第七章 鷹見の門
登城の日が明後日に繰り上がった。
その知らせは、榊原家の空気を一変させた。
いつもなら、書院には静かな筆の音があり、台所には朝夕の支度の音があり、庭には玄斎の木刀が風を切る音がある。
だがこの日、屋敷に満ちていたのは沈黙であった。
新之介は父・忠左衛門の前に座していた。
膝の前には、鷹の根付が置かれている。
「父上。もう、話していただかねばなりません」
忠左衛門はしばらく黙っていた。
だが、やがて低く息を吐いた。
「鷹見静山は、変わった男であった」
「剣客ですか」
「剣も遣った。だが本分は学問にあった」
「学問」
「武士とは何か。それを若い者に考えさせる男だった」
忠左衛門の目は、遠い昔を見ていた。
「鷹見塾には、家禄の多寡を問わず多くの若侍が集まった。旗本、御家人、浪人、寺侍。皆、世を良くしたいと考えていた」
「矢代も」
「ああ。矢代左馬之助は、その中でも抜きん出ていた」
「才があったのですね」
「才だけではない。熱があった」
忠左衛門は根付に目を落とした。
「だが、熱は人を照らすこともあれば、焼き尽くすこともある」
新之介は黙って聞いた。
「ある時、塾の門人の一人が不正を告発した」
「不正?」
「米蔵の出納に関わる不正だ。飢饉の折、民へ回すはずの米が消えた」
新之介の背筋が伸びた。
勘定所に仕える者として、聞き捨てならぬ話である。
「その不正は潰された」
「なぜです」
「関わった者が大きすぎた」
忠左衛門は苦い顔をした。
「告発した門人は、逆に罪を着せられて切腹した」
「……」
「鷹見静山は、その責を負って塾を閉じた」
「矢代は」
「変わった」
父の声は重かった。
「それまでの矢代は、武士を信じていた。だがその日から、武士そのものを憎むようになった」
新之介は、矢代の目を思い出した。
憎しみではなく、底のない闇。
その闇は一夜で生まれたものではなかった。
「父上は、なぜ何もしなかったのです」
忠左衛門の顔がわずかに強張った。
新之介は続けた。
「同門が死に、師が塾を閉じ、矢代が道を外れた。父上は、なぜ」
「できなかった」
静かな答えだった。
「当時の私は若かった。家を背負う覚悟も、役目を貫く力もなかった」
「それで見捨てたのですか」
言ってから、新之介は自分の言葉の鋭さに気づいた。
だが忠左衛門は怒らなかった。
「そうだ」
父ははっきり言った。
「私は見捨てた」
沈黙。
庭の松葉が風に揺れる。
「その悔いが、いまも残っている」
忠左衛門は新之介を見た。
「だからお前には、同じ迷いをさせたくなかった」
「父上」
「だが、避けさせることもできぬらしい」
父は根付を手に取った。
「矢代は、私にも問うているのだろう。あの日逃げたお前に、今度はどうするのかと」
その声には、父としてではなく、一人の武士としての苦しみがあった。
◇
その日の午後、新之介は勘定所へ向かった。
登城日が繰り上がった理由を探るためである。
勘定所の役人たちは慌ただしかった。
各所へ書状が飛び、帳面が積まれ、使い番が出入りしている。
新之介は同僚の松井弥十郎を呼び止めた。
「登城日が繰り上がった理由を知っているか」
「詳しくは知らん」
弥十郎は声を潜めた。
「だが、若年寄の一人が急ぎの評定を求めたらしい」
「誰だ」
「戸田備前守様」
新之介はその名を胸に刻んだ。
「戸田様は何を扱っている」
「諸国の倹約令と、旗本の借財整理だ」
「借財整理……」
それは武士にとって触れられたくない傷である。
旗本、御家人の多くは借金に苦しんでいた。
家禄は米で支給される。
だが江戸で暮らすには金がいる。
米を札差に売り、前借りし、利に追われる。
泰平の世で刀は飾りとなり、武士は金に縛られていた。
「その評定で、誰か困る者がいるのか」
「大勢いる」
弥十郎は苦笑した。
「困らぬ旗本を探す方が難しい」
新之介は唇を結んだ。
矢代の言葉が蘇る。
――刀を魂と呼びながら、銭に膝を折る者ども。
矢代は借財に苦しむ武士の不満を利用している。
だがそれだけではない。
若年寄暗殺は、借財整理そのものを潰すためかもしれない。
背後には、札差、旗本、大名、幕府役人。
複数の利害が絡む。
敵は矢代一人ではない。
◇
夕刻、新之介は源太郎と合流した。
場所は神田明神の裏手である。
源太郎は町絵図を広げた。
「戸田備前守様の登城路を調べました」
「どこを通る」
「屋敷は小石川。通常なら筋違橋を渡り、神田を抜けて江戸城へ向かいます」
「人通りは」
「多いです」
「襲うならどこだ」
源太郎は指で一点を示した。
「筋違橋」
「なぜ」
「橋の上では駕籠の足が鈍ります。左右に逃げ道も限られる」
新之介は頷いた。
「だが、敵もそれは分かっている」
「ええ。だからこそ、あからさますぎます」
「囮か」
「おそらく」
二人は黙って絵図を見つめた。
矢代は簡単には読ませない。
ならば、橋を見せて別の場所で仕掛ける。
「駕籠を狙うとは限らぬ」
新之介が言った。
「では」
「登城前夜に襲うかもしれぬ」
源太郎の顔色が変わった。
「屋敷ですか」
「あるいは、屋敷へ届く書状、人足、供侍」
「毒もあり得ます」
「そうだ」
剣だけを見ていては負ける。
矢代の剣は、すでに政治の中へ入り込んでいる。
◇
その夜。
榊原家に思わぬ客が訪れた。
大久保主膳である。
顔合わせ以来の来訪であった。
父・忠左衛門は書院で迎えた。
新之介も同席を許された。
「夜分に失礼いたします」
主膳は丁寧に頭を下げた。
その物腰は穏やかである。
だが新之介は、その奥に隠された緊張を感じ取った。
「志乃殿は」
新之介が口にすると、主膳の眉がわずかに動いた。
「娘は体調を崩し、奥で休んでおります」
「本当にそうですか」
「何をお疑いか」
忠左衛門が静かに言った。
「主膳殿。ここでは腹を割って話されよ」
主膳は笑みを消した。
長い沈黙の後、袖から一通の書状を出した。
「娘を返していただきたい」
新之介は目を見開いた。
「返す?」
「志乃は矢代に奪われたのではない」
主膳の声は掠れていた。
「あれは、自ら矢代のもとへ行った」
「なぜ」
「私を止めるためだ」
主膳は初めて苦悩を見せた。
「私は矢代に金を出した。だが暗殺までは望んでおらぬ」
「では何を望んだ」
忠左衛門が問う。
「戸田備前守の評定を潰すことだ」
主膳は吐き出すように言った。
「借財整理が進めば、大久保家は破綻する。家臣も路頭に迷う」
「そのために浪人を使ったのか」
「脅しのつもりだった」
新之介は怒りを抑えた。
「人が死んでいます」
「分かっている」
「分かっておられぬ」
新之介の声が低くなった。
「家を守るために始めたことが、江戸を焼き、若年寄を狙うところまで来ている」
主膳はうなだれた。
「だから来た」
「矢代はどこにいる」
「分からぬ」
「志乃殿は」
「分からぬ」
新之介は失望を隠せなかった。
だが主膳は一枚の紙を差し出した。
「ただ、これが届いた」
紙には矢代の筆跡で短く書かれていた。
――鷹は巣へ帰る。
忠左衛門の顔が変わった。
「鷹見塾跡だ」
◇
鷹見塾跡は、谷中の外れにあった。
かつて若侍たちが通った小さな学舎は、今は荒れ寺のように朽ちているという。
新之介、玄斎、源太郎、そして忠左衛門。
四人は夜半、そこへ向かった。
父が同行を申し出た時、新之介は驚いた。
だが忠左衛門は言った。
「これは私の過去でもある」
止めることはできなかった。
谷中の道は静かだった。
寺の屋根が闇に沈み、墓石が月明かりに白く浮かぶ。
やがて、竹林の奥に古い門が見えた。
門札は朽ちていた。
だが、わずかに読める。
鷹見塾。
忠左衛門が門の前で足を止めた。
「二十年ぶりだ」
その声には、若き日の悔いが滲んでいた。
新之介は門を押した。
軋む音。
中は荒れていた。
庭には雑草が生い茂り、講堂の障子は破れている。
だが中央には、灯がともっていた。
誰かがいる。
四人は静かに近づいた。
講堂の中に、一人の女が座っていた。
志乃である。
縛られてはいない。
だが顔は青ざめていた。
「志乃殿!」
新之介が駆け寄ろうとする。
その前に、矢代左馬之助が奥から現れた。
「よく来た、榊原忠左衛門」
矢代の目は、新之介ではなく父を見ていた。
「矢代」
忠左衛門が静かに名を呼んだ。
「久しいな」
「あの日以来だ」
「お前は変わった」
「お前は変わらぬ」
矢代は笑った。
「昔も今も、家と役目の陰に隠れている」
忠左衛門は反論しなかった。
「そうかもしれぬ」
「認めるのか」
「ああ」
父の声は静かだった。
「私は逃げた」
矢代の笑みが消えた。
「だが今夜は逃げぬ」
忠左衛門は一歩前へ出た。
「矢代。戸田様を狙うのはやめろ」
「やめれば何が変わる」
「何も変わらぬかもしれぬ」
「ならば斬る」
「斬っても変わらぬ」
矢代の目に怒りが宿った。
「黙れ」
「お前は世を正したいのではない。あの日死んだ者の仇を取りたいだけだ」
「黙れ!」
講堂の空気が震えた。
新之介は刀の柄に手をかける。
だが忠左衛門が手で制した。
「新之介、抜くな」
「父上」
「これは私が受けねばならぬ」
矢代はゆっくり刀を抜いた。
「ならば受けよ」
忠左衛門も刀を抜いた。
新之介は息を呑んだ。
父の剣を見るのは初めてだった。
静かな構え。
玄斎とは違う。
新之介とも違う。
戦うためではなく、逃げぬための構えだった。
次の瞬間、矢代が踏み込んだ。
速い。
忠左衛門は受けた。
火花が散る。
一合。
二合。
父は押されていた。
だが退かない。
矢代の刃が肩を裂いた。
血が飛ぶ。
「父上!」
「来るな!」
忠左衛門は叫んだ。
その声に、新之介は踏みとどまった。
矢代がさらに打ち込む。
忠左衛門は刀を落とした。
勝負はついた。
矢代の刃が父の喉元で止まる。
「なぜ抵抗せぬ」
矢代が問う。
忠左衛門は血を流しながら答えた。
「お前を斬る資格が、私にはない」
「ならば死ね」
「よい」
新之介の全身が凍った。
だが忠左衛門は続けた。
「だが、死ぬ前に一つだけ言わせろ」
矢代は無言で睨んだ。
「お前の怒りは正しい。だが、お前の刃は間違っている」
「……」
「武士が腐ったなら、武士が正せばよい。民を巻き込み、無関係な者を斬るな」
矢代の手が震えた。
その一瞬。
外から火矢が飛び込んだ。
講堂の壁に突き刺さる。
炎が上がる。
矢代の顔色が変わった。
「誰だ」
外から声が響いた。
「矢代左馬之助、役目は終わりだ」
黒装束の男たちが現れた。
しかし、それは誠心組ではない。
もっと統制の取れた動き。
武家の手勢であった。
源太郎が叫ぶ。
「別口です!」
矢代も裏切られたのだ。
新之介は瞬時に悟った。
矢代は利用されていた。
そして用済みになった。
講堂に火が回る。
志乃が咳き込む。
忠左衛門は膝をついたまま動けない。
新之介は刀を抜いた。
「父上を頼む!」
玄斎が頷く。
「行け!」
新之介は志乃へ駆け寄った。
その前に黒装束の男が立ちはだかる。
斬るしかない。
今度は迷わなかった。
新之介の刃が夜を裂いた。
鷹見塾の朽ちた講堂は、炎に包まれ始めていた。
過去の悔いも、現在の陰謀も、すべてを焼き尽くすかのように。
そしてその炎の中で、新之介は初めて知った。
敵は矢代だけではない。
矢代を使い、捨てようとする者こそが、江戸を揺るがす真の闇なのだと。
(第八章へ続く)

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