上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第二十二章

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第二十二章 寛永寺の逃亡者

 上野へ向かう道は、朝の光に白く濡れていた。

 新之介は馬を飛ばした。

 隣には庄司源太郎。

 江戸城を出た時、まだ評定の間では戸田備前守と老中首座・稲葉備中守が対峙していた。

 政の場では言葉が刃となる。

 だが、こちらの刃は血を流す。

 酒井丹波守が逃げた。

 逃がした者がいる。

 そしてその先が寛永寺であるなら、ただの逃亡ではない。

「榊原様」

 源太郎が馬上で声を張った。

「酒井は誰に会うつもりでしょう」

「分からぬ」

「稲葉様の手の者でしょうか」

「決めつけるな」

 新之介は前を見たまま答えた。

「疑え。だが確かめる前に斬るな」

 父・忠左衛門の言葉だった。

 疑うことと決めつけることは違う。

 その難しさを、新之介はこの数日で嫌というほど知った。

 上野の山が近づく。

 寛永寺の堂宇が朝霧の向こうに浮かび、杉木立の奥に深い影を落としていた。

 徳川家の菩提寺。

 この場所で血を流すことは、本来なら許されぬ。

 だからこそ、敵はここを選んだのかもしれない。

 ◇

 山門の前には、すでに騒ぎが広がっていた。

 僧たちが戸惑い、参詣人が遠巻きに見ている。

 門前に、戸田家の護送役と思われる侍が一人倒れていた。

 源太郎が駆け寄る。

「息はあります」

「誰に斬られた」

 侍は目を開け、かすれた声で答えた。

「酒井様では……ございませぬ」

「では誰だ」

「黒衣の……僧……」

 そこまで言うと、侍は意識を失った。

 黒衣の僧。

 新之介は山門の奥を見た。

 寛永寺は広い。

 逃げ込まれれば探すのは難しい。

 だが血痕が続いていた。

 酒井丹波守も無傷ではないらしい。

「追うぞ」

 二人は境内へ入った。

 朝の寺は静かだった。

 石畳。

 杉木立。

 線香の薄い香り。

 その静けさの下に、鋭い殺気が潜んでいる。

 新之介は刀の柄に手を添えた。

 抜かぬ。

 まだ抜かぬ。

 ここは寺である。

 しかし、刃が来れば抜くしかない。

 ◇

 血痕は本堂の裏へ続いていた。

 そこには細い道があり、奥の墓所へ伸びている。

 源太郎が低く言った。

「誰かおります」

 墓石の陰から、黒衣の僧が現れた。

 手には数珠。

 だが足の運びは僧ではない。

「通していただきたい」

 新之介が言う。

 僧は黙って数珠を垂らした。

 次の瞬間、その数珠が解けた。

 中に細い鎖が仕込まれている。

 鎖が新之介の腕を狙う。

 新之介は半歩退き、鞘で弾いた。

 源太郎が抜刀する。

 僧は数珠鎖を振り回し、墓石の間を滑るように動いた。

「忍びの類か」

「寺に似合わぬ客ですね」

 源太郎が斬り込む。

 僧はかわす。

 だが新之介が先回りした。

 相手の動きを止めるには、刃を追ってはならない。

 足を見る。

 逃げる方向を見る。

 玄斎の教えが身体を動かす。

 新之介は鎖が戻る一瞬を狙い、踏み込んだ。

 柄頭が僧の胸を打つ。

 僧は倒れた。

 源太郎が素早く取り押さえる。

「酒井丹波守はどこだ」

 僧は答えない。

 口元が動く。

 毒か。

 新之介はすぐに顎を押さえた。

 源太郎が口の中から紙包みを取り出す。

「またですか」

「死んで逃げる者が多すぎる」

 僧の目に、初めて恐怖が浮かんだ。

 新之介は低く言った。

「死ねぬなら話せ」

 僧は震えながら奥を示した。

「……御廟の裏」

 ◇

 御廟の裏手は、深い木立に包まれていた。

 陽は差し込まず、朝だというのに薄暗い。

 そこに、酒井丹波守はいた。

 大木にもたれ、肩で息をしている。

 片腕から血が流れていた。

 周囲に護衛はいない。

 逃げ延びたというより、追い詰められた姿だった。

 新之介は刀に手をかけたまま近づいた。

「酒井様」

 酒井は顔を上げた。

 以前の堂々とした風格は薄れ、疲労と怒りが滲んでいる。

「榊原新之介か」

「お迎えに参りました」

「迎えか。捕縛ではないのか」

「同じことです」

 酒井は笑った。

 乾いた笑いだった。

「若いな」

「その言葉も、もう聞き飽きました」

「ならば別の言葉をやろう」

 酒井はゆっくり立ち上がろうとした。

 だが足が崩れた。

 新之介は手を貸さなかった。

 酒井も求めなかった。

「わしは逃げたのではない」

「では何を」

「消されかけた」

 源太郎の顔が変わった。

「誰に」

 酒井は笑みを消した。

「稲葉備中守」

 新之介は息を呑んだ。

 やはり。

 いや、まだ決めつけるな。

「証は」

「ある」

 酒井は懐を探った。

 だが、その手が止まる。

 木立の奥から、静かな足音がした。

 黒衣の僧が三人。

 先ほどの者とは違う。

 動きに無駄がない。

 源太郎が低く言った。

「囲まれました」

 酒井は苦く笑う。

「来たか」

 新之介は一歩前へ出た。

「誰の命だ」

 僧の一人が答えた。

「その男はすでに死んだ者。死人は語らぬ方がよい」

「語らせるために来た」

「ならば共に死ね」

 僧たちが刀を抜いた。

 寺の静寂が破られる。

 ◇

 戦いは短く、激しかった。

 僧兵まがいの男たちは、剣だけでなく体術にも長けていた。

 墓石を蹴り、木の幹を背にし、こちらの間合いを外してくる。

 源太郎が一人を受け止める。

 新之介は二人を相手にした。

 肩の傷が痛む。

 だが痛みに慣れ始めていた。

 それが危ういことも知っていた。

 痛みを忘れる者は死ぬ。

 痛みに囚われる者も死ぬ。

 新之介は息を整えた。

 一人目が上段から来る。

 受けない。

 身を沈め、相手の懐へ入る。

 峰で脇を打つ。

 二人目の刃が横から来る。

 新之介は足を滑らせ、墓石の影へ退く。

 刃は石を打った。

 火花。

 その隙に源太郎が縄を投げ、一人の足に絡めた。

「榊原様!」

「承知!」

 新之介の刀が相手の手首を裂く。

 刀が落ちる。

 残る一人は酒井へ向かった。

 酒井は逃げない。

 いや、逃げられない。

 刃が迫る。

 新之介は間に合わぬ。

 その時、木刀が飛んできた。

 僧の腕を打つ。

 黒川玄斎だった。

「先生!」

「寺で大声を出すな」

 玄斎は平然と言った。

 だが顔色は悪い。

 昨日の傷が響いているのだろう。

 それでも木刀を拾い上げ、最後の僧を一撃で倒した。

「まったく、年寄りを休ませぬ弟子だ」

「なぜここへ」

「勘だ」

 玄斎は短く答えた。

 それ以上、理由はいらなかった。

 ◇

 捕えた僧たちは、今度こそ毒を含む前に縛られた。

 源太郎が奉行所の応援を呼びに走る。

 新之介は酒井へ向き直った。

「証を」

 酒井はしばらく新之介を見つめた。

「わしを助けるのか」

「あなたを助けたいわけではありません」

「では」

「真実を死なせたくないだけです」

 酒井は目を閉じた。

「戸田が好みそうな言葉だ」

 懐から小さな筒を取り出す。

 中には細く巻かれた書状があった。

 新之介は開く。

 そこには、稲葉備中守の名で酒井丹波守へ宛てた密命が記されていた。

 借財整理を急ぐ戸田を押さえよ。

 必要なら、浪人騒ぎを利用せよ。

 ただし老中家の名は一切残すな。

 最後に一文。

 ――事が漏れた折は、酒井丹波守一身の不始末として処す。

 新之介は息を吐いた。

 酒井は最初から切り捨てられる駒だった。

「なぜ今まで出さなかったのです」

「出せばわしも終わる」

「今は」

「もう終わっている」

 酒井は寛永寺の空を見上げた。

「ならば、せめて誰がわしを終わらせたか残しておきたい」

 それは正義ではなかった。

 悔恨でもない。

 ただの意地。

 だが、その意地が真実を運ぶこともある。

 新之介は書状を懐に収めた。

「戻ります」

 酒井は頷いた。

「急げ。評定が終われば、稲葉はすべてを閉じる」

「あなたは」

「歩ける」

 酒井はよろめきながら立った。

「まだ死ぬには早い。戸田の前で一つ、言わねばならぬことがある」

 ◇

 寛永寺を出る頃、空は高く晴れていた。

 参詣人たちは何事もなかったように歩き、寺の鐘が静かに鳴っている。

 その平穏の裏で、いま幕府の根を揺らす証が一通、懐に収められている。

 新之介は馬に乗った。

 酒井は別の馬へ乗せられ、源太郎が横につく。

 玄斎は地上から見上げた。

「わしは後から行く」

「先生、また置いていくつもりですか」

「今度は本当に疲れた」

「無理はなさらず」

「それをお前が言うか」

 玄斎は笑った。

 新之介も一瞬だけ笑った。

 だがすぐに表情を引き締める。

 評定の間では、戸田備前守が時間を稼いでいる。

 父・忠左衛門もそこにいる。

 稲葉備中守は、もはや逃げ道を閉じようとしているはずだ。

 急がねばならない。

 新之介は手綱を握った。

「江戸城へ」

 馬が走り出す。

 上野の山を下り、江戸の町へ戻る。

 この一通の書状が、政の流れを変えるか。

 あるいは、さらなる血を呼ぶか。

 答えは城の中にある。

 新之介は前だけを見た。

 もう、武士の闇から目を逸らすことはできなかった。

(第二十三章へ続く)

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