東野圭吾を模倣し、元首相暗殺事件を題材にしたオリジナル小説『二発目の空白』第二十四章

目次

第二十四章 死者の右耳

一 四十一年前の事故

十月二十日、午前八時十二分。

奈良県警本部の資料室には、古い紙の匂いが漂っていた。

真壁修司は、机の上に置かれた一冊の事故記録を見つめていた。

《昭和五十六年九月二十三日》

《京都府内交通死亡事故》

《死亡者 岸田昭彦》

一九八一年。

真壁が三歳だった年。

父親の真壁修一が、まだ若い刑事として働いていたころの記録だった。

「京都府警から届きました」

野村亮介が言った。

「原本の複写です。原本自体は、京都府警の保管庫にあります」

真壁は頷いた。

「確認したいのは三つだ」

「はい」

「遺体を誰が確認したか」

「はい」

「死亡者の身元を、何によって判断したか」

「はい」

「それから、事故現場にいた人間だ」

野村は頷いた。

真壁は資料を開いた。

事故発生時刻。

午後十一時四十八分。

場所。

京都府南部の山間道路。

車両はガードレールを突き破り、斜面へ転落。

火災発生。

運転席から男性一名の遺体を発見。

死亡者。

岸田昭彦。

真壁は次のページをめくった。

《身元確認者 岸田正彦》

その下に、もう一つ名前があった。

《立会人 真壁修一》

真壁の指が止まった。

「父が立ち会っている」

野村が覗き込んだ。

「本当ですね」

「岸田さんの弟が亡くなった事故だ。父が駆けつけても不思議ではない」

「でも、奈良県警の刑事ですよね」

「ああ」

真壁は資料をめくった。

《遺体損傷著しく、顔貌による識別困難》

《所持品及び関係者証言により身元確認》

真壁は顔を上げた。

「顔で確認できていない」

野村が頷いた。

「はい」

「所持品は」

「腕時計、財布、運転免許証です」

真壁は静かに言った。

「それだけでは、車に乗っていた人間が岸田昭彦だったとは断定できない」

「そうですね」

「ただし、だからといって別人だったことにもならん」

野村は頷いた。

真壁は資料を読み進めた。

そして、最後のページで手を止めた。

《現場離脱者に関する参考情報》

そこには、短い文章が記されていた。

《事故発生前後、現場付近を徒歩で移動する男性一名を目撃》

《年齢三十歳前後》

《濃色上着》

《右耳下部に瘢痕様の特徴》

真壁は息を止めた。

右耳の下。

傷跡。

二〇二二年七月八日の映像に映っていた男と同じ特徴だった。

「野村」

「はい」

「ここを見ろ」

野村が顔を近づけた。

「右耳の下に傷跡……」

「ああ」

真壁は頷いた。

「昨日の映像と一致する特徴だ」

「では、事故現場から逃げた男が」

「待て」

真壁は遮った。

「四十一年前の目撃情報だ」

「……」

「傷跡の位置が似ているだけで、同じ人物とは言えない」

野村は頷いた。

「はい」

真壁は次の行を見た。

《氏名不詳》

その下に、鉛筆で書き加えられた文字があった。

《黒田修一か》

真壁の目が細くなった。

父親と同じ名前。

一九七四年の薬剤投与に関わった男。

その黒田が、事故現場にいた可能性。

「また黒田か」

真壁が呟いた。

野村は言った。

「黒田さんに確認しますか」

「ああ」

真壁は資料を閉じた。

「だが、その前に京都へ行く」

「なぜです」

「原本を見る」

真壁は静かに言った。

「誰が、いつ、この名前を書き加えたのか。それを確かめる」


二 書き加えられた名前

午前十一時三十分。

京都府警の資料保管室。

真壁と野村は、古い事故記録の原本を確認していた。

厚い紙。

色褪せた文字。

錆びた綴じ金具。

表紙の端には、何度も開かれた跡があった。

「これが原本です」

京都府警の担当者が言った。

真壁は頭を下げた。

「ありがとうございます」

資料を開く。

事故状況。

現場見取図。

遺体確認記録。

そして、問題のページ。

《現場離脱者に関する参考情報》

その下。

《黒田修一か》

真壁は文字を見つめた。

筆圧が違う。

鉛筆の濃さも違う。

ほかの記載より、明らかに後から書かれたように見えた。

「追記した人物はわかりますか」

真壁が訊いた。

担当者は首を振った。

「記録が残っていません」

「閲覧履歴は」

「古いものは不完全です」

真壁は頷いた。

「わかりました」

野村が言った。

「誰かが後から黒田さんの名前を書いた可能性がありますね」

「ああ」

「でも、いつ書かれたかは」

「まだわからん」

真壁はページをめくった。

事故現場の写真。

焼けた車。

破損したガードレール。

路面に残るタイヤ痕。

そして、遠くに見える一本の電柱。

真壁は写真を見つめた。

「野村」

「はい」

「この写真を見てくれ」

野村が覗き込んだ。

「何かありますか」

「電柱の位置だ」

真壁は現場見取図を示した。

写真では、電柱は車両の左後方にある。

しかし、見取図では右後方に描かれていた。

「左右が逆ですね」

野村が言った。

「ああ」

「写真が反転している?」

「その可能性がある」

真壁は頷いた。

「だが、撮影方向が違うだけかもしれない。ほかの構造物と照合しよう」

担当者が別の写真を持ってきた。

同じ現場。

別の角度。

真壁は二枚を並べた。

そして、眉を寄せた。

「おかしいな」

野村が顔を上げた。

「何がです」

「車の損傷だ」

真壁は写真を指した。

一枚目。

運転席側の扉が大きく潰れている。

二枚目。

同じ位置の扉が、ほとんど原形を保っている。

野村が息を呑んだ。

「違う車?」

真壁は答えなかった。

写真をもう一度見た。

車種。

色。

ナンバープレート。

同じように見える。

しかし、細部が違う。

「野村」

「はい」

「写真の原板を探してもらおう」

「はい」

真壁は担当者へ向き直った。

「この事故の写真ネガは残っていますか」

担当者は少し考えた。

「古い鑑識資料の中にあるかもしれません」

「確認をお願いします」

担当者は頷いた。

真壁は写真を見つめた。

一九八一年。

岸田昭彦の死亡事故。

その記録にも、写真の不一致があった。

しかし、これまでの事件では、偽造されたように見える写真そのものが、捜査官を誘導するために用意されていたことがある。

真壁は静かに言った。

「写真が違うからといって、すぐ偽造と決めるな」

野村が頷いた。

「はい」

「撮影時刻、撮影位置、車両の移動履歴。全部確認する」

「わかりました」

真壁は資料を閉じた。

「それから、当時の現場担当者を探そう」


三 事故を見た男

午後二時十分。

京都府南部。

山間の小さな町。

真壁と野村は、古い民家を訪ねていた。

玄関を開けたのは、八十代の男性だった。

名前は、藤田耕三。

一九八一年当時、事故現場へ最初に駆けつけた警察官の一人だった。

「ずいぶん昔の話だな」

藤田は言った。

「四十五年近く前です」

真壁が答えた。

「覚えていることだけで構いません」

藤田は二人を居間へ通した。

古い時計が、壁に掛かっていた。

畳の上に座ると、藤田は静かに話し始めた。

「事故の夜は、雨が降っていた」

真壁は頷いた。

「記録にもあります」

「山道でな。見通しが悪かった」

「はい」

「車が燃えているという通報が入った」

「誰から」

藤田は少し考えた。

「近くを通った運転手だったと思う」

真壁は頷いた。

「現場には、何人いましたか」

「警察が着いたときか」

「はい」

「二人いた」

真壁の目が細くなった。

「二人?」

「ああ」

「一人は」

「車の近くにいた男だ」

「もう一人は」

藤田は答えた。

「少し離れた場所に立っていた」

真壁は身を乗り出した。

「どんな人物でした」

藤田は目を閉じた。

「若い男だった」

「年齢は」

「三十歳くらいかな」

「服装は」

「黒っぽい上着だった」

真壁は頷いた。

「顔は覚えていますか」

藤田は首を振った。

「暗かったからな」

「傷跡は」

藤田は少し考えた。

「……耳の下に、何かあった気がする」

真壁の表情が変わった。

「右ですか、左ですか」

藤田は首を振った。

「そこまでは覚えていない」

真壁は頷いた。

「ありがとうございます」

藤田は続けた。

「ただ、その男は変なことを言っていた」

「何と」

藤田は静かに答えた。

「死んだのは、運転手じゃない、と」

真壁は息を止めた。

「どういう意味です」

「わからん」

「その男は、誰が亡くなったと言っていましたか」

藤田は首を振った。

「名前は言わなかった」

真壁は黙った。

「ただ、こう言った」

「何と」

藤田は答えた。

「車に乗っていたのは、二人だった、と」

野村が顔を上げた。

「二人?」

「ああ」

「でも、遺体は一人ですよね」

藤田は頷いた。

「そうだ」

真壁は眉を寄せた。

「もう一人は、逃げたんでしょうか」

藤田は答えなかった。

しばらくして、静かに言った。

「俺は、あの夜、もう一人の男を見たと思っている」

真壁は顔を上げた。

「どこで」

「斜面の下だ」

「事故車両の近くですか」

「ああ」

「どんな男でした」

藤田は目を閉じた。

「血だらけだった」

真壁は息を止めた。

「顔は」

「見えなかった」

「生きていましたか」

藤田は頷いた。

「動いていた」

真壁は黙った。

「そのあと、どうなったんです」

藤田は答えた。

「わからん」

「なぜ」

藤田は静かに言った。

「別の警察官が来て、俺は現場から離された」

真壁の目が細くなった。

「誰に」

藤田は答えた。

「奈良県警の刑事だ」

「名前は」

藤田は少し考えた。

「真壁……だったかな」

真壁は動かなかった。

父親。

真壁修一。

「真壁修一ですか」

藤田は頷いた。

「そうだと思う」

真壁は静かに息を吐いた。

父親は、事故現場へ来ていた。

そして、現場にいた警察官を離した。

なぜ。

「父は、何と言ったんです」

真壁が訊いた。

藤田は答えた。

「ここから先は、こちらで引き受ける、と」

真壁は黙った。

「そのあと、現場へ戻りましたか」

「いや」

「なぜ」

藤田は答えた。

「戻る必要はないと言われた」

真壁は頷いた。

「わかりました」

藤田は真壁を見た。

「お前さん、真壁修一の息子か」

真壁は頷いた。

「はい」

藤田はしばらく真壁を見つめていた。

そして、静かに言った。

「よく似ているな」

真壁は答えなかった。

藤田は続けた。

「だが、目は違う」

真壁が顔を上げた。

「どう違いますか」

藤田は少し笑った。

「お前さんの方が、疑う目をしている」

真壁は小さく笑った。

「刑事ですから」

藤田は頷いた。

「そうだな」


四 もう一人の負傷者

午後四時四十分。

京都府警本部。

真壁と野村は、事故当夜の救急搬送記録を確認していた。

一九八一年九月二十三日。

午後十一時四十八分。

交通事故。

男性一名死亡。

その記録は残っていた。

しかし、別の記録が見つかった。

翌日。

九月二十四日。

午前零時二十六分。

男性一名。

頭部外傷。

右肩打撲。

搬送元。

京都府南部の山間道路。

真壁の目が細くなった。

「場所が近い」

野村が言った。

「はい」

「事故との関連は」

「記録にはありません」

真壁は頷いた。

「搬送された男性の名前は」

野村が資料を見た。

《氏名不詳》

真壁は息を止めた。

「身元不明?」

「はい」

「その後は」

野村がページをめくった。

「翌日、別の医療機関へ転院しています」

「どこへ」

野村は答えた。

「奈良中央記念病院です」

真壁は動かなかった。

奈良中央記念病院。

一九七四年の薬剤事故。

杉浦千鶴。

黒田修一。

水島圭介。

そして、一九八一年の交通事故。

また同じ病院へつながった。

「転院後の記録は」

真壁が訊いた。

野村は首を振った。

「まだ確認できていません」

真壁は頷いた。

「病院の後継施設に照会しよう」

「はい」

真壁は資料を見つめた。

事故現場で負傷した男性。

氏名不詳。

奈良中央記念病院へ転院。

もし、この男が岸田昭彦だったなら。

死亡したのは別人だった可能性がある。

しかし、そうでない可能性も十分にある。

真壁は静かに言った。

「事故現場から搬送された人物が、岸田昭彦だったかどうかを調べる」

野村は頷いた。

「はい」

「死亡した人物の身元も、最初から確認する」

「わかりました」

真壁は続けた。

「岸田さんにも話を聞こう」

野村が顔を上げた。

「弟さんのことですね」

「ああ」

「本人が遺体を確認しています」

「そうだ」

真壁は静かに言った。

「だからこそ、何を見て、何を根拠に弟だと判断したのかを聞く」


五 岸田正彦の沈黙

午後六時十二分。

奈良県警本部。

岸田正彦は、自分の執務室で真壁を待っていた。

窓の外には、夕暮れの奈良の街が広がっていた。

「京都へ行ってきたそうだな」

岸田が言った。

「はい」

「昭彦の事故か」

「そうです」

岸田は頷いた。

「何がわかった」

真壁は資料を机に置いた。

「事故当夜、もう一人の負傷者がいた可能性があります」

岸田の表情が変わった。

「……」

「その人物は、奈良中央記念病院へ搬送されています」

岸田は黙った。

真壁は続けた。

「ご存じでしたか」

長い沈黙。

そして。

「知っていた」

真壁は息を止めた。

「誰だったんです」

岸田は答えなかった。

真壁は静かに言った。

「岸田さん」

「……」

「もう、隠さないでください」

岸田は窓の外を見た。

長い沈黙。

そして。

「昭彦だ」

真壁は動かなかった。

「弟さんが?」

「ああ」

「生きていた?」

岸田は頷いた。

「事故のあと、病院へ運ばれた」

真壁は息を止めた。

「では、亡くなったのは誰です」

岸田は答えなかった。

真壁は続けた。

「死亡記録には、岸田昭彦とあります」

「知っている」

「なぜ、訂正しなかったんです」

岸田は静かに答えた。

「できなかった」

真壁の表情が変わった。

「なぜ」

岸田は椅子へ深く座った。

「昭彦は、あの事故の前に、ある記録を持ち出していた」

「何の記録です」

「一九七四年の研究資料だ」

真壁は黙った。

「それを誰かに渡そうとしていた」

「誰に」

岸田は答えた。

「真壁修一さんだ」

真壁の目が細くなった。

「父に?」

「ああ」

「では、事故は」

岸田は首を振った。

「事故だったのか、誰かが仕組んだのか、俺にはわからん」

真壁は頷いた。

「続けてください」

岸田は静かに言った。

「事故のあと、昭彦は重傷を負った」

「……」

「命は助かったが、記憶に障害が残った」

真壁は息を止めた。

「それで」

「研究関係者が、昭彦を保護すると言った」

「誰です」

岸田は答えた。

「水島圭介だ」

真壁は黙った。

最初の記録管理者。

水島圭介。

「あなたは、弟さんを水島に預けたんですか」

岸田は頷いた。

「そうだ」

「なぜ」

岸田は静かに言った。

「弟を守るためだ」

真壁は目を閉じた。

また同じ言葉。

守るため。

その言葉の下で、何人もの人生が消されてきた。

真壁は静かに言った。

「岸田さん」

「何だ」

「弟さんを守るために、別の人間を死んだことにしたんですか」

岸田は黙った。

真壁は続けた。

「死亡した人物の家族は、どうなったんです」

岸田は答えなかった。

「その人には、名前があったはずです」

岸田の肩がわずかに震えた。

真壁は静かに言った。

「誰だったんです」

長い沈黙。

そして。

岸田は答えた。

「黒田修一だ」

真壁は動かなかった。

「黒田が?」

「ああ」

「でも、黒田修一は生きています」

岸田は顔を上げた。

「何?」

真壁は静かに言った。

「昨日、奈良県警本部へ来ました」

岸田は息を止めた。

「黒田が?」

「はい」

「本人を確認したのか」

「現在、確認を進めています」

岸田は椅子から立ち上がった。

「そんなはずはない」

真壁の目が細くなった。

「なぜです」

岸田は答えた。

「黒田は、あの事故で死んだ」

真壁は黙った。

「俺が確認した」

「顔で?」

岸田は答えなかった。

真壁は続けた。

「遺体の顔は判別できなかったと記録されています」

岸田は目を伏せた。

真壁は静かに言った。

「何を根拠に、黒田だと判断したんです」

岸田は長い時間、黙っていた。

そして。

「修一さんが、そう言った」

真壁は息を止めた。

「父が?」

「ああ」

「父が、死亡したのは黒田だと」

「そうだ」

真壁は椅子へ座った。

父親。

真壁修一。

黒田修一。

二人の修一。

同じ顔。

同じ名前。

そして、事故。

真壁は静かに言った。

「岸田さん」

「何だ」

「あなたは、弟さんが生きていることを知っていた」

「ああ」

「黒田さんが死んだと聞かされていた」

「そうだ」

「それなのに、死亡記録は岸田昭彦のままにした」

岸田は頷いた。

「……そうだ」

真壁は目を閉じた。

その行為は、弟を守るためだったのかもしれない。

だが、結果として、二人の人生が記録の中で入れ替わった。

真壁は静かに言った。

「弟さんは、そのあとどうなったんです」

岸田は答えた。

「水島に連れられて、京都へ行った」

「どこへ」

「研究施設だ」

「その後は」

岸田は首を振った。

「知らない」

真壁は顔を上げた。

「最後に会ったのは」

岸田は答えた。

「一九八六年だ」

「水島が亡くなった年ですね」

「ああ」

「そのとき、弟さんは何と言っていましたか」

岸田は静かに言った。

「もう、昭彦ではない、と」

真壁は息を止めた。

「どういう意味です」

岸田は答えた。

「名前を変えたと言っていた」

真壁の目が細くなった。

「何という名前に」

岸田は長い時間、黙っていた。

そして。

「秋月浩平」

真壁は動かなかった。

秋月浩平。

二〇二二年に死亡したことになっている研究者。

二〇二六年、京都の旅館で真壁と会った男。

そして、一九八一年に事故で亡くなったことになっていた岸田昭彦。

真壁はゆっくり息を吐いた。

「岸田さん」

「何だ」

「あなたは、秋月浩平が弟さんだと知っていたんですか」

岸田は頷いた。

「知っていた」

真壁は目を閉じた。

「いつから」

「一九八六年からだ」

真壁は黙った。

「では、これまでの捜査で、なぜ話さなかったんです」

岸田は静かに答えた。

「弟を守りたかった」

真壁は目を開けた。

そして、低い声で言った。

「もう、その言葉は聞きたくありません」

岸田は何も答えなかった。

真壁は続けた。

「あなたが弟さんを守ろうとしたことで、別の人間が傷ついた可能性があります」

「……」

「その人たちのことを、考えたことはありますか」

岸田は目を伏せた。

長い沈黙。

そして。

「毎日、考えている」

真壁は静かに言った。

「なら、今度こそ話してください」

岸田は頷いた。

「わかった」


六 右耳の傷

午後八時三十五分。

奈良県警本部。

真壁は、秋月浩平を名乗る男の写真を見つめていた。

京都の旅館で撮影された写真。

白髪。

深い皺。

痩せた顔。

そして、右耳の下。

小さな傷跡。

真壁の目が細くなった。

「野村」

「はい」

「ここを見ろ」

野村が顔を近づけた。

「傷跡ですね」

「ああ」

「二〇二二年の映像の男と同じ位置です」

真壁は頷いた。

「そうだ」

「では、秋月浩平が映像の男?」

真壁は首を振った。

「まだ断定できない」

「でも、岸田昭彦が秋月浩平を名乗っていたなら」

「ああ」

真壁は静かに言った。

「可能性はある」

野村は頷いた。

真壁は続けた。

「ただし、二〇二二年の映像の男は、もっと若く見える」

「そうですね」

「映像が加工されている可能性もある」

野村は頷いた。

真壁は写真を並べた。

一九八一年。

岸田昭彦。

二〇二二年。

黒いバンドの男。

二〇二六年。

秋月浩平。

三枚の写真。

同じ位置の傷跡。

似た顔立ち。

しかし、年齢も表情も違っていた。

真壁は静かに言った。

「同じ人間だとしたら、年齢の説明が必要だ」

野村が頷いた。

「はい」

「一九八一年の岸田昭彦は、三十代前半」

「そうですね」

「二〇二六年には七十代後半になる」

「はい」

「京都で会った秋月も、そのくらいに見えた」

野村は頷いた。

真壁は写真を見つめた。

「だが、二〇二二年の男は五十代に見える」

「そうですね」

「だから、顔だけでは判断しない」

野村は頷いた。

真壁は静かに言った。

「本人に確認しよう」

「秋月さんに?」

「ああ」

「今は京都府警で事情を聞いているはずです」

真壁は頷いた。

「連絡を取ってくれ」

野村が電話をかけた。

しばらくして、表情が変わった。

「真壁さん」

「何だ」

「秋月さんが……」

真壁が顔を上げた。

「どうした」

野村は静かに答えた。

「いなくなったそうです」

真壁は動かなかった。

「逃走か」

「まだ確認中です」

「いつ」

「午後七時ごろです」

真壁は眉を寄せた。

「警察施設から?」

「はい」

「どうやって」

野村は答えた。

「詳しい状況は、まだわからないそうです」

真壁は静かに息を吐いた。

また、消えた。

名前を変え、顔を変え、記録を変え。

そして、姿を消す。

真壁は椅子から立ち上がった。

「野村」

「はい」

「京都府警へ行くぞ」

野村が頷いた。

「わかりました」

そのとき。

真壁の携帯電話が震えた。

差出人不明。

短いメッセージ。

《秋月浩平は、逃げたのではありません》

真壁は画面を見つめた。

続けて、二通目。

《連れ出されたのです》

真壁の目が細くなった。

三通目。

《連れ出したのは、真壁修一》

真壁は動かなかった。

父親。

真壁修一。

二〇〇九年に亡くなったはずの男。

また、その名前だった。

真壁は携帯電話を伏せた。

「野村」

「はい」

「このメッセージは、証拠として保存しておけ」

「はい」

真壁は静かに言った。

「だが、内容を信じるな」

野村は頷いた。

「わかっています」

真壁は窓の外を見た。

奈良の夜。

遠くに、車のライトが流れていた。

父親。

真壁修一。

黒田修一。

岸田昭彦。

秋月浩平。

そして、右耳の傷跡。

真壁は静かに呟いた。

「親父」

誰も答えなかった。

「今度は、誰の名前を使っているんだ」

そのとき。

机の上の内線電話が鳴った。

真壁が受話器を取る。

「真壁です」

若い警察官の声。

『真壁さん、地下資料室で確認したいことがあります』

「何だ」

『一九八一年の事故資料が入った箱です』

真壁の目が細くなった。

「何か見つかったのか」

『はい』

「何が」

電話の向こうで、警察官が息を呑んだ。

『箱の中に、写真が一枚ありました』

「どんな写真だ」

『事故の翌日、奈良中央記念病院で撮影されたものです』

真壁は息を止めた。

「誰が写っている」

短い沈黙。

そして。

『三人です』

真壁の目が細くなった。

「名前は」

警察官が答えた。

『真壁修一さん』

『黒田修一さん』

『岸田昭彦さん』

真壁は動かなかった。

三人。

事故の翌日。

一人が死亡したはずの、その翌日に。

三人が同じ写真に写っていた。

真壁は静かに言った。

「その写真には、撮影日が記されているんだな」

『はい』

「原板は」

『まだ確認できていません』

真壁は頷いた。

「わかった」

そして、受話器を置いた。

野村が顔を上げた。

「何があったんです」

真壁は答えた。

「写真が見つかった」

「誰の」

真壁は静かに言った。

「三人の修一と昭彦だ」

野村は息を呑んだ。

真壁は続けた。

「事故の翌日、三人が一緒に写っている」

野村は黙った。

真壁は椅子へ座った。

もし、その写真が本物なら。

一九八一年九月二十三日の事故で死亡した人物は、少なくとも写真に写った三人のうちの誰でもなかった可能性がある。

では、誰が亡くなったのか。

真壁は静かに呟いた。

「もう一人いたんだな」

野村が顔を上げた。

「もう一人?」

真壁は頷いた。

「事故車両に乗っていた、名前のわからない人間だ」

野村は黙った。

真壁は続けた。

「その人間の名前を調べる」

そして、立ち上がった。

「今度こそ、死んだ人間を探す」

奈良県警本部の廊下には、夜勤の警察官の足音が響いていた。

真壁は地下資料室へ向かった。

その先にあるのは、半世紀近く前の写真。

三人の男。

そして、記録から消された一人の死者。

真壁はまだ知らなかった。

その写真の裏には、もう一つ名前が書かれていた。

一九八一年九月二十四日。

《撮影者 杉浦千鶴》

それは、真壁の母親が使っていた名前だった。

第二十五章に続く

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