――第六十六章 点のまわりの闇――
小野寺兵部を引き立てて城へ向かう道すがら、伊織は何度も懐の紙片を指で確かめた。
ただの控えに見える。
字も少ない。
筋だけを抜いた、あの薄い写しと変わらぬように見える。
だが端に打たれた小さな墨の点だけが、妙に気にかかった。
丸ではない。
線でもない。
ただの点。
真壁の印に似ているようで、似ていない。
真壁のところにあったのは、丸の内の一点だった。
こちらは、丸も何もない。ただ紙の端に、ごく自然に、うっかり墨が落ちたように置かれている。
だがうっかりではない。
こういう“うっかりに見えるもの”こそ、継ぎ目の印になる。
伊織はもう、それを知っていた。
新兵衛が横で兵部の肩を押しながら言った。
「難しい顔してんな」
「しているか」
「してる。主水殿の前でまた難儀なことになりそうな顔だ」
伊織は苦笑した。
「たぶん、その通りだ」
「その紙か」
新兵衛が顎で懐を示す。
「ああ」
「ただの点だろ」
「ただの点なら、こんなに気にしない」
新兵衛は鼻を鳴らした。
「最近のお前、紙の端っこの染みでも敵に見えてきてるな」
「染みならまだいい」
伊織は言った。
「点は、そこから何かが始まる」
そう言いながら、どこかで自分でもおかしさを感じていた。
いつから、こんなふうに小さな印ひとつに心を動かされるようになったのか。
だが、それもまた必要なのだろう。
大きな火の代わりに、小さな点を見る。
それがいまの自分の役目になりつつある。
主水の控えへ通されると、あの男はまだ灯の下にいた。
夜はもう深い。
それでも机の上には文があり、主水の目は冴えている。
この男の中にも、どこかで“止める手”へ寄る危うさがあるのだろう。
だが同時に、戻す場所を忘れぬための冷たさもある。
それを伊織は、ようやく少しずつ見分けられるようになってきた。
「兵部か」
主水が一瞥して言う。
「はい」
伊織は兵部を座らせ、茶店での一件を簡潔に話した。
牧野家の客殿裏。
整える手。
筋だけを抜く小野寺兵部。
そして、その控え紙の端にある点。
主水は紙片を受け取り、灯へかざした。
しばらく見つめ、それからほんの僅かに眉を動かした。
「……やはり、そこか」
伊織はその言い方に反応した。
「ご存じなのですか」
「知っていたのではない。消えぬ癖として、薄く覚えていた」
主水は紙を机へ置いた。
「これは文庫の印ではない。真壁の継ぎ目でもない。もっと手前だ」
「手前……」
「文が書かれる前に、紙が一度まとめられるだろう」
主水が言う。
「控え用、上申用、写し用、留め置き用。――その束を分ける手がある」
伊織は息を呑んだ。
止まる前の手より前。
文がまだ“紙の束”でしかないところ。
そこにまで、継ぎ目があるのか。
主水は続けた。
「点は、その束分けの印だ。丸の内の一点ではなく、ただの点。これは“紙の行き先がまだ決まっていない束”につける印だ」
新兵衛が顔をしかめる。
「何だそりゃ。まだ決まってねぇのに、印つけんのか」
「だからだ」
主水は即答した。
「まだ決まっていないから、あとでどちらへでも振れる。そういう紙を別にしておく必要がある」
伊織の胸が静かに冷えた。
真壁が文を横へ寝かせる前に、
その文になる紙そのものが、すでに“あとでどちらへでも振れる束”として分けられている。
つまり継ぎ目は、文の生まれるさらに前。
紙がまだ白紙でしかない時から始まっている。
「誰がやる」
伊織が低く問う。
主水はすぐには答えなかった。
代わりに、兵部を見た。
「小野寺兵部」
「……は」
「この点を、誰から受けた」
兵部は長いこと黙っていた。
茶店ではまだどこか強がりを残していたが、ここへ来てその顔が少しずつ崩れ始めている。
主水の前で、主水の部屋の灯の下で、この男の“止める理”はあまりに薄い。
「言え」
主水の声は低い。
だが伊織には、その低さがいつもより少しだけ重く聞こえた。
真壁のさらに前。
そこはおそらく、主水自身の目の届く場所に近いのだろう。
兵部は、ようやく唇を開いた。
「……杉戸」
「杉戸何だ」
「杉戸文左衛門」
主水の目が、そこで初めてはっきりと冷えた。
伊織は、その名を知らなかった。
だが主水は知っている。
それが分かっただけで十分だった。
「やはり生きていたか」
主水が低く言う。
「生きて……?」
伊織が問うと、主水は少しだけ考えるように目を伏せ、それから言った。
「杉戸文左衛門は、もとは城中の紙庫番だ」
「紙庫番」
「文になる前の紙を預かる役だ。数も、質も、行き先も、一度そこで束に分かれる」
主水は淡々と続けた。
「十年前、帳面の数が合わぬというので一度は外された。だがその後、表向きは病で引いたことになっている。……私は、そこで終わったと思っていた」
終わっていなかったのだ。
むしろそこから、“見えぬ点”として残り続けた。
表から消えた者ほど、裏の束分けに向く。
顔を知る者が少なくなるからだ。
「杉戸はいまどこに」
伊織が問う。
兵部は首を振った。
「顔は……見ていません」
「嘘だ」
新兵衛が低く唸る。
「本当です」
兵部は言った。
声に張りがない。
だが、かえって本当らしかった。
「点のついた紙は、最初から束になって置かれている。私はそこから筋を抜くだけです。……杉戸本人が出ることはない」
主水が机を指で叩いた。
「どこに置かれる」
「内庫の北裏……」
兵部は絞るように言った。
「城中の紙庫ではありません。紙庫から一度、内庫の北裏へ回される。その半日だけ、点のついた束が置かれる」
「内庫の北裏」
伊織が繰り返す。
城中だ。
しかも文庫よりさらに奥に近い。
紙庫番の影が、そこまで届いている。
「そこへ誰が行く」
主水が問う。
「使番、下働き、時に検印方の者……」
兵部は言う。
「けれど皆、ただの束だと思っている。点は、ただの目印だと」
ただの目印。
そうだろう。
点ひとつに意味を見る者など少ない。
だから残る。
だから恐ろしい。
主水は長いこと黙っていた。
部屋の空気が冷えていく。
やがて、静かに言った。
「榊原」
「はい」
「今宵はこれで終いだ」
「杉戸を追わぬのですか」
「追う」
主水は即答した。
「だが、いま追えばまた継ぎ目の下だけを踏む。杉戸そのものを見たい」
「どうやって」
「紙を遡るのではない」
主水の目が、戻し帳と兵部の紙片のあいだを行き来する。
「紙そのものが生まれる場所から見る」
伊織はその意味をすぐには掴めなかった。
紙庫番。
内庫の北裏。
点のついた束。
それらを考えると、どうしても城中から追いたくなる。
だが主水は“紙そのものが生まれる場所”と言った。
それは城中ではない。
「漉き場……」
秋庭が、小さく呟いた。
主水が頷く。
「そうだ。紙が紙になる前、まだ漉かれ、乾き、束ねられる前の場所。そこから点がついているのか、それとも途中でつくのか。それを見ねばならぬ」
伊織は、そこでようやく息を吐いた。
たしかにそうだ。
ここまで紙の顔、箱の顔、寺の顔、水の顔ばかり追ってきた。
だが紙そのものの生まれる場所――漉き場にはまだ行っていない。
最初の最初だ。
そこへ遡れば、点が“どこで生まれるか”が見える。
杉戸文左衛門という影に触れるには、そこしかないのかもしれぬ。
「本所か、浅草か」
伊織が問うと、主水は首を振った。
「もっと上手だ」
「上手……」
「紙を漉く水は、澄んでいなければならぬ。町の水ではない。少し外れた川筋だ」
そう言いながら、主水は一枚の古い控えを出した。
そこには紙の納め先と、紙質の違いが記されている。
並ぶ地名の中に、一つだけ見慣れぬものがあった。
《水神下新田》。
「ここだ」
主水が言う。
「十年前、杉戸がまだ表にいたころ、城中御用の紙の一部がここから入っていた。今は表向き、その筋は切れている。だが切れているなら、かえって怪しい」
伊織は、その地名を胸へ刻んだ。
水神下新田。
城下から少し離れた、川の上手。
紙の生まれる場所。
点の生まれる場所でもあるかもしれない。
「明朝、発つ」
主水が言う。
「榊原、おぬしと秋庭で行け」
「私もですか」
秋庭が目を上げる。
「そうだ」
主水は迷わなかった。
「おぬしは紙の束を見分けられる。しかも一度、点のついた流れに迷った。だからこそ、点がどこで生まれるかを見ろ」
秋庭は、しばらく黙っていたが、やがて静かに頭を下げた。
「承知しました」
新兵衛が不満そうに言う。
「俺は?」
「お前も行け」
主水はあっさり答えた。
「榊原と秋庭だけでは、紙に寄りすぎる」
新兵衛が吹き出した。
「紙に寄りすぎる、か。言うなぁ」
「事実だ」
主水はそれ以上表情を動かさない。
だが伊織には、ほんの僅かに口元が緩んだように見えた。
城を出た頃には、空は再び深い夜だった。
だが心は、先ほどまでとは少し違っていた。
真壁を押さえた。
兵部を取り、点の意味も見えた。
そして次に向かう場所がはっきりした。
紙の生まれる場所。
水神下新田。
「また遠くなるな」
新兵衛が言う。
「ああ」
「でもまぁ、こうなるとむしろ分かりやすい」
「何が」
「町だの寺だの箱だの、顔が多すぎた。最初っから見に行きゃよかったんだ」
伊織は小さく笑った。
「そうもいかぬ」
「なんで」
「最初から行っても、ただの紙しか見えぬ。ここまで流れを見たからこそ、点の意味が分かる」
新兵衛はしばらく考え、それから頷いた。
「なるほどな。先に迷っとかなきゃ、道が見えねぇってわけか」
「そんなところだ」
秋庭は、そのやりとりを少し後ろで聞きながら、ふっと小さく息をついた。
疲れている。
だがその息は、紙に呑まれた者の息ではなかった。
戻る途中の者の息だと、伊織は思った。
寺の門が見えてくる。
戻る場所。
だが今度はただ戻るだけではない。
明日は、そこからさらに“紙が生まれる場所”へ発たねばならぬ。
波瀾万丈の物語は、また一段、流れの上手へ向かう。
火の前ではなく、紙がまだ白紙ですらない場所へ。
そこまで行ってようやく、点のまわりの闇も薄くなるのかもしれなかった。
(第六十七章につづく)

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