上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第五十二章

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第五十二章 白旗の男

 戸田家上屋敷の船着き場には、二艘の舟しか残っていなかった。

 一艘は、撃たれた北見帯刀を医師のもとへ運ぶ。

 もう一艘は、江戸湾へ向かう。

「私は残る」

 戸田備前守が言った。

 失った声は、まだ完全には戻っていない。

 一言発するたび、喉へ刃を当てられたように顔が歪む。

「三宅を……見張る」

 三宅主膳は、戸田家の捕縄と新之介の帯で両腕を縛られていた。

「殿ご自身で見張る必要はありません」

 平岡作之丞が言う。

「私は……この男を使った」

 戸田は三宅から目を離さなかった。

「家臣だけへ、始末を任せぬ」

「また私を知恵として使うか」

 三宅が問う。

「今は……罪人として見る」

「人ではなく」

「人だから……縄を打った」

 三宅は薄く笑った。

「変わったつもりか」

「これから……確かめる」

 戸田は新之介へ向いた。

「第三冊を」

「取り戻します」

「できぬ約束は」

 戸田は途中で咳き込んだ。

 新之介が代わりに続ける。

「今日は、することになっています」

「ならば」

「取り戻します」

 三宅が口を挟んだ。

「沢渡が持つ第三冊は、すでに原本とは呼べぬ」

「何をした」

「私が言葉を加えた」

「誰の名を」

「名だけではない。理由も加えた」

「どのような」

「国を守るために行われた取引を、私腹のために見えるように」

「逆もあるのか」

「ああ。私腹の取引を、海防のために見えるようにした」

「なぜ、そのようなことを」

「どちらへも使える帳面にするためだ」

「真を残すためではなく」

「力を残すためだ」

「誰の力だ」

 三宅は答えなかった。

「もう一つ聞く」

 新之介が言った。

「異国船に立つ鷹見静山は、本物か」

 三宅の顔から、初めて笑みが消えた。

「私にも分からぬ」

「知っていることを申せ」

「十五年前、鷹見の遺体を見た」

「顔もか」

「顔には布がかけられていた」

「なぜ」

「詮議で傷んでいたと説明された」

「誰が説明した」

「沢渡玄隆だ」

 新之介は青山新六郎を見る。

「沢渡は、その頃から」

「海防掛へ出入りしていました」

 青山が答えた。

「異国の薬に通じた医師として」

「遺体を確かめた者は」

「役人が二人。ただし記録上の名です」

「本人たちは」

「一人はすでに死亡。もう一人は所在不明」

 三宅が言う。

「鷹見が生きているなら、私は十五年、死者の名を使っていたことになる」

「怖いか」

「腹が立つ」

「皆、同じことを申す」

 三宅は新之介を睨んだ。

「本人が戻れば、四冊の意味は変わる」

「なぜ」

「死者の遺言だから価値があった」

「生きた者の言葉には価値がないのか」

「変わる」

「何が」

「問いを残した賢人ではなく、十五年間逃げた男になる」

 新之介は答えなかった。

 生きていたなら、なぜ戻らなかったのか。

 なぜ弟子たちを。

 玄十郎を。

 玄斎を。

 兵庫を。

 罪と後悔の中へ置いたままにしたのか。

「本人なら、本人へ聞く」

「答えが気に入らなければ」

「さらに聞く」

「相変わらず遅い男だ」

「急いで舟へ乗ります」

 ◇

 江戸湾へ向かう舟には、新之介、青山、弥助、そして戸田家の平岡が乗った。

 船頭は千住の甚八。

 沢渡が弟を人質にし、第三冊を運ばせようとした男である。

 新吉は戸田家の船着き場へ残された。

「沢渡の舟は」

 新之介が問う。

「この先で川を下った」

 甚八が櫂を押しながら答える。

「弟を川へ落とすと脅された」

「それでも行き先を残したのか」

「弟が足で舟板を叩いた」

「何度」

「三度、二度、三度」

「意味は」

「俺たち兄弟の合図だ。海へ行く、という意味だ」

「なぜ、そのような合図を」

「子どもの頃、川で声が届かない時に使った」

「沢渡は気づかなかったか」

「人の足音など聞いていなかった」

 声を盗む者が、足音を聞かなかった。

「沢渡は何を申していた」

「朝風丸へ乗れば終わる、と」

「何が終わる」

「第三冊が役目を終える」

「焼く気か」

「海へ沈めるつもりだろう」

 青山が空を見た。

 東の空には煙。

 異国船のものか。

 朝風丸のものか。

 まだ砲声はない。

「玄斎先生と兵庫殿は、どのように朝風丸へ」

「海防掛の早舟です」

 青山が答えた。

「水野様から、異国船の男を見分けるよう命じられました」

「二人なら顔を知っている」

「十五年前の顔です」

「声も変わる」

「だから、二人で見る」

 弥助が小さく言った。

「姿も作れます」

「何」

「異国には、顔へ薄い皮を貼り、傷や皺を作る技があります」

「そなたが見たのか」

「声筒を作らされた工房で」

「誰の顔を」

「鷹見静山様です」

 舟の中が静かになった。

「三宅の命か」

「沢渡です」

「何を手本にした」

「死顔を描いた絵」

「遺体の」

「はい」

「では異国船の男は」

「作られた顔かもしれません」

「誰が顔を作った」

「私と同じ工房の職人です」

「名は」

「喜平」

「今は」

「三年前に死にました」

「本当にか」

 弥助は答えられなかった。

 死んだとされた者。

 消えた者。

 別の名で生きた者。

 この一件では、死そのものまで証として信用できない。

「弥助」

「はい」

「静山殿の顔を作った時、何か特徴を加えたか」

「左の顎へ小さな傷を」

「本人にもあるのか」

「絵にありました」

「ならば、傷では見分けられぬ」

「はい」

「玄斎先生たちは何で見分ける」

「分かりません」

 新之介は朝風丸の帆を探した。

「先生なら、問いを投げる」

「答えも教えられていたら」

「さらに聞く」

 ◇

 江戸湾へ出ると、三艘の船が見えた。

 朝風丸。

 その先に、白旗を掲げた異国船。

 そして両者の間へ向かう小さな御用舟。

「沢渡だ!」

 甚八が指さした。

 御用舟の船尾に、医師姿の男。

 油紙の包みを抱えている。

 沢渡玄隆。

「追いつけるか」

「潮へ逆らっている。向こうが少し遅い」

「急げ」

「この舟を壊す気か」

「壊さずに」

「侍は皆、簡単に申す」

 甚八はそれでも櫂を速めた。

 朝風丸の甲板では、水野隼人正と安西主税が向き合っている。

 その間に黒い箱。

 沢渡の舟から、安西の声が響いた。

「沢渡玄隆を朝風丸へ迎えよ!」

「第三冊は海防掛の管理へ移す!」

「水野隼人正を拘束せよ!」

 安西本人の声。

 朝風丸の水主たちが、本人と箱を交互に見る。

「私の声だ」

 安西が言った。

「だが私の命ではない!」

 沢渡の声筒が続ける。

「水野は異国船と通じている!」

「安西主税の名において命じる!」

「水野を捕えよ!」

 甲板の侍二人が、水野へ近づこうとする。

 安西が刀を抜いた。

「止まれ!」

「安西様の御声が」

「私を見ろ!」

 安西が自分の胸を叩く。

「私はここにいる!」

「ですが、先ほどの御命は」

「申していない!」

「どちらが本当か」

 安西の顔が歪んだ。

 偽の上意へ従った時、彼は声と印を信じた。

 今度は自分の声が、自分の命を奪おうとしている。

「合言葉を使え!」

 矢倉勘蔵が叫んだ。

「船手頭が緊急時に使う合言葉だ!」

 安西が頷く。

「上は潮」

 水主たちが答えを待つ。

 偽声の箱からは何も出ない。

「下は」

 船頭が言った。

「船底」

「違う」

 安西が答える。

「下は腹だ」

「船の腹を見よ」

 昔、矢倉と安西が決めた言葉。

 船底へ水が入っていないか。

 荷が偏っていないか。

 目に見える帆より、船の腹を見ろ。

「今の安西様が本物だ!」

 水主が叫んだ。

 水野へ近づいていた侍たちが下がる。

 沢渡が声筒を投げ捨てた。

「役立たずめ」

「沢渡!」

 新之介が舟から叫ぶ。

 沢渡が振り返る。

「榊原新之介」

「第三冊を渡せ!」

「誰へ」

「朝風丸へではない!」

「では、そなたへか」

「複数の者へだ!」

「海の上で誰を集める」

「今いる者だ!」

 新之介は指さした。

「水野隼人正!」

「安西主税!」

「青山新六郎!」

「弥助!」

「甚八!」

「平岡作之丞!」

「異国船の男を見分ける玄斎先生と兵庫殿!」

「多すぎる」

「多いからよい!」

 沢渡は油紙の包みを掲げた。

「この帳面には、安西の名がある!」

 朝風丸の甲板がざわめく。

「何の名だ」

 安西が問う。

「異国製の羅針盤を受け取った」

「受け取った」

 安西は否定しなかった。

「金貨も」

「見ていない」

「帳面にはある!」

「ならば読ませろ!」

「認めるのか」

「羅針盤は受け取った!」

 水主たちが安西を見る。

「浦賀沖で沈んだ異国船から回収した物だ!」

「届け出は」

 水野が問う。

「しなかった」

「なぜ」

「海防掛へ出せば、上役に取り上げられると思った」

「私物にしたか」

「調べたかった」

「それを誰かへ伝えたか」

「矢倉にだけ」

 矢倉が頷いた。

「見た。安西は羅針盤を分解し、同じ物を作ろうとしていた」

「成功したか」

「しなかった」

「ならば隠したことは事実だ」

「ああ」

 安西は逃げなかった。

「だが、金貨は受け取っていない」

 沢渡が笑う。

「一つを認めれば、もう一つも真に見える」

「だから帳面を開ける!」

 安西が叫んだ。

「私の名を消すな!」

 新之介は安西を見た。

 先ほどまで、帳面を恐れていた男。

 今は自分の名を残せと叫んでいる。

「沢渡」

 新之介が言った。

「安西殿本人が読むと申している」

「読むだけでは済まぬ」

「だから複数で確かめる」

「時間がない」

「誰のための時間だ」

「国のためだ」

「そなたの名で申せ」

 沢渡の顔が強張る。

「沢渡玄隆が、何のために第三冊を消すのか」

「私は」

「医師だろう」

「そうだ」

「声を失わせる薬を使った」

「戸田備前守を殺してはいない」

「量を加減したのか」

「私は人を救う」

「誰を」

「国を」

「国は患者か」

「同じだ!」

「ならば病の名を申せ!」

 沢渡の声が震える。

「迷いだ」

「何」

「誰も決めぬ。誰も責を負わぬ。皆で見分すると言い、時間だけを使う!」

「だから偽の声で動かす」

「必要な治療だ!」

「患者へ知らせずに毒を飲ませる医師か!」

「治ればよい!」

「誰が治ったと決める!」

「私だ!」

 沢渡は自分で答えた。

 その瞬間、顔に浮かんだものを、新之介は見た。

 恐れ。

 沢渡自身も、自分が三宅や文吉と同じ場所へ立っていると気づいたのかもしれない。

 だが次の瞬間、沢渡は油紙の包みへ火打石を当てた。

「止めろ!」

 火花。

 一度目はつかない。

 二度目。

 油紙の端へ小さな火。

「帳面を焼く気だ!」

 平岡が立ち上がる。

 沢渡の御用舟と新之介たちの舟との距離は、まだ二間。

「寄せろ!」

「ぶつかるぞ!」

 甚八が叫ぶ。

「寄せろ!」

 新之介は舟の先へ出た。

「肩を見ろ!」

 青山が止める。

「見えぬ!」

「飛ぶ気ですか!」

「飛ばぬ!」

 新之介は舟に積まれた縄を取った。

 先端へ鉤。

 火のついた油紙へ投げる。

 鉤が包みの紐へかかった。

「引け!」

 沢渡も包みを抱える。

 両舟の間で綱引きになる。

「離せ!」

 新之介が叫ぶ。

「これは国の病巣だ!」

「病巣なら切る前に見せろ!」

「触れれば広がる!」

「そなた一人で診るな!」

 火が油紙を這う。

 新之介が縄を引く。

 傷口が裂ける。

 青山と平岡も加わる。

「引け!」

 沢渡の身体が舟縁へ寄る。

 包みを離さない。

「沢渡!」

 水野が朝風丸から叫ぶ。

「帳面を捨てろ! そなたは舟へ残れ!」

「私を救う気か」

「話を聞く!」

「許すのか」

「許さぬ!」

「ならば」

「死ぬ方へ逃げるな!」

 沢渡の顔が歪んだ。

「皆……同じことを」

「同じ相手へ申している!」

 火が沢渡の袖へ移った。

「水を!」

 甚八が桶を投げる。

 届かない。

 沢渡は燃える袖を見た。

 そして突然、油紙の包みを手放した。

「引け!」

 第三冊が新之介たちの舟へ飛んでくる。

 青山が濡れ布をかぶせる。

 火が消える。

 だが沢渡の舟では、袖の火が船板へ落ちていた。

 油壺。

 火薬箱。

「沢渡、飛べ!」

 新之介が叫ぶ。

 沢渡は動かない。

「舟を寄せろ!」

「火薬がある!」

 甚八が叫ぶ。

「寄せれば、こっちも爆ぜる!」

「縄を投げろ!」

 新之介が縄を投げる。

 沢渡の足元へ落ちる。

「掴め!」

「私は医師だ」

 沢渡が呟く。

「何」

「病巣を残した」

「生きて治せ!」

「もう遅い」

「遅いと自分で決めるな!」

 沢渡の舟から炎が上がる。

 火薬箱へ近づく。

 沢渡は縄を見た。

 手を伸ばす。

 だが、その前に誰かが水中から舟へ上がった。

 左耳のない男。

 音次だった。

「なぜ」

 新之介が息を呑む。

 蔵前で捕えられ、材木番へ預けたはずの男。

「文吉様から、最後の命だ」

 音次は沢渡を突き飛ばした。

 沢渡が海へ落ちる。

 音次は燃える舟の上で、火薬箱を抱えた。

「何をする!」

「声を消す!」

 音次は火薬箱ごと、朝風丸へ舟を向けた。

 燃える御用舟。

 朝風丸まで十間。

「砲で沈めろ!」

 安西が叫ぶ。

「沢渡が水にいる!」

 新之介が止める。

「舟を沈めなければ、朝風丸が!」

「人を拾ってからだ!」

「間に合わぬ!」

 また選び。

 一人の沢渡。

 四十人を乗せた朝風丸。

 白旗の異国船。

 第三冊。

「朝風丸、舵を切れ!」

 水野が命じた。

「火舟を避ける!」

「異国船へ近づきます!」

「白旗を信じる!」

「偽りなら」

「その時は私が責を負う!」

 朝風丸が舵を切る。

 燃える舟が船腹を掠める。

 音次は火薬箱へ火を入れようとする。

 その時、異国船から一本の銛が飛んだ。

 火薬箱を貫く。

 箱が音次の手から離れ、海へ落ちた。

 水しぶき。

 火が消える。

 音次は立ち尽くした。

 異国船の舳先に、白髪の日本人が立っていた。

 鷹見静山を名乗る男。

 その手には、銛を放った異国人の肩を押さえる手。

「音次」

 男が呼んだ。

 筒ではない。

 海風にかすれる、生きた声。

「お前の父は、耳を失ってまで声を守った」

 音次の顔が変わった。

「なぜ……父を」

「無音寺で会った」

「嘘だ!」

「お前の耳を斬ったのは、父ではない」

「黙れ!」

「沢渡だ」

 水中の沢渡が顔を上げた。

 音次が彼を見る。

「違う」

 沢渡が言う。

「治療だった」

「耳を斬ることがか!」

「声の聞こえ方を変えるためだ!」

 音次は燃える舟から沢渡へ飛びかかろうとした。

「動くな!」

 新之介が叫ぶ。

「沢渡を殺しても、そなたの耳は戻らぬ!」

「黙れ!」

「父の名を聞け!」

「知っている!」

「申せ!」

 音次は震えた。

「音蔵だ!」

 異国船の男が頷く。

「竹内音蔵」

「父を知るのか」

「ああ」

「どこにいる」

 男は答える前に、玄斎と兵庫が異国船の甲板へ現れた。

 二人とも、白髪の男を見ている。

「先生」

 玄斎の声が震えた。

 兵庫は何も言わない。

「本物ですか!」

 新之介が叫んだ。

 玄斎は答えなかった。

 白髪の男へ近づく。

「十五年前」

 玄斎が言う。

「無音寺へ行く前、先生は私へ何と申しました」

 男は少し考えた。

「戻る場所を間違えるな」

「その言葉は皆が知っている」

「そうだな」

「では、その前です」

 男は玄斎の目を見た。

「お前の左足は、逃げる時だけ速い」

 玄斎の顔が歪んだ。

 兵庫が問う。

「私へは」

「兵庫」

「何だ」

「お前は正しい時ほど、右の眉を上げる」

 兵庫の右眉が、わずかに動いた。

 男は笑った。

「今もだ」

 玄斎が一歩近づく。

「顔も声も作れる」

「ああ」

「記憶も教えられる」

「ああ」

「ならば、何をもって先生と決めればよい」

 男は答えた。

「決めるな」

「何」

「私が鷹見静山であるかを、今ここで決めるな」

 新之介は、その言葉を聞いた。

 問いを残す男。

 答えを急がせない男。

 だが、それさえも真似られる。

「ならば、なぜ名乗った」

 玄斎が問う。

「この名でなければ、白旗を見てもらえなかった」

「名を使ったのか」

「ああ」

「本物であっても」

「名は使えば道具になる」

「では、そなたは誰だ」

 男は異国船の船倉を指した。

「先に、中を見ろ」

「何がある」

「第三冊に、荷として記された者たちだ」

「荷?」

「十五年前、異国へ売られた日本人だ」

 新之介たちは言葉を失った。

「何人だ」

 水野が朝風丸から問う。

「四十七人」

「生きているのか」

「生き残ったのは二十三人」

「残りは」

「海で死んだ」

 男の声に、初めて怒りが混じった。

「第三冊へは、銀と薬と武器しか書かれていない」

「人は」

「荷の数へ入れられた」

 鷹見静山を名乗る男は、新之介たちの舟にある焦げた第三冊を見た。

「その帳面は、三宅が直したものだ」

「正本は」

「この船にある」

 男が懐から、小さな銅の鍵を出した。

「二冊を並べろ」

「どちらが真か確かめるためか」

 新之介が問う。

「違う」

「では」

「どちらも、書いた者の都合が入っている」

「正本にも」

「ああ」

「鷹見静山が書いたのでは」

 男は静かに答えた。

「私が書いた」

 玄斎の身体が揺れた。

「やはり先生なのか」

「そう呼ぶ者もいる」

「逃げるな!」

 玄斎が初めて怒鳴った。

「十五年だ!」

「分かっている」

「何が分かる!」

「お前が逃げたことも」

「先生がいなかったからだ!」

「私も逃げた」

 白髪の男は認めた。

「国の外へ」

「なぜ戻らなかった!」

「戻れば、二十三人が殺された」

「誰に」

「幕府だけではない」

「では」

「帳面へ名のある者たちだ」

 男は朝風丸を見た。

「安西主税」

 安西が身構える。

「そなたの父、安西主馬の名もある」

「父が」

「人を運んだ船の警固役だ」

「嘘だ!」

「だから並べて読め」

「父は海防のために」

「そう信じていたかもしれぬ」

「人を売ったと」

「本人が知っていたかも確かめる」

 安西は刀の柄を握った。

 怒りで抜くか。

 怖れで抜くか。

 自分でも分からない顔。

「朝風丸へ渡れ」

 水野が白髪の男へ言った。

「一人でか」

「二十三人も」

「全員をか」

「荷としてではない」

 水野は答えた。

「名を聞くためだ」

 その時、湾の南から砲声が響いた。

 一発。

 海面へ水柱。

 異国船のすぐ近く。

「浦賀砲台です!」

 青山が叫んだ。

「白旗が見えないのか!」

 二発目の砲声。

 今度は異国船の帆柱へ命中した。

 木片が飛ぶ。

 甲板の者たちが伏せる。

「砲撃を止めろ!」

 水野が朝風丸の信号旗を上げさせる。

 だが浦賀砲台からも旗が返る。

 ――上意により、異国船を撃沈せよ。

「また偽の上意か!」

 高梨が叫んだ。

「違います!」

 青山が旗を読む。

「発令者の名が!」

「誰だ」

「榊原新之介!」

 新之介は海を見た。

 自分の名。

 自分の声。

 そして今度は、自分の命令として砲弾が放たれている。

 三発目の砲口から、白い煙が上がった。

 狙いは異国船の船腹。

 二十三人の日本人がいる場所だった。

(第五十三章へ続く)

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