――第八十章 若名を返す日――
清之進は、その夜ほとんど眠らなかった。
囲炉裏のそばで膝を抱え、時折、自分の書いた荒い文を開いては、また畳んだ。字は乱れている。墨の濃さも揃わない。けれど、それを握っている清之進の手には、昨日までなかった力があった。
朝になると、母が粥を出した。
「食べなさい」
「私は……」
「若様でも、清でも、腹は減る」
清之進は少し笑い、粥を口にした。
そのあと、伊織は清之進を牧野家へ送った。新兵衛もついた。門前には昨夜の家士たちが立っていたが、清之進を見ると、一様に顔を伏せた。
清之進は門の前で立ち止まり、伊織を振り返った。
「榊原殿」
「はい」
「私は、また流されるかもしれません」
「その時は、戻ればよい」
「何度でも?」
「何度でも」
清之進は深く頭を下げた。
「では、行って参ります」
門が開く。
若い名が、自分の家へ戻っていく。
それは勝利というほど大げさなものではない。だが、伊織には確かに一つの堰が残ったように見えた。
その日の夕方、牧野家から文が届いた。
清之進は家中の前で、自分の文を読み上げたという。笑う者もいた。眉をひそめる者もいた。だが清之進は、最後まで読んだ。そしてこう言った。
――これは私の文である。荒ければ、私が直す。恥であれば、私が背負う。
伊織はその一文を読み、しばらく黙っていた。
お澪が戻り帳を開く。
「書きますか」
「ああ」
伊織は頷いた。
お澪は筆を取り、静かに記した。
――牧野清之進。
――寺にて若名を脱ぎ、家に戻りて己の荒き文を読む。
――笑われても、名を他人へ渡さず。
――戻る道、少し固まる。
その文字を見た時、伊織は初めて、戻り帳というものが少しだけ形を持ち始めた気がした。
点帳は、闇を見るための帳。
戻り帳は、灯を見落とさぬための帳。
どちらも要る。
どちらか一つでは、人は見誤る。
夜、老僧が言った。
「伊織」
「はい」
「次は、お前自身の名だな」
伊織は顔を上げた。
「私の名?」
「人の名を戻す者は、いつか自分の名を問われる」
囲炉裏の火が小さく鳴った。
榊原伊織。
それは、何の名なのか。
剣を振るう名か。
文を読む名か。
人を戻す名か。
伊織はまだ答えを持たなかった。
だが、答えを急がなくてもよいことだけは、今なら分かる。
余白がある。
戻る場所がある。
そして、まだ火は消えていない。
波瀾万丈の物語は、他人の名を追う段から、伊織自身の名を見つめる段へ、静かに移ろうとしていた。
(第82章につづく)

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