東野圭吾を模倣し、元首相暗殺事件を題材にしたオリジナル小説『二発目の空白』第二十三章

目次

第二十三章 消された二十五秒

一 地下室の女

非常灯の赤い光の下で、女は両手を上げたまま立っていた。

奈良県警本部、地下二階。

資料保管室の奥。

午後九時十七分。

真壁修司は、女の左手首を見つめていた。

黒いバンド。

その内側に刻まれた数字。

《03》

岡崎玲子に結びつけられていた識別番号だった。

「相沢美紀さんですね」

真壁が訊いた。

女は静かに頷いた。

「そう名乗っています」

「本人だと証明できますか」

「できます」

「では、確認させてください」

女は小さく笑った。

「相変わらず慎重ですね」

真壁は表情を変えなかった。

「以前、会ったことがありますか」

「ええ」

「いつ」

「二〇一〇年六月十八日です」

真壁の目が細くなった。

「京都の研究所で?」

「そうです」

「何をしていました」

女は答えた。

「あなたの記憶を消そうとしていました」

野村亮介が息を呑んだ。

真壁は女を見つめた。

「それは、あなたの言い分ですね」

「ええ」

「では、あとで詳しく聞きます」

真壁は周囲を確認した。

停電は地下二階の一部に限られていた。

警報装置は作動している。

扉の電子錠には異常がなく、廊下には複数の警察官がいた。

それなのに、女は資料室の奥に現れた。

「どうやって入ったんです」

真壁が訊いた。

女は答えた。

「正面からです」

「入室記録はありません」

「そうでしょうね」

「なぜ」

女は静かに言った。

「私の入室記録は、残らないようになっています」

真壁は眉を寄せた。

「誰がそうした」

「私です」

「いつ」

「ずっと前に」

真壁は女の顔を見つめた。

「現在の入退室管理システムを操作できる権限があるんですか」

女は答えなかった。

その沈黙だけで、真壁には十分だった。

少なくとも、女はそう思わせたがっている。

真壁は野村へ言った。

「入退室記録と監視映像を保全しろ。停電の原因も調べる」

「はい」

「この人が本当に入室記録を消したのか、ほかの誰かが手を貸したのか、切り分けるんだ」

野村は頷いた。

女が小さく笑った。

「修一さんに似ていますね」

真壁は答えた。

「父の話は、あとで聞きます」

そして、近くの警察官へ向き直った。

「別室で事情を聞きます。まず身元確認と所持品の確認を」

女は抵抗しなかった。

ただ、資料室を出る直前に一度だけ振り返った。

「真壁さん」

「何です」

「あなたは、あの二十五秒を見たいのでしょう」

真壁は黙った。

女は続けた。

「見れば、わかります」

「何が」

「誰が記録を消したのか」

真壁は静かに答えた。

「ならば、見せてもらいましょう」

女は頷いた。

「ただし」

「何です」

「見終わったあと、あなたは一つだけ決めなければなりません」

真壁の目が細くなった。

「何を」

女は答えた。

「誰を警察官として信じるのか」

真壁は何も言わなかった。

その問い自体が、すでに罠のように思えた。


二 二つの死亡記録

午後十時四分。

奈良県警本部の取調室。

女は、相沢美紀と名乗っていた。

生年月日。

一九七五年三月十四日。

本籍。

奈良県内。

家族関係。

父、相沢信一。

姉、野村真紀。

これまでの資料と一致していた。

だが、一つだけ大きな問題があった。

相沢美紀は、二〇二〇年に死亡したことになっている。

「死亡届が出ています」

真壁が言った。

女は頷いた。

「知っています」

「葬儀も行われています」

「ええ」

「それでも、あなたは相沢美紀だと?」

「そうです」

真壁は資料を置いた。

「では、二〇二〇年に亡くなったのは誰ですか」

女は静かに答えた。

「わかりません」

野村が顔を上げた。

「わからない?」

「ええ」

「あなたの名前で葬儀が行われたんですよ」

女は野村を見た。

「そうですね」

「誰が亡くなったのか、知らないんですか」

「知りません」

野村の表情が険しくなった。

「それでは説明になりません」

女は黙った。

真壁が口を開いた。

「野村」

「はい」

「まだ身元確認の途中だ」

野村は息を吐いた。

「すみません」

真壁は女へ向き直った。

「あなたが本人である可能性も、別人である可能性もあります」

「ええ」

「指紋、過去の医療記録、親族関係などを確認します」

女は頷いた。

「構いません」

真壁は続けた。

「二〇二〇年の死亡記録についても、作成経緯を調べます」

「そうしてください」

女は、まるで他人事のように答えた。

真壁はその顔を見つめた。

二〇一〇年の写真に写っていた相沢美紀。

目の前の女。

年齢を重ねたとしても、顔立ちは似ている。

しかし、写真も映像も何度も加工されてきた。

見た目だけで本人と決めることはできなかった。

「あなたは、なぜ今日ここへ来たんです」

真壁が訊いた。

女は答えた。

「終わらせるためです」

「何を」

「観測を」

真壁は眉を寄せた。

「誰が続けている観測ですか」

女はしばらく黙った。

そして言った。

「私たちです」

真壁は動かなかった。

「私たち?」

「ええ」

「誰と誰です」

女は答えた。

「記録を受け継いだ人間たちです」

真壁は頷いた。

「名前を挙げてください」

女は微笑んだ。

「それを知るために、あなたはここまで来たのでしょう」

真壁は表情を変えなかった。

「質問に答えてください」

女は笑みを消した。

そして、静かに言った。

「私が知っていることを、全部話します」

真壁は頷いた。

「お願いします」

女は両手を膝の上に置いた。

「ただし、最初に一つだけ」

「何です」

「野村亮介さんを、この部屋から出してください」

野村が顔を上げた。

「なぜです」

女は答えた。

「あなたのお母様のことを話すからです」

野村の表情が変わった。

真壁は女を見つめた。

「それは、野村本人が判断することです」

女は黙った。

真壁は野村へ向き直った。

「どうする」

野村は少し考えた。

そして言った。

「残ります」

真壁は頷いた。

「わかった」

女は野村を見た。

その目に、一瞬だけ複雑な表情が浮かんだ。

「お姉ちゃんに似ていますね」

野村は答えなかった。


三 母親が死んだ日

「二〇一〇年六月十八日」

女は静かに話し始めた。

「京都の研究所では、観測計画を終わらせるための会議が行われていました」

真壁は頷いた。

「参加者は」

「真壁修司さん、岡崎玲子さん、野村真紀さん、私、それに数人の研究関係者です」

「管理者もいましたか」

「いました」

「誰です」

女は答えた。

「石倉正一さんです」

真壁は眉を寄せた。

黒いバンドを着けていた男。

父親の姿を利用したとされる人物。

「石倉さんは何をしていたんです」

「記録の管理です」

「具体的には」

「研究映像の保存と、被験者情報の整理です」

真壁は頷いた。

「続けてください」

女は息を吐いた。

「その日、岡崎玲子さんは研究を続けるべきだと主張していました」

「なぜ」

「途中でやめれば、それまでの記録が無意味になると考えていたからです」

真壁は黙った。

「一方、野村真紀さんは、研究を終わらせようとしていました」

野村が顔を上げた。

「母が?」

「ええ」

「なぜ」

女は静かに答えた。

「あなたが観測対象になっていることを知ったからです」

野村は動かなかった。

「僕が?」

「そうです」

「いつから」

「幼いころからです」

野村は拳を握った。

「母は、それを知っていた?」

女は頷いた。

「最初は知らされていませんでした」

「では、いつ」

「二〇一〇年です」

野村は目を閉じた。

二〇一〇年。

母親が亡くなったとされる年。

女は続けた。

「真紀さんは、あなたの記録を見つけました」

「……」

「そして、研究を止めようとした」

真壁が訊いた。

「そのとき、何が起きたんです」

女は答えた。

「岡崎玲子さんと真紀さんが口論になりました」

「場所は」

「二階の廊下です」

真壁は頷いた。

「階段の近くですね」

「そうです」

「それで」

女はしばらく黙った。

「岡崎さんが、真紀さんの腕を掴みました」

野村が息を呑んだ。

「母の腕を?」

「ええ」

「なぜ」

「記録媒体を渡すように言ったんです」

真壁は眉を寄せた。

「何の記録です」

「観測対象者の名簿です」

「それを真紀さんが持っていた?」

「はい」

女は続けた。

「二人は揉み合いになりました」

真壁は静かに訊いた。

「あなたは、その場にいたんですか」

「少し離れた場所にいました」

「全部見えましたか」

女は首を振った。

「いいえ」

真壁は頷いた。

「では、見えたことだけを話してください」

女は少し黙った。

そして言った。

「真紀さんが、階段の方へよろめきました」

野村は動かなかった。

「岡崎さんが、その腕を掴んでいました」

「それで」

「真壁さんが走ってきました」

真壁は息を止めた。

「私が?」

「はい」

「何をしたんです」

女は答えた。

「真紀さんを助けようとしました」

真壁は目を閉じた。

二〇一〇年。

階段。

女性の悲鳴。

伸ばした手。

届かなかった指先。

記憶の奥に、かすかな感覚があった。

だが、それが本当に自分の記憶なのか、これまで見せられた映像によって作られたものなのか、真壁には判断できなかった。

「それで、誰が落ちたんです」

真壁が訊いた。

女は答えた。

「岡崎玲子さんです」

野村が顔を上げた。

「母は?」

「無事でした」

野村は息を吐いた。

女は続けた。

「ただし、そのあと別のことが起きました」

真壁は眉を寄せた。

「何です」

女は静かに答えた。

「真紀さんが、姿を消したんです」

野村は動かなかった。

「どういうことです」

「研究所からいなくなりました」

「どこへ」

「わかりません」

野村の表情が変わった。

「母は、その年に亡くなっています」

女は頷いた。

「そうですね」

「では、研究所から出たあとに亡くなったんですか」

女は答えなかった。

長い沈黙。

そして。

「亮介さん」

女は静かに言った。

「あなたのお母様が、二〇一〇年に亡くなったという証拠を、見たことがありますか」

野村は息を止めた。

葬儀。

棺。

父親の涙。

だが、棺の中の母親の顔を見た記憶はなかった。

「……ありません」

野村が答えた。

女は頷いた。

「そうでしょう」

真壁は口を開いた。

「だからといって、生きていることにはなりません」

女は真壁を見る。

「ええ」

「死亡記録の真偽を確認します」

「そうしてください」

真壁は頷いた。

「話を続けてください」

女は静かに言った。

「真紀さんは、研究所を出たあと、ある人物に会いました」

「誰です」

女は答えた。

「真壁修一さんです」

真壁の目が細くなった。

父親。

だが、父親は二〇〇九年に亡くなっている。

「それは不可能です」

真壁が言った。

女は首を振った。

「真壁修一さんの名前を使っていた人物です」

真壁は黙った。

「黒田修一さんですね」

女は頷いた。

「そうです」

真壁は息を吐いた。

「黒田さんが、真紀さんを保護した?」

「はい」

「どこへ」

女は答えた。

「京都市内の施設です」

「施設名は」

「記録に残っています」

真壁は頷いた。

「後で確認します」

女は静かに続けた。

「そして、真紀さんは研究から離れました」

野村が顔を上げた。

「母は、今も生きているんですか」

女は答えなかった。

野村は身を乗り出した。

「答えてください」

長い沈黙。

そして。

女は静かに言った。

「私には、わかりません」

野村は椅子へ深く座った。

真壁は野村を見た。

何も言わなかった。

今必要なのは、慰めの言葉ではなかった。

事実だった。


四 二十五秒の映像

午後十一時三十六分。

解析室。

女が持ち込んだ記録媒体の複製が、隔離された端末で確認された。

媒体には、複数の映像ファイルが保存されていた。

その一つ。

《2022-07-08_113117》

真壁の目が細くなった。

二〇二二年七月八日。

午前十一時三十一分十七秒。

以前、記録から欠落していた二十五秒間の始まりだった。

「再生できますか」

真壁が訊いた。

解析担当者が頷いた。

「できます。ただし、元の撮影機器はまだ特定できていません」

「編集の有無は」

「現時点では断定できません」

真壁は頷いた。

「わかりました」

画面が明るくなった。

映っていたのは、奈良市内の建物の一室だった。

小さな机。

椅子。

壁に掛けられた時計。

そして、複数のモニター。

画面には、街頭の映像が映っていた。

真壁は身を乗り出した。

「これは……」

野村が言った。

「二〇二二年七月八日の奈良市内ですね」

真壁は頷いた。

「そう見える」

画面の中では、男が一人、モニターを見つめていた。

黒いバンド。

右手首。

男は、映像を確認しながら何かを操作している。

そのとき、別の男が部屋へ入ってきた。

「始まったぞ」

低い声。

黒いバンドの男が答えた。

「確認しています」

画面の時計。

十一時三十一分二十秒。

モニターには、現実に起きた銃撃事件の直後の混乱が映っていた。

人々が走る。

警察官が動く。

周囲に悲鳴が広がる。

真壁は画面を見つめた。

胸の奥が重くなった。

あの日の現実。

命が奪われた瞬間。

それを、誰かが別の目的のために利用していた。

画面の男が言った。

「観測を開始します」

真壁の目が細くなった。

別の男。

「対象者は」

「M―17です」

真壁は息を止めた。

自分の番号。

画面の男は続けた。

「対象者は、現在、奈良県警本部にいます」

真壁は眉を寄せた。

二〇二二年七月八日。

自分は、確かに奈良県警本部で勤務していた。

「映像を送ります」

男が言った。

別の男が答えた。

「どこへ」

「対象者の端末です」

真壁は動かなかった。

「何を送った」

野村が呟いた。

画面の男は、パソコンを操作した。

その直後。

モニターの一つに、別の映像が表示された。

真壁修司の顔。

黒いバンドを着けた男。

そして、奈良市内の路上。

真壁は息を止めた。

以前、匿名で送られてきた映像だった。

自分が事件現場の近くにいたように見せる、加工された可能性の高い映像。

画面の男が言った。

「送信完了」

時計。

十一時三十一分三十四秒。

別の男が訊いた。

「反応は」

「まだありません」

「記録は」

「保存しています」

時計。

十一時三十一分四十二秒。

画面が暗くなった。

二十五秒。

真壁はしばらく動かなかった。

野村も黙っていた。

解析担当者が言った。

「以上です」

真壁は頷いた。

「もう一度、最初から見せてください」

映像が再生された。

男。

黒いバンド。

複数のモニター。

加工された映像。

送信。

そして、観測対象M―17。

真壁は静かに言った。

「二発の銃声とは関係ない」

野村が顔を上げた。

「はい」

「少なくとも、この映像が示しているのは、銃撃そのものへの関与じゃない」

「そうですね」

「事件の直後に、俺へ偽の情報を送りつけた可能性だ」

野村は頷いた。

真壁は画面を見つめた。

「だが、まだわからん」

「何がです」

「誰が撮影したのか」

「……」

「誰が編集したのか」

「……」

「そして、なぜ今になってこの映像を出したのか」

野村は黙った。

真壁は続けた。

「この映像が本物でも、映っている行為の意味は別に調べなければならん」

野村は頷いた。

「はい」

真壁は解析担当者へ向き直った。

「元データの構造を確認してください。撮影機器、圧縮形式、作成日時、編集履歴」

「わかりました」

「それと、映像に映っている時計を、時刻の証拠として扱わないでください」

「はい」

真壁は椅子へ座った。

二十五秒。

消された時間。

その中にあったのは、銃撃の秘密ではなかった。

銃撃を利用して、別の人間を操作しようとした行為だった。

真壁は静かに呟いた。

「これが、二発目の空白か」

野村が顔を上げた。

真壁は続けた。

「一発目は、現実に起きた事件だ」

「……」

「二発目は、その現実に重ねられた嘘だ」

野村は黙った。

真壁は画面を見つめた。

「誰かが、あの日の混乱を利用して、俺の記憶まで変えようとした」

その言葉は、怒りというより、確認に近かった。


五 黒いバンドの男

午前零時四十八分。

十月二十日。

奈良県警本部。

真壁は、映像に映っていた黒いバンドの男の顔を確認していた。

男は横顔しか見せていない。

年齢は五十代から六十代。

短い髪。

細い顎。

右耳の下に、小さな傷跡があった。

野村が言った。

「誰かに似ています」

真壁は頷いた。

「俺もそう思う」

「誰でしょう」

真壁は答えなかった。

映像を何度も確認した。

男がモニターを見る。

キーボードを操作する。

振り返る。

そして、右手を上げる。

その瞬間。

袖口が少し上がった。

黒いバンド。

内側に、小さな数字。

《17》

真壁の目が細くなった。

「野村」

「はい」

「ここを拡大してくれ」

画面が拡大された。

《17》

野村が息を呑んだ。

「M―17?」

真壁は首を振った。

「番号が同じでも、意味が同じとは限らん」

「でも、真壁さんの番号です」

「ああ」

真壁は画面を見つめた。

「だからこそ、誰かが俺を連想させようとしている可能性もある」

野村は頷いた。

そのとき、解析担当者が声を上げた。

「真壁さん」

「何です」

「映像の中に、もう一つ手掛かりがあります」

真壁が顔を上げた。

「何でしょう」

担当者は画面を切り替えた。

部屋の壁。

小さなカレンダー。

そこには、企業名が印刷されていた。

《白鷺文化研究財団》

真壁は眉を寄せた。

研究資金を提供していた財団。

情報行動研究機構と関係していた団体だった。

「この部屋は、財団の施設かもしれません」

野村が言った。

真壁は頷いた。

「可能性はある」

「所在地を調べますか」

「ああ」

真壁は続けた。

「ただし、カレンダーだけでは場所は特定できない。財団が配布したものかもしれん」

野村は頷いた。

「わかりました」

真壁は画面の男を見つめた。

黒いバンド。

番号十七。

右耳の下の傷跡。

そして、白鷺文化研究財団。

真壁は静かに言った。

「この男を探そう」


六 相沢美紀の告白

午前一時二十分。

取調室。

相沢美紀を名乗る女は、静かに座っていた。

真壁が入ると、顔を上げた。

「映像は見ましたか」

「はい」

「どうでした」

真壁は椅子へ座った。

「確認したいことが増えました」

女は小さく笑った。

「そうでしょうね」

真壁は資料を置いた。

「映像の男は誰ですか」

女は答えた。

「管理者です」

「それは役割ですね」

「ええ」

「名前を訊いています」

女は黙った。

真壁は続けた。

「黒いバンドに、十七という数字がありました」

女の表情が変わった。

「……」

「あなたは、その意味を知っていますか」

女は静かに答えた。

「知っています」

「何です」

女はしばらく黙った。

そして言った。

「十七番目の管理者です」

真壁の目が細くなった。

「十七番目?」

「ええ」

「観測対象の十七番ではなく?」

「違います」

真壁は頷いた。

「管理者は、何人いたんです」

女は答えた。

「少なくとも十七人です」

「一九七四年から?」

「そうです」

真壁は黙った。

「水島圭介が最初の管理者ですか」

女は首を振った。

「いいえ」

真壁の表情が変わった。

「違う?」

「水島さんは、最初の記録管理者です」

「では、最初の管理者は」

女は答えた。

「相沢信一です」

真壁は頷いた。

「そのあと、誰が引き継いだんです」

女は答えなかった。

「名前を教えてください」

長い沈黙。

そして。

「真壁さん」

女は静かに言った。

「管理者は、名前を引き継ぐわけではありません」

「では」

「役割を引き継ぐんです」

真壁は眉を寄せた。

「具体的には」

女は答えた。

「記録を管理する権限です」

「誰が与えるんです」

「前の管理者です」

「拒否できる?」

「できます」

真壁は頷いた。

「私は拒否した」

女は静かに答えた。

「そうです」

「二〇一〇年に」

「はい」

真壁は続けた。

「野村も後継者として選ばれた」

女は頷いた。

「ええ」

「誰が選んだんです」

女は野村を見た。

「真紀さんです」

野村の表情が変わった。

「母が?」

「はい」

「なぜ」

女は答えた。

「あなたを守るためです」

野村は拳を握った。

真壁は静かに言った。

「その説明は、もう聞き飽きました」

女が顔を上げた。

真壁は続けた。

「誰かを守るために、別の誰かを傷つける」

「……」

「その繰り返しが、ここまで続いてきた」

女は黙った。

真壁は言った。

「野村を守るためなら、なぜ観測対象にしたんです」

女は答えなかった。

長い沈黙。

そして。

「真壁さん」

女は静かに言った。

「真紀さんは、亮介さんを観測対象にしたのではありません」

野村が顔を上げた。

「では」

女は答えた。

「観測対象になってしまった亮介さんを、記録の中で守ろうとしたんです」

真壁は黙った。

「どういう意味です」

女は続けた。

「管理者に登録された人間は、記録の閲覧権限を持ちます」

「……」

「真紀さんは、その権限を利用して、亮介さんの情報を消そうとした」

野村は息を止めた。

「母が?」

「はい」

「成功したんですか」

女は首を振った。

「いいえ」

「なぜ」

女は答えた。

「記録は、すでに複製されていたからです」

真壁は頷いた。

また同じだった。

記録を消す。

しかし、別の場所に残る。

消されたはずのものが、誰かの手に渡る。

そして、新たな脅迫に使われる。

「では、管理者になること自体に意味はない」

真壁が言った。

女は首を振った。

「意味はあります」

「何です」

女は静かに答えた。

「誰が、どの記録にアクセスしたのかを知ることができます」

真壁の目が細くなった。

「閲覧履歴ですね」

「そうです」

「それが残っている?」

女は頷いた。

「はい」

真壁は身を乗り出した。

「どこに」

女は答えた。

「父親の腕時計です」

真壁は動かなかった。

真壁修一の形見。

機械式腕時計。

内部に隠されていた小さな記録装置。

M―17。

O―03。

K―04。

N―18。

これまで、接近記録だと考えられていた番号。

しかし。

「閲覧履歴?」

真壁が訊いた。

女は頷いた。

「正確には、記録媒体との通信履歴です」

真壁は眉を寄せた。

「人間の接近ではない?」

「そうです」

「では、時計が記録していたのは」

女は答えた。

「誰かが、観測記録を読み出した瞬間です」

真壁は息を止めた。

二〇二二年七月九日。

N―18。

野村亮介と出会う前。

その番号が記録されていた理由。

真壁は静かに訊いた。

「N―18は、野村本人ではないんですね」

女は頷いた。

「そうです」

「では何だ」

女は答えた。

「野村亮介さんの記録を保存した媒体です」

野村が息を呑んだ。

真壁は目を閉じた。

番号。

人間。

記録。

その三つを、ずっと同じものとして考えていた。

しかし、違った。

M―17は真壁修司という人間だけを示すものではない。

真壁修司に関する記録。

N―18は野村亮介に関する記録。

そして、O―03。

岡崎玲子に関する記録。

真壁は静かに言った。

「つまり、時計に残っているのは」

女が頷いた。

「記録が、いつ、どこで、誰かによって読み出された可能性があるかを示す手掛かりです」

真壁は眉を寄せた。

「ただし、時計単体では誰が操作したかはわからない」

「そうです」

「通信相手の機器を特定する必要がある」

女は頷いた。

「ええ」

真壁は椅子へ座った。

父親の腕時計。

あれは、単なる形見ではなかった。

誰かが記録を利用するたび、その痕跡を残そうとした装置だった。

だが、時計の中にそれほど長期間動作する装置が本当に存在したのか。

誰が電源を管理したのか。

いつ交換されたのか。

その疑問も残っていた。

真壁は女を見た。

「あなたの説明も、機器の解析で確かめます」

女は頷いた。

「それでいいと思います」


七 最初の閲覧者

午前二時四十三分。

奈良県警本部の解析室。

真壁は、父親の腕時計から取り出された記録の一覧を見つめていた。

四千八百二十六件。

それぞれに、日時と識別番号が残されている。

しかし、記録装置の時刻が正確だった保証はない。

機器の交換や改造が行われていた可能性もある。

真壁は担当者へ言った。

「まず、装置そのものを調べ直してください」

「はい」

「製造時期、電源、時刻補正、記録の連続性」

「わかりました」

「長期間動いていたように見えるなら、途中で誰かが交換した可能性も調べてください」

担当者は頷いた。

野村が言った。

「真壁さん」

「何だ」

「最初の記録は、いつですか」

真壁は画面を見た。

《2010-06-21》

腕時計が修理された日。

その直後に、最初の通信記録が残されていた。

「二〇一〇年六月二十一日だ」

野村が頷いた。

「では、それ以前の記録はないんですね」

「ああ」

真壁は答えた。

「少なくとも、今の装置にはない」

野村は画面を見つめた。

「最初の識別番号は」

真壁は一覧を確認した。

《O―03》

岡崎玲子。

二〇一〇年六月二十一日。

岡崎玲子は、六月十八日に死亡したことになっている。

真壁の目が細くなった。

「死後三日だ」

野村が言った。

「岡崎さんの記録が、読み出された?」

「その可能性がある」

真壁は頷いた。

「誰かが、岡崎さんの記録を使ったんだ」

「誰でしょう」

真壁は答えなかった。

画面には、次の記録が表示されていた。

《K―04》

岸田正彦に結びつけられていた番号。

そして。

《M―17》

真壁修司。

三つの記録。

同じ日。

真壁は眉を寄せた。

「野村」

「はい」

「この三つの記録が、同じ場所で読み出された可能性がある」

「はい」

「それが事実なら、誰かが岡崎さんと岸田さんと俺の記録を同時に扱っていた」

野村は頷いた。

真壁は続けた。

「二〇一〇年六月二十一日」

「……」

「俺の腕時計が修理された日だ」

野村が顔を上げた。

「時計屋さんですね」

「ああ」

真壁は静かに言った。

「もう一度、会う必要がある」

そのとき。

解析担当者が声を上げた。

「真壁さん」

「何です」

「映像の男について、新しいことがわかりました」

真壁が顔を上げた。

「何でしょう」

担当者は画面を切り替えた。

二〇二二年七月八日。

二十五秒間の映像。

黒いバンドの男。

右耳の下の傷跡。

そして、顔の一部。

「過去の資料と照合したところ、似た人物が見つかりました」

真壁は身を乗り出した。

「誰です」

担当者は写真を表示した。

一九八一年。

奈良中央記念病院の研究室。

若い男。

真壁は息を止めた。

「この男……」

野村が言った。

「岸田昭彦さん?」

真壁は写真を見つめた。

岸田正彦の弟。

一九八一年九月二十三日、京都の交通事故で亡くなったとされる人物。

しかし、二〇二二年の映像の男と、顔立ちが似ていた。

「本人だとは言えません」

解析担当者が言った。

「画像の品質が低く、年齢差も大きいです」

真壁は頷いた。

「わかっています」

「ただ、右耳の下に似た傷跡があります」

真壁は画面を見た。

一九八一年の写真。

右耳の下。

小さな傷。

二〇二二年の映像。

同じ位置。

同じような傷。

真壁は静かに言った。

「岸田昭彦は、一九八一年に亡くなった」

野村が頷いた。

「はい」

「遺体は、兄の岸田正彦さんが確認した」

「そうです」

真壁は目を閉じた。

一九八一年。

交通事故。

身元確認。

そして、消えた写真。

真壁はゆっくり目を開けた。

「野村」

「はい」

「岸田昭彦の死亡記録を、もう一度確認する」

野村は頷いた。

「わかりました」

真壁は画面を見つめた。

岸田兄弟。

同じ顔。

異なる人生。

そして、四十一年後の映像。

真壁は静かに呟いた。

「また、死んだはずの人間か」

しかし、すぐに首を振った。

違う。

死んだ人間が生き返ったと考える必要はない。

死亡記録が誤っているのかもしれない。

映像の男が別人なのかもしれない。

あるいは、誰かが意図的に似た人物を選んだのかもしれない。

真壁は画面を閉じた。

「今度は、顔だけでは判断しない」

野村が頷いた。

「はい」

真壁は立ち上がった。

「事故の原本を調べるぞ」

そのとき。

携帯電話が震えた。

差出人不明。

短いメッセージ。

《岸田昭彦は、死んでいません》

真壁は画面を見つめた。

続けて、二通目。

《死んだのは、別の男です》

真壁は静かに息を吐いた。

そして、三通目。

《その男の名前は、真壁修一》

真壁は動かなかった。

父親。

真壁修一。

一九八一年。

死亡。

だが、父親は二〇〇九年まで生きていた。

少なくとも、真壁はそう信じている。

真壁は携帯電話を伏せた。

「野村」

「はい」

「また、名前を使った誘導だ」

野村が頷いた。

「そうですね」

真壁は静かに言った。

「俺たちは、原本を調べる」

そして、窓の外を見た。

夜明け前の奈良。

街の灯りが、静かに瞬いていた。

真壁は父親の写真を取り出した。

一九八一年。

母親。

父親。

幼い自分。

そして、写真の外にいたはずの人間。

真壁は小さく呟いた。

「親父」

誰も答えなかった。

「お前は、いったい何を残したんだ」

窓の外では、空が少しずつ白み始めていた。

そして、真壁はまだ知らなかった。

一九八一年九月二十三日の交通事故記録には、死亡者の名前とは別に、もう一つの名前が記されていた。

それは、事故現場から消えた人物の名前だった。

その人物は、四十一年後の二〇二二年七月八日、奈良市内の建物で、二十五秒間の映像を記録した男と、同じ傷跡を持っていた。

第二十四章に続く

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