――第八十八章 噂を欲しがる者――
噂というものは、風に似ている。
誰が吹かせたのか分からぬうちに、障子の隙間を抜け、井戸端を渡り、茶屋の暖簾を揺らし、人の耳へ入る。だが風と違うのは、噂には必ず“欲しがる者”がいるということだった。
聞きたい者がいる。
信じたい者がいる。
誰かの名が落ちるのを、心のどこかで待っている者がいる。
主水の文には、そういう意味が込められていた。
――噂の出どころではなく、噂を欲しがる者を見よ。
伊織は翌朝、町へ出た。
新兵衛もついてきた。
今日は刀を振るためではない。
耳を使うためだった。
「噂を欲しがる奴ってのは、どんな顔してるんだ」
新兵衛が言った。
「嬉しそうな顔とは限らぬ」
「じゃあ何だ」
「心配そうな顔をしていることもある」
新兵衛は眉をひそめた。
「心配?」
「ああ。“大丈夫かねぇ”と言いながら、もっと詳しく聞きたがる」
新兵衛は、しばらく考え、それから苦い顔をした。
「いるな、そういう奴」
「いる」
伊織は答えた。
「善意の顔をして、噂に火をくべる」
まず二人は、茶屋へ入った。
町の噂は茶屋で湿り、武家の噂は取次ぎで乾く。
どちらも見る必要がある。
茶屋の隅では、女房たちが小声で話していた。
「榊原様って、若様方をそそのかしているって本当かしら」
「でも牧野様の若様は、前よりしっかりされたとか」
「それがまた怖いじゃないの。人が変わるっていうのは」
伊織は、茶を飲みながら黙って聞いた。
悪意だけではない。
変化への不安もある。
人は、誰かが戻る姿を見ても、素直に喜べないことがある。
昨日まで知っていた相手が変わると、自分の見ていた世界まで揺れるからだ。
新兵衛が低く言った。
「こいつらが欲しがってるのか」
「少し違う」
「何が」
「怖がっている」
伊織は言った。
「だが怖がる心は、噂を欲しがる」
茶屋を出ると、次は屋敷町の取次ぎ筋へ向かった。
そこでは、もっと冷たい噂が歩いていた。
「榊原は、主水殿の影らしい」
「若い家を乱している」
「だが三家とも、若様方は妙に強くなった」
「強い? いや、扱いにくくなっただけだ」
その言葉を聞いた時、伊織は足を止めた。
扱いにくくなっただけ。
それが、噂を欲しがる者の本音かもしれなかった。
若い名が自分で立つ。
病める名が奥から出る。
幼い名が幼いまま許される。
それは本人にとっては戻りであっても、周囲にとっては“扱いにくさ”になる。
だから、彼らは噂を欲しがる。
戻りを乱れと呼ぶために。
「分かった気がする」
伊織が呟いた。
「何が」
「噂を欲しがるのは、変わられたくない者だ」
新兵衛は黙った。
「人が戻ると、周りも変わらねばならない。待つ者も、支える者も、笑う者も、今までのままではいられない」
「だから噂で引き戻すのか」
「ああ」
伊織は静かに頷いた。
「“あいつは危うい”“あれは乱れだ”と言えば、戻ろうとする者を元の場所へ押し戻せる」
その時、向こうの角から一人の男が出てきた。
小柄な武家奉公人風の男。
顔に特徴はない。
だが、手に小さな文束を持っている。
その文束を、取次ぎの者へ一枚ずつ渡していた。
新兵衛が低く言った。
「あれだな」
「たぶん」
二人は後を追った。
男は速くは歩かない。
むしろ、誰に見られても困らないような顔で歩く。
噂を配る者は、隠れすぎては目立つ。
自然に歩くのが一番よい。
男は小さな裏長屋へ入った。
そこで待っていたのは、意外な人物だった。
牧野左内だった。
「左内殿……」
伊織は声を漏らした。
新兵衛が刀の柄に手をかける。
「おい、まさか」
「待て」
伊織は止めた。
左内は噂を配る側なのか。
それとも、噂を止めようとしているのか。
ここで決めてはならない。
男が文束を差し出す。
左内はそれを受け取り、一枚を開いた。
顔が強ばる。
怒りではない。
苦しみだった。
「また、これか」
左内が低く言った。
男が答える。
「家中で回っております。若様を危ぶむ声も増えております」
「誰が欲しがっている」
左内が問う。
男は少し迷い、言った。
「古参の者たちです。若様を見守ると言いながら、皆、采女殿の文の方が楽だったと」
伊織は、胸の中で何かが沈むのを感じた。
やはりそうだ。
戻る者が現れた時、周囲は喜ぶとは限らない。
むしろ、戻られると困る者がいる。
その者たちは噂を欲しがる。
自分たちが変わらなくて済む理由として。
左内は文を握りしめた。
「私は、若様を待つと申した」
「はい」
「だが……」
その声は揺れていた。
「家中すべてを待たせるのは、骨が折れる」
伊織は、そこで姿を現した。
「左内殿」
左内が驚いて振り向く。
「榊原殿……」
「噂を止めようとしていたのですか」
左内は苦い顔で頷いた。
「止めようとしております。ですが、止まりませぬ」
「なぜ」
「皆、欲しがるからです」
左内は言った。
「若様が変わった。文を自分で書く。笑われても耐える。……それを見て、家中は落ち着かぬのです。これまでなら采女が整え、私たちは安心していられた。今は、若様の荒さも、痛みも、目に入る」
左内の顔には疲れがあった。
「正直に申せば、私も時々、あの整った文が恋しくなります」
その正直さに、伊織は胸を打たれた。
「それを若様に言いましたか」
「言えませぬ」
「なぜ」
「また重荷になる」
「隠せば、もっと重くなる」
左内は黙った。
前にも同じことを言った。
だが、人は一度言われれば終わるわけではない。
何度も同じところへ戻る。
それもまた、人の弱さであり、戻る道なのだろう。
「左内殿」
伊織は言った。
「噂を欲しがる者を責める前に、その者たちが何を怖がっているかを見てください」
「怖がっている?」
「はい。若様が変われば、自分たちも変わらねばならない。それが怖いのです」
左内は、しばらく考えた。
「では、どうすれば」
「噂を禁じるだけでは足りません」
伊織は静かに言った。
「家中の者たちにも、怖いと言わせる場を作るのです」
左内は目を見開いた。
「家中に?」
「はい」
「そんなことをすれば、収拾がつかなくなる」
「一度は乱れます」
伊織は言った。
「ですが、隠した怖れは噂になります。口にした怖れは、話し合いになります」
左内は、長く黙った。
やがて、深く頭を下げた。
「……やってみましょう」
その日の夕方、牧野家では小さな集まりが開かれた。
清之進、左内、若い家士、古参の者たち。
伊織は隅にいた。
新兵衛も壁にもたれている。
左内がまず言った。
「若様の変わりようを、怖いと思う者はいるか」
場が凍った。
誰も答えない。
だが、沈黙そのものが答えだった。
しばらくして、一人の古参が言った。
「怖うございます」
それを皮切りに、少しずつ声が出た。
「若様が笑われるのを見るのがつらい」
「家の外で侮られるのが怖い」
「采女の文は嫌だが、あの文なら安心できた」
「若様の本当の言葉を聞くのに、まだ慣れませぬ」
清之進は黙って聞いていた。
顔は青い。
だが逃げなかった。
やがて、清之進自身が言った。
「私も怖い」
場が静まった。
「私の文は荒い。笑われる。家を不安にさせる。……それでも、私の名を人に渡したくない」
誰も笑わなかった。
「だから、待ってほしい」
清之進は言った。
「その代わり、私も皆の怖さを聞く」
それは立派な演説ではなかった。
だが、家中の間にあった隙へ、初めて言葉が置かれた瞬間だった。
伊織は、その様子を見て思った。
噂を欲しがる者は、必ずしも悪ではない。
自分の怖れを言葉にできぬ者が、噂を欲しがるのだ。
ならば、噂を断つには、怖れを言葉にする場が要る。
それもまた、戻すことなのだろう。
寺へ戻った時、伊織はひどく疲れていた。
母が顔を見て言った。
「今日は、戦より疲れた顔だね」
「人の怖れを聞いてきました」
「そりゃ疲れるよ」
お澪が戻り帳を開いた。
「牧野家ですね」
「ああ」
伊織は言った。
「噂を欲しがる者は、怖れを言えぬ者だった」
お澪は筆を走らせた。
――牧野家中。
――若名の戻りを恐れ、噂を欲す。
――左内、怖れを語る場を設ける。
――清之進、己も怖いと認め、家中の怖れを聞く。
――堰と堰のあいだ、少し塞がる。
書き終えると、伊織は自分の頁を見た。
お澪は、伊織に問わず、一行だけ足した。
――榊原伊織。
――噂を追い、噂を欲しがる怖れを見る。
伊織は、その文字を黙って見つめた。
波瀾万丈の物語は、また刀から遠ざかった。
だが、遠ざかるほどに深くなっていた。
人は噂で流れる。
しかし、怖れを言葉にできれば、そこに小さな堰ができる。
伊織は囲炉裏の火を見た。
火は静かだった。
だが、その静けさの中に、今日聞いたいくつもの怖れの声がまだ残っているように思えた。
(第89章につづく)

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