山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第七十九章

目次

――第七十九章 揺さぶる者――

 三家の若名が堰を太くした翌朝、伊織はかえって不気味な静けさを感じていた。

 牧野清之進は恥を自分のものとした。
 遠山伊之助は幼さを捨てず、少しずつを選んだ。
 久我直之助は、美しい病人であることを拒んだ。

 いずれも小さな勝ちである。
 だが小さな勝ちは、次の手を呼ぶ。

 点を打つ者、文を整える者、名を借りる者は、一度で諦めるような手合いではない。人が戻りはじめた時、彼らは必ずもう一度揺さぶる。なぜなら、人が戻りはじめる瞬間こそ、いちばん脆いからである。

 伊織は戻り帳を閉じ、庭へ出た。

 朝の光は淡く、井戸水は冷たい。
 志乃が洗い物をしている。
 お澪は紙を干している。
 母は味噌を溶いている。
 新兵衛は縁側で寝たふりをしながら、実は門の方へ片耳を向けている。

 何でもない朝だった。
 だからこそ、伊織は胸の奥にある微かなざわめきを消せなかった。

「来るな」

 新兵衛が目を開けずに言った。

「分かるか」

「分かる。お前がそういう顔してる日は、だいたい何か来る」

 伊織は苦笑した。

「私の顔が知らせるのか」

「そうだ。門番より役に立つ」

 その時、本当に門が叩かれた。

 軽い音ではない。
 だが昨夜のお絹のように切羽詰まった音でもない。
 きちんと節度を持ち、それでいて強い意志を含んだ叩き方だった。

 志乃が門へ走る。
 やがて戻ってきた彼女の後ろに、ひとりの女が立っていた。

 身なりは質素だが、立ち方に育ちがある。
 年のころは四十前後。
 顔色は悪くないが、目元に深い疲れがあった。

「牧野清之進の母にございます」

 女は静かに頭を下げた。

 伊織はすぐに座敷へ通した。


 牧野清之進の母――名を千代といった。

 千代は湯を一口飲み、ゆっくりと話し始めた。

「昨夜、清之進が自分の文を見直すと言い出しました」

「はい」

「母としては、嬉しくもあり、恐ろしくもあります」

 伊織は黙って聞いた。

「清之進は、まだ弱い子です。笑われることに慣れておりません。恥を背負うと言っても、いざ家中で笑われれば、また誰かに頼りたくなるでしょう」

 それは正しかった。
 伊織も同じことを思っていた。
 清之進の堰は太くなった。
 だが、まだ若い。
 大水が来れば耐えられるか分からない。

「それで、私に何を」

 伊織が問うと、千代は顔を上げた。

「清之進を、一度こちらへ置いていただけませんか」

 新兵衛が思わず眉を上げた。

「若様を寺へ?」

「はい」

 千代は静かに頷いた。

「家の中にいると、誰もが清之進を若様として見ます。立派な文を書け、家の名を汚すな、早く役に立て、と。けれど、ここなら……」

 千代は部屋を見回した。

「ここなら、あの子をただの若者として扱ってくださる気がしました」

 伊織は答えなかった。
 これは軽く受けられる話ではない。
 武家の嫡男を寺へ預かる。
 それだけで、家中に波が立つ。
 まして今は若名をめぐる流れが絡んでいる。
 清之進を動かすこと自体が、また誰かの点になるかもしれない。

 母が奥から静かに言った。

「飯は出せるよ」

 伊織は振り向いた。

「母上」

「若様でも若様じゃなくても、腹は減るだろう」

 千代の目が少しだけ潤んだ。

 老僧が茶碗を置いた。

「預かるなら、若様としては預からぬ」

 千代は深く頭を下げた。

「それで結構です」

「名も役も、門の外へ置いて入る。それでよいか」

「はい」

 伊織は、そこでようやく頷いた。

「清之進殿ご自身が望むなら、お預かりしましょう」


 その日の午後、清之進は寺へ来た。

 供はひとりだけ。門前でその供も下がらせ、清之進は一人で中へ入った。

 着物はいつもより地味だった。
 だが顔は固い。
 緊張しているのが分かる。

「榊原殿」

「ここでは、若様とは呼びません」

 伊織が最初に言うと、清之進は目を丸くした。

「では」

「清之進殿でよい」

 新兵衛が横から言った。

「いや、清でいいだろ」

 清之進が驚いて新兵衛を見た。
 志乃が吹き出しそうになる。
 母は平然としている。

「清でよいか」

 伊織が問うと、清之進は一瞬戸惑い、それから小さく笑った。

「……はい」

 その笑いが、少しだけ幼かった。
 清之進はまだ若い。
 いや、若いというより、ようやく若くいられる場所へ来たのだろう。

 その日、清之進は寺の雑事を手伝った。

 井戸の水汲み。
 薪運び。
 庭掃き。
 最初はぎこちなかった。
 水桶を傾け、薪を落とし、箒の使い方も下手だった。
 新兵衛が遠慮なく笑った。

「おい清、箒は刀じゃねぇぞ」

 清之進は顔を赤くした。

「分かっております」

「分かってねぇから庭の土を斬ってんだ」

 志乃が笑い、お澪も口元を押さえた。
 清之進は初めは恥ずかしそうだったが、やがて自分でも笑った。

 その笑いを見て、伊織は思った。
 これが堰になる。
 笑われても壊れない経験。
 笑われても、そこに悪意がないと知る経験。
 それがあれば、外で笑われた時にも、少しは踏みとどまれるかもしれない。


 夕方、清之進は囲炉裏の前で自分の文を書いた。

 今度は、立派な意見書ではない。
 寺で水桶をこぼしたこと。
 箒が下手だったこと。
 新兵衛に笑われて腹が立ったが、あとで自分も笑ったこと。
 そんなことを書いていた。

 伊織が覗くと、清之進は慌てて紙を隠した。

「これは、人に見せるものではありません」

「それでよい」

 伊織は言った。

「人に見せぬ文も、自分の文です」

 清之進は紙を見下ろした。

「私は、こういうことを書く方が楽です」

「楽でよい」

「ですが、役には立ちません」

「すぐ役に立つ文ばかり書く者は、いつか自分の言葉を失います」

 清之進は、その言葉をしばらく考えていた。

「では、これは残してもよいのですか」

「残せばよい」

「荒くても?」

「荒くても」

「笑われても?」

「ここでは、笑われるかもしれません」

 清之進は一瞬固まったあと、吹き出した。

「ひどい方だ」

「新兵衛よりはましです」

 向こうで新兵衛が「聞こえてるぞ」と言った。
 囲炉裏のまわりに小さな笑いが広がった。


 その夜遅く、伊織は戻り帳を開いた。

 お澪が筆を持つ。

「清之進殿のこと、書きますか」

「まだ“戻った”ではない」

「では」

「堰を作るため、笑われる稽古を始める」

 お澪は少し笑い、そう書いた。

 ――牧野清之進。
 ――名を洗うのち、寺にて若名を脱ぐ。
 ――笑われる稽古を始める。
 ――堰を太くす。

 その文字を見て、伊織は深く息を吐いた。

 名を守るとは、立派に飾ることではない。
 時には、名を脱がせ、ただの若者に戻すことだ。
 その中で恥を知り、笑われ、腹を立て、また笑う。
 そうして初めて、名は人のものになる。

 だが、その静かな夜は長く続かなかった。

 門の外で、馬の蹄の音がした。
 ひとつではない。
 二つ、三つ。

 新兵衛がすぐに立ち上がる。

「来たな」

 伊織も刀を取った。

 門を開けると、牧野家の家士が三人、松明を手に立っていた。

 先頭の男が鋭い声で言う。

「牧野清之進様をお返しいただきたい」

 伊織は静かに問うた。

「誰の命です」

「牧野家中の総意」

 その言葉で、伊織は悟った。

 采女を押さえても、家の中の“整えたがる手”は消えていない。
 むしろ、清之進が若名を脱いだことを恐れている。
 若様をただの若者に戻されては困る者たちがいるのだ。

「清之進殿は、今夜ここにいる」

 伊織は言った。

「明朝、ご本人の意思を聞き、戻るなら戻る」

「若様の意思など不要」

 家士が言った。

「家の名が先である」

 その一言に、寺の空気が冷えた。

 伊織は、低く返した。

「家の名が先なら、人の名はいつまでたっても戻らぬ」

 家士たちが一歩進む。

 新兵衛が横で笑った。

「やめとけ。寺の門前で若様を奪い返すなんざ、あとで面倒だぞ」

「退け」

 家士が刀の柄に手をかけた。

 その時、背後から清之進の声がした。

「やめよ」

 清之進が門の内側へ立っていた。
 手には、さっきの荒い文を持っている。

「私は、ここに残る」

「若様!」

「明朝、帰る。だが今夜は残る」

 声は震えていた。
 だが、逃げていなかった。

「家の名を背負う前に、自分の名を少し持ち直す」

 家士たちは言葉を失った。

 伊織は、その横顔を見た。
 清之進の堰は、また少し太くなった。
 まだ大水には弱いかもしれない。
 だが、少なくとも今夜の水は止めた。

 馬の蹄が、やがて遠ざかっていく。

 門を閉じると、清之進はその場にへたり込んだ。

「怖かった……」

「怖くてよい」

 伊織は言った。

「怖いまま言えたなら、それでよい」

 清之進は、震える手で自分の文を握りしめた。

 囲炉裏の火が、門の方まで薄く届いていた。
 波瀾万丈の物語は、名を戻す戦いから、名を戻そうとする者を守る戦いへ移り始めていた。
 その戦いは、刀よりもずっと静かで、ずっと長いものになるのだった。

(第80章につづく)

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