第三十六章 月下の漂流箱
江戸へ戻る舟の上で、誰も余計なことを話さなかった。
藤吉は舟底に寝かされている。
背へ刺さった矢は抜いていない。
抜けば血が噴き出す恐れがある。
源太郎と辰蔵が交代で傷口を押さえ、半九郎は藤吉の手を握っていた。
「藤吉」
呼びかけても、返事はない。
ただ、わずかに指が動く。
生きている。
それだけが、今のところ確かなことだった。
伊助は帆と舵を操りながら、何度も空を見上げた。
風が北東へ変わり始めている。
このままなら江戸へは早く着く。
だが同じ風は、海へ流した鉄箱も北へ運ぶ。
「箱はどこまで流れる」
新之介が問う。
「潮にもよる」
「見当は」
「今の風なら、盤洲の浅瀬へ寄るかもしれねえ」
「沈むか」
「浮き樽が持てば沈まねえ。だが夜明けまでに誰かへ拾われる」
新之介は後方の海を見た。
暗い。
鉄箱はもう見えない。
青山新六郎の快速船も、佐平たちと戦いながら遠ざかっている。
銃声は止んでいた。
どちらが勝ったか分からない。
「戻るべきだったか」
新之介が呟く。
玄斎が横から答えた。
「何へ」
「箱へ」
「藤吉を置いてか」
「それはできぬ」
「ならば答えは出ておる」
「正しかったかは別です」
「正しい選びなど、その場では分からぬ」
「後なら分かりますか」
「後でも分からぬことがある」
玄斎は月を見た。
「ただ、自分が何を捨てたかは覚えておけ」
新之介は頷いた。
佐平を追う機会。
鉄箱。
青山との決着。
それらを捨て、藤吉を選んだ。
選んだものだけでなく、選ばなかったものも背負う。
それが責なのだろう。
「榊原様」
源太郎が呼んだ。
「藤吉殿の息が浅いです」
新之介はすぐに舟底へ膝をついた。
藤吉の顔は青白い。
額へ汗。
唇は乾いている。
「水を」
「少しだけです」
半九郎が布へ水を含ませ、藤吉の唇を濡らした。
藤吉の目がわずかに開く。
「……若様」
「ここにいる」
「海図は」
「ある」
「箱は」
半九郎は答えに詰まった。
藤吉はその沈黙で察したらしい。
「流したか」
「ああ」
「そうか」
「すまない」
「なぜ謝る」
「父上の遺した証を」
「証より……人だ」
藤吉は苦しげに息をした。
「玄十郎様なら、同じことをした」
「父は帳面を守った」
「違う」
「何が」
「最後には……そなたを守った」
半九郎の目が揺れる。
「父は、帳面を捨てたのか」
「捨ててはいない」
「では」
「選ばなかった」
藤吉の声は途切れ途切れだった。
「玄十郎様は……元帳を持っていた」
新之介と半九郎は同時に藤吉を見る。
「何だと」
「弁財丸から……持ち出した」
「元帳を?」
藤吉は小さく頷いた。
「では鉄箱の中ではないのか」
「一冊は……違う」
「一冊?」
「元帳は……分けられた」
半九郎の手が強くなる。
「どこへ」
「玄十郎様が……一冊」
「ほかは」
「分からぬ」
「父はその一冊をどこへ隠した」
藤吉は口を開こうとした。
だが声が出ない。
息を吸うたび、胸が震える。
「無理に話すな」
新之介が止める。
「江戸へ着いてからでよい」
藤吉は首を振った。
「今……話す」
「なぜ」
「また……遅れる」
藤吉の目は半九郎へ向いていた。
「若様。玄十郎様の手紙……三通目」
「壺にあった手紙か」
「封を……切るなと」
「誰に」
「黒川殿へ」
玄斎が目を細めた。
「わしか」
「はい」
「なぜわしへ」
「鷹見先生の……最後の鍵を知る者」
藤吉の呼吸が乱れた。
源太郎が叫ぶ。
「もう喋らせないでください!」
半九郎は藤吉の手を握ったまま、顔を近づけた。
「分かった。もうよい」
「よく……ない」
「生きてから話せ」
「若様」
「何だ」
「玄十郎様は……そなたに謝っていた」
「なぜ」
「守るために……何も話さなかったことを」
半九郎の顔が崩れた。
「直接聞きたかった」
「そうだな」
「今さら、手紙で」
「それでも……読め」
「藤吉」
「読んで……自分で決めろ」
藤吉の指から力が抜ける。
「藤吉!」
半九郎が叫んだ。
源太郎が首筋へ手を当てる。
「脈はあります!」
「本当か」
「弱いですが!」
伊助が前を見たまま怒鳴った。
「もうすぐ品川だ! 灯が見える!」
遠くに江戸の明かりが浮かんでいる。
新之介は藤吉の胸元へ耳を当てた。
浅い。
だが息はある。
「戻るぞ」
半九郎へ言う。
「必ず」
半九郎は答えなかった。
藤吉の手を離さず、ただ江戸の灯を見つめていた。
◇
品川の船着き場へ着くと、戸田家の家臣と町方の捕り手が待っていた。
源太郎が出立前に、帰りの舟を迎えるよう手配していたのである。
「医師は」
源太郎が舟から飛び降りる。
「西徳寺の了順様と、外科の医師を呼んでおります!」
「駕籠を!」
藤吉は戸板へ移され、そのまま西徳寺へ運ばれた。
半九郎も付き添う。
新之介は一緒に行こうとしたが、井沢敬之助が舟の中から声を上げた。
「私を置いていく気か」
「忘れていた」
「わざとか」
「半分は」
井沢は両手を縛られたまま、新之介を睨んだ。
戸田家家臣が井沢の顔を見て驚く。
「井沢殿」
「近づくな」
「なぜこのような」
「殿へ会わせろ」
「まず奉行所だ」
源太郎が言う。
「三宅様の命を受けていた」
「それも含めて詮議する」
「三宅様へ先に会わせろ!」
井沢の声には必死さがあった。
「なぜだ」
新之介が問う。
「伝えることがある」
「何を」
「水野隼人正は、三宅様へ元帳を探させていた」
周囲の者が静まる。
「命じたのか」
「取引だ」
「何を条件に」
「戸田家の借財を消す」
新之介は井沢を見つめた。
三宅は戸田家を救うため、三河屋と結び、米価を操ろうとした。
その一方で水野とも繋がっていた。
「元帳を渡せば、戸田家の借財を帳消しにすると」
「ああ」
「できるのか」
「水野様なら、札差と勘定方を動かせる」
「それで三宅殿は受けた」
「御家を守るためだ」
また同じ言葉。
御家を守る。
その言葉の下で、人が脅され、火が放たれ、米が捨てられた。
「三宅殿は箱の仕掛けも、水野から聞いたのか」
「そうだ」
「では青山殿が危険を知っていたのも」
「水野の命だ」
「重吉を殺したのは」
「知らぬ」
「佐平は」
「三河屋から来たと聞いた。だが……」
「何だ」
「今思えば、三河屋の手の者ではない」
「なぜ」
「三宅様の名も、水野様の役目も知りすぎていた」
「誰の手だ」
「分からぬ」
井沢は唇を噛んだ。
「だが佐平は、元帳を売るつもりだった」
「誰へ」
「異国人だ」
源太郎が眉を寄せる。
「何を根拠に」
「長崎言葉を使う男と会っていた」
「場所は」
「深川の船宿」
「名は」
「松波屋」
新之介は覚えた。
「なぜ今まで申さなかった」
「三宅様の命ではなかったからだ」
「何」
「我らは元帳を戸田様へ渡すつもりだった」
「水野へではなく」
「三宅様は、最初から水野を信じていなかった」
「取引していたのにか」
「御家を守るためなら、敵とも取引する」
井沢は低く言った。
「だが元帳を渡せば、戸田家も消されると気づいた」
「いつ」
「三河屋が黒装束を差し向けた夜だ」
三宅は自分もまた捨て駒だと悟った。
だから井沢へ、元帳を水野より先に確保し、戸田へ渡せと命じた。
「では小屋へ火をつけた佐平は、そなたたちを消すために混じっていた」
「おそらく」
「なぜ最初から話さなかった」
「そなたを信じていなかった」
「今は信じるのか」
「信じてはいない」
井沢は新之介を見た。
「だが佐平へ渡るよりはましだ」
「誰も彼も、同じことを申すな」
「何を」
「信じぬ相手と、同じ舟へ乗る」
井沢は苦く笑った。
「世の中とは、そういうものだ」
◇
井沢は南町奉行所へ送られた。
新之介は西徳寺へ急いだ。
寺の一室では、藤吉の治療が続いていた。
矢は折られ、傷口から慎重に抜かれた。
刃先に返しはなかった。
それだけは幸いだった。
だが出血が多い。
医師は傷を焼き、布で強く縛った。
藤吉は気を失ったまま。
半九郎は廊下に座っていた。
手には血がついている。
「藤吉殿は」
「今夜が山だそうです」
新之介は隣へ座った。
「壺は」
「ここに」
半九郎の横に、焼け跡から掘り出した小さな壺がある。
中には銭と、玄十郎から藤吉へ宛てた手紙が三通。
一通目と二通目は、藤吉がすでに読んでいたらしい。
三通目だけは封が切られていない。
表には、確かに書かれていた。
――黒川玄斎殿へ。
「先生を呼びます」
新之介が立とうとする。
「待ってください」
半九郎が止めた。
「なぜ」
「怖い」
「手紙がか」
「父の言葉が」
半九郎は封書を見つめた。
「私は、父が何も話さなかったことを責めました」
「そうだな」
「ですが、父が本当に謝っていたら、私は何を申せばよいのでしょう」
「何も申せぬかもしれぬ」
「許すべきですか」
「急いで決めるな」
「またそれですか」
「必要だから言う」
半九郎は目を閉じた。
「父が正しかったか、間違っていたか。ずっと考えていました」
「一つではない」
「分かっています」
「分かることと、受け入れることは違う」
「父は私を守った」
「そうだろう」
「そのために、藤吉も父も傷ついた」
「そうだ」
「元帳を隠したことで、ほかの者も死んだかもしれない」
「そうかもしれぬ」
「では私は、父に感謝すべきか、責めるべきか」
新之介は半九郎を見る。
「両方でよい」
「両方」
「守ってくれたことへ感謝し、隠したことを責めればよい」
「そんな勝手が」
「人の心は、一つの裁きではない」
半九郎は黙った。
新之介は続ける。
「父上も、一つの選びだけでできた人ではない。そなたも同じだ」
「では、この手紙を読めば」
「答えが出ると思うな」
「なぜ」
「新しい問いが増える」
半九郎は小さく笑った。
「鷹見塾の者は、問いを増やすばかりですね」
「水野様が嫌うはずだ」
◇
玄斎が寺へ来たのは、夜半近くだった。
新之介から事情を聞き、道場を兵馬たちへ任せてきた。
宗次郎も来ようとしたが、志乃と吉松に止められたという。
「吉松に止められたのか」
新之介が問う。
「玄関へ寝転んだそうだ」
「強いですね」
「宗次郎は傷人だ。吉松でも勝てる」
玄斎は封書を受け取った。
表の字を見て、しばらく動かなかった。
「玄十郎殿の字ですか」
半九郎が問う。
「ああ」
「父をご存じだったのですね」
「知っておった」
「なぜ今まで」
「そなたが申さなかったからだ」
「父の弟子だとは」
「鷹見塾には真崎姓が二人いた。そなたが玄十郎殿の子と知ったのは、再起館へ来てしばらく後だ」
「ならば、なぜ話さなかった」
「本人が話すまで待とうと思った」
「父と同じですね」
玄斎は少し顔を曇らせた。
「そうかもしれぬ」
「守るために黙る」
「わしの場合は、面倒を避けた部分もある」
玄斎は正直に認めた。
「話せば、そなたが何を問うか分からぬ。それへ答える自信がなかった」
「先生でも」
「先生だからだ」
玄斎は封を切った。
油紙の中から、折り畳まれた手紙が出る。
紙は古いが、字は読める。
玄斎は声に出して読み始めた。
――黒川玄斎殿。
――この書をそなたが読む時、私はすでに世にいないか、あるいは自ら口を開けぬ身となっているだろう。
半九郎の指が震えた。
玄斎は続ける。
――鷹見先生が集めた帳面は、役人と商人の悪事を暴くためだけのものではない。
――この国の米と金と船が、どこへ流れ、誰がそれを止め、誰がそれを外へ売っているかを記したものだ。
――元帳は四冊に分けた。
「四冊」
新之介が呟く。
一冊ではない。
二冊でもない。
四冊。
玄斎は読み進める。
――第一冊は、札差と大名家の借財。
――第二冊は、役職売買と賄賂。
――第三冊は、廻船と抜け荷。
――第四冊は、異国取引と海防役人の名。
相模屋長兵衛が持っていた写しは、おそらく第三冊の一部。
今まで追ってきた鷹見塾の記録は、第一と第二を写した断片だったのだろう。
――四冊を一つの場所へ置けば、奪われた時にすべてが失われる。
――ゆえに別々に隠した。
――第一冊は鷹見先生自身が預かった。
――第二冊は黒川玄斎殿へ託す予定であった。
玄斎の読む声が止まった。
「私へ?」
「預かったのですか」
新之介が問う。
玄斎は首を振った。
「知らぬ」
手紙には続きがある。
――だが水野隼人正の動きが早く、先生は第二冊を渡せなかった。
――先生は、そなたが持つ古い稽古帳の中へ鍵だけを隠したと申した。
「稽古帳」
玄斎の顔が変わる。
「心当たりがあるのですか」
「鷹見先生から頂いたものが一冊ある」
「どこに」
「再起館だ」
新之介は立ち上がりかける。
玄斎が止めた。
「最後まで読む」
――第三冊は弁財丸へ積んだ。
――第四冊は、私が持ち出した。
半九郎が息を呑む。
「父が」
――弁財丸は富津沖で襲われた。
――私は第三冊を回収できなかった。
――だが第四冊は守った。
――それをどこへ隠したかは、この書には記さぬ。
――黒川殿。そなたがこの書を読む時、我が子・半九郎が真を追うと決めているなら、次の言葉を伝えてほしい。
玄斎は一度、半九郎を見た。
そして読む。
――半九郎。
――私はそなたを守るために、何も話さなかった。
――だが本当は、そなたが私を軽蔑することを恐れた。
半九郎の目から涙が落ちた。
――人を守るという言葉の半分は、私の臆病であった。
――父は正しかったと思うな。
――父は間違っていたと思い切るな。
――私が選ばなかった道を、そなた自身が見て決めよ。
――第四冊の場所は、そなたが幼い頃、私へ初めて書いた一文字の下にある。
手紙はそこで一度途切れた。
「初めて書いた一文字」
半九郎が呟く。
「覚えているか」
新之介が問う。
「いいえ」
玄斎は続きを読む。
――黒川殿。
――半九郎がこの道を選ばなかったなら、第四冊は焼いてほしい。
――帳面のために、子の命まで使ってはならぬ。
――それでも追うと申すなら、止めないでくれ。
――ただし、剣を先に持たせるな。
――問いを持たせよ。
――真崎玄十郎。
玄斎は手紙を畳んだ。
部屋は静まり返っていた。
外では風が竹を揺らしている。
「父は、私を信じていなかったのでしょうか」
半九郎が問う。
「違う」
玄斎は答えた。
「信じていたから、選ばせた」
「ですが焼けと」
「追わぬ道も残した」
「私は追います」
半九郎は即座に言った。
「今すぐ決めるな」
新之介が止める。
「急いでいません。十二年考えました」
「第四冊を見れば、水野だけではない者の名が出る」
「分かっています」
「藤吉も父上も傷ついた」
「だからです」
半九郎は涙を拭わなかった。
「帳面があるから人が死ぬのではない。帳面へ書かれたことを隠したい者が、人を殺す」
「その通りだ」
「ならば焼けば終わるのではありません」
「どうする」
「明らかにする」
玄斎が静かに問う。
「全てをか」
「分かりません」
「今、明らかにすると申した」
「どのように明らかにするかは、まだ分からない」
半九郎は手紙を見た。
「父は帳面を守った。だが、一人で守ったために隠された。私は一人で持ちません」
「誰へ渡す」
「一人へは渡しません」
新之介は半九郎の答えを待った。
「写します」
「何」
「第四冊が見つかったら、複数の写しを作る」
「鷹見先生が長兵衛へ頼んだことと同じか」
「はい」
「危険だ」
「一冊だから奪われる。持つ者が一人だから殺される」
「写しを持つ者全員が狙われる」
「ならば、狙い切れないほど増やす」
玄斎が半九郎を見た。
「玄十郎殿より、鷹見先生に似たな」
「父は喜ぶでしょうか」
「分からぬ」
「そうですね」
半九郎は少し笑った。
◇
夜明け前、新之介と玄斎は再起館へ戻った。
半九郎は藤吉の傍へ残った。
道場では、宗次郎が起きて待っていた。
布団を抜け出し、板の間へ座っている。
志乃と吉松も眠らずにいたらしい。
「藤吉殿は」
宗次郎が問う。
「まだ生きている」
「まだ、か」
「今夜が山だ」
宗次郎は目を閉じた。
「私が行けばよかった」
「傷人が何をできた」
「矢を受けたかもしれぬ」
「それで藤吉殿が助かるとは限らぬ」
「何もしなかったよりは」
「そなたは治す役目を選んだ」
「選ばされた」
「それでもだ」
宗次郎は納得していない。
だが新之介は今、それを解こうとは思わなかった。
それぞれの選びに、すぐ答えは出ない。
「先生」
新之介が玄斎を見る。
「稽古帳は」
「蔵だ」
再起館の裏手にある小さな物置。
古い木刀や破れた稽古着、帳面類を置いている。
玄斎は灯を持ち、中へ入った。
埃の積もった箱を一つずつ動かす。
「どのような帳面です」
「青い布表紙」
「何冊もあります」
「鷹見先生の字で『無用』と書かれている」
「無用?」
「中身は剣術の基本だ」
「それがなぜ無用なのです」
「先生は、人が必要だと思うものほど無用と書く癖があった」
「面倒な方ですね」
「お前に似ている」
しばらく探し、吉松が一冊を見つけた。
「これですか」
青い布表紙。
墨で大きく、無用。
玄斎が受け取る。
「これだ」
帳面を開く。
足運び。
構え。
呼吸。
間合い。
鷹見静山の簡潔な教えが並んでいる。
「鍵はどこへ」
新之介が問う。
「分からぬ」
「手紙には稽古帳の中へ」
「見れば分かるなら、鍵とは申さぬ」
ページを一枚ずつ確かめる。
紙の厚み。
綴じ糸。
墨の濃淡。
宗次郎も壁にもたれながら見ている。
「最後のページが厚い」
宗次郎が言った。
玄斎が帳面を閉じ、裏表紙を触る。
確かに、他より少し厚い。
糊で二枚重ねになっている。
新之介が小刀で端を剥がした。
中から薄い銅片が出てくる。
長さは指ほど。
表面に、小さな文字が刻まれていた。
――寺。
「これが鍵か」
吉松が覗き込む。
「鍵というより札ですね」
志乃が言う。
裏返す。
反対側には、さらに二文字。
――無音。
「無音寺?」
宗次郎が問う。
「そのような寺を知っていますか」
新之介が玄斎へ向く。
玄斎の顔は険しい。
「知っている」
「どこです」
「江戸にはない」
「では」
「下総だ」
「どの辺りです」
「成田の東。香取へ向かう途中に、廃寺がある」
「名は無音寺」
「正式な寺号ではない」
「では何です」
「鷹見塾の者が使った隠れ場所だ」
新之介は銅片を見た。
「第一冊か第二冊がある」
「おそらく第二冊」
「役職売買と賄賂」
「ああ」
「なぜ先生は今まで」
「忘れていた」
「本当ですか」
「忘れようとしていた」
玄斎は銅片を握った。
「十五年前、鷹見先生から、何かあれば無音寺へ来いと言われた」
「行かなかった」
「行けなかった」
「なぜ」
「その翌日、先生が捕えられた」
道場が静まる。
「捕えられた?」
新之介は初めて聞く話だった。
「鷹見先生は病で亡くなったのでは」
「表向きはな」
「では」
「捕えられ、詮議を受け、その後に戻された。半年で亡くなった」
「誰に捕えられた」
玄斎は答えなかった。
代わりに銅片を見つめる。
「水野隼人正ですか」
「当時の水野は、まだ今の役目ではない」
「何をしていた」
「勘定方の下役だ」
米と金の流れを調べる側にいた。
帳面の存在を知るには十分な立場。
「先生は何を問われた」
「元帳の場所」
「話したのか」
「話さなかった」
「それで身体を壊した」
玄斎は頷かなかった。
否定もしない。
「私は、先生が戻った後に会った」
「何と」
「無音寺へ行くな、と申された」
「なぜ」
「わしが死ぬからだ」
「それで従った」
「ああ」
「先生の命を守るために」
「自分の命を守るためでもあった」
玄斎の声は低い。
「玄十郎殿と同じだ。守るという言葉の半分は臆病だった」
新之介は何も言わなかった。
玄斎にも、長く隠してきたことがある。
師は何でも知り、迷わない者ではない。
逃げたことも、忘れようとしたこともある。
「今度は行くのですか」
志乃が問う。
玄斎は銅片を見た。
「行かねばならぬ」
「先生がではありません」
志乃は静かに言った。
「行きたいのですか」
玄斎はすぐには答えなかった。
「怖い」
やがて言った。
「鷹見先生が何を残したかより、行かなかった自分を見るのが怖い」
「ならば」
「それでも行く」
玄斎は銅片を新之介へ渡した。
「今度は一人ではない」
宗次郎が言った。
「そなたは来ぬ」
「なぜだ」
「傷人だからだ」
新之介と玄斎が同時に答えた。
宗次郎は不満そうに顔を背けた。
◇
空が白み始めた頃、源太郎が再起館へ駆け込んできた。
顔に疲れがある。
「青山新六郎殿が戻りました」
「無事か」
「肩を撃たれていますが、生きています」
「佐平は」
「逃げました」
「敵船は」
「一艘を捕え、二艘は逃走」
「捕えた者は何と」
「何も話しません。ただし、船から異国製の短銃が出ました」
井沢の話と繋がる。
佐平は異国との取引に関わっている可能性が高い。
「鉄箱は」
「青山殿も見失ったそうです」
「流した方か」
「はい」
新之介は胸の中で位置を思い出す。
富津の岬。
二つの帆柱。
月の昇る方角。
だが風と潮で、すでに大きく流れている。
「盤洲を捜させます」
源太郎が言う。
「町方だけでか」
「海防掛も船を出すそうです」
「水野の命で」
「青山殿本人の判断です」
「水野様へは」
「まだ報告していない」
源太郎は声を落とした。
「青山殿は、水野様を疑い始めています」
「なぜ」
「佐平の船が、海防掛しか知らぬ合図を使った」
「内通者がいる」
「はい」
水野本人か。
配下の誰かか。
まだ分からない。
「もう一つ」
源太郎は懐から紙を出した。
「捕えた船の中に、これがありました」
異国文字の記された紙。
端に日本語で短く書かれている。
――四冊揃えば、国を買える。
新之介は紙を見つめた。
「誰が書いた」
「分かりません」
「国を買うとは」
「元帳を使えば、大名家も役人も廻船も動かせる。脅しの材料にするつもりかもしれません」
金。
借財。
贈賄。
抜け荷。
異国取引。
四冊が揃えば、この国の弱みが一つの手に集まる。
長兵衛は最も高く買う者へ売るつもりだった。
佐平はさらに外へ売ろうとしている。
「四冊の場所を整理する」
新之介が言った。
「第一冊は鷹見先生が預かった」
「行方不明」
「第二冊は無音寺にある可能性」
「これから確認」
「第三冊は弁財丸の鉄箱」
「一つは海底へ戻し、一つは漂流中」
「第四冊は玄十郎殿が隠した」
「場所は半九郎殿が初めて書いた一文字の下」
源太郎は眉を寄せた。
「その一文字とは」
「まだ分からぬ」
「ならば、先に無音寺ですか」
「いや」
新之介は少し考えた。
「まず藤吉殿が生きるかを待つ」
「時間がありません」
「分かっている」
「佐平も水野も動きます」
「それでもだ」
源太郎は反論しかけた。
だが新之介の顔を見て、口を閉じた。
「藤吉殿は、第四冊の場所を知っているかもしれぬ」
「聞き出すためですか」
「違う」
新之介は答えた。
「生きて戻ると約束したからだ」
約束したのは半九郎かもしれない。
だが同じ舟に乗った者の約束でもある。
人を小事にしない。
それを忘れて帳面だけを追えば、三宅や長兵衛と同じになる。
「では待つ間に、できることを」
源太郎が言う。
「ああ」
「無音寺への道を調べます」
「海防掛の動きも」
「青山殿と直接話します」
「水野へ知られぬように」
「難しいですね」
「筋を通しながら隠す」
「それは筋を通していません」
「では、筋を選ぶ」
源太郎は深くため息をついた。
「榊原様は言葉を便利に使いすぎです」
◇
朝日が再起館の庭へ差し始めた。
弟子たちは起き、何事もなかったように掃除を始める。
吉松は床を拭く。
清太郎は昨日の炊き出しの数を帳面へまとめる。
兵馬は木刀を並べる。
お園は宗次郎の薬を煎じる。
その平凡な営みの中に、国を揺らす四冊の帳面の話がある。
新之介には、それが奇妙に思えた。
だが本来、帳面とは暮らしのためにある。
米がどれだけあるか。
誰へいくら貸したか。
何を買い、何を売ったか。
人の暮らしを支える記録が、いつの間にか人を縛る武器になった。
「榊原」
宗次郎が縁側から呼ぶ。
「何だ」
「半九郎は」
「藤吉殿の傍だ」
「そうか」
「そなたも心配か」
「私の父が斬った相手の弟子だ」
「藤吉殿は斬られていない」
「同じことだ」
「違う」
「分かっている」
宗次郎は庭を見る。
「父の罪に向き合うとは、もっと分かりやすいことだと思っていた」
「何をするつもりだった」
「謝る。働く。借財を返す」
「それも必要だ」
「だが、謝る相手が増えていく」
「父の罪すべてを、そなたが謝る必要はない」
「では、何を負う」
「知った後に、どうするかだ」
宗次郎は黙った。
「藤吉殿が死ねば」
「まだ死んでいない」
「もしもの話だ」
「その時に考えろ」
「遅くないか」
「起きていない死を先に背負うな」
宗次郎は少し笑った。
「以前のそなたなら、先に全部背負っていた」
「先生に叱られた」
「少しは効いたか」
「少しだけな」
玄斎が道場の中から言う。
「聞こえておるぞ」
「聞かせました」
「ならば稽古へ来い」
「傷人です」
「座ってできる稽古もある」
「何を」
「米から石を拾え」
「剣術ではない」
「後まで役に立つ」
宗次郎は渋々、筵の前へ座った。
濡れた米の残りを選り分ける。
一粒。
また一粒。
石を除き、藁を除き、黒く傷んだ米を分ける。
国を買えるほどの帳面を追う者たちが、今は米粒を選っている。
新之介はその姿を見て、これでよいと思った。
大きなことだけを見てはならない。
大事と小事を分ける言葉に、何度も人は騙される。
目の前の米粒。
目の前の傷人。
目の前の約束。
それを見た上で、遠くの闇を追う。
その日の辰の刻。
西徳寺から使いが来た。
藤吉が目を覚ましたという。
半九郎からの伝言は一つ。
――父の初めての一文字を思い出した。
新之介は立ち上がった。
「何という字だ」
使いの僧は答えた。
「『海』でございます」
海。
真崎玄十郎が第四冊を隠した場所。
幼い半九郎が初めて書いた「海」の字の下。
新之介は半九郎の家を思い浮かべた。
古い書。
掛け軸。
文机。
子どもの手習いを残す場所。
だが半九郎の旧宅は、三年前に売られている。
「今、誰が住んでいる」
源太郎が問う。
「調べます」
「急げ」
その時、門外から馬の蹄の音が響いた。
一騎。
二騎。
複数。
戸が強く叩かれる。
「御船手頭支配の命である!」
新之介たちは顔を見合わせた。
「水野隼人正様より、黒川玄斎および榊原新之介へ出頭の命が下った!」
玄斎は無音寺の銅片を懐へ入れた。
「早いな」
「何を知られた」
新之介が問う。
「分からぬ」
「出ますか」
「出ぬ理由はない」
「捕えられるかもしれません」
「鷹見先生と同じようにか」
玄斎は立ち上がった。
その顔に恐れはあった。
だが逃げる色はない。
「今度は行く」
新之介も刀を腰へ差した。
門の向こうには水野の手勢。
西徳寺では藤吉と半九郎が第四冊の場所を追おうとしている。
無音寺には第二冊の鍵。
海では第三冊の鉄箱が漂流している。
そして第一冊は、まだ行方さえ分からない。
四冊。
四つの流れ。
誰かがすべてを集めようとしている。
新之介は門へ向かった。
鷹見静山が十五年前に答えなかった問いを、今度は自分たちが受ける。
だが一つだけ違う。
玄斎は一人ではない。
新之介も一人ではない。
後ろには再起館がある。
戻る場所。
そして、戻らぬ時に問いを引き継ぐ者たちがいる。
新之介は門の閂へ手をかけた。
「先生」
「何だ」
「戻りましょう」
「できぬ約束はせぬのではなかったか」
「戻る場所を間違えぬという約束です」
玄斎は小さく笑った。
「それならばよい」
門が開く。
朝の光の中に、水野隼人正の家臣たちが並んでいた。
(第三十七章へ続く)

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