第二十九章 観測開始の日
一 約束の朝
十月二十四日、午前八時四十二分。
奈良中央記念病院の旧館は、朝霧の中に沈んでいた。
前夜まで降り続いた雨は上がっていたが、駐車場には大きな水たまりが残っている。ひび割れたアスファルトの隙間から伸びた雑草が、冷たい風に揺れていた。
真壁修司は、建物の正面玄関を見つめた。
かつて救急車が出入りした車寄せ。
色褪せた案内板。
板で塞がれた受付窓口。
四十五年前、母親はこの場所へ来た。
父親も来た。
そして、事故で重傷を負った三人の男が、ここに集められたという。
その事実が、いまの真壁には不思議だった。
自分が三歳だったころ、大人たちは何をしていたのか。
誰が誰を守り、誰が誰を裏切ったのか。
その答えを、誰も息子には話さなかった。
「真壁さん」
野村亮介が近づいてきた。
「周辺の確認が終わりました」
「どうだ」
「今のところ、不審な車両はありません」
真壁は頷いた。
「建物の中は」
「管理者の大庭さんが待機しています。地下へ入る準備もできています」
「そうか」
真壁は腕時計を見た。
午前八時四十六分。
神谷直人を名乗る男との約束は、午前九時だった。
「来ると思いますか」
野村が訊いた。
「わからん」
真壁は答えた。
「相手は、自分から連絡してきた」
「はい」
「だが、こちらを誘い出すことが目的かもしれない」
野村は頷いた。
「警戒します」
真壁は静かに言った。
「警戒は必要だ。だが、相手が本当に神谷直人なら、八年間も姿を隠していた理由があるはずだ」
「はい」
「話を聞く前から犯人扱いするな」
野村は頷いた。
「わかっています」
真壁は建物へ目を向けた。
「それから、今日は一つだけ決めておこう」
「何です」
「何が出てきても、まず記録する」
野村は真壁を見た。
「はい」
「俺の父親の名前が出ても、母親の名前が出ても、例外にはしない」
野村は静かに頷いた。
「わかりました」
そのとき、駐車場の入口に一台の軽自動車が現れた。
灰色の古い車だった。
ゆっくり進み、建物から少し離れた場所に停まった。
運転席の扉が開いた。
男が降りてきた。
五十歳前後。
痩せた身体。
黒い上着。
髪には白いものが混じっていた。
男は車の横に立ち、真壁たちを見た。
そして、ゆっくり歩いてきた。
「真壁修司さんですね」
低い声だった。
電話で聞いた声に似ていた。
「そうです」
真壁は答えた。
「あなたは」
男は少し躊躇した。
それから、静かに言った。
「神谷直人です」
真壁は男の顔を見つめた。
二〇一八年に姿を消した人物。
神谷誠一の息子。
その本人を名乗る男が、目の前に立っていた。
「身分を確認させてください」
真壁が言った。
男は頷いた。
「当然ですね」
財布から、古い運転免許証を取り出した。
有効期限は切れていた。
写真は、いまより少し若い。
氏名。
神谷直人。
生年月日。
一九七二年五月十七日。
真壁は確認した。
「現在の身分証明書はありますか」
男は首を振った。
「ありません」
「では、本人確認は別途行います」
「わかっています」
男は頷いた。
真壁は免許証を返した。
「今日は、何を見せていただけるんですか」
神谷は旧館を見上げた。
「父が残した記録です」
「どこに」
「地下二階です」
真壁は頷いた。
「案内してください」
神谷は、しばらく建物を見つめていた。
そして、小さく言った。
「ここへ戻るのは、八年ぶりです」
真壁は、その横顔を見た。
「二〇一八年六月十八日ですか」
神谷の表情が変わった。
「調べたんですね」
「はい」
「そうです」
神谷は頷いた。
「私は、その日にここへ来ました」
「何のために」
神谷は答えた。
「父の死を確かめるためです」
真壁は静かに言った。
「そして、姿を消した」
神谷は目を伏せた。
「はい」
「なぜです」
神谷は答えなかった。
やがて、ゆっくり口を開いた。
「私が死んだことになれば、調査を続けられると思ったからです」
真壁の目が細くなった。
「誰かに命を狙われていたんですか」
「そう思っていました」
「実際に脅迫を受けたんですか」
神谷は首を振った。
「証明できるものはありません」
真壁は頷いた。
「わかりました」
そして、静かに言った。
「では、まず記録を見ましょう」
二 床下の封印
午前九時三十八分。
地下二階。
観測補助室。
真壁、野村、神谷の三人は、狭い部屋に立っていた。
鑑識担当者と施設管理者も、廊下側で待機している。
神谷は、部屋の中央に置かれた机を見た。
「まだ残っていたんですね」
真壁が訊いた。
「この机を知っているんですか」
神谷は頷いた。
「八年前にもありました」
「何を見つけたんです」
神谷は答えた。
「床下の記録です」
真壁の目が細くなった。
「そのとき、持ち出したんですか」
「いいえ」
「なぜ」
神谷は少し黙った。
「怖くなったからです」
真壁は答えなかった。
神谷は続けた。
「父の名前が、そこにありました」
「神谷誠一ですか」
「はい」
「ほかには」
神谷は真壁を見た。
「あなたの名前もありました」
真壁は動かなかった。
「俺の?」
「はい」
神谷は床を指した。
「この下です」
机を移動すると、床板の一部に細い切れ目が見つかった。
真壁はしゃがみ込んだ。
「ここか」
神谷が頷いた。
「そうです」
床板には、小さな金具が埋め込まれていた。
鑑識担当者が状態を記録したあと、慎重に持ち上げた。
その下には、浅い空間があった。
中には、黒い金属箱が置かれていた。
表面には、白い文字。
《M―17》
真壁は息を止めた。
自分の識別番号。
これまで何度も見てきた記号だった。
二〇一〇年の観測記録。
父親の腕時計。
二〇二二年の映像。
そして、一九八一年の事故。
真壁は箱を見つめた。
「開けてください」
鑑識担当者が頷いた。
外観を撮影し、封印の状態を確認する。
箱の蓋には、赤い蝋が残っていた。
そこに押された印。
《S・C》
真壁の目が細くなった。
母親。
杉浦千鶴。
その頭文字と一致する。
だが、同じ印が別の人物によって使われていた可能性もある。
真壁は静かに言った。
「開封の経緯も、すべて記録してください」
「はい」
封印が慎重に処理された。
蓋が開く。
中には、厚い封筒が一通入っていた。
表には、手書きの文字。
《観測対象M―17》
《観測開始日 昭和五十六年九月二十三日》
真壁は、しばらくその文字を見つめていた。
三歳。
事故の日。
自分は、まだ幼い子どもだった。
その自分が、なぜ研究の観測対象になっていたのか。
野村が小さく言った。
「真壁さん」
真壁は頷いた。
「大丈夫だ」
そして、封筒の中身を確認した。
三 三歳の観測対象
封筒には、数十枚の書類が入っていた。
一枚目。
《観測対象登録票》
氏名。
真壁修司。
生年月日。
一九七八年。
観測開始日。
一九八一年九月二十三日。
真壁は目を細めた。
「間違いなく、俺の名前だ」
野村が頷いた。
「はい」
次の項目。
《観測目的》
《保護者の重大な心理的変化が幼児の記憶形成に与える影響》
真壁は、しばらく黙った。
「保護者?」
野村が訊いた。
真壁は頷いた。
「俺自身に何かをする研究ではなかったのかもしれない」
神谷が口を開いた。
「最初は、そうだったそうです」
真壁が顔を上げた。
「誰から聞きました」
「父からです」
「いつ」
「二〇一八年です」
真壁は黙った。
神谷は続けた。
「父を名乗る男は、こう言いました」
『子どもは、親の嘘を覚える』
真壁の表情が変わった。
神谷は静かに言った。
「それが、この研究の出発点だったそうです」
真壁は書類を見つめた。
保護者の心理的変化。
幼児の記憶形成。
一九八一年九月二十三日。
父親は、交通事故の現場へ行った。
そこで何かを見た。
そのあと、家庭へ戻った。
そして、三歳の息子と暮らした。
父親の沈黙。
母親の不安。
家庭の中に持ち込まれた秘密。
それが幼い子どもの記憶へ、どのような影響を与えるのか。
誰かが、それを調べようとしたのだろうか。
真壁は次のページをめくった。
《観測対象の家庭環境》
父。
真壁修一。
母。
杉浦千鶴。
子。
真壁修司。
その下に、短い文章があった。
《保護者の一方が重大事件に関する情報を秘匿している》
《他方の保護者は、その事実を認識している可能性がある》
真壁は息を止めた。
父親。
母親。
そして、幼い自分。
家族の中にある秘密そのものが、観測対象だった。
「ひどい話ですね」
野村が呟いた。
真壁は答えなかった。
まだ、書類を作った人間の意図はわからない。
だが、少なくとも、家族の私生活が研究記録として扱われていた。
真壁は静かに言った。
「野村」
「はい」
「この研究が実際にどこまで行われたのか、確認する」
「はい」
「書類があるだけでは、俺が実験を受けた証拠にはならん」
野村は頷いた。
真壁は次のページをめくった。
そこには、観測日誌があった。
一九八一年十月。
《対象児、父親の帰宅時に強い反応》
十一月。
《対象児、母親の不安に敏感》
十二月。
《対象児、同一の質問に対して回答が変化》
真壁は眉を寄せた。
三歳の子どもなら、質問への答えが変わることは珍しくない。
それを研究の結果として記録することに、どれほど意味があったのか。
真壁は静かに言った。
「これだけでは、何も証明できない」
野村が頷いた。
「そうですね」
真壁はページをめくった。
一九八二年。
一九八三年。
一九八四年。
観測は続いていた。
そして、一九八八年。
母親が亡くなった年。
そこには、赤い文字が書かれていた。
《家庭環境の重大な変化》
《母親死亡》
《観測継続》
真壁の手が止まった。
母親が亡くなったあとも。
誰かが、自分を見ていた。
真壁はゆっくり息を吐いた。
「いつまでだ」
ページをめくる。
一九九〇年。
一九九五年。
二〇〇〇年。
二〇〇九年。
父親が亡くなった年。
そして、二〇一〇年。
京都の研究施設。
岡崎玲子の転落。
真壁自身の記憶の空白。
観測記録は、そこまで続いていた。
最後のページには、短い文章があった。
《M―17は、観測対象から管理候補へ移行》
《本人の同意は得られず》
《記憶誘導処置実施》
真壁は、しばらく動かなかった。
「本人の同意は得られず……」
野村が呟いた。
真壁は頷いた。
「ああ」
「それなのに、処置をした」
「そう書いてある」
真壁は書類を閉じた。
二〇一〇年六月十八日。
自分は、何かを拒否した。
そして、記憶を誘導する処置を受けたと記録されている。
それが事実なら、重大な問題だった。
しかし、誰が実施したのか。
どのような方法だったのか。
記録の作成者は誰なのか。
まだ、何も確定していない。
真壁は静かに言った。
「これを作った人間を探す」
野村が頷いた。
「はい」
四 神谷直人の八年間
午前十一時五十分。
旧病院の一階。
かつての待合室で、真壁は神谷直人と向かい合っていた。
窓の外には、薄い日差しが差し込んでいた。
「神谷さん」
真壁が言った。
「はい」
「二〇一八年に、あなたが会った人物について聞かせてください」
神谷は頷いた。
「父を名乗っていました」
「顔は」
「父に似ていました」
「どの程度」
神谷は少し考えた。
「若いころの写真を年老いた姿にしたような感じです」
真壁は頷いた。
「あなたが覚えている父親の顔と、直接比較できましたか」
神谷は首を振った。
「私は九歳でしたから」
「そうですね」
神谷は続けた。
「それに、父は事故の前から仕事で家を空けることが多かったんです」
真壁は頷いた。
「その人物は、自分を神谷誠一だと名乗った」
「はい」
「何を話しましたか」
神谷は答えた。
「事故で死んだのは、自分ではないと言いました」
「はい」
「そして、自分は石倉正一だったかもしれない、と」
真壁の目が細くなった。
「だったかもしれない?」
神谷は頷いた。
「本人にも、はっきりしないと言っていました」
真壁は黙った。
「それで、あなたはどうしたんです」
神谷は答えた。
「父の記録を見せてほしいと言いました」
「見せてくれましたか」
「いいえ」
「なぜ」
神谷は静かに言った。
「記録を見れば、私も自分の記憶を疑うことになると言われました」
真壁は眉を寄せた。
「どういう意味です」
神谷は首を振った。
「わかりません」
「そのあと」
「病院へ来ました」
「地下二階へ?」
「はい」
「どうやって入ったんです」
神谷は少し躊躇した。
「案内されたんです」
真壁の目が細くなった。
「誰に」
神谷は答えた。
「女性でした」
「名前は」
「相沢美紀と名乗っていました」
真壁は動かなかった。
相沢美紀。
二〇二〇年に死亡したことになっている女性。
現在、奈良県警で身元確認を進めている人物。
神谷は続けた。
「その女性は、私に地下二階の記録を見せました」
「何の記録です」
「父の死亡記録です」
真壁は頷いた。
「それで」
神谷は目を伏せた。
「父が本当に亡くなっていたかもしれないと思いました」
「はい」
「でも、その女性は言ったんです」
真壁は顔を上げた。
「何と」
神谷は静かに答えた。
「死んだ人間の名前を、生きている人間へ渡すことができる、と」
真壁は黙った。
神谷は続けた。
「私は、意味がわかりませんでした」
「……」
「でも、石倉正一という人間が、神谷誠一として扱われていた記録を見ました」
真壁は静かに訊いた。
「その記録は、今もありますか」
神谷は頷いた。
「地下に残っているはずです」
「場所は」
「観測補助室の隣です」
真壁は眉を寄せた。
「隣?」
「はい」
「そこには、別の部屋があるんですか」
神谷は頷いた。
「あります」
真壁は静かに息を吐いた。
地下二階。
観測室。
観測補助室。
原記録保管室。
そして、さらに別の部屋。
この建物には、いったいどれだけの記録が隠されているのか。
真壁は神谷を見た。
「なぜ、八年間も姿を隠していたんです」
神谷は長い時間、黙っていた。
そして、静かに答えた。
「私の名前でも、記録が作られていたからです」
真壁の目が細くなった。
「どういうことです」
神谷は答えた。
「二〇一八年六月十八日」
「はい」
「私が病院へ来た日です」
神谷は顔を上げた。
「その日、私は死亡したことになっていました」
真壁は息を止めた。
「死亡届が出されたんですか」
神谷は首を振った。
「いいえ」
「では」
「研究の記録の中で、です」
真壁は黙った。
神谷は続けた。
「観測終了」
「……」
「対象者死亡」
真壁は目を細めた。
「あなたは、それを見たんですか」
神谷は頷いた。
「はい」
「なぜ、そう記録されたと思いますか」
神谷は答えた。
「私が、父の名前を取り戻そうとしたからです」
真壁は静かに言った。
「それは、あなたの考えですね」
「はい」
神谷は頷いた。
「でも、私は怖くなりました」
真壁は黙った。
「警察に相談しようとは思わなかったんですか」
神谷は苦笑した。
「警察の人間も、記録に関わっていたんです」
真壁は答えなかった。
「誰を信用すればいいのかわからなかった」
神谷の声が小さくなった。
「だから、逃げました」
真壁はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「八年間、どこにいたんです」
神谷は答えた。
「京都の山間部です」
「仕事は」
「住み込みの管理人をしていました」
「誰の施設ですか」
神谷は少し躊躇した。
「白鷺文化研究財団です」
真壁の目が細くなった。
また、その名前だった。
二〇二二年の映像。
研究施設のカレンダー。
資金の流れ。
そして、神谷直人の失踪。
真壁は静かに言った。
「神谷さん」
「はい」
「あなたは、本当に逃げていたんですか」
神谷は顔を上げた。
「どういう意味です」
「研究財団の施設で、八年間働いていた」
「はい」
「あなたが恐れていた相手と、同じ組織にいた可能性がある」
神谷は黙った。
真壁は続けた。
「誰かに匿われていたんですか」
神谷は目を伏せた。
長い沈黙。
そして。
「そうかもしれません」
真壁は眉を寄せた。
「誰に」
神谷は答えた。
「相沢美紀です」
五 同じ女、違う記録
午後二時二十分。
奈良県警本部。
真壁は、相沢美紀の身元確認に関する報告を受けていた。
指紋。
DNA。
戸籍資料。
過去の医療記録。
複数の照合が進められていた。
担当者は、慎重な口調で説明した。
「現時点では、相沢美紀を名乗る女性の指紋と、過去に相沢美紀名義で登録された指紋資料に一致所見があります」
真壁は頷いた。
「資料の由来は」
「確認中です」
「DNAは」
「親族資料との比較を進めています」
「二〇二〇年の死亡記録は」
担当者は資料をめくった。
「問題があります」
真壁の目が細くなった。
「何です」
「死亡したとされる女性の遺体について、身元確認が十分ではありません」
真壁は黙った。
「顔貌による確認が困難で、所持品と関係者の申告をもとに相沢美紀と判断されたようです」
野村が息を呑んだ。
「また、同じですね」
真壁は頷いた。
「そうだな」
一九八一年。
岸田昭彦。
神谷誠一。
そして、二〇二〇年。
相沢美紀。
顔で確認できない遺体。
所持品。
関係者の申告。
それによって、死亡者の名前が決められていた。
真壁は静かに言った。
「二〇二〇年の遺体についても、改めて身元確認を進めてください」
担当者が頷いた。
「わかりました」
真壁は続けた。
「それから、相沢美紀を名乗る女性に、神谷直人のことを確認したい」
野村が頷いた。
「手配します」
真壁は椅子へ座った。
相沢美紀。
二〇一〇年の記憶誘導処置に関わったとされる女性。
二〇一八年、神谷直人を地下二階へ案内したという。
そして、二〇二六年、奈良県警の地下へ突然現れた。
彼女は、どこまで知っているのか。
真壁は静かに呟いた。
「美紀さん」
誰も答えなかった。
「あなたは、何を守っているんだ」
六 父親の署名
午後四時十分。
奈良中央記念病院旧館。
真壁と野村は、再び地下二階へ降りた。
神谷直人の案内で、観測補助室の隣にある小さな扉を確認した。
扉には、文字が残されていた。
《記録照合室》
室内には、古い書類棚が並んでいた。
その一角に、黒いファイルがあった。
《1981・9・23》
真壁は、慎重に中身を確認した。
一枚目。
事故記録。
二枚目。
死亡者の身元確認。
三枚目。
観測対象M―17。
そして、四枚目。
《観測計画承認書》
真壁の目が細くなった。
承認者。
《真壁修一》
父親の名前だった。
真壁は動かなかった。
「親父が……」
野村が顔を上げた。
「承認したんですか」
真壁は首を振った。
「署名がある」
「はい」
「だが、本人が書いたものかどうかは、まだわからん」
真壁は資料を見つめた。
承認日。
一九八一年九月二十三日。
事故の日。
真壁修一。
父親。
その署名が、観測計画の開始を認めていた。
真壁は、次のページをめくった。
《観測対象 真壁修司》
《年齢 三歳》
《観測目的 家庭内記憶形成の長期追跡》
そして、最後の項目。
《保護者同意》
父。
真壁修一。
母。
杉浦千鶴。
二人の名前が記されていた。
真壁は息を止めた。
母親も。
同意していたのか。
真壁は書類を見つめた。
だが、署名欄の文字には違和感があった。
父親の名前は、はっきりした筆圧で書かれている。
母親の名前は、細く、少し傾いていた。
真壁は母親の日記の文字を思い出した。
あの柔らかい字。
少し右上がりの癖。
しかし、この署名には、それがなかった。
「野村」
「はい」
「母の筆跡と比較しよう」
野村が頷いた。
「はい」
真壁は続けた。
「父の署名もだ」
「わかりました」
真壁は書類を閉じた。
父親が承認したのか。
母親も同意したのか。
それとも、誰かが二人の名前を使ったのか。
真壁は静かに言った。
「まだ、何も決めつけられない」
野村が頷いた。
「はい」
そのとき、神谷直人が口を開いた。
「真壁さん」
「何です」
「その書類には、続きがあります」
真壁が顔を上げた。
「続き?」
神谷は頷いた。
「最後のページです」
真壁はファイルをめくった。
一番後ろ。
そこには、薄い紙が挟まっていた。
《観測計画変更通知》
日付。
一九八一年九月二十四日。
事故の翌日。
真壁の目が細くなった。
《観測対象M―17について、計画を一時停止する》
《理由 保護者からの異議申し立て》
真壁は息を止めた。
「異議申し立て……」
野村が呟いた。
真壁は続きを読む。
《異議申立人 杉浦千鶴》
母親だった。
真壁は、しばらく動かなかった。
母親は、観測計画に異議を申し立てていた。
承認書に署名があるのに。
翌日には、計画の停止を求めている。
真壁は静かに言った。
「母は、反対したんだ」
野村が頷いた。
「そうですね」
「少なくとも、この記録では」
真壁は続けた。
「父は、どうしたんだ」
次の行。
《真壁修一、異議申し立てを受理》
《観測計画停止を指示》
真壁は息を止めた。
父親も。
停止を指示していた。
真壁は、書類を見つめた。
二人は、観測計画を止めようとしていた。
だが、その後も記録は続いていた。
一九八二年。
一九八八年。
二〇一〇年。
誰かが、停止命令を無視したのか。
それとも、別の計画として続けたのか。
真壁は静かに言った。
「野村」
「はい」
「計画を再開した人間がいるはずだ」
野村が頷いた。
「はい」
「その名前を探す」
真壁はファイルを閉じた。
そのとき、神谷直人が静かに言った。
「真壁さん」
「何です」
「もう一枚あります」
真壁が顔を上げた。
神谷は、棚の奥を指した。
そこには、別の封筒があった。
表には、赤い文字。
《観測計画再開承認》
真壁は息を止めた。
封筒を確認する。
日付。
一九八一年十月一日。
承認者。
真壁は、ゆっくり文字を読んだ。
《相沢信一》
真壁の目が細くなった。
最初の計画者。
相沢信一。
父親と母親が止めようとした計画を、相沢が再開させた可能性がある。
真壁は静かに言った。
「そういうことか」
野村が顔を上げた。
「何です」
真壁は答えた。
「親父と母さんは、最初から俺を観測対象にしようとしたわけじゃないのかもしれん」
野村が頷いた。
「はい」
「だが、相沢は計画を続けた」
「そうですね」
真壁は封筒を見つめた。
「それが、二〇一〇年まで続いた可能性がある」
野村は黙った。
真壁は静かに言った。
「相沢信一に、もう一度会う必要がある」
野村が頷いた。
「はい」
「ただし、認知機能の状態を考慮しなければならん」
「わかっています」
真壁は資料を閉じた。
七 消された承認者
午後七時二十五分。
奈良県警本部。
真壁は、観測計画の承認書を並べていた。
一九八一年九月二十三日。
真壁修一。
杉浦千鶴。
一九八一年九月二十四日。
計画停止。
一九八一年十月一日。
相沢信一による再開。
その後、二〇一〇年まで観測が続いた。
真壁は静かに言った。
「野村」
「はい」
「相沢信一が再開したという記録はある」
「はい」
「だが、その後の管理責任者が誰だったか、まだわからん」
野村は頷いた。
「そうですね」
真壁は資料をめくった。
一九八五年。
一九九〇年。
一九九五年。
二〇〇〇年。
管理者欄には、記号が並んでいた。
《K―04》
《O―03》
《M―17》
真壁は眉を寄せた。
「人名じゃない」
野村が頷いた。
「はい」
「観測記録の識別番号だ」
「そうですね」
真壁は静かに言った。
「管理者の名前が、記録番号に置き換えられている」
野村は黙った。
真壁は続けた。
「だから、誰が責任者だったのかわからなくなる」
「はい」
真壁は資料を閉じた。
「実名の管理台帳を探そう」
野村が頷いた。
「わかりました」
そのとき、真壁の携帯電話が震えた。
差出人不明。
短いメッセージ。
《M―17の観測開始日を確認しましたね》
真壁は画面を見つめた。
続けて、二通目。
《あなたのお父様は、観測を止めようとしました》
真壁の目が細くなった。
三通目。
《しかし、止められなかった》
真壁は静かに息を吐いた。
四通目。
《なぜなら、観測対象はあなた一人ではなかったからです》
真壁は動かなかった。
観測対象。
M―17。
N―18。
野村亮介。
真壁は、ゆっくり野村を見た。
「野村」
「はい」
「お前の記録も、同じ時期に始まっていた可能性がある」
野村の表情が変わった。
「僕の?」
「ああ」
真壁は続けた。
「N―18だ」
野村は黙った。
真壁は携帯電話を伏せた。
「だが、これも匿名のメッセージだ」
野村が頷いた。
「はい」
「まず、実際の記録を探そう」
野村は静かに頷いた。
真壁は窓の外を見た。
奈良の夜。
遠くに、車のライトが流れていた。
一九八一年。
三歳の自分。
父親。
母親。
そして、相沢信一。
家族の秘密を観測する研究。
その研究は、誰かの意思で止められた。
しかし、別の誰かが再開させた。
真壁は静かに呟いた。
「親父」
誰も答えなかった。
「お前は、どこまで知っていたんだ」
そのとき、野村が声を上げた。
「真壁さん」
「何だ」
「一九八一年の観測記録に、もう一つ名前があります」
真壁が振り返った。
「誰だ」
野村は資料を指した。
《観測補助対象》
《N―18》
真壁の目が細くなった。
「やはり、あったか」
野村は頷いた。
「はい」
真壁は続けた。
「開始日は」
野村は資料を見た。
そして、表情を変えた。
「一九八一年九月二十三日です」
真壁は動かなかった。
同じ日。
同じ事故の日。
M―17。
N―18。
二人の観測開始日が、同じだった。
真壁は静かに言った。
「野村」
「はい」
「お前は、何歳だった」
野村は首を振った。
「まだ生まれていません」
真壁は息を止めた。
そうだった。
野村亮介は、真壁よりずっと若い。
一九八一年には、まだ生まれていなかった。
それなのに、観測開始日が同じ。
真壁は資料を見つめた。
N―18。
野村亮介。
その識別番号は、後から野村に割り当てられたのか。
あるいは、もともと別の人間の番号だったのか。
真壁は静かに言った。
「野村」
「はい」
「N―18は、最初からお前の番号だったとは限らない」
野村は黙った。
真壁は続けた。
「一九八一年に観測されていた別の人物がいた可能性がある」
野村が頷いた。
「はい」
真壁は資料をめくった。
その下に、手書きの文字があった。
《N―18 初代対象者》
真壁の目が細くなった。
初代。
その言葉は、識別番号が引き継がれた可能性を示していた。
さらに次の行。
《対象者氏名 野村真紀》
真壁は息を止めた。
野村の母親。
二〇一〇年に死亡したことになっている女性。
相沢美紀の姉。
そして、二〇一〇年六月十八日、京都の研究所で生きていた可能性がある人物。
野村は、資料を見つめたまま動かなかった。
「母さん……」
真壁は静かに言った。
「野村」
「はい」
「一九八一年のN―18は、お前の母親だった可能性がある」
野村は頷いた。
「はい」
真壁は続けた。
「そして、その番号が、後からお前に引き継がれた」
野村は黙った。
真壁は資料を閉じた。
「なぜ引き継がれたのか、調べよう」
野村は静かに頷いた。
「わかりました」
真壁は、もう一度窓の外を見た。
一九八一年。
真壁修司、三歳。
野村真紀。
そして、四十五年後。
真壁修司。
野村亮介。
二つの名前。
二つの世代。
同じ識別番号。
真壁は静かに呟いた。
「親から子へ、何を引き継がせたんだ」
その答えは、まだわからなかった。
だが、真壁は初めて、事件の中心にあるものが見えた気がした。
それは、特定の人物の記憶を操作することだけではなかった。
親が隠した秘密を、子どもがどう受け取るのか。
その過程を、何十年にもわたって観測すること。
そして、必要なら記録を改変し、別の記憶を与えること。
誰かが、人間の人生を、世代を超えた実験として扱っていた。
真壁は静かに言った。
「野村」
「はい」
「もう、俺たちだけの問題じゃない」
野村が頷いた。
「はい」
真壁は資料を机へ置いた。
「これまで観測された人間を、全員調べる」
野村は静かに頷いた。
「わかりました」
そして、真壁はまだ知らなかった。
地下二階の記録照合室。
その最も古い台帳には、M―17とN―18のほかに、もう一つ識別番号が記されていた。
《S―00》
その下には、短い文章。
《原観測者》
そして、氏名欄。
《杉浦千鶴》
真壁の母親が使っていた名前だった。
ただし、その登録日は、一九七四年六月十二日。
本来の杉浦千鶴が、まだ生きていた日だった。
第三十章に続く

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