上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第五十六章

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第五十六章 最初の静山

 地の底から響いた轟音は、一度では終わらなかった。

 ごうん。

 少し間を置いて、

 ごとり。

 さらに深い場所で、鉄と石がぶつかる音。

 西徳寺の鐘楼まで震えた。

「第一冊を!」

 新之介が走った。

 篠田弥兵衛、半九郎、玄斎、お志津が続く。

 捕えられた僧形の男――自らを「四十七番」、そして本当の名を鷹見宗山と名乗った男は、町方二人に腕を取られたまま、抵抗しなかった。

「逃がすな!」

 篠田が叫ぶ。

「逃げぬ」

 四十七番が答える。

「今さら逃げても、同じ場所へ行くだけだ」

「何の話だ!」

「地下だ」

 ◇

 第一冊を保管していた土蔵の床は、中央から四角く抜け落ちていた。

 火薬で吹き飛ばした跡ではない。

 板の下へ仕込まれていた梁が外れ、床そのものが落下している。

「仕掛けだ」

 半九郎が穴の縁へ膝をついた。

 暗い。

 灯りを近づける。

 底は見えない。

「第一冊の鉄箱は」

 了順が青ざめた顔で答える。

「ここにありました」

「封は」

「五つとも確認した直後です」

「誰が触った」

「私、篠田殿、寺男二名、それに藤吉殿」

「外から入った者は」

「おりません」

 新之介は床の断面を見る。

 太い梁。

 鉄の金具。

 縄。

「外から動かしたのではない」

「では」

「下からです」

 お志津が壁際を指した。

 一本の細い縄が、床下へ消えている。

「誰かが、ずっと下にいた」

 半九郎が言った。

 四十七番が土蔵へ入れられる。

 穴を見るなり、目を伏せた。

「知っているのか」

 新之介が問う。

「ああ」

「どこへ続く」

「西徳寺の地下は、寺の地下ではない」

「何」

「寺が建つ前からある」

「何のための穴だ」

「米を隠すためだ」

「誰が」

「幕府でも寺でもない」

「では」

 四十七番が答えた。

「飢饉の時に、米を買い占めた者たちだ」

 玄斎の眉が動く。

「十五年前より古いのか」

「四十年以上前だ」

「鷹見先生が作ったのでは」

「使っただけだ」

「誰が最初に」

 四十七番は、新之介を見る。

「先ほどの問いだな」

「ああ」

「鷹見静山という名を最初に作った者」

「名を申せ」

 四十七番は、今度は逃げなかった。

「御影宗伯」

「御影?」

 玄斎が呟く。

「知らぬ」

「知らなくて当然だ」

「何者だ」

「勘定方の下役だった男だ」

「幕府の」

「ああ」

「鷹見家の者ではない?」

「違う」

「では、鷹見静山という名は」

「最初から偽名だ」

 玄斎の顔が強張った。

「先生の名を偽名と申すな」

「名が偽りでも、人まで偽りとは限らぬ」

 四十七番は淡々と続ける。

「御影宗伯は、飢饉の米を数えた」

「何を」

「どの蔵に何俵あり、誰が抱え、どこで値を上げたか」

「第一冊の始まり」

 新之介が言った。

「そうだ」

「なら、鷹見静山は一人の人物ではなく」

「最初は帳面へつける署名だった」

「なぜ人の名にした」

「記録だけでは、人は聞かぬ」

「だから書いた者の顔を作った」

「そうだ」

 お志津が低く言う。

「父の続帳と同じです」

「何が」

「書かれた内容より、誰が書いたかで人が信じる」

「長兵衛は、この仕組みを」

「後から知った」

 四十七番が答えた。

「そして商いに使った」

「御影宗伯は何のために」

「最初は米を出させるためだ」

「最初は」

「やがて、記録で人を動かせると知った」

「変わったのか」

「ああ」

「人を救う記録から、人を選ぶ記録へ」

 四十七番は穴を見下ろした。

「そして、その考えを止めようとした者がいた」

「誰だ」

「今、海にいる男だ」

「静山殿」

「本名は鷹見宗一郎」

 玄斎が息を止めた。

「宗一郎」

「あの男は本当に鷹見家の者だ」

「では静山先生は」

「宗一郎が継いだ名だ」

「何代目だ」

 四十七番は答えた。

「三人目」

 ◇

 玄斎は動かなかった。

 三人目。

 自分が先生と呼んだ男。

 たった一人の鷹見静山だと思っていた者が、誰かから名を受け継いでいた。

「一人目は御影宗伯」

 新之介が整理する。

「二人目は」

 四十七番が答える。

「名を知らぬ」

「知らぬ?」

「私は会っていない」

「では、どうやって三人目と」

「宗一郎本人から聞いた」

「信じたのか」

「当時は」

「今は」

「疑っている」

 玄斎が四十七番へ近づく。

「宗一郎が先生なら、そなたは弟か」

「ああ」

「なぜ長泉寺の宗山は別人なのだ」

「私の名を渡したからだ」

「誰へ」

「御影宗伯の弟子へ」

「名は」

「本名は知らぬ」

「またか!」

 玄斎が苛立つ。

「お前たちは、なぜ誰も本名を残さぬ!」

「名が狙われるからだ」

「その結果、誰でも誰かになれる!」

「そうなった」

 四十七番は認めた。

「それが失敗だ」

「今さら」

「今さらだ」

 新之介が問う。

「四十七番というのは」

「弁財丸で運ばれた順番だ」

「人としての名を奪われたと言った」

「ああ」

「宗山という名は自分で捨てたのか」

「兄を守るために捨てた」

「守れたか」

「守れなかった」

「ならば、なぜ今まで」

「戻れば、兄が生きていることが知られる」

「それでも」

「二十三人が殺されると思った」

「兄と同じ答えか」

 四十七番は苦く笑った。

「兄弟だからな」

「逃げ方まで似たか」

「そうだ」

 玄斎が吐き捨てる。

「似なくてよいところだけ似ておる」

 ◇

「問題は第一冊です」

 お志津が穴を指した。

「下へ降りる道は」

「ある」

 四十七番が答えた。

「どこだ」

「鐘楼」

「さっきの竹筒を隠した場所か」

「さらに下」

「床板の下に」

「石室がある」

「なぜ知っている」

「十二年前、日本へ戻った後に入った」

「第一冊を取りに」

「違う」

「では」

「名簿を置きに」

 玄斎の顔が変わる。

「弁財丸の名簿か!」

「紙の名簿ではない」

「では何だ」

「顔を描いた板だ」

「玄斎殿の記憶を」

「宗一郎が聞き取って描かせた」

「誰に」

「絵師に」

「その板は今も」

「残っていれば、下だ」

 新之介は即座に言った。

「降りる」

「待て」

 玄斎が止める。

「何です」

「わしが先だ」

「膝が」

「また言うか」

「事実です」

「第一冊は、わしの記憶へつながっておる」

「だからこそ」

「何だ」

「先生が落ちれば、もう一冊失う」

「わしを帳面扱いするな!」

「先ほど自分が名簿だと」

「比喩だ!」

「では、残ってください」

「断る!」

 四十七番が呟く。

「昔と同じだ」

「何が」

 玄斎が睨む。

「兄も、止めるほど先へ行った」

「では似ておらぬ!」

「なぜ」

「わしは戻る」

 玄斎は新之介を見る。

「そう決めた」

 新之介は少し黙った。

「ならば一緒に」

「最初からそう申せ」

「申していません」

「腹の立つ弟子だ」

「弟子では」

「今はよい」

 ◇

 鐘楼の床をさらに外すと、竹筒のあった石板の横に小さな鉄輪が見つかった。

 引く。

 石がずれる。

 冷たい空気。

 暗い穴。

 古い石段が地下へ続いている。

「誰が行く」

 篠田が問う。

 新之介。

 玄斎。

 半九郎。

「そなたもか」

 新之介が半九郎を見る。

「四度の鐘を決めた責があります」

「関係ない」

「分かっています」

「傷が」

「言わせません」

「ではお志津殿は」

「私も行きます」

「なぜ」

「父が名簿に関わっています」

「ここに残る者も要る」

 了順が言った。

「私は残ります」

 藤吉も立ち上がろうとする。

「そなたは傷人だ」

 玄斎が言う。

「お前に言われたくない」

「額から血が出ておる」

「止まった」

「傷人は皆」

「今それをわしへ使うな!」

 結局、地下へ入るのは五人になった。

 新之介。

 玄斎。

 半九郎。

 お志津。

 そして四十七番。

「縄は」

 篠田が問う。

「町方と寺、二本」

 新之介が答える。

「捕縄も」

「四十七番の手へ」

「一人では持たせぬ」

 半九郎が四十七番と自分の腰を縄でつなぐ。

「逃げれば」

「そなたも落ちる」

「だから逃げぬ」

「信用ではなく仕組みですね」

「そうだ」

 四十七番が薄く笑う。

「宗一郎が見れば喜ぶ」

「本人なら、あとで聞きます」

「まだ決めぬのか」

「ええ」

 ◇

 地下は、寺の境内より広かった。

 石造りの通路。

 ところどころに古い木の支柱。

 壁には米俵の擦れ跡。

「本当に米蔵だった」

 お志津が言う。

「飢饉の時、ここへ隠したのか」

「表の蔵を空にして、値を上げた」

 四十七番が答える。

「御影宗伯は、それを見つけた」

「暴いた」

「最初は」

「また最初はか」

 玄斎が吐き捨てる。

「人は途中で変わる」

 四十七番が言う。

「よくも悪くも」

 通路の先に、鉄の擦れた跡。

 第一冊の鉄箱が落ちた痕。

「こちらです」

 半九郎が灯りを下げる。

 床が傾斜している。

 箱は石の溝を滑り、さらに奥へ運ばれている。

「自然に落ちただけではない」

 新之介が言った。

「受ける台車がある」

 木の車輪。

 鉄の枠。

 誰かが用意していた。

「今も下に人がいる」

「おそらく」

「何人」

「分からぬ」

「武器は」

「古い火縄銃が置いてあった」

「十二年前の話か」

「ああ」

「今もあるとは限らぬ」

「だから確かめる」

 全員が進む。

 やがて前方から声が聞こえた。

「箱を運べ!」

「急げ!」

 複数。

 生きた声。

「灯りを消せ」

 新之介が言う。

 暗闇。

 前方だけに松明の光。

 三人。

 四人。

 第一冊の鉄箱を台車へ載せようとしている。

 全員、白い布で顔を隠している。

「誰の手の者だ」

 半九郎が囁く。

 四十七番が目を凝らす。

「御影の印だ」

「どこに」

「帯」

 白布の男たちの帯に、小さな丸い印。

 中央に影の字。

「御影宗伯は死んだのでは」

「四十年以上前の人間だ」

「では弟子」

「弟子というより」

「何だ」

「仕組みだ」

 四十七番が答える。

「御影は人を残さなかった」

「何を残した」

「役目を残した」

「鷹見静山と同じか」

「静山の名を作った者だからな」

「今の目的は」

「四冊を集めること」

「なぜ」

「最初の帳面へ戻すためだ」

「最初の帳面?」

「四冊になる前の原本がある」

 玄斎が聞き返す。

「どこに」

 四十七番は、さらに奥を指した。

「この地下だ」

 ◇

 新之介は白布の男たちへ声をかけた。

「箱から離れろ!」

 男たちが振り返る。

 刀。

 槍。

 一人は短銃。

「誰だ!」

「榊原新之介」

 男たちが一瞬動きを止めた。

「本物か」

 その言葉に、新之介は苦笑した。

「最近、そればかり聞かれる」

「証は」

「顔を見ろ」

「顔も作れる!」

「ならば近くへ来て見ろ」

「止まれ!」

 短銃が向く。

「名を申せ」

「黙れ!」

「そなたの名だ」

「必要ない」

「では番号か」

 男の肩が動いた。

「そなたたちも名を捨てたのか」

「名は役目の邪魔になる」

「誰に教わった」

「御影様だ」

「御影宗伯は死んでいる」

「御影は死なぬ」

「人ではないからか」

「御影は役目だ」

 新之介は四十七番を見る。

 彼が頷いた。

「今の御影は誰だ」

 新之介が問う。

「お前に会う」

 白布の男が答えた。

「どこで」

「下だ」

「第一冊を持って」

「そうだ」

「ほかの三冊も」

「もう来る」

「何」

 男が笑った。

「第三冊は海から」

「第二冊は戸田家から」

「第四冊は町方から」

「同時に」

 新之介の顔が変わる。

 四冊への襲撃は失敗したのではない。

 最初の計画は、一冊ずつ奪うことではなかった。

 それぞれを動かす。

 保管場所から出させる。

 人に運ばせる。

 そして最後に同じ場所へ集める。

「我々自身が運んでいる」

 お志津が呟く。

「守るために動かしたことが」

「集める仕掛けになっていた」

 半九郎が続ける。

 白布の男が言う。

「そのための鐘だ」

「四度の」

「違う」

「では」

「江戸の四方で鳴らした危急の鐘」

 新之介たちは、四冊それぞれへ向かった。

 それぞれを救うために動かした。

 結果、保管の固定が崩れた。

「人を使ったのではない」

 新之介が言う。

「我々の善意を使った」

「違う」

 白布の男が答える。

「役目を使った」

「同じだ」

「違う」

「人が選んだ」

「選ばされた」

「それでも手を動かしたのは人だ!」

 白布の男が短銃を構える。

「ならば、ここで選べ!」

「第一冊を渡すか」

「一人を撃たせるか」

 銃口が向いた先。

 お志津。

 半九郎が前へ出ようとする。

「動くな!」

 新之介が止めた。

「なぜ私です」

 お志津が問う。

「長兵衛の娘だからだ」

 白布の男が言う。

「続帳を作った家の者」

「父の罪は父のものです」

「そなたも書いた」

「はい」

「ならば」

「私の罪は私のものです」

 お志津は逃げなかった。

「撃つなら、私の名で撃ってください」

「お志津殿!」

「榊原様が、いつも申しているでしょう」

「何を」

「名を見ろ、と」

 お志津は白布の男へ向いた。

「私は相模屋長兵衛の娘ではありません」

「では」

「お志津です」

 男の指が引き金へかかる。

 玄斎が一歩出た。

「わしを撃て」

「先生!」

「この地下の名簿は、わしの記憶だ」

「だから」

「第一冊より価値があるかもしれぬぞ」

 白布の男が玄斎を見る。

「なるほど」

「近くへ来い」

「何」

「わしの顔を見ろ」

「何のために」

「わしが本当に黒川玄斎か確かめろ」

 男がわずかに迷う。

「声も顔も偽れるのだろう」

 玄斎は両手を広げた。

「なら近くで見ろ」

「動くな」

「膝が悪い。速くは動けぬ」

「先生、それを自分で」

「今は使う」

 男が一歩近づく。

 二歩。

 三歩。

 玄斎の間合い。

 次の瞬間。

 玄斎は腰を落とした。

 抜刀ではない。

 足元の砂を蹴った。

「うっ!」

 白布の男の目へ。

 短銃が逸れる。

 半九郎が飛び込む。

 手首を打つ。

 銃が落ちる。

「傷人!」

 新之介が叫ぶ。

「今は申すな!」

 残る三人も動く。

 だが新之介は刀を抜かなかった。

 借り物の棒を横へ構え、通路を塞ぐ。

「殺すな!」

「第一冊を!」

「箱より人を押さえろ!」

 玄斎が一人の膝を払う。

 半九郎が槍を絡め取る。

 お志津は壁際へ退きながら、落ちた短銃を蹴り遠ざける。

 四十七番は縄で半九郎とつながれたまま、一人の男へ体当たりした。

「そなた!」

「私も人質ではない!」

 二人が倒れる。

 新之介は最後の一人の刀を棒で受けた。

 一撃。

 木が割れる。

 またか、と心の中で思う。

 二撃目。

 新之介は半身をずらし、男の腕を取った。

「名は!」

「黙れ!」

「名を申せ!」

「影六!」

「番号か!」

「それが名だ!」

「なら影六として生きろ!」

 足を払う。

 男が倒れる。

 篠田たちが上から降りてくる音。

「縄を!」

「四人とも生かせ!」

 ◇

 第一冊の鉄箱は無事だった。

 封も残っている。

 だが白布の男たちは、誰も「今の御影」の名を言わなかった。

「知らないのです」

 影六が答えた。

「会ったことは」

「ない」

「声だけか」

「はい」

 新之介たちは顔を見合わせた。

 また声。

「どんな声だ」

「毎回違う」

「何」

「男の時も、女の時もある」

「声筒か」

「分からない」

「命令はどう届く」

「紙です」

「印は」

「御影」

「誰でも作れる」

「だから命令内容で判断する」

「何を基準に」

「四冊を一つへ戻すこと」

「それだけか」

「はい」

「では御影本人がいなくても」

「役目は動く」

 三宅より厄介だった。

 文吉のような一人の商人でもない。

 宗山のような一人の思想家でもない。

 命令を受ける者さえいれば、中心人物がいなくても続く。

「最初の帳面はどこだ」

 新之介が問う。

 影六は奥を指した。

「御影の間」

「扉は」

「第一冊の箱が鍵です」

「箱そのものが」

「四冊の箱を四方へ置く」

「揃えば開く」

 四冊。

 四つの鍵。

 第一冊だけでは開かない。

「ならば今は開けられない」

 半九郎が言う。

「第三冊は海」

「第二冊は戸田家」

「第四冊は南町奉行所」

 お志津が続ける。

「まだ集まっていません」

 影六が笑った。

「もう来る」

「なぜそう言える」

「鐘が鳴ったからだ」

「四度の鐘か」

「違う」

 影六は地下のさらに奥へ耳を向けた。

 最初は誰にも聞こえなかった。

 やがて。

 ごろごろ。

 遠くで車輪の音。

 一方。

 別の通路からも。

 ごとん。

 何か重い物が運ばれてくる。

「まさか」

 玄斎が呟く。

 西徳寺の地下は、江戸の複数の場所へつながっている。

 旧米蔵網。

 水路。

 抜け道。

 四冊を地上で守っていても、箱の下から運べるよう仕掛けられていた。

「第二冊!」

 新之介が叫ぶ。

「戸田家の文庫から地下道が」

「第三冊は水路」

「第四冊も奉行所の旧井戸から」

 四十七番が目を閉じた。

「御影は十五年前から待っていた」

「何を」

「四冊が見つかる日を」

「なぜ自分で探さなかった」

「見つけるべき人間が見つけるまで待つためだ」

「我々に掘らせた」

「そうだ」

「そして集めさせた」

「そうだ」

 玄斎が奥へ向かおうとする。

「待ってください」

 新之介が止める。

「何だ」

「四冊が来るなら、追う必要はない」

「では」

「ここで待つ」

「御影の間を開かせるのか」

「開かなければ、最初の帳面を見られない」

「罠だぞ」

「分かっています」

「ならば」

「罠だと分かって入るのと、知らずに入るのは違う」

 四十七番が新之介を見る。

「宗一郎と同じことを言う」

「嬉しくありません」

「なぜ」

「皆、面倒だからです」

 玄斎が鼻を鳴らした。

「そなたが一番面倒だ」

 その時。

 地下の暗闇から、鐘とも鉄とも違う低い音が響いた。

 一度。

 二度。

 三度。

 四度。

 四つの通路。

 それぞれの先に灯りが見える。

 一つ目。

 戸田家の家紋。

 二つ目。

 海防掛の旗。

 三つ目。

 南町奉行所の提灯。

 そして新之介たちの足元には、第一冊。

 四冊が、本当に同じ場所へ集まり始めていた。

 だが、最も奥の闇から聞こえてきた声に、新之介たちは動きを止めた。

「ようやく揃ったか」

 老人の声だった。

 玄斎の顔が青ざめる。

「その声……」

「知っているのですか」

 玄斎は答えなかった。

 闇の中から、杖をつく音。

 一歩。

 また一歩。

「四十七年かかった」

 老人が言った。

「長すぎた」

 松明の光へ、白い髭が現れる。

 年は八十を越えている。

 右目は白く濁っている。

 左手には杖。

 右手の指は三本しかない。

 四十七番が、初めて身体を震わせた。

「生きて……」

 新之介が問う。

「誰だ」

 老人は笑った。

「名など、役目の邪魔になる」

「それでも聞く」

「しつこい男だ」

「よく言われます」

「ならば教えよう」

 老人は四冊が集まりつつある地下道を見渡した。

「御影宗伯」

 玄斎が息を呑む。

「あり得ぬ」

「何が」

「四十年以上前から」

「生きていては困るか」

「年が」

「九十一だ」

 老人は杖を石床へ打ちつけた。

「そして――」

 濁った右目ではなく、鋭い左目で新之介を見る。

「鷹見静山という嘘を、最初に作った男だ」

 四つの鉄箱が、地下の中央へ近づいてくる。

 最初の帳面を開くために。

(第五十七章へ続く)

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