る?」

 宗次郎が。

 止まる。

「……」

「それなら」

「今日は」

「来ないでほしい」

「なぜ」

「まず」

「私は」

「私の話を」

「聞きたい」

 宗次郎は。

 長く。

 息を吐いた。

「分かった」

 ◇

 海の兵庫。

「私は」

「最初から」

「行くつもりはない」

「なぜ」

「お澄の話なら」

「聞きたい」

「でも」

「新三郎の話へ」

「父を」

「二人」

「持ち込むな」

 宗次郎が。

 少し笑う。

「珍しく」

「意見が合ったな」

「嬉しくない」

 水野が。

 いないのに。

 新之介が。

 少し笑う。

 ◇

 翌朝。

 深川。

 お滝の家。

 新之介。

 新三郎。

 清太郎。

 三人。

「清太郎殿も?」

 新三郎が問う。

「記録役?」

「いいえ」

 清太郎。

「今日は」

「書かないために」

「持って来ました」

「何」

「紙は」

「あります」

「でも」

「本人が」

「残してよいと言うまで」

「書かない」

 新三郎が。

 少し笑う。

「成長したな」

「榊原様方に」

「言われたくありません」

 ◇

 戸。

 開く。

 お滝。

 片目。

 相変わらず。

「遅い」

「すみません」

「誰が」

「謝れと」

「言った」

「では」

「入りな」

 三人。

 中。

 奥。

 一人。

 女。

 背中。

 小さい。

 髪。

 白が。

 多い。

 五十を。

 越えているか。

 もっと。

 若いか。

 苦労で。

 分からない。

 女が。

 振り向く。

 新三郎を。

 見る。

 長い。

 長い。

 沈黙。

「……大きく」

 女が言う。

「なったね」

 新三郎の。

 目が。

 揺れる。

「お久殿?」

 女は。

 すぐには。

 頷かなかった。

「今は」

「そう呼ばれても」

「よい」

 新之介が。

 小さく。

 息を吐く。

 どこまでも。

 同じ。

 だが。

 今は。

 以前とは。

 違う。

 すぐに。

 名を。

 固定しない。

 ◇

「新三郎」

 女が言う。

「はい」

「私は」

「そなたを」

「助けられなかった」

 新三郎が。

 目を閉じる。

「最初から」

「それですか」

「何」

「皆」

「私を見ると」

「助けられなかったと」

「言う」

 女が。

 止まる。

「私は」

 新三郎が続ける。

「助けられなかった子として」

「話したくない」

「……」

「六歳で」

「連れて行かれた」

「はい」

「怒っている」

「はい」

「寂しかった」

「はい」

「でも」

「生きた」

「はい」

「外国へ」

「行った」

「はい」

「自分で」

「戻らないと」

「決めたこともある」

「はい」

「そして」

「今」

「戻った」

「……はい」

「だから」

 新三郎は。

 女を見る。

「私を」

「失敗の残りとして」

「見ないでください」

 お久の。

 目から。

 涙が。

 落ちた。

「分かった」

 ◇

「それで」

 新三郎が言う。

「聞きたい」

「何」

「母上は」

「最後まで」

「私を」

「探していた?」

「はい」

 即答。

「本当に?」

「はい」

「私だけ?」

 お久が。

 止まる。

「いいえ」

 新三郎が。

 苦く笑う。

「やはり」

「怒る?」

「少し」

「はい」

「でも」

「聞きます」

 ◇

「お澄様は」

 お久が言う。

「最初」

「そなただけを」

「取り返したかった」

「はい」

「それで」

「私を」

「沢渡へ」

「入れた」

「はい」

「私は」

「最初」

「嫌だった」

 新三郎が。

 顔を上げる。

「母上は」

「そなたにも」

「聞かなかった?」

「十分には」

「聞かなかった」

「……」

「だから」

「私は」

「お澄様を」

「一度」

「恨んだ」

 ◇

「でも」

「中に」

「入ったら」

「自分の息子の」

「久も」

「いたかもしれない」

「はい」

「それで」

「自分で」

「残った?」

「はい」

「そこから」

「私は」

「お澄様のためだけでは」

「なくなった」

「はい」

「自分の子」

「そなた」

「他の子」

「全部」

「探した」

「はい」

「だから」

「お澄様と」

「喧嘩もした」

「何を」

「そなただけ」

「先に出すか」

「全員の道を」

「探すか」

「……」

 ◇

「母上は」

「最初」

「私だけ?」

「はい」

「それから」

「変わった」

「はい」

「なぜ」

「他の子を」

「見たから」

「それで」

「私を」

「後にした?」

 お久が。

 長く。

 新三郎を見る。

「はい」

 新三郎の。

 手が。

 震える。

「正しかった?」

「分からない」

「よかった」

 お久が。

 驚く。

「何が」

「正しかったと」

「言われたら」

「帰ります」

「……」

「私は」

「今でも」

「腹が立つ」

「はい」

「母上が」

「私を」

「二度」

「他のために」

「使ったように」

「思う」

「はい」

「でも」

「他の子を」

「見捨てろとも」

「言えない」

「はい」

「だから」

「分からない」

「それで」

 お久は。

 小さく。

 頷く。

「私も」

「今まで」

「分からない」

 ◇

 新之介は。

 黙っている。

 兄の。

 話。

 母の。

 話。

 自分が。

 入る場所ではない。

「お久殿」

 新三郎が。

「何です」

「久殿は」

 女の顔が。

 一瞬で。

 崩れた。

「……」

「知っています?」

「はい」

「会いたい?」

 女は。

 答えない。

「久殿は」

「会いたい」

「でも」

「怖い」

「だから」

「今は」

「待つと」

「……」

 お久の。

 唇が。

 震える。

「生きて」

「いる?」

「はい」

「名前は」

「今」

「久」

「……久」

「本人が」

「選びました」

 女は。

 顔を覆う。

 声を。

 押し殺す。

 ◇

「私は」

 お久が。

 しばらくして。

 言う。

「会いたい」

「はい」

「今すぐ」

「会いたい」

「はい」

「でも」

「行かない」

 新三郎が。

 見る。

「なぜ」

「久が」

「待つと」

「言ったなら」

「今度は」

「私が」

「待つ」

 ◇

 新之介が。

 初めて。

 口を開く。

「お久殿」

「何です」

「子替帳」

 女の顔が。

 戻る。

「はい」

「終わらせたいと」

「書いたのは」

「そなた?」

「はい」

「燃やす?」

「いいえ」

「では」

「どうする」

「人へ」

「返す」

 ◇

「帳面には」

 お久が言う。

「子どもの」

「名前」

「声」

「顔」

「傷」

「家族」

「弱み」

「全部」

「ある」

「はい」

「それを」

「役所が」

「持つ?」

「今は」

「仮保管」

「外国へ」

「渡す?」

「一括では」

「渡しません」

「よかった」

「でも」

「では」

「誰のものに」

「する」

 新之介が。

 少し考える。

「関係する人へ」

「聞きます」

「全員?」

「見つかる人から」

「死者は」

「家族?」

「それも」

「一律に」

「決めません」

「では」

「いつ」

「終わる」

「分かりません」

 お久が。

 笑った。

「そなた」

「本当に」

「面倒だね」

「よく言われます」

 ◇

「私は」

 お久が言う。

「帳面を」

「燃やしたかった」

「五年前?」

「はい」

「なぜ」

「また」

「子どもが」

「作られるから」

「はい」

「でも」

「燃やせなかった」

「なぜ」

「燃やせば」

「何をされたかまで」

「なくなる」

「はい」

「死んだ子の」

「名前も」

「消える」

「はい」

「だから」

「お滝へ」

「預けた」

「そして」

「今」

「どうしたい」

 ◇

 お久が。

 新三郎を見る。

「そなたが」

「決めて」

 新三郎の顔が。

 硬くなる。

「嫌です」

 即答。

 お久が。

 驚く。

「なぜ」

「私が」

「被害を受けたからと」

「全員の帳面を」

「決める権利はない」

「……」

「私の頁なら」

「決めます」

「どうする」

「残す」

「全部?」

「いいえ」

 ◇

「私が」

 新三郎は言う。

「六歳で」

「沢渡へ」

「送られたこと」

「役を」

「教えられたこと」

「海へ」

「出されたこと」

「それは」

「残す」

「はい」

「声の細かい特徴」

「身体」

「恐怖」

「癖」

「誰を好きだったか」

「何を嫌ったか」

「それは」

「消したい」

「なぜ」

「制度を」

「知るために」

「必要ない」

「はい」

「でも」

「消したことは」

「残してほしい」

 清太郎が。

 初めて。

 紙へ。

 手を伸ばす。

「書いてよい?」

 新三郎。

「はい」

 ◇

 ――新三郎。

 ――本人希望。

 ――被害・制度経過は保存。

 ――身体・嗜好・恐怖等。

 ――不要な個人記録は抹消。

 ――抹消実施の事実は保存。

「これで」

 新三郎が言う。

「私の頁は」

「私へ」

「少し」

「戻る」

 ◇

「なら」

 お久が。

「他の人にも」

「同じように」

「聞く」

「はい」

 新之介。

「久」

「新八」

「半九郎」

「平助」

「庄吉」

「可能な人から」

「はい」

「死者は」

「別の見分」

「はい」

「そして」

「誰にも」

「勝手に」

「一つの処置を」

「しない」

「はい」

 お久が。

 深く。

 息を吐く。

「それなら」

「帳面を」

「そなたたちへ」

「渡す」

「私たちへ?」

「違う」

 女が。

 少し笑う。

「仮の見分へ」

「よい言い方ですね」

 ◇

「最後に」

 お久が。

 新之介を見る。

「何です」

「お澄様から」

「そなたへ」

「残したものがある」

 新之介の顔が。

 動く。

「母上から?」

「はい」

「いつ」

「亡くなる」

「少し前」

「なぜ」

「今まで」

「渡さなかった」

「そなたが」

「榊原新之介であることへ」

「疑いを」

「持つまで」

「渡すなと」

「言われた」

「……」

「子替帳と」

「同じ?」

「似ている」

 ◇

 お久。

 古い。

 小箱。

 中。

 一枚。

 短い。

 紙。

 新之介が。

 開く。

 母。

 お澄の字。

 ――新之介へ。

 最初の。

 一行。

 ――そなたを。

 ――榊原新之介に。

 ――しようとする者が。

 ――いつか現れる。

 次。

 ――私も。

 ――その一人だった。

 新之介の。

 指が。

 止まる。

 ◇

 ――私は。

 ――新三郎を。

 ――守るため。

 ――そなたを。

 ――別の場所へ。

 ――置こうとしたことがある。

 新三郎が。

 顔を上げる。

「何」

 新之介。

 読む。

 ――沢渡が。

 ――新三郎を返さぬなら。

 ――新之介を。

 ――榊家から外し。

 ――別家へ。

 ――逃がすことを考えた。

 ――二人を。

 ――同じ名と家の争いへ。

 ――入れないため。

「母上が」

 新三郎。

 小さく。

「そなたを」

「捨てようと?」

「違う」

 お久が言う。

「逃がそうとした」

「でも」

 新之介が。

 静かに。

「私へ」

「聞けない年でした」

「はい」

 ◇

 手紙。

 続く。

 ――私は。

 ――新三郎を選び。

 ――新之介を残し。

 ――後に。

 ――新之介を逃がそうとした。

 ――どれも。

 ――母として。

 ――正しかったとは。

 ――言えない。

 ――ただ。

 ――その時。

 ――そうした。

 新之介の。

 目が。

 熱くなる。

 母は。

 答えを。

 残していない。

 言い訳も。

 していない。

 ◇

 最後。

 ――そなたが。

 ――いつか。

 ――榊原新之介を。

 ――嫌になったなら。

 ――捨ててもよい。

 ――だが。

 ――誰かに。

 ――捨てさせるな。

 新之介は。

 紙を。

 閉じない。

 その下。

 もう一行。

 ――新三郎も。

 ――そなたも。

 ――私の失敗の。

 ――続きを。

 ――生きなくてよい。

 ◇

 新三郎が。

 ゆっくり。

 座り込む。

「母上は」

「私たちへ」

「何を」

「望んだ」

 新之介は。

 手紙を見る。

「分かりません」

「また?」

「はい」

「でも」

「一つだけ」

「何」

「母上の」

「後悔を」

「私たちの役に」

「しなくてよい」

 新三郎が。

 長く。

 目を閉じる。

「それで」

「よい」

 ◇

 帰り道。

 深川。

 夕暮れ。

 新三郎が。

 新之介へ。

「弟」

 新之介が。

 振り向く。

「はい」

 初めて。

 自然に。

 聞こえた。

「私は」

「新三郎で」

「よい」

「姓は」

「まだ」

「未定だ」

「はい」

「そなたは」

「榊原新之介で」

「よい?」

 新之介は。

 少し。

 考えた。

「はい」

「役として?」

「いいえ」

「なぜ」

「母上が」

「付けたからでも」

「父上が」

「呼んだからでも」

「御影が」

「作ろうとしたからでも」

「ありません」

「では」

 新之介が。

 夕暮れの。

 江戸を見る。

「今」

「私が」

「この名で」

「生きたいからです」

 新三郎が。

 少し笑う。

「なら」

「よい」

 ◇

 遠く。

 鐘。

 海。

 黒船。

 城。

 町。

 まだ。

 全部。

 残っている。

 御影も。

 沢渡も。

 古い罪も。

 消えない。

 だが。

 名を。

 誰かへ。

 返すことは。

 できる。

 役を。

 降りることも。

 できる。

 決めたことを。

 見直すことも。

 できる。

 そして。

 死者の。

 後悔まで。

 生きている者が。

 役として。

 背負う必要はない。

 新之介は。

 初めて。

 そう思った。

 物語は。

 もう。

 誰かを。

 斬って。

 終わる場所には。

 なかった。

 残るのは。

 記録を。

 どう返すか。

 責任を。

 どう残すか。

 そして。

 それぞれが。

 どこへ。

 戻るのか。

 その。

 最後の仕事だけだった。

(第百四章へ続く)

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