山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第八十七章

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――第八十七章 病を待つ者――

 久我家へ向かう朝、空は低く曇っていた。

 雨はまだ落ちていない。だが湿りを含んだ風が、町の屋根をなでている。こういう日は、病のある者には重いだろうと伊織は思った。久我直之助は外へ出ることを望んでいる。だが、出たい心と、出られる体とは同じではない。その間に立つ者――家老や家人たちは、きっといつも迷っている。

 久我家の門をくぐると、薬草の匂いがした。

 昨日より濃い。
 雨前の湿りで、匂いが沈んでいるのだろう。

 縁側へ通されると、直之助は布団の上に座っていた。今日は外へは出ていない。顔色もよくない。だが目は起きていた。

「榊原殿」

「今日は外へは」

「止められました」

 直之助はそう言って、家老の方を見た。

 家老は静かに頭を下げる。

「今朝は湿りが強く、咳が増えましたので」

 直之助は少し不満そうだったが、反論はしなかった。

「私は出たい。だが、出れば倒れるかもしれぬ。家老は止めたい。だが、止めすぎれば私を奥へ閉じ込める。……面倒なことです」

 伊織は頷いた。

「面倒なことを、面倒なまま扱うしかありません」

 家老が顔を上げた。

「榊原殿。私は怖うございます」

「若様が外へ出ることが」

「はい」

 家老は、正直に言った。

「若様が弱き身のまま外へ出たいと仰る。それは分かります。ですが、もし外で倒れられたら、責められるのは私です。いや、責められるだけならよい。若様のお体に障れば、取り返しがつきませぬ」

 その声には、家を守る者の疲れがあった。

 伊織は言った。

「では、その怖れも若様と分けるべきです」

「分ける?」

「はい。家老殿だけが怖れを抱えれば、いつか若様を止めすぎる。若様だけが望みを抱えれば、いつか無理をする。互いに半分ずつ持つしかありません」

 直之助が小さく笑った。

「半分ずつですか」

「はい」

「私の咳も、半分持ってくれればよいのですが」

 家老が思わず「若様」と言い、直之助が笑った。
 弱い笑いだったが、部屋の空気は少し和らいだ。

 伊織は続けた。

「今日は外へ出ない。それを若様ご自身が決める。家老殿が止めるのではなく」

 直之助は、しばらく黙った。

「私が決める……」

「はい。出ぬことも、ご自身の名で決めるのです」

 直之助は目を伏せた。
 やがて、深く息を吐いた。

「今日は出ません」

 その声は悔しそうだった。
 だが、ただ止められた者の声ではなかった。

「明日は」

 家老が問う。

「明日は、朝の風を見て決める」

 直之助は答えた。

 家老は、深く頭を下げた。

「承知いたしました」

 伊織は、その二人を見て思った。
 病める名を戻すとは、ただ外へ出すことではない。
 出ることも、出ぬことも、自分で選ぶ余白を取り戻すことなのだ。


 寺へ戻ると、お澪が戻り帳を開いた。

「久我家ですね」

「ああ」

 伊織は静かに言った。

「今日は、出ぬことを自分で決めた」

 お澪は筆を取った。

 ――久我直之助。
 ――湿り強き朝、外へ出ぬことを己で決める。
 ――家老、怖れを隠さず分ける。
 ――病める名、出ることのみならず、留まることも己の名で選ぶ。

 書き終えると、母が味噌汁をかき混ぜながら言った。

「出るのも勇気、出ないのも勇気だね」

「はい」

「人は、無理を勇気と間違えるからね」

 伊織は深く頷いた。

 その夜、主水から文が届いた。

 ――三家の周囲、少し静まる。
 ――だが揺さぶる者、まだ見えず。
 ――次は、噂の出どころではなく、噂を欲しがる者を見よ。

 噂を欲しがる者。

 伊織はその一文を何度も読んだ。

 噂は、流す者だけでは広がらない。
 受け取る者、聞きたがる者、信じたがる者がいて初めて歩く。

 自分の名を汚す紙も同じだった。
 誰が書いたかだけでなく、誰がそれを欲しがったか。
 そこを見なければならない。

 新兵衛が横から文を覗き込む。

「また厄介なこと言ってんな、主水殿」

「ああ」

「噂を欲しがる奴なんて、そこら中にいるぞ」

「だから難しい」

 伊織は戻り帳を閉じた。

 待つ者の疲れ。
 噂を欲しがる者。
 次の点は、そこにある。

 波瀾万丈の物語は、ますます人の内側へ入っていく。
 刀の届かぬ場所。
 紙にも残らぬ場所。
 しかし、確かに流れを生む場所へ。

 囲炉裏の火が、小さく揺れた。
 伊織はその火を見つめながら、次に歩くべき町の顔を思い浮かべていた。

(第88章につづく)

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