上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第十六章

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第十六章 評定の場

 評定の間に、証人たちが並んだ。

 水野監物。

 大黒屋宗兵衛。

 佐吉。

 松井弥十郎。

 そして榊原忠左衛門。

 戸田備前守は毒に顔色を失いながらも、上座に座した。

 酒井丹波守は静かだった。

 まるで己が裁かれる側ではないかのように、背筋を伸ばしている。

「始めよう」

 戸田が言った。

 最初に口を開いたのは佐吉だった。

 声は震えていた。

 だが逃げなかった。

「私は大黒屋宗兵衛様の命で、裏帳簿を書いておりました」

「誰へ金を流した」

「水野監物様、大久保主膳様、浪人衆……そして酒井丹波守様の御用人へ」

 酒井は動かない。

 次に大黒屋が口を開いた。

「すべては商いでございます」

「商い?」

 戸田の声が低くなる。

「火を放ち、人を斬らせ、証人を消す。それも商いか」

 大黒屋は顔を伏せた。

「私は命じられただけで……」

「誰に」

 大黒屋は酒井を見た。

 だがすぐに目を逸らした。

「村垣平八郎様に」

 その名が出た瞬間、部屋の空気が変わった。

 酒井は初めて小さく笑った。

「家臣が勝手にやったことだ」

 戸田は言った。

「そう申すと思った」

 新之介は懐から花押入りの書付を出した。

「では、この書付は」

「偽だ」

「佐吉が控えを持っております」

「偽を作る者は控えも作る」

 酒井の声は揺るがない。

 証がある。

 証人もいる。

 それでも酒井は崩れなかった。

 武士の世では、身分もまた盾となる。

 新之介はその重さを思い知った。

 その時、忠左衛門が進み出た。

「酒井殿」

「何かな、榊原」

「二十年前、鷹見塾を潰した米蔵不正にも、そなたは関わっておられたな」

 酒井の目が細くなった。

「昔話か」

「昔話ではない。すべてはそこから始まった」

 忠左衛門は続けた。

「矢代左馬之助は、その不正で友を失った。村垣もまた、そこで道を誤った。私も逃げた」

「それがどうした」

「そなたは昔から同じことをしている。家を守る、幕府を守ると申して、不正を隠してきた」

 酒井は静かに立ち上がった。

「ならば問おう」

 その声は、評定の間全体に響いた。

「不正をすべて暴けば、幕府は保つのか」

 誰もすぐには答えなかった。

「旗本の半ばは借財に沈んでいる。札差を潰せば金が止まる。金が止まれば米が動かぬ。米が動かねば江戸は飢える」

 酒井は新之介を見た。

「お前たちは正しさを振りかざす。だが正しさだけで天下は治まらぬ」

 新之介は静かに答えた。

「正しさを捨てても、天下は治まりません」

 酒井の顔がわずかに歪んだ。

「青い」

「はい」

 新之介は認めた。

「ですが、青さを捨てた時、武士は何を頼りに刀を差すのでしょう」

 沈黙が落ちた。

 戸田がゆっくり口を開く。

「酒井殿。そなたの申すことにも理はある」

 酒井は戸田を見た。

「だが、その理で人を殺した時、そなたは政を失った」

 戸田の声は弱い。

 しかし鋭かった。

「政とは、汚れを隠すことではない。汚れを見たうえで、なお民を飢えさせぬ道を探すことだ」

 酒井は答えなかった。

 その時、廊下の外で騒ぎが起こった。

「村垣平八郎が現れました!」

 源太郎が叫んだ。

 次の瞬間、襖が開き、血まみれの村垣が姿を現した。

 逃げたはずの男である。

 手には刀。

 だが、もう戦う力はほとんど残っていなかった。

「丹波守様……」

 村垣はよろめきながら進む。

 酒井の顔色が初めて変わった。

「なぜ来た」

「すべて……終わりに」

 村垣は懐から一通の書状を出した。

「これは……酒井様が私へ直に下された命の書付」

 酒井が叫んだ。

「村垣!」

「私は……鷹見の門で誓った武士ではなかった」

 村垣は新之介を見た。

「お前に負けたのではない。昔の自分に負けた」

 そう言って、畳に崩れた。

 源太郎が書状を拾い、戸田へ渡す。

 戸田は読み終えると、酒井へ向けて置いた。

「これでも偽と申すか」

 酒井は沈黙した。

 長い沈黙だった。

 やがて酒井は座した。

「……わしは幕府を守ろうとした」

「それは裁きの場で申されよ」

 戸田が言った。

 酒井丹波守は、ついに捕縛された。

 しかし勝利の声は上がらなかった。

 評定の間には、ただ重い疲労だけが残った。

 新之介は村垣のそばに膝をついた。

 村垣はまだ息があった。

「榊原……」

「はい」

「武士を……正せると思うか」

 新之介は答えた。

「一人では無理です」

 村垣はかすかに笑った。

「よい答えだ」

 それが最期だった。

 村垣平八郎は、静かに息を引き取った。

 戸田は目を閉じた。

「多くが死んだ」

 誰も答えなかった。

「だが、まだ終わりではない。帳面にある名を一つずつ改めねばならぬ」

 新之介は頭を下げた。

「お手伝いいたします」

「覚悟はあるか」

「あります」

「家名も傷つくぞ」

「それでも」

 戸田は頷いた。

「ならば、榊原新之介。そなたには勘定方の影を洗ってもらう」

 新之介は深く一礼した。

 刀で斬る戦いは終わりに近づいた。

 だが、帳面を斬る戦いはこれから始まる。

 江戸の外では、夕暮れが城の瓦を赤く染めていた。

 泰平の世は、美しい。

 だからこそ、その下に潜む腐りを見逃してはならない。

 新之介はそう思った。

(第十七章へ続く)

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