山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第八十九章

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――第八十九章 怖れを売る者――

 牧野家の怖れが言葉になった翌日、伊織は主水のもとへ呼ばれた。

 部屋へ入ると、主水は一枚の紙を机に置いていた。そこには、昨日とは違う筆でこう書かれていた。

 ――怖れを語らせる者は、家を弱くする。
 ――弱さを口にすれば、弱さは広がる。
 ――若名を守るには、静かに整えるほかなし。

 伊織は黙って読んだ。

「来ましたか」

「ああ」

 主水は短く答えた。

「牧野家の集まりを受けて、すぐに出た。つまり、こちらの動きを見ている者がいる」

「牧野家中に?」

「あるいは、家中から聞く者が外にいる」

 主水は目を細めた。

「次の相手は、噂を作る者ではない。怖れを買い、怖れを売る者だ」

「怖れを売る……」

「そうだ。人の怖れを集め、それを“秩序”の名で売る」

 伊織は、胸の奥に重いものを感じた。

 采女は若名を整えた。
 杉戸は点を打った。
 真壁は文を寝かせた。
 だが今度の相手は、もっと形がない。
 怖れを集め、それにもっともらしい言葉をつけて、また家中へ返す。
 まるで、濁った水を瓶に詰め、「これは薬だ」と売るようなものだ。

「名は」

 伊織が問う。

 主水は紙の隅を指した。

 そこに、小さな印があった。
 丸ではない。点でもない。
 小さな扇の形。

「扇屋宗庵」

 主水が言った。

「表向きは相談役だ。武家屋敷を回り、家中の揉め事や若君の教育について助言する。茶人とも、儒者とも、医師ともつかぬ顔をしている」

「采女と繋がっていますか」

「おそらくな」

 主水は言った。

「采女が整えた文の裏に、宗庵の言葉が混じっている。若い名は早く形を持つべし、病める名は奥にて澄む、弱さを口にすれば家が弱る――同じ匂いだ」

 伊織は紙を畳んだ。

「会います」

「会え」

 主水は言った。

「だが気をつけろ。宗庵は、刀を持たぬ。文も多くは残さぬ。相手の口から怖れを引き出し、それを相手自身の理に見せる」

「つまり」

「斬りにくい」

 新兵衛が横で吐き捨てた。

「そういう奴ばっかだな」

 主水は新兵衛を見た。

「だからお前も行け」

「俺が?」

「榊原だけでは、言葉に巻かれる。お前は、巻かれた時に笑え」

 新兵衛は一瞬ぽかんとし、それから笑った。

「なるほど。笑う役なら任せろ」


 扇屋宗庵は、浅草外れの小さな庵にいた。

 庵といっても貧しくはない。竹垣は整い、庭石はさりげなく置かれ、茶室のにじり口も手入れが行き届いている。目立たないが、金はかかっている。こういう場所には、人の悩みがよく集まる。

 宗庵は五十過ぎの男だった。

 頭は剃っていないが、僧のようでもあり、医師のようでもあり、学者のようでもある。どれでもない顔をしているから、どの家にも入れるのだろう。

「榊原伊織殿」

 宗庵は穏やかに頭を下げた。

「近ごろ、お名をよく聞きます」

「悪い方で、でしょう」

「名は、良くも悪くも歩くものです」

 宗庵は茶をすすめた。

「どうぞ。怖れを抱えたままでは、喉が乾きます」

 伊織は茶碗を見た。

「私が怖れていると?」

「怖れておいででしょう」

 宗庵は微笑んだ。

「ご自分の名が、人の口で違う形になることを」

 伊織は否定しなかった。

「怖れています」

「正直でよろしい」

「だが、その怖れをあなたに預ける気はありません」

 宗庵の目が、ほんの少しだけ細くなった。

「預ける、とは?」

「あなたは、人の怖れを預かる顔をしている。そして預かった怖れに、都合のよい名をつけて返す」

 新兵衛が横で口を挟んだ。

「怖がってる奴に“それは家のためだ”とか“秩序のためだ”とか言って売り返すんだろ。いい商売だな」

 宗庵は怒らなかった。

「恐れは、放っておけば乱れます。形を与えねば、人は立てませぬ」

「形を与えるのと、閉じ込めるのは違う」

 伊織が言った。

「牧野家で、怖れを口にさせましたな」

 宗庵は静かに言った。

「あれは危うい。家中の怖れを口に出せば、怖れは広がる」

「隠せば噂になる」

「噂の方が、まだ扱いやすい」

 その一言で、伊織は宗庵の芯を見た気がした。

「扱いやすい、か」

「人とは、扱わねばならぬものです」

 宗庵の声は穏やかだった。

「幼き者、病める者、未熟な者、怖れる者。皆をそのまま出せば、世は裂けます。だから形を与える。名を整える。怖れに居場所を与える」

「居場所ではない」

 伊織は低く言った。

「檻だ」

 宗庵は微笑んだまま首を振った。

「檻も、時には家になります」

 新兵衛が笑った。

「出たな。もっともらしいやつ」

 宗庵は初めて新兵衛を見た。

「あなたは笑っておられるが、家を守る者の苦労を知らぬ」

「知ってるぜ」

 新兵衛はあっさり言った。

「俺は家を持たねぇ。だから、家の名で人を縛る奴を見ると、余計によく分かる」

 宗庵の微笑みが、少しだけ薄くなった。


 伊織は懐から戻り帳の写しを出した。

「ここに、戻りはじめた者たちがいます」

 宗庵は紙を見たが、手には取らなかった。

「危うい帳です」

「なぜ」

「戻る、という言葉は甘い」

 宗庵は言った。

「人は戻ると言いながら、わがままへ流れる。清之進殿は荒さへ、伊之助殿は幼さへ、直之助殿は病の身勝手へ」

「違う」

「違いませぬ」

 宗庵の声が、初めて少し硬くなった。

「人をそのまま許せば、家は弱ります。弱った家は、外の風に倒れます。私はそれを幾度も見てきた」

 その言葉に、伊織は宗庵の中にも何かがあると感じた。

「あなたは、何を見た」

 宗庵は答えなかった。

「家が倒れたのか」

 宗庵の指が、わずかに茶碗へ触れた。

「昔のことです」

「その怖れを、今も売っているのですか」

 宗庵の目が冷えた。

「売っているのではない。教えているのです」

「自分の怖れを、人の家へ配っている」

 伊織の声は静かだった。

「あなたは怖れを預かっているのではない。自分の怖れで、人の怖れに形をつけている」

 沈黙が落ちた。

 庭の竹が風に鳴る。

 宗庵はしばらく黙り、やがて小さく笑った。

「榊原殿。あなたは、怖れを言葉にすれば人は戻ると思っておられる」

「思ってはいません」

「では?」

「言葉にしても、戻れぬ者はいる」

 伊織は答えた。

「だが言葉にしなければ、戻る道すら見えない」

 宗庵は、じっと伊織を見た。

「甘い」

「そうかもしれません」

「その甘さで、いずれ人を壊します」

「あなたの硬さも、人を壊している」

 宗庵は何も言わなかった。


 庵を出ると、新兵衛が大きく息を吐いた。

「斬れねぇな、あれは」

「ああ」

「だが放っとくと面倒だ」

「ああ」

 伊織は戻り帳の写しを懐へ戻した。

「宗庵は、悪だけでできていない」

「だから厄介なんだろ」

「そうだ」

 扇屋宗庵は怖れを売る。
 だが、その根にはおそらく、自分が昔見た“倒れた家”への怖れがある。
 その怖れが腐り、他人の家へ形を押しつける理になった。

 戻せるのか。
 それとも切るべきなのか。

 伊織にはまだ分からなかった。


 寺へ戻ると、お澪が戻り帳を開いた。

「扇屋宗庵、ですか」

「ああ」

 伊織はしばらく考え、言った。

「まだ戻り帳には書かぬ」

「点帳ですか」

「点帳にも、まだ濃くは書けぬ」

「では」

「余白だ」

 お澪は頷き、余白の端に小さく記した。

 ――扇屋宗庵。
 ――怖れを売る者。
 ――己の怖れを、人の家の形とする疑い。
 ――未詳。

 未詳。

 その二字が、今の宗庵にはふさわしかった。
 分かったつもりになれば、すぐに誤る。
 だが見逃せば、また若名が整えられていく。

 母が言った。

「怖れを売る人間は、怖れを食べて生きてるんだろうね」

「はい」

「なら、その人も腹が減ってるんだよ。別のものを食べる場所を知らないだけで」

 伊織は母を見た。

「戻せるでしょうか」

「さあね」

 母は味噌汁をよそいながら言った。

「でも、戻せるかどうか分からないうちは、急いで切らない方がいい」

 老僧が静かに頷いた。

「ただし、切る時は迷うな」

 伊織は深く息を吐いた。

 波瀾万丈の物語は、また新しい相手を得た。
 扇屋宗庵。
 怖れを売る者。
 人を戻す道の前に、最も静かで、最も厄介な商人が立ちはだかっていた。

(第90章につづく)

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