――第四十八章 止める手、通す手――
朝は、いつも人を少しだけ欺く。
夜のあいだ胸に沈んでいたものが、光の下では少し軽く見える。寺の井戸水も、朝餉の湯気も、母の手つきも、志乃の声も、何もかもが「今日も同じように始まる」と言ってくる。だが伊織は、もう知っている。同じように始まる朝ほど、同じではない流れがその下を走っている。
その朝も、伊織は早くに目を覚ました。
囲炉裏の火はまだ熾きていて、母が無言で鍋をかけている。志乃は米を研ぎ、お澪は昨日の紙を整え、新兵衛は縁側であくびをしながらも、ちゃんと起きていた。こういう何でもない朝の景色に、いちいち胸を打たれるようになった自分が、伊織には少しおかしかった。
「兄さま」
志乃が振り向く。
「今日は、朝ご飯を食べてから行けますか」
伊織は小さく笑った。
「行けるようにする」
「約束ですよ」
「分かった」
母が横から言った。
「約束というのは、守れるように言うものだよ」
新兵衛が吹き出した。
「お袋さん、相変わらず手厳しいな」
「お前にはもっと厳しくしてもいいよ」
囲炉裏のまわりに小さく笑いが広がる。伊織はその笑いを聞きながら、これを失いたくないと思った。いや、失いたくないからこそ、また城へ行くのだと腹の底で思い直した。
朝餉を終えたころ、主水からの使いが来た。
無駄口のない、いつもの使番だった。差し出された紙は短い。
――沼田を処する前に、もう一度見よ。
止める手と、通す手の違いを。
午の刻、城へ。
伊織は紙を畳み、懐へ入れた。
老僧がその様子を見て、縁側から言った。
「行くか」
「はい」
「今日は、剣より目を使う日だな」
「そうなりそうです」
老僧は小さく頷いた。
「ならば、なおさら朝の顔を覚えて行け」
伊織は、母、志乃、お澪、新兵衛の顔を一人ずつ見た。皆、何も言わぬ。ただ送り出す顔をしている。その顔を胸に入れ、伊織は寺を出た。
城へ向かう道で、新兵衛がついてきた。
「今日は来るなと言われてないからな」
「誰にも言っていない」
「じゃあ来ていいってことだ」
そういう理屈で動く男だ。だが伊織は止めなかった。主水が「戻る場所を知る者を一人は連れろ」と言った時から、こういう時の新兵衛の存在は必要になっていた。
「沼田を、もう一度見る」
伊織が言うと、新兵衛は肩を回しながら答えた。
「昨日も見たろ」
「昨日は、白紙に手を出した者として見た」
「今日は」
「止める手と通す手の違いを見る」
新兵衛が苦い顔をする。
「また難しいこと言いやがる」
「難しくない」
伊織は歩きながら言った。
「主水殿も文を止める。沼田も文を止める。違うのは、どこで責を背負うかだ」
新兵衛は少し考え、やがて言った。
「要するに、自分で腹切る覚悟があるかどうかだな」
伊織は思わず笑った。
「乱暴だが、近い」
「俺の言葉はだいたい近い」
そう言って新兵衛は鼻を鳴らした。こういうところで、この男の言葉は妙に核心を突く。
主水のもとへ通されると、部屋には沼田宗十郎がいた。
昨日と同じように座しているが、顔色は少し落ちている。眠れなかったのだろう。だが衣の乱れはない。乱れを見せまいとする者の意地が、まだ残っている。
秋庭は別室に置かれているらしい。今日は沼田だけだ。
主水は伊織と新兵衛を見て、余計な前置きをしなかった。
「榊原。昨日の話をどう聞いた」
伊織は少し考え、答えた。
「沼田宗十郎は、自分を悪とは思っていない」
「その通りだ」
主水は頷く。
「では、なぜ悪になった」
問いの形は単純だが、答えは一つではない。伊織は沼田の顔を見た。沼田は目を伏せたままだ。聞いている。逃げてはいない。
「乱れを止めたかったのだと思います」
伊織は言った。
「ただし、止めるたびに、自分の手を“流れ”のせいにした。そこから白紙が濁った」
主水は沼田へ目を向けた。
「違うか」
沼田は数息黙り、やがて言った。
「違いませぬ」
新兵衛が、少しだけ顔をしかめた。
「ずいぶん素直じゃねぇか」
沼田は新兵衛を見なかった。
「ここで言い逃れをしても、意味がないと分かっただけです」
主水はそこで、机の上の文を一通、伊織の前へ置いた。
「読め」
伊織が開くと、それは昨日、城中で差し戻された文の写しだった。内容は簡潔で、神田西口の紙問屋に関する改めを求めるもの。秋庭の流れへ手を入れるための文だ。正しい文であることは一目で分かる。
「これは」
「今朝、私が止めた」
主水が言った。
伊織は顔を上げた。
主水は静かに続ける。
「そのまま通せば、神田西口の紙筋は今日のうちに散る。沼田の手よりもっと奥にいる者まで、姿を消す。今すぐ打つべき文ではない」
部屋が静まる。
主水は、わざとやっているのだ。
伊織に見せるために。
止めるという行為そのものを。
「では、違いは何です」
伊織は率直に問うた。
主水は即座には答えず、沼田へ視線を投げた。
「沼田。お前が言え」
沼田は、そこで初めて顔を上げた。
その顔には昨夜までの硬さがまだ残る。
だがその硬さの下に、どこか疲れた人間の色が見え始めていた。
「……主水殿は、止めた責を隠されぬ」
沼田が言う。
「文が止まった理由も、どこで出すかも、自分の名で決められる。だが私は違った。流れのせいにして、誰にも見えぬように白紙を継いだ」
主水は何も言わない。
「主水殿が文を止めるのは、次に通すためです」
沼田は続けた。
「私は……止めることそのものが目的になり始めていた」
その一言に、伊織は胸が少し重くなるのを感じた。
最初は乱れを減らしたかった。
だがいつしか、止めることが自分の役目となり、役目が自分の価値になった。
そうなれば、白紙はもはや手段ではなく、自分を支える柱になる。
だから濁る。
主水が静かに言った。
「榊原、これが違いだ」
伊織は頷いた。
分かったような、まだ完全には分からぬような気もした。
だが少なくとも一つだけは、はっきりした。
止めることそのものに酔えば、いずれ沼田になる。
通すことの正しさに酔えば、いずれ秋庭になる。
ならば必要なのは、止めることでも通すことでもなく、そのたびに“何のためか”を見失わぬことだ。
「お前は、これから文を止めることもある」
主水が伊織へ言った。
「その時、お前は何を見て止める」
伊織は、少しも迷わなかった。
「戻る場所です」
主水の目が、わずかに細くなる。
「ほう」
「戻って、人の顔へ戻れぬような止め方なら、間違っていると思います」
主水は、そこで初めてはっきりと笑った。大きな笑いではない。だが冷たさだけではない笑いだった。
「主馬には思いつかぬ答えだ」
新兵衛が横で鼻を鳴らした。
「そりゃそうだ。主馬殿は寺に飯食いに来ねぇからな」
主水が少しだけ新兵衛を見る。
「お前も役に立つ口だな」
「褒められると気持ち悪ぃ」
新兵衛はそっぽを向く。
そのやりとりで、部屋の空気がほんの少しだけ和らいだ。
だが主水はすぐに顔を戻した。
「沼田宗十郎」
「は」
「お前は今日から、書く手を失う」
沼田の肩がわずかに動く。
「だが、まだ口は残す」
沼田は驚いたように主水を見た。
「なぜ、斬らぬ」
「お前を斬れば、次の沼田が自分の姿を見失う」
主水は言った。
「生かして見せる。白紙に何をしたかを、自分の目で見続けさせる」
それは厳しい処分だった。
死ぬ方が楽かもしれぬ。
だが主水は、沼田を楽に終わらせぬつもりなのだ。
伊織は、その裁きを聞いて納得した。
沼田をただ一人の悪として斬って終えれば、また次の白紙が生まれる。
だが、こういう者を生かして“境”として置くこともまた、帳面の刃を鈍らせる一つのやり方なのだろう。
部屋を出たあと、伊織は長く息を吐いた。
新兵衛が隣で言う。
「重てぇ話だったな」
「ああ」
「だがちょっとは分かったか」
「何が」
「お前がこれから、何と戦うかだよ」
伊織は廊下の先の光を見た。
火でもない。
米でもない。
白紙でもない。
たぶん、それら全部を使って、もっと手前で人を曲げるもの。
「人の中の都合だ」
伊織は言った。
「今日だけ、少しだけ、ここだけ、という都合だ」
新兵衛は「そりゃ厄介だ」と肩をすくめる。
「人がいる限り、なくならねぇ」
「なくならぬ」
伊織は頷いた。
「だから、せめて早く見る」
二人は城を出た。
昼の町はまた何事もなかったように動いている。
だが伊織には、その何事もなさの中に、小さな都合が無数に潜んでいるように見えた。
それを全部斬ることはできぬ。
だが大きな流れになる前に、気づくことはできるかもしれない。
波瀾万丈の物語は、少しずつ姿を変えていく。
剣を抜く戦より、目を開いている戦の方が長い。
それでも伊織は歩いた。
戻る場所の灯を胸に持ったまま。
(第四十九章につづく)

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