――第五十章 味噌樽の横顔――
翌朝、伊織は本当に味噌を買いに出た。
自分でも少し可笑しかった。昨夜まで、白紙の流れだの、城中の検印方だの、紙の折り筋だのと頭を煮え立たせていた男が、朝になると味噌樽の値を気にして町を歩く。だが、そういうものなのだろう。世の大きな歪みも、結局は味噌や米や水のところへ戻る。戻る先を忘れた時、人は帳面だけの顔になる。
母は玄関先で言った。
「味噌だけじゃないよ。胡麻も切れたし、志乃が針も欲しいと言ってた」
「分かった」
「それと――」
母は少し考えた。
「ついでに、お澪さんが紙を見たいって言ってたよ」
伊織の足が一瞬止まった。
「紙を?」
「昨日から何やら折ったり比べたりしてただろう。あの子、神田や浅草の紙の違いを少し見たいんだってさ」
母は何でもないことのように言う。
だが伊織には、そこに小さな道が開いたように思えた。味噌を買い、胡麻を買い、針を買い、そのついでに紙を見る。まるで町の用足しだ。だからこそ、紙の元へ近づくには都合がいい。主水や主馬の名前を背負わず、帳面の匂いを消したまま動ける。
「分かった」
伊織が言うと、母は「じゃあ頼んだよ」とだけ返した。
志乃が奥から顔を出す。
「兄さま、針は細いのと少し太いの、両方です」
「味噌より難しいな」
「忘れないでくださいよ」
そのやりとりを聞いて、新兵衛が縁側から吹き出した。
「お前、ほんとに何屋だよ」
「今日は用足し屋だ」
「じゃあ俺も行く」
「なぜだ」
「荷物持ちだ」
新兵衛は平然として言った。
「味噌樽抱えたまま白紙を追うのは難儀だろ」
伊織は否定できず、黙って頷いた。
町へ出ると、朝の光はまだ柔らかかった。
味噌屋は寺からそう遠くない。だが伊織は、わざと少し遠回りをした。神田へ出るには、まず町の小さな商いの顔を見ておきたかったからだ。こういう時、近道ばかり覚えると流れを見落とす。
味噌屋は昔ながらの店で、樽が並び、暖簾に味噌の染みがついている。店先に立つと、鼻へ来る匂いが濃い。麦、豆、塩、そして年月。紙の匂いばかり追っていた頭に、この匂いはよく効いた。
「へい、何を」
店の主人が顔を出す。丸顔の、よく笑う男だ。こういう男は油断ならぬこともあるが、この店の主人には“今日を回す者”の匂いしかない。帳面を歪めるのではなく、ただ味噌を切らさぬようにしている者の匂いだ。
伊織は母に頼まれた通り、味噌と胡麻を頼んだ。ついでに針屋の場所を聞くと、主人は奥を指して言った。
「針屋なら角を曲がって紙屋の隣でさ。紙屋は最近よう売れてるよ。城中へ入る紙も扱うって評判だ」
伊織の目がわずかに細くなる。
「城中へ?」
「へえ。小さい店だけど、御用があるとかでね。紙ってのは軽く見えて、いちばん金になるんだなぁ」
新兵衛が横で「味噌の次は紙の噂か」と小さく呟く。
伊織はさりげなく問うた。
「店の名は」
「《升屋紙舗》さ」
その名を聞いた瞬間、伊織の胸の奥で何かがぴたりと重なった。
升屋。
木場で見た志摩屋別蔵の表看板も、たしか升屋だった。
同じ名を使うのは偶然か。
あるいは、わざと“ありふれた名”にしているのか。
升屋という名がどこにでもあれば、追う方は混乱する。
「面倒だな」
新兵衛が味噌樽を抱えながら低く言う。
「どこにでも升屋がある」
「どこにでもある名ほど、流れに紛れる」
伊織は答えた。
角を曲がると、針屋と紙屋が並んでいた。
針屋は小さく、品も少ない。だが紙屋――升屋紙舗は、見た目の割に奥行きがある。表には半紙や奉書紙が並べられ、奥では小僧が紙束を運んでいる。城中御用の札は出ていない。出せば目立つからだろう。だが主人の腰の低さが、ただの町紙屋ではないことを示していた。
伊織は先に針屋で志乃の針を買い、それから紙屋へ入った。
「いらっしゃいませ」
小僧が声を上げる。
店の中は紙の匂いで満ちている。新しい紙は乾いて軽く、古い紙は少し湿って重い。伊織は、これまで紙をただ“文を書くもの”としか見てこなかった自分を思い出した。今は匂いも手触りも、何かを語るように思える。
「どんな紙を」
番頭らしい男が近づいてきた。年のころは三十過ぎ。顔は柔らかい。だが柔らかい顔ほど、商いの裏を知っていることがある。
「寺で使う紙を少し」
伊織は言った。
「写経ではない。帳面の控えや書き付けに使うものだ」
番頭はすぐに何種類かを広げた。
半紙。
少し厚い楮紙。
折りに強い紙。
それぞれの説明がよどみない。
この男は、紙そのものを本当に知っている。
つまり、ただの口先ではない。
元から紙に近い。
それが伊織には気になった。
「城中へ入る紙も扱うのか」
伊織が何気なく言うと、番頭の手がほんの僅かに止まった。
その一瞬を、伊織は見逃さない。
「いえ、うちは町用が主で」
番頭は笑う。
だが、笑いが半拍遅れた。
つまり嘘だ。
あるいは、全部は言っていない。
「そうか」
伊織はあえて深追いせず、紙を二種ほど選んだ。
その間に新兵衛が店の奥を見ている。
味噌樽を抱えたまま、実に不似合いだが、そういう不似合いな姿ほど周囲の目は油断する。
会計のとき、番頭が包み紙を折った。
折り筋。
左が深い。
お澪の見立てと同じだ。
伊織の胸の奥で、小さな確信が固まった。
秋庭が扱っていた白紙の“元”は、ここを通っている。
少なくとも同じ手癖の紙がここから出ている。
「また来る」
伊織が言うと、番頭は深く頭を下げた。
「ぜひ」
その言い方が、妙に丁寧だった。
ただの客としての“ぜひ”ではない。
見られていないと思っている者の、余裕の“ぜひ”だった。
店を出て少し歩いたところで、新兵衛が低く言った。
「奥に蔵がある」
「見たか」
「戸は半分閉じてたが、紙束だけじゃなかった。薄い木箱も積んであった」
伊織は頷いた。
木箱。
判か、あるいは白紙の元。
店先だけではない。
やはりここは紙の“継ぎ目”だ。
「今すぐ押さえるか」
新兵衛が問う。
伊織は味噌樽の匂いを嗅ぎながら、少し考えた。
味噌を抱え、紙包みを持ち、昼の町を歩く。
こんな姿で踏み込めば、かえって目立つ。
しかも今は確証がない。
折り筋と番頭の間だけだ。
主水の言葉を借りれば、“今すぐ出すべき文”ではない。
「まだだ」
「またか」
「今は、どの文を止めるべきかを見る時だ」
新兵衛は、苦い顔で笑った。
「ほんと、主水殿みてぇなこと言うようになったな」
「嫌か」
「いや」
新兵衛は肩を竦める。
「そうやってお前が一歩止まってくれると、こっちは助かる。前みてぇにいきなり飛び込まれると、こっちの命がいくつあっても足りねぇ」
伊織は少しだけ笑った。
「では、今日は飛び込まぬ」
「その代わり、帰って帳面漬けだろ」
「そうなる」
「味噌屋より紙屋の方が重かったな」
新兵衛の言葉に、伊織は抱えた紙包みを見た。
軽い。
だがたしかに、味噌樽より重く感じる。
紙とはそういうものだ。
軽くて、重い。
寺へ戻ると、母がまず味噌樽を見て満足そうに頷いた。
「ちゃんと買ってきたね」
「頼まれた通りだ」
「針は」
「細いのと、少し太いの」
志乃が包みを受け取り、「えらい」と笑った。その言い方に、新兵衛が横で「子ども扱いだな」と笑う。
伊織は、こういう何でもないやりとりが、妙に胸へ沁みるのを感じていた。
お澪は紙包みを見るなり、すぐに手を伸ばした。
「見てもいいですか」
「ああ」
お澪は紙を広げ、折り、光に透かし、指先で筋をなぞった。
しばらくして、静かに言う。
「同じです」
「やはりか」
「左が深い。しかも、折り返しの角に一度だけ爪を当てる癖まで同じです」
老僧が箒を止めてこちらを見る。
「では、升屋紙舗か」
「たぶん」
伊織は頷いた。
「だが、まだ押さえぬ」
母がそこで、味噌を甕へ移しながら言った。
「押さえないなら、見張るんだね」
伊織は思わず笑った。
「そうだ」
「なら早めに食べな。見張るにも腹は減る」
その通りだった。
そしてその一言に、伊織は今日の主水の問いを思い出した。
止める手と、通す手。
どちらも結局は、腹の方へ戻る。
戻る先を忘れた時、人は白紙を濁す。
囲炉裏の前に座りながら、伊織は紙包みを見た。
味噌の匂い。
紙の匂い。
二つが同じ部屋にある。
そのことが、妙に大事に思えた。
波瀾万丈の物語は、味噌樽の横で、また次の紙の口を見つけた。
火はまだついていない。
だからこそ、今度こそ火が上がる前に止めねばならぬ。
伊織は味噌汁をすすりながら、静かに次の一手を考え始めていた。
(第五十一章につづく)

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