第三十一章 死者の名を継ぐ女
一 赤い文字
十月二十六日、午前六時四十分。
奈良県警本部の窓に、朝日が差し込んでいた。
真壁修司は、机の上に置かれた一冊の台帳を見つめていた。
《S―00 最終継承予定者》
《登録保留》
《真壁修司》
その三行は、何度読み返しても変わらなかった。
一九七四年六月十二日。
奈良中央記念病院で始まった記録。
最初の観測者は杉浦千鶴。
その死後、妹の杉浦美津子が名前と記録を引き継いだ。
さらに、岡崎玲子、野村真紀へと続いたらしい。
そして、最後に自分の名前がある。
真壁は台帳を閉じた。
「誰が、俺を選んだんだ」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
背後で扉が開いた。
野村亮介だった。
手には、二つの紙コップを持っている。
「コーヒーです」
「ありがとう」
野村は机の向かい側に座った。
「眠れましたか」
「少しな」
「僕は、ほとんど眠れませんでした」
真壁は野村を見た。
無理もなかった。
野村の母、真紀は、二〇一〇年に死亡したことになっている。
ところが、その死亡記録には疑問があり、研究記録には母親がS―00を引き継いだと記されていた。
野村にとっては、母親の死そのものが揺らいでいる。
「野村」
「はい」
「今日、母親のことを調べるのがつらければ、別の捜査を担当してもいい」
野村は首を振った。
「いえ。最後まで調べます」
「そうか」
「ただ、一つだけお願いがあります」
「何だ」
野村は真壁を見た。
「母が何をしたとしても、隠さないでください」
真壁は静かに答えた。
「もちろんだ」
野村は頷いた。
「僕も、隠しません」
真壁はコーヒーを一口飲んだ。
冷めかけていた。
「それなら、まず台帳の意味を確かめよう」
野村が資料を広げた。
「S―00の登録記録を、年代順に整理しました」
一九七四年。
杉浦千鶴。
同年七月。
杉浦美津子。
一九八七年。
岡崎玲子。
二〇一〇年。
野村真紀。
そして、登録日が記されていない真壁修司。
「妙なことがあります」
野村が言った。
「何だ」
「水島澄子さんの名前がありません」
真壁は頷いた。
「俺も気になっていた」
水島澄子は、一九八七年から杉浦千鶴の名前を使っていた。
真壁の母親から、その名を託されたと証言している。
しかし、S―00の継承者としては登録されていない。
「名前を引き継ぐことと、観測記録を引き継ぐことは別だったのかもしれません」
野村が言った。
「その可能性はある」
真壁は資料を指した。
「もう一つ、気になる」
「何です」
「岡崎玲子の登録年だ」
一九八七年。
当時、岡崎玲子はまだ若かった。
「母が亡くなる前年だ」
真壁は言った。
「母が岡崎に何かを渡したのなら、二人には接点があったはずだ」
野村は頷いた。
「調べます」
真壁は台帳をもう一度開いた。
《最終継承予定者 真壁修司》
その文字だけが、ほかの記載より新しかった。
赤いインクは、まだ鮮やかだった。
「野村」
「はい」
「この記載がいつ加えられたか、鑑定を頼んでくれ」
「わかりました」
真壁は静かに続けた。
「古い台帳に書かれているからといって、古い時代に書かれたとは限らない」
誰かが、過去の記録に未来の予定を書き込んだ。
その誰かは、いまも生きているかもしれなかった。
二 三人目の千鶴
午前十時十五分。
京都市内の喫茶店。
真壁と野村は、一人の女性を待っていた。
杉浦千鶴。
そう名乗る女性。
本名は、水島澄子。
一九五〇年生まれ。
研究者・水島圭介の妹。
窓際の席に座った真壁は、通りを眺めていた。
雨上がりの歩道を、自転車に乗った学生が通り過ぎる。
店内には、コーヒー豆を挽く音が響いていた。
「昨日の今日で、また会ってもらえるとは思いませんでした」
野村が言った。
「確認したいことがあると伝えたら、向こうからここを指定してきた」
真壁は時計を見た。
午前十時二十二分。
約束の時間より少し早く、女性が入ってきた。
水島澄子だった。
濃い灰色の上着を着て、小さな革の鞄を持っている。
「お待たせしました」
「いえ」
真壁は立ち上がった。
澄子は席に座ると、鞄を膝の上に置いた。
「昨日の記録のことでしょう」
「はい」
真壁は頷いた。
「今日は、S―00について伺いたいんです」
澄子の表情が変わった。
「その番号を見つけたんですね」
真壁は黙って頷いた。
澄子は窓の外へ目を向けた。
「とうとう、そこまで来ましたか」
「ご存じだったんですか」
「ええ」
澄子は答えた。
「兄から聞いていました」
「水島圭介さんから?」
「はい」
真壁は資料を取り出した。
「この台帳には、S―00の継承者として、杉浦千鶴さん、美津子さん、岡崎玲子さん、野村真紀さんが記されています」
澄子は静かに聞いていた。
「ところが、あなたの名前はありません」
「そうでしょうね」
澄子は答えた。
真壁の目が細くなった。
「なぜです」
「私は、S―00を引き継いでいませんから」
野村が顔を上げた。
「では、杉浦千鶴という名前を使っていたのは」
「別の理由です」
澄子は鞄から、一枚の古い写真を取り出した。
そこには、二人の若い女性が写っていた。
一人は真壁の母、美津子。
もう一人は、見覚えのない女性だった。
「右側が、岡崎玲子さんです」
真壁は写真を見つめた。
一九八七年。
若いころの母親。
その隣に、二十代と思われる岡崎玲子が立っている。
写真の裏には、日付が書かれていた。
《昭和六十二年十一月三日》
真壁は息を止めた。
「母と岡崎さんは、会っていたんですね」
澄子は頷いた。
「ええ」
「どこで」
「京都です」
「何のために」
澄子は静かに答えた。
「記録を渡すためです」
真壁は写真から目を離した。
「S―00の記録ですか」
「そうです」
「では、母は岡崎さんを後継者に選んだ」
澄子は少し考えた。
「正確には、記録を預けたんです」
「違いがあるんですか」
「あります」
澄子は真壁を見た。
「S―00は、人間を支配するための番号ではありませんでした」
真壁は黙った。
「最初は、記録を監視する人間の識別番号だったんです」
「監視する?」
「研究者が書き換えた記録を、外部から照合する役割です」
野村が口を開いた。
「つまり、監査担当者のようなものですか」
「そう考えていいと思います」
澄子は頷いた。
「ただし、正式な制度ではありませんでした」
「なぜです」
「研究の責任者たちが、その役割を認めなかったからです」
真壁は静かに訊いた。
「最初の杉浦千鶴さんが、自分で始めたんですか」
「そう聞いています」
澄子は答えた。
「姉のように慕っていた女性でした」
真壁は顔を上げた。
「本来の千鶴さんを?」
「ええ」
澄子は微笑んだ。
「私は彼女より年上でしたが、あの人の方がずっと勇敢でした」
真壁は黙った。
澄子は続けた。
「病院で行われていた研究には、正式な記録と、実際の処置との間に違いがありました」
「はい」
「千鶴さんは、その違いを書き留めていたんです」
「S―00として」
「そうです」
真壁は頷いた。
「では、母がその番号を引き継いだのは」
「姉の記録を守るためです」
澄子は答えた。
「ただ、美津子さんは、自分一人では守りきれないと考えました」
「それで岡崎玲子さんに?」
「ええ」
澄子は写真を見つめた。
「玲子さんは、当時、医療情報の整理に関わっていました」
真壁は眉を寄せた。
「研究者だったんですか」
「研究補助員です。記録の矛盾に気づいていたそうです」
野村が訊いた。
「では、水島さんは何を引き継いだんですか」
澄子は静かに答えた。
「名前です」
「名前だけ?」
「はい」
澄子は真壁を見た。
「杉浦千鶴という名前が、記録の所在を示す合図になっていたんです」
真壁は黙った。
「誰かが記録を探すとき、その名前をたどれば、次の保管者へ行き着くように」
「なるほど」
真壁は頷いた。
しかし、すぐに訊いた。
「では、なぜそんな複雑な方法を取ったんです」
澄子は目を伏せた。
「普通の方法では、守れなかったからです」
「警察に届けることは」
「試みたそうです」
「結果は」
澄子は真壁を見た。
「届け出た記録が、なくなりました」
真壁は息を止めた。
「警察の中で?」
「そう聞いています」
澄子は続けた。
「だから、美津子さんは考えたんです。記録を一か所に集めれば、まとめて消される。ならば、何人もの人間が、別々に持てばいいと」
真壁は、写真の中の母親を見つめた。
笑っている。
だが、その笑顔の奥に、何を隠していたのだろう。
三 死者の名を継ぐ理由
午前十一時三十五分。
喫茶店の客は、いつの間にか少なくなっていた。
澄子は冷めた紅茶を口に運んだ。
真壁は、もう一つの疑問を口にした。
「水島さん」
「はい」
「あなたは、一九八七年から杉浦千鶴という名前を使っています」
「ええ」
「そのころ、母はまだ生きていました」
澄子は頷いた。
「そうですね」
「同じ名前を使う人間が、同時に二人いたことになります」
「はい」
「なぜ、そんなことを」
澄子はしばらく黙った。
そして、静かに言った。
「美津子さんは、自分が長く生きられないと思っていたんです」
真壁は動かなかった。
「母が?」
「ええ」
「病気だったんですか」
澄子は首を振った。
「詳しくは聞いていません」
「では、なぜ」
澄子は答えた。
「誰かに、見張られていると感じていたからです」
真壁は眉を寄せた。
「誰に」
「わかりません」
澄子は続けた。
「ただ、彼女はこう言っていました」
『私がいなくなっても、千鶴という名前を残してください』
真壁は黙った。
澄子は静かに言った。
「私は、その願いを引き受けました」
「それで、名前を」
「ええ」
「戸籍まで変えたんですか」
澄子は首を振った。
「いいえ。戸籍は水島澄子のままです」
真壁は頷いた。
「通称だったんですね」
「そうです」
真壁は資料を閉じた。
名前を変えたのではない。
名前を使った。
それも、死んだ人間の名前を。
真壁は静かに言った。
「母は、何かを恐れていた」
澄子は頷いた。
「ええ」
「そして、記録を守ろうとしていた」
「そうです」
真壁は少し考えた。
「母が亡くなった一九八八年のことは、ご存じですか」
澄子の表情が曇った。
「亡くなる数日前に会いました」
真壁は顔を上げた。
「何を話したんです」
澄子は答えた。
「修司を頼む、と」
真壁は息を止めた。
「私を?」
「ええ」
澄子は静かに続けた。
「もし何かあったら、あの子には真実を知らせてほしい、と」
真壁は黙った。
「ただし、大人になるまでは待ってほしい、とも言われました」
「なぜです」
澄子は目を伏せた。
「子どもには、重すぎるからでしょう」
真壁は、しばらく何も言わなかった。
母親が亡くなったとき、自分はまだ十歳だった。
葬儀の日のことを、断片的に覚えている。
白い花。
黒い服。
父親の硬い横顔。
誰かが自分の頭を撫でた。
その手が誰のものだったのか、いまも思い出せない。
真壁は静かに訊いた。
「母は、父について何か言っていましたか」
澄子は答えた。
「修一さんを責めないでほしい、と」
真壁は顔を上げた。
「責めないで?」
「ええ」
「なぜ」
澄子は少し考えた。
「あなたのお父様は、何かを隠していたそうです」
真壁は黙った。
「でも、美津子さんは、それが悪意だけからではないと考えていました」
「何を隠していたんです」
澄子は首を振った。
「そこまでは聞いていません」
真壁は小さく息を吐いた。
また、父親の沈黙だった。
四十五年前の事故。
研究記録。
母親の死。
すべての近くに、父親がいた。
しかし、父親が何を守ろうとしたのか、まだわからない。
澄子は真壁を見た。
「真壁さん」
「はい」
「一つだけ、覚えておいてください」
真壁は顔を上げた。
「何でしょう」
「記録に名前があることと、その人が責任者であることは、同じではありません」
真壁は黙った。
澄子は続けた。
「この事件では、何度も名前が使われています」
「はい」
「だから、名前だけで人を裁かないでください」
真壁は深く頷いた。
「わかっています」
四 岡崎玲子の空白
午後二時二十分。
奈良県警本部。
真壁と野村は、岡崎玲子の経歴を調べ直していた。
岡崎玲子。
一九六三年生まれ。
京都府出身。
医療情報管理の仕事に従事。
一九八七年、奈良中央記念病院の関連施設へ出入り。
二〇一〇年六月十八日、京都の研究施設で階段から転落。
その後の記録には、いくつもの不明点があった。
「真壁さん」
野村が言った。
「岡崎さんの事故記録ですが、妙なことがあります」
「何だ」
「救急搬送先が、途中で変更されています」
真壁は資料を受け取った。
当初の搬送先。
京都市内の総合病院。
変更後。
奈良中央記念病院の関連施設。
「事故のあと、奈良へ?」
真壁が訊いた。
「そうです」
「誰が変更を指示した」
「記録がありません」
真壁は眉を寄せた。
「搬送記録の原本は」
「京都府の消防に照会中です」
真壁は頷いた。
「確認しよう」
野村は続けた。
「もう一つあります」
「何だ」
「岡崎さんの死亡記録です」
真壁が顔を上げた。
「死亡記録?」
「はい」
野村は一枚の紙を差し出した。
《死亡確認日 二〇一〇年六月十九日》
真壁は目を細めた。
「翌日か」
「はい」
「死因は」
「頭部外傷と記されています」
真壁は資料を見つめた。
二〇一〇年六月十八日。
岡崎玲子が転落した日。
同じ日、野村真紀がS―00を引き継いだと記録されている。
そして、翌日、岡崎玲子は死亡したことになっていた。
「身元確認は」
真壁が訊いた。
野村は答えた。
「親族による確認と記されています」
「誰が」
「氏名欄が読めません」
真壁は資料を光にかざした。
確かに、文字の一部が欠けていた。
しかし、完全に消えているわけではない。
真壁は静かに言った。
「原本を確認する」
野村が頷いた。
「はい」
真壁は続けた。
「それから、岡崎さんの遺体がどう扱われたのかも調べよう」
野村は頷いた。
「わかりました」
真壁は資料を閉じた。
この事件では、死亡したことになっている人間が何人もいた。
岸田昭彦。
相沢美紀。
野村真紀。
そして、岡崎玲子。
しかし、その全員が生きていると決まったわけではない。
むしろ、身元確認が曖昧なまま死亡記録が作られていたこと自体が、重大な問題だった。
真壁は静かに言った。
「野村」
「はい」
「岡崎玲子が本当に亡くなったのか、そこから確認する」
野村は頷いた。
「はい」
真壁は窓の外を見た。
午後の奈良の街は、穏やかだった。
しかし、机の上の記録には、穏やかではない時間が積み重なっていた。
五 母の名前を見つけた日
午後四時五十分。
野村亮介は、一人で資料室にいた。
机の上には、母親の写真が置かれている。
野村真紀。
若いころの母親。
笑っている。
その笑顔を、野村はよく覚えていた。
小学生のころ、母親はよく夕食を作りながら歌を口ずさんでいた。
特別に上手な歌ではなかった。
しかし、野村にとっては、家の匂いと結びついた声だった。
母親が亡くなったと聞かされたのは、二〇一〇年だった。
葬儀。
黒い服。
白い花。
しかし、棺の中の顔を見た記憶はない。
当時は、事故で損傷が激しいと説明された。
野村は、その説明を疑わなかった。
疑う理由がなかった。
だが、いまは違う。
母親の死亡記録には不明点がある。
そして、二〇一〇年六月十八日の研究記録には、母親の名前が残されている。
野村は写真を見つめた。
「母さん」
小さく呟いた。
「どこにいるんだよ」
答えはなかった。
そのとき、資料室の扉が開いた。
真壁だった。
「野村」
「はい」
野村は慌てて写真を伏せた。
真壁は何も言わなかった。
代わりに、椅子を引いて座った。
「何かわかったか」
野村は頷いた。
「母の記録を見直していました」
「そうか」
「一つ、気になることがあります」
「何だ」
野村は資料を差し出した。
《二〇一〇年六月十八日》
《S―00 第四継承者 野村真紀》
その下に、手書きの文字があった。
《本人不在》
真壁の目が細くなった。
「本人不在?」
野村が頷いた。
「はい」
「どういう意味だ」
「わかりません」
真壁は資料を見つめた。
《本人不在》
その文字は、登録者本人がその場にいなかったことを示しているように見えた。
だとすれば、野村真紀は、自分の意思でS―00を引き継いだわけではない可能性がある。
「野村」
「はい」
「この記載は重要だ」
野村は頷いた。
「そうですね」
真壁は続けた。
「母親が自分で登録したのか、誰かが登録したのか。そこを確かめよう」
野村は静かに答えた。
「はい」
真壁は資料を閉じた。
「それから、もう一つ」
「何です」
「お前の母親が、いまも生きている可能性はある」
野村は顔を上げた。
「はい」
「だが、そうだと決めつけるな」
野村は黙った。
真壁は静かに続けた。
「希望を持つことと、事実を確かめることは別だ」
野村は、ゆっくり頷いた。
「わかっています」
真壁は立ち上がった。
「一緒に調べよう」
野村は写真を手に取った。
そして、静かに答えた。
「はい」
六 父親が残した別の手紙
午後七時十分。
奈良県警本部。
真壁は、父親の遺品の中から見つかった古い封筒を調べていた。
封筒には、日付が書かれていた。
《昭和六十三年十一月》
母親が亡くなった年だった。
差出人。
真壁修一。
宛名。
《修司へ》
真壁は、しばらくその文字を見つめていた。
父親から自分への手紙。
しかし、これまで一度も見たことがなかった。
封筒は封がされたままだった。
真壁は、慎重に開いた。
中には、便箋が二枚入っていた。
一枚目。
《修司へ》
《お前がこれを読むころ、私はもういないかもしれない》
真壁は息を止めた。
父親の字だった。
右上がりの、少し癖のある文字。
《お前の母さんは、勇敢な人だった》
《私は、あの人に何度も助けられた》
真壁は、ゆっくり読み進めた。
《だが、私はあの人を守れなかった》
《一九八一年の事故のあと、私はある約束をした》
《その約束を守るために、いくつものことを隠した》
真壁の目が細くなった。
《私は、正しいことをしたとは思っていない》
《ただ、あのときは、それしか方法がないと思った》
真壁は便箋を持つ手に力を込めた。
《修司》
《お前が大人になったら、必ず話そうと思っていた》
《だが、話す機会を失うかもしれない》
《そのときは、杉浦千鶴という名前を探してほしい》
真壁は息を止めた。
母親の名前。
そして、母親の姉の名前。
さらに、水島澄子が使っていた名前。
《その名前を持つ人間は、一人ではない》
《だが、誰もが同じ真実を知っているわけではない》
真壁は黙った。
《一人が見たことを、別の一人が記録した》
《そして、また別の一人が守った》
《それが、私たちにできた唯一の方法だった》
真壁は、ゆっくり息を吐いた。
父親も。
母親も。
名前を引き継ぐ仕組みを知っていた。
真壁は二枚目を開いた。
《修司》
《お前に一つだけ頼みがある》
《誰かの名前を見つけても、それだけで罪を決めるな》
真壁は動かなかった。
《私の名前も同じだ》
《私が署名した記録には、私の意思で書いたものもあれば、そうでないものもある》
真壁の目が細くなった。
《一九八一年九月二十三日の事故について、私は真実を知っている》
《だが、その真実を証明する記録は、私の手元にはない》
《記録を持っているのは、S―00だ》
真壁は息を止めた。
S―00。
原観測者。
記録を守る役割。
《最後に》
《もし、お前がS―00を引き継ぐことになったら》
真壁は、ゆっくり次の行を読んだ。
《必ず、自分の意思で決めろ》
《誰かに選ばせるな》
そこで、手紙は終わっていた。
真壁は、長い時間、動かなかった。
父親は、S―00を知っていた。
そして、自分がその番号を引き継ぐ可能性も考えていた。
だが、強制するつもりはなかった。
真壁は、静かに呟いた。
「親父」
誰も答えなかった。
「お前は、どこまでわかっていたんだ」
七 継承者の条件
午後九時二十分。
奈良県警本部の資料室。
真壁と野村は、S―00の登録記録を調べ直していた。
一九七四年。
杉浦千鶴。
一九七四年七月。
杉浦美津子。
一九八七年。
岡崎玲子。
二〇一〇年。
野村真紀。
そして、真壁修司。
真壁は、台帳の末尾を指した。
「ここだ」
野村が顔を上げた。
「何です」
《最終継承予定者》
《真壁修司》
その下に、小さな文字があった。
《本人同意待ち》
野村が息を呑んだ。
「同意待ち?」
真壁は頷いた。
「ああ」
「では、真壁さんが引き継ぐかどうか、まだ決まっていない」
「そういうことになる」
真壁は資料を閉じた。
「だが、誰が俺の同意を求めているのかはわからん」
野村は頷いた。
「そうですね」
真壁は続けた。
「S―00が、記録を守る役割だったとしても、いま誰が管理しているのかは不明だ」
「はい」
「それに、記録を引き継ぐことと、警察官として捜査することは別だ」
野村は頷いた。
真壁は静かに言った。
「俺は、まず刑事として調べる」
「はい」
「記録を守るために、名前を変えたり、身分を隠したりする必要はない」
野村は少し微笑んだ。
「真壁さんらしいですね」
真壁は首を振った。
「そうでもない」
そして、台帳を見つめた。
「母さんたちには、そうするしかない事情があったのかもしれん」
野村は黙った。
真壁は続けた。
「だが、俺たちは警察官だ」
「はい」
「証拠を保全して、調べて、必要なら公にする」
野村は頷いた。
「そうですね」
真壁は資料を閉じた。
そのとき、携帯電話が震えた。
差出人不明。
短いメッセージ。
《S―00の最終継承者を確認しましたね》
真壁は画面を見つめた。
続けて、二通目。
《あなたには、選ぶ権利があります》
三通目。
《ただし、選ばなければ記録は失われます》
真壁は、静かに息を吐いた。
野村が画面を見た。
「また、匿名のメッセージですね」
「ああ」
「どうしますか」
真壁は答えた。
「保存する」
「はい」
「そして、発信元を調べる」
野村は頷いた。
真壁は携帯電話を伏せた。
「選ぶ権利があると言いながら、選ばなければ失うと脅している」
野村は黙った。
真壁は続けた。
「そんな条件を出す人間を、信用するわけにはいかん」
野村は頷いた。
「はい」
真壁は窓の外を見た。
夜の奈良は、静かだった。
しかし、その静けさの奥で、誰かがまだ動いている。
四十五年前の記録を守ろうとする人間。
あるいは、利用しようとする人間。
真壁は、静かに言った。
「野村」
「はい」
「S―00を引き継ぐかどうかは、俺が決める」
野村は頷いた。
「はい」
「だが、その前に、誰が記録を持っているのかを確かめる」
野村は静かに答えた。
「わかりました」
八 名前を継ぐ者
午後十一時四十分。
奈良県警本部。
真壁は、一人で資料室に残っていた。
机の上には、母親の写真が置かれていた。
若いころの杉浦美津子。
その隣には、姉の杉浦千鶴。
二人は、よく似ていた。
しかし、目の表情が違っていた。
姉は、真っ直ぐ前を見ている。
妹は、少し横を向いて笑っている。
真壁は、写真を見つめた。
母親が亡くなったとき、自分は十歳だった。
それから長い時間が流れた。
父親も亡くなった。
そして、いま。
二人が隠していた記録が、少しずつ姿を現している。
真壁は、父親の手紙をもう一度読んだ。
《必ず、自分の意思で決めろ》
《誰かに選ばせるな》
真壁は静かに息を吐いた。
「わかったよ、親父」
誰も答えなかった。
そのとき、資料室の扉が開いた。
野村だった。
「真壁さん」
「何だ」
「岡崎玲子さんの死亡記録について、京都府警から連絡がありました」
真壁が顔を上げた。
「何かわかったか」
野村は頷いた。
「死亡確認をした医師の名前がわかりました」
「誰だ」
野村は資料を差し出した。
《三崎遼一》
真壁は息を止めた。
三崎遼一。
三崎俊夫の息子。
一九七四年の研究に関わった医師の子ども。
そして、二〇一〇年の岡崎玲子の死亡確認に関わっていた人物。
真壁は資料を見つめた。
「三崎遼一が、死亡確認をしたのか」
野村は頷いた。
「そうです」
真壁は静かに言った。
「現在の所在は」
「京都市内です」
「会えるか」
「明日の午後なら、面会できるそうです」
真壁は頷いた。
「わかった」
野村は続けた。
「ただ、もう一つあります」
真壁が顔を上げた。
「何だ」
野村は資料をめくった。
「三崎遼一さんは、二〇一〇年六月十八日の研究施設にも出入りしていました」
真壁の目が細くなった。
「事故の日か」
「はい」
「何のために」
野村は答えた。
「医療担当者として登録されています」
真壁は黙った。
三崎遼一。
父親の三崎俊夫は、一九七四年の研究に関わっていた。
息子の三崎遼一は、二〇一〇年の研究施設にいた。
そして、岡崎玲子の死亡確認をした。
二つの世代。
二つの研究。
同じ家族。
真壁は静かに言った。
「野村」
「はい」
「三崎遼一に、聞かなければならないことがある」
野村が頷いた。
「はい」
真壁は資料を閉じた。
そのとき、携帯電話が震えた。
差出人不明。
短いメッセージ。
《三崎遼一に会うのですね》
真壁の目が細くなった。
続けて、二通目。
《彼は、二〇一〇年六月十八日のことを知っています》
三通目。
《ただし、彼が確認した死者は、岡崎玲子ではありません》
真壁は動かなかった。
野村が画面を見た。
「どういう意味でしょう」
真壁は答えなかった。
四通目。
《死亡したのは、別の女性です》
真壁は、ゆっくり息を吐いた。
また、名前の入れ替わり。
また、身元不明の死者。
真壁は静かに言った。
「野村」
「はい」
「明日、三崎遼一に会う」
野村が頷いた。
「はい」
「そして、岡崎玲子の死亡記録を、最初から確認する」
野村は静かに答えた。
「わかりました」
真壁は窓の外を見た。
夜の奈良。
遠くに、車のライトが流れていた。
一九七四年。
杉浦千鶴。
一九八八年。
杉浦美津子。
二〇一〇年。
岡崎玲子。
野村真紀。
そして、二〇二六年。
真壁修司。
名前は、何度も引き継がれていた。
しかし、真実まで引き継がれたとは限らない。
真壁は静かに呟いた。
「名前を継ぐだけじゃ、足りないんだ」
誰も答えなかった。
「何が起きたのかを、確かめなければ」
そのころ、京都市内の古い診療所では、一人の男が机に向かっていた。
三崎遼一。
六十代半ばの医師だった。
机の上には、古いカルテが置かれている。
《二〇一〇年六月十八日》
《京都研究施設》
《搬送患者 二名》
男は、ゆっくりページをめくった。
一人目。
《岡崎玲子》
二人目。
《野村真紀》
三崎は、長い時間、その二つの名前を見つめていた。
そして、最後のページを開いた。
そこには、短い文章が書かれていた。
《死亡確認 一名》
《生存確認 一名》
その下には、手書きの文字。
《死亡者 野村真紀》
《生存者 岡崎玲子》
三崎は、静かに目を閉じた。
「もう、隠せないか」
机の上には、もう一枚の紙があった。
《死亡診断書》
氏名。
《岡崎玲子》
三崎は、その文字を見つめた。
そして、小さく呟いた。
「名前を間違えたんじゃない」
誰も答えなかった。
「間違えるように、命じられたんだ」
第三十二章に続く

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