第二十一章 白日の評定
暁の鐘が、江戸城の濠に静かに響いていた。
薄く立ちこめた朝霧が石垣を包み、城門へ向かう武士たちの姿を淡く霞ませている。
新之介は城門の前で足を止めた。
胸に抱えた風呂敷には、鷹見静山が遺した記録が収められている。
紙でありながら、その重みは一人の武士を支えるには余りあるものだった。
隣には忠左衛門。
肩の傷はまだ癒えず、顔色も優れない。
しかし姿勢は崩れていない。
玄斎は木刀を携え、門の外で見送ることになっていた。
「ここから先は、お前の役目だ」
玄斎が静かに言う。
「先生は」
「城の中までは入れぬ」
老人は苦笑した。
「武士の争いは、最後は武士が片をつけるものだ」
新之介は深く頭を下げた。
「必ず戻ります」
「戻れ」
それだけだった。
余計な励ましはない。
それが玄斎らしかった。
◇
評定の間には、すでに重臣たちが顔を揃えていた。
空気は張り詰め、誰一人として無駄口を叩かない。
酒井丹波守は捕縛されたまま別室に置かれている。
しかし、その席は空いたままだった。
まるで、そこに見えぬ影だけが座しているようだった。
老中首座・稲葉備中守は静かに一同を見回した。
年老いてなお眼光は鋭く、その顔から感情は読み取れない。
「戸田備前守」
低い声が響く。
「体調が優れぬと聞く」
戸田はゆっくり立ち上がった。
「優れませぬ」
「ならば評定は延期でもよい」
「いや」
戸田は首を振った。
「今日でなければなりませぬ」
稲葉は僅かに眉を動かした。
「申せ」
戸田は新之介を振り返った。
「榊原新之介」
「はっ」
「前へ」
新之介は一歩進み出た。
その瞬間、部屋中の視線が集まる。
若い勘定方役人が評定の場へ立つなど、本来ならあり得ない。
ざわめきが起きた。
「若輩者ではないか」
「何事だ」
戸田は静かに言った。
「証を持つ者に身分はございませぬ」
ざわめきは止まらなかったが、誰も戸田の言葉を遮れなかった。
新之介は風呂敷を解いた。
巻物。
帳面。
書状。
一つずつ畳の上へ並べる。
「これらは、鷹見静山殿が遺された記録でございます」
稲葉の目が細くなった。
「鷹見……」
「二十年前に閉じられた鷹見塾にて記されたものです」
新之介は最初の巻物を開いた。
「旗本借財の増加について」
数字を読み上げる。
十年前。
五年前。
現在。
借財は倍以上に膨らみ、その多くが札差を通じている。
続いて、札差から勘定方への金の流れ。
さらに、一部老中家臣への献金。
部屋は静まり返っていた。
数字は感情を持たない。
だからこそ逃げられない。
◇
読み進めるうち、一人の老中が口を開いた。
「榊原」
「はっ」
「その帳面が真である証は」
新之介は迷わず答えた。
「こちらにございます」
大黒屋宗兵衛の裏帳簿。
佐吉の証言。
水野監物の自白。
村垣平八郎の書状。
一つずつ照合していく。
数字は一致した。
日付も一致した。
花押も一致した。
反論の余地は少しずつ失われていく。
その時だった。
稲葉備中守が口を開いた。
「見事だ」
部屋中が息を呑む。
「これほど揃えば、疑うことは難しい」
新之介は胸を撫で下ろしかけた。
だが、その次の言葉で空気が変わる。
「だが」
稲葉はゆっくり立ち上がる。
「これは酒井丹波守個人の罪であろう」
戸田の表情が険しくなる。
「備中守」
「老中まで疑う証には足らぬ」
「鷹見静山の記録には」
「死人の覚え書きだ」
稲葉は冷静だった。
「公儀は死人の推測で動かぬ」
新之介は唇を噛んだ。
予想していた。
ここで切り捨てられることを。
だが戸田は慌てなかった。
「榊原」
「はい」
「最後を」
新之介は一番下にあった小さな封を開いた。
そこには鷹見静山の自筆で、一文だけ記されていた。
――政は人を裁く前に、己を裁け。
その裏には、花押があった。
そしてもう一枚。
老中首座・稲葉備中守、自筆の誓紙。
二十年前、鷹見静山へ改革案の提出を依頼した際の書付だった。
稲葉の顔色が変わる。
忠左衛門が静かに言った。
「鷹見先生は、あなたに望みを託しておられた」
部屋は静まり返った。
稲葉はその書付を見つめ、長く黙った。
やがて深く息を吐く。
「……忘れてはおらぬ」
その声は初めて年老いた人のものだった。
「だが、改革を急げば幕府は割れる」
戸田が答える。
「急がねば、内から腐る」
二人の視線が交わる。
長い年月を政に費やした者同士の沈黙だった。
◇
その時、廊下で激しい物音がした。
障子が勢いよく開く。
源太郎が飛び込んできた。
「戸田様!」
「何事だ」
「酒井丹波守が逃亡しました!」
評定の間に緊張が走る。
「護送中、襲撃を受けまして」
「誰の仕業だ」
「分かりませぬ」
新之介は直感した。
口封じ。
酒井を生かしておけない者がまだいる。
戸田は立ち上がった。
「榊原」
「はい」
「追え」
「評定は」
「ここは私が預かる」
忠左衛門も頷いた。
「行け」
新之介は深く一礼し、源太郎とともに評定の間を飛び出した。
廊下を駆け抜ける。
城内は騒然としていた。
門へ向かう途中、血痕が点々と続いている。
「こちらです!」
同心が叫ぶ。
血は裏門へ続いていた。
門は半開き。
外には馬の蹄の跡。
そして倒れている護送役。
新之介は膝をつく。
「まだ息がある」
護送役は苦しげに目を開いた。
「……西」
「西?」
「上野……寛永寺……」
それだけ言って意識を失った。
源太郎が顔を上げる。
「寛永寺です」
「なぜあそこへ」
新之介はすぐに答えへ辿り着いた。
寛永寺は徳川家の菩提寺。
広い境内。
多くの僧。
そして裏山へ続く道。
逃げ隠れするには格好の場所だった。
「急ぐぞ」
二人は馬へ飛び乗った。
江戸城の門を抜ける。
朝日がようやく江戸の町を照らし始めていた。
評定はまだ終わっていない。
政の戦いも終わっていない。
だが、その裏ではなお血が流れている。
酒井丹波守は何を知り、誰に会おうとしているのか。
その答えが、寛永寺で待っていた。
(第二十二章へ続く)

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