第十五章 米蔵の矢雨
矢は、米俵に深々と突き刺さった。
乾いた藁が裂け、白い米粒が床へこぼれる。
新之介は身を伏せながら、父・忠左衛門の方へ目を走らせた。
村垣平八郎はすでに忠左衛門を盾にし、俵の陰へ退いている。
「卑怯な!」
源太郎が叫んだ。
村垣は笑った。
「卑怯とは便利な言葉だ。勝てぬ者が口にする」
再び屋根の上で弓弦が鳴った。
「来るぞ!」
玄斎の声。
矢が降る。
新之介は刀で一本を払った。
だが、すべては防げない。
米俵に当たり、柱に刺さり、床に跳ねる。
ここは蔵である。
火を放たれれば終わる。
敵はまだ火を使っていない。
それは、この蔵を焼く気がないからだ。
つまり、ここにある何かを残したいのだ。
新之介はそう読んだ。
「源太郎、上だ!」
「承知!」
源太郎は蔵の梯子を見つけ、梁へ駆け上がった。
屋根裏に潜む弓手を止めるためである。
玄斎は忠左衛門の方へ目を向けた。
「新之介、村垣はわしが見る」
「父上は」
「お前が取り返せ」
新之介は頷いた。
床にこぼれた米を踏み、低く走る。
村垣の刃が待っていた。
鋭い一撃。
新之介は受ける。
重い。
「父を助けたいか」
「当然だ」
「ならば帳面を置け」
「断る」
新之介は踏み込んだ。
鍔迫り合いになる。
村垣の目は冷たい。
「強情は家を滅ぼすぞ」
「家を守るために真実を捨てるなら、その家はもう滅びている」
村垣の顔が歪んだ。
「若造が」
刃が弾かれる。
新之介は肩の痛みに耐え、もう一度構えた。
その時、忠左衛門が動いた。
縛られた両手で村垣の腕に体当たりしたのである。
「父上!」
「今だ!」
新之介は迷わなかった。
村垣の刀を弾き、父の縄を斬る。
忠左衛門は崩れた。
だが生きている。
新之介は父を支えた。
「帳面は」
「守っています」
「ならばよい」
忠左衛門は微かに笑った。
その一瞬に、村垣は後ろへ跳んだ。
「逃がすか!」
源太郎の声が上から響く。
屋根裏では捕り方と弓手がもみ合っていた。
弓手の一人が落ちてくる。
玄斎が木刀で受け流し、床へ転がした。
蔵の外で怒号が広がる。
奉行所の手勢が到着したのだ。
村垣は舌打ちした。
「潮時か」
「村垣!」
新之介が叫ぶ。
村垣は米俵の奥にある隠し戸を開けた。
地下へ続く階段が現れる。
「追いたければ来い。だが、下にはもっと大きな闇がある」
そう言い残し、村垣は闇へ消えた。
新之介は追おうとした。
だが忠左衛門が腕を掴む。
「待て」
「父上」
「この蔵を改めよ」
「しかし村垣が」
「逃げ道の先より、ここに残したものの方が重い」
その言葉に、新之介は足を止めた。
父の勘は正しい。
敵が火を使わなかった理由。
それが、この蔵にある。
◇
奉行所の手勢が蔵へ入った。
源太郎は屋根裏から降り、捕えた弓手を引き渡した。
「村垣は地下道へ」
「追手を出します」
「いや、深追いするな」
新之介は言った。
「罠かもしれぬ」
源太郎は頷いた。
玄斎は米俵を調べていた。
「妙だな」
「何がです」
「この俵、重さが違う」
新之介が近づく。
俵の縄を切る。
中から米ではなく、木箱が現れた。
蓋を開ける。
小判。
それも一箱ではない。
米俵に偽装された金箱が、いくつも隠されていた。
源太郎が息を呑んだ。
「これは……」
「借財整理を潰すための金か」
忠左衛門が苦しげに言った。
「いや、それだけではない」
新之介は箱の底に挟まれた紙を見つけた。
そこには諸家の名と金額が記されている。
旗本、大名用人、札差、勘定方。
そして、酒井丹波守の花押。
今度は間違いない。
写しではない。
本物の証だった。
源太郎は声を震わせた。
「これがあれば……」
「酒井へ届く」
新之介は言った。
だが忠左衛門は首を振った。
「届くだけでは足りぬ」
「なぜです」
「酒井ほどの者は、証だけでは斬れぬ。評定の場で認めさせねばならぬ」
新之介は黙った。
武士の世では、真実だけでは足りない。
真実を通す場と力が要る。
「戸田様へ届けます」
「急げ」
忠左衛門は息を整えた。
「この蔵を見つけたことを、敵も知っている。次は戸田様を狙う」
その時、蔵の外から若い同心が駆け込んできた。
「庄司様!」
「何だ」
「江戸城より知らせ! 戸田備前守様が急病にて倒れられたとのこと!」
新之介の胸が凍った。
「毒か」
玄斎が低く言った。
源太郎は拳を握る。
「すぐに城へ」
「その前に証を守る」
新之介は金箱の中から花押入りの書付を取り出し、懐へ入れた。
残りは奉行所に預ける。
「源太郎、蔵を固めろ」
「榊原様は」
「城へ行く」
忠左衛門が立ち上がろうとした。
「私も」
「父上はお残りください」
「ならぬ」
忠左衛門は新之介を見た。
「酒井丹波守は、私の名も使った。私が行かねばならぬ」
新之介は反論できなかった。
父の顔には、これまで見たことのない覚悟があった。
逃げぬ者の顔だった。
◇
江戸城へ向かう道中、忠左衛門は駕籠に乗せられた。
新之介、玄斎、源太郎が付き添う。
奉行所の手勢も数名。
小石川から城までは近い。
だが、その短い道が遠く感じられた。
途中、町の人々は何も知らずに暮らしている。
米を買い、魚を担ぎ、子を叱り、笑う。
この営みの上に、武士の政治はある。
それを忘れた時、武士はただの刀持ちになる。
新之介は懐の書付を押さえた。
紙一枚。
だが、その重さは刀よりも重かった。
城門に着くと、すでに物々しい警固が敷かれていた。
戸田備前守が倒れたことで、城内は騒然としているらしい。
門番が新之介たちを止めた。
「何用か」
「榊原新之介。戸田様へ急ぎの証を届ける」
「戸田様はお倒れだ。面会は許されぬ」
その時、駕籠の中から忠左衛門が声を出した。
「榊原忠左衛門である。通せ」
門番は顔を変えた。
忠左衛門は傷を負いながらも、かつて勘定方で信を得た男である。
門は開いた。
◇
城内の廊下は、前日よりもさらに重かった。
役人たちの足音が早い。
誰もが何かを隠しているように見える。
戸田備前守は奥の控えの間に伏していた。
顔色は悪いが、意識はあった。
「榊原……」
かすれた声。
「戸田様、証を持参しました」
新之介は書付を差し出した。
戸田はそれを読み、目を細めた。
「酒井の花押か」
「はい」
「ようやく尾を掴んだな」
「お体は」
「毒だろう。だが、まだ死なぬ」
戸田は笑った。
「死ぬには、少し仕事が残っている」
忠左衛門が畳に手をついて頭を下げた。
「戸田様、榊原家の名も不正に使われました。責は私にございます」
「顔を上げよ、忠左衛門」
「しかし」
「責を取るなら、生きて取れ」
戸田の声は弱いが鋭かった。
「死んで逃げる者は多い。生きて恥を受ける者は少ない」
忠左衛門の目が潤んだ。
「ありがたきお言葉」
その時、部屋の外で声がした。
「酒井丹波守様、ご到着」
空気が一変した。
戸田は上体を起こした。
「来たか」
新之介は刀の柄に手を置く。
だが戸田が制した。
「ここでは抜くな」
「はい」
襖が開く。
酒井丹波守が入ってきた。
五十半ばの男で、堂々とした風格がある。
目は穏やかだが、奥が読めない。
「戸田殿、お加減が悪いと聞き、見舞いに参った」
「それは痛み入る」
戸田は皮肉を隠さなかった。
酒井は新之介たちを見た。
「騒がしい見舞いの席だな」
「騒がしくしたのは誰かな」
「何のことやら」
戸田は書付を畳へ置いた。
「酒井殿、この花押に見覚えは」
酒井はちらりと見た。
表情は変わらない。
「偽であろう」
「まだ中身も見ておらぬ」
「見ずとも分かる」
沈黙。
新之介は酒井の手元を見た。
震えはない。
この男は簡単には崩れない。
酒井は静かに言った。
「戸田殿。借財整理など、急ぎすぎるから毒を盛られるのだ」
「忠告か」
「世を変える時は、世に許しを乞うものだ」
「腐りに許しを乞えば、腐りは広がる」
「正義で米は炊けぬ」
酒井の声に重みがあった。
「旗本が潰れれば、家臣が路頭に迷う。札差を締めれば金が止まる。大名家まで揺れれば、天下にひびが入る。わしはそれを防いでいる」
新之介は思わず口を開いた。
「そのために人を殺したのですか」
酒井の目が初めて新之介へ向いた。
「若いな」
「よく言われます」
「若さは時に罪だ。見えているものだけを真実と思う」
「見えぬものを理由に、見えている死を軽んじる方が罪です」
酒井の目が細くなった。
戸田が小さく笑った。
「酒井殿、この若者はなかなか退かぬぞ」
「そのようだ」
その時、廊下で足音が響いた。
水野監物が引き立てられてきたのである。
さらに大黒屋宗兵衛、佐吉、松井弥十郎も続く。
源太郎がすべての証人を連れてきたのだ。
酒井の表情が、わずかに変わった。
戸田は言った。
「評定を開く」
「今ここでか」
「今ここでだ」
戸田は毒に苦しみながらも立ち上がった。
「酒井丹波守。そなたには、皆の前で答えてもらう」
酒井はしばらく黙っていた。
やがて薄く笑った。
「よかろう」
新之介はその笑みに寒気を覚えた。
追い詰めたはずの男が、まだ負けた顔をしていない。
評定の場。
証人。
帳面。
花押。
すべてが揃った。
だが、武士の世の闇は、証だけで晴れるほど浅くはなかった。
酒井丹波守は、静かに座した。
まるで、これから裁かれるのは自分ではなく、戸田や新之介の方だと言わんばかりに。
(第十六章へ続く)

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