第二十二章 記録を消した男
一 警察本部の来訪者
十月十九日、午後四時二十七分。
奈良県警本部へ戻る車の中で、真壁修司は何度も携帯電話の画面を確認していた。
《相沢信一は、今も警察の中にいます》
送り主のわからない、その一文。
真壁は、相沢信一という名前を知らなかった。
少なくとも、今日までは。
一九七四年当時、奈良県警の事務官として記録管理に携わっていた男。
水島圭介よりも前に、観測計画を構想したとされる人物。
そして、二〇二〇年に死亡したことになっている相沢美紀の父親。
それらが事実なら、男は半世紀以上にわたり、この事件の中心近くにいたことになる。
しかし、真壁には気になることがあった。
「野村」
「はい」
「相沢信一の生年月日は確認できたか」
運転席の野村亮介が答えた。
「一九二七年十二月六日です」
「今年で九十八歳か」
「はい」
「現在の住所は」
「奈良市内の高齢者施設です」
「存命なのか」
「施設の入居者名簿には名前があります。ただ、本人確認まではできていません」
真壁は頷いた。
九十八歳。
生きていても不思議ではない。
だが、誰かが現在の警察本部で、研究記録の改変や脅迫を指揮しているとすれば、別の人間が実務を担っている可能性が高かった。
「本人が本部にいるという連絡は」
野村が言った。
「警備担当へ確認しました。相沢信一という名前の来訪者は、記録されていません」
「なら、送り主の言うことを信じる理由はないな」
「はい」
真壁は窓の外へ目を向けた。
夕方の国道。
仕事帰りの車。
横断歩道を渡る学生。
人々は、それぞれの生活を送っている。
誰かの人生を勝手に観測し、記録し、都合のよい物語に作り替える。
その行為がどれほど異常なものか。
真壁は、こうした普通の風景を見るたびに思い知らされていた。
「野村」
「はい」
「相沢信一が何者であっても、俺たちは特別な人間を追っているわけじゃない」
「……」
「法を破った人間を追っているんだ」
野村は小さく頷いた。
「わかっています」
午後四時五十三分。
二人を乗せた車は、奈良県警本部の駐車場へ入った。
そのとき、真壁の携帯電話が鳴った。
岸田正彦からだった。
「真壁です」
『戻ったか』
「今、駐車場です」
『会議室へ来い』
「何かありましたか」
岸田は短く答えた。
『相沢信一が来ている』
真壁の足が止まった。
「本人ですか」
『いや』
「では」
電話の向こうで、岸田が息を吐いた。
『相沢信一の代理人を名乗る男だ』
真壁は静かに訊いた。
「名前は」
岸田は答えた。
『黒田修一』
真壁は動かなかった。
父親と同じ名前。
父親とよく似た顔。
一九七四年の薬剤投与に関わったとされる男。
二〇二二年七月九日、京都の研究所を訪ねた可能性のある人物。
その黒田修一が、警察本部へ来ていた。
「わかりました」
真壁は電話を切った。
野村が顔を上げる。
「どうしました」
真壁は答えた。
「黒田が来た」
野村は息を呑んだ。
「本当に?」
「ああ」
真壁は庁舎を見上げた。
「向こうから来るとはな」
そして、静かに歩き始めた。
二 曲がった小指
会議室の扉を開けると、窓際に一人の老人が座っていた。
七十代後半。
白髪。
細い肩。
紺色の背広。
真壁は、その顔を見た瞬間、息を止めた。
父親だった。
そう思ってしまうほど、似ていた。
しかし、違う。
目元の皺。
頬の肉の落ち方。
口角の形。
何より、父親が持っていた独特の険しさが、この老人にはなかった。
老人はゆっくり立ち上がった。
「真壁修司さんですね」
「はい」
「黒田修一です」
真壁は名乗り返さなかった。
しばらく老人を見つめたあと、言った。
「本人確認をさせてください」
老人は微笑んだ。
「もちろんです」
身分証明書。
住所。
生年月日。
警察学校の記録。
それらを照合するため、別の担当者が同席していた。
岸田は会議室の端に座っている。
真壁は黒田の手を見た。
老人は気づいたように、左手を机へ置いた。
小指が曲がっていた。
「これが気になりますか」
真壁は答えた。
「はい」
黒田は静かに言った。
「若いころの事故です」
「いつ」
「警察学校へ入る前です」
真壁は頷いた。
「父は右手の小指が曲がっていました」
「知っています」
「あなたは左手」
「そうです」
真壁は野村を見る。
野村も黒田の手を見つめていた。
「野村」
「はい」
「二〇二二年に会った老人は、どちらの小指が曲がっていた」
野村は少し考えた。
「右手だったと思います」
黒田が顔を上げた。
真壁は頷いた。
「そうか」
野村は続けた。
「ただ、記憶だけです。写真も残っていません」
「それでいい」
真壁は答えた。
「覚えていないことまで、覚えている必要はない」
黒田は静かに笑った。
「修一によく似ていますね」
真壁は老人を見る。
「父をご存じなんですね」
「ええ」
「最後に会ったのは」
黒田は答えた。
「二〇〇九年です」
真壁の目が細くなった。
「父が亡くなった年ですね」
「そうです」
「どこで」
「奈良です」
「何を話したんです」
黒田は少し黙った。
そして言った。
「あなたのことです」
真壁は動かなかった。
「私の?」
「ええ」
「父は何と言っていましたか」
黒田は静かに答えた。
「修司だけは、俺たちの間違いに巻き込みたくない、と」
真壁は目を閉じた。
父親。
真壁修一。
死ぬ直前まで、自分のことを考えていた。
だが、その気持ちだけで父親の過去を許すことはできなかった。
真壁は椅子へ座った。
「黒田さん」
「はい」
「今日は、何をしに来たんです」
黒田は答えた。
「相沢信一さんから、預かったものがあります」
「何です」
黒田は鞄から一冊の帳簿を取り出した。
黒い表紙。
古びた紙。
表には、白い文字で書かれていた。
《奈良県警察本部 資料管理台帳》
その下。
《昭和四十九年度》
真壁は息を止めた。
一九七四年。
すべてが始まった年だった。
三 存在しない捜査
帳簿は、正式な証拠品として受領された。
真壁は担当者による記録と撮影が終わるのを待ち、複写されたページを確認した。
一九七四年六月十二日。
奈良中央記念病院。
患者死亡。
記録番号。
七四―一一八。
《捜査資料受領》
その下に、奇妙な記載があった。
《写真原板 三点》
《録音記録 二点》
《証言調書 四通》
そして、赤い文字。
《資料差替》
真壁の目が止まった。
「差替?」
黒田が頷いた。
「はい」
「誰の指示ですか」
黒田は答えた。
「相沢信一です」
真壁は帳簿を見た。
資料差替指示者。
《相沢信一》
その下に、承認者の欄があった。
しかし、署名はなかった。
「承認されていないんですね」
野村が言った。
黒田は頷いた。
「そうです」
真壁は顔を上げた。
「では、正式な手続きを経ずに資料が入れ替えられた可能性がある」
「はい」
「何が差し替えられたんです」
黒田は答えた。
「薬剤を投与した人物の写真です」
真壁は黙った。
「元の写真には、私が写っていました」
「黒田さんが?」
「ええ」
「差し替えた写真には」
黒田は静かに答えた。
「真壁修一が写っていました」
真壁は帳簿を見つめた。
父親。
偽造写真。
薬剤。
患者の死。
ようやく、話が一つの形を取り始めていた。
「なぜ父の写真に差し替えたんです」
真壁が訊いた。
黒田は答えた。
「私を守るためです」
「誰が」
「相沢信一です」
真壁の表情が変わった。
「相沢は、あなたを守ろうとした?」
「そうです」
「なぜ」
黒田はしばらく黙った。
そして答えた。
「私が、研究に必要だったからです」
真壁は眉を寄せた。
「研究?」
「目撃証言と記憶の関係を調べる研究です」
「人間の記憶を操作するための?」
黒田は首を振った。
「最初は違いました」
真壁は黙った。
「最初は、誤った証言によって無実の人間が罪を着せられることを防ぐ研究でした」
「それが、なぜ」
黒田は静かに言った。
「途中から、誤った証言を作る研究になったんです」
会議室が静まり返った。
真壁は帳簿を見た。
「誰が方向を変えたんです」
黒田は答えた。
「相沢信一です」
「なぜ」
黒田は目を伏せた。
「警察の失敗を隠すためでした」
真壁は頷いた。
「具体的に話してください」
黒田は静かに言った。
「一九七四年六月十二日、奈良中央記念病院で亡くなった患者は、研究の被験者でした」
「同意は」
「ありませんでした」
「誰が投与した」
黒田は答えた。
「私です」
真壁は老人を見つめた。
「あなたが」
「はい」
「何を投与したんです」
黒田は薬剤名を口にした。
真壁には聞き覚えのない名称だった。
「記録に残っていますか」
「残っています」
「では、確認します」
黒田は頷いた。
真壁は続けた。
「あなたは、患者が死亡する可能性を知っていたんですか」
黒田は答えなかった。
長い沈黙。
そして。
「危険性は知らされていました」
真壁の表情が変わった。
「それでも投与した?」
「はい」
「なぜ」
黒田は静かに答えた。
「命令だったからです」
真壁は老人を見つめた。
「誰の命令ですか」
黒田は答えた。
「相沢信一です」
真壁は拳を握った。
命令。
研究。
組織。
それらの言葉の陰で、一人の人間が死んでいた。
「黒田さん」
真壁は静かに言った。
「命令されたことと、あなたがしたことは別です」
黒田は頷いた。
「わかっています」
「あなたは、患者へ薬剤を投与した」
「はい」
「危険性を知っていた」
「はい」
「そして、患者は亡くなった」
「そうです」
真壁は老人を見つめた。
「その責任について、正式に調べます」
黒田は静かに頷いた。
「そのために来ました」
四 相沢信一の現在
午後六時三十分。
奈良県警本部。
真壁たちは、相沢信一の所在を確認していた。
一九二七年生まれ。
九十八歳。
奈良市内の高齢者施設に入居。
施設の記録では、現在も存命。
しかし、問題があった。
「真壁さん」
野村が言った。
「相沢信一さんは、三年前から意思疎通が難しい状態だそうです」
真壁は顔を上げた。
「認知機能の低下か」
「はい」
「施設の医師の説明は」
「現在、詳しい確認を進めています」
真壁は頷いた。
「本人が最近の計画を指揮しているとは考えにくいな」
「そうですね」
「だが、昔の記録を残している可能性はある」
野村は頷いた。
そのとき、黒田が言った。
「相沢さんは、もう何も話せません」
真壁は老人を見る。
「会ったことがあるんですか」
「はい」
「いつ」
「先月です」
真壁の目が細くなった。
「何を話しましたか」
黒田は答えた。
「話していません」
「では、何を」
「手紙を受け取りました」
真壁は眉を寄せた。
「誰から」
黒田は答えた。
「施設の職員です」
「相沢さんが書いた?」
「いいえ」
「では」
「ずっと前に書かれた手紙です」
真壁は黙った。
黒田は続けた。
「相沢さんは、自分が話せなくなったときのために、いくつもの手紙を残していました」
「誰宛てに」
「私や、ほかの関係者へ」
「その中に、父宛てのものは」
黒田は頷いた。
「ありました」
真壁の表情が変わった。
「見せてください」
黒田は鞄から封筒を取り出した。
古い紙。
宛名。
《真壁修一殿》
差出人。
《相沢信一》
真壁は封筒を見つめた。
父親へ宛てられた手紙。
だが、父親は二〇〇九年に亡くなっている。
「いつ書かれたものですか」
黒田は答えた。
「二〇〇八年です」
真壁は息を止めた。
父親が亡くなる一年前。
「父は読んだんですか」
黒田は首を振った。
「わかりません」
「なぜ、あなたが持っているんです」
「相沢さんが預けたからです」
真壁は頷いた。
「中身は」
「読んでいません」
真壁は封筒を受け取った。
封は切られていなかった。
真壁はしばらく考えたあと、言った。
「証拠として記録してから開封します」
黒田は頷いた。
「それで構いません」
封筒の状態が記録され、慎重に開封された。
中には一枚の便箋。
真壁は読み始めた。
《真壁修一君へ》
《君が、まだ私を許していないことは知っている。》
《それは当然だ。》
《私は、一九七四年に取り返しのつかないことをした。》
真壁の指が止まった。
《私は、警察のためになると信じて研究を始めた。》
《しかし、途中から自分の地位を守ることが目的になった。》
《誤った記録を正すことよりも、誤りが存在しなかったことにする方が簡単だった。》
真壁は続きを読む。
《君は、私に何度も警告した。》
《記録を変えても、起きたことは変わらないと。》
《私は聞かなかった。》
《そして、杉浦千鶴さんが亡くなった。》
真壁は息を止めた。
《あの女性の死について、私は責任を負わなければならない。》
《だが、私は逃げ続けた。》
《君が美津子さんを守ろうとしたことを利用して、君を黙らせた。》
真壁は目を閉じた。
父親の弱み。
母親への思い。
それを利用した男。
《今になって、私は一つだけ後悔している。》
《君の息子を、研究に関わらせたことだ。》
真壁の表情が変わった。
《修司君は、何も知らない子どもだった。》
《それなのに、私は彼を観測対象にした。》
《君が怒ったのも当然だ。》
《だが、私はやめなかった。》
真壁は続きを読む。
《そして、もう一人の子どもも、同じように扱った。》
真壁の指が止まった。
もう一人の子ども。
《その子の名前は、野村亮介。》
真壁は息を止めた。
野村が顔を上げた。
「僕?」
真壁は便箋を見つめた。
《修司君と亮介君。》
《二人は、別々の時代に生まれた。》
《しかし、同じ研究の中で観測されていた。》
真壁は眉を寄せた。
野村亮介は、真壁よりかなり若い。
一九七四年には生まれていない。
それでも、研究が数十年間続いていたなら、二人が別々の時期に対象となったことはあり得る。
真壁は続きを読んだ。
《私は、二人に謝罪したい。》
《しかし、直接会う勇気がない。》
《だから、この手紙を残す。》
最後の一行。
《私の罪を明らかにする記録は、奈良県警本部の地下資料室にある。》
真壁は息を止めた。
地下資料室。
そこは、現在も使われている保管施設だった。
《ただし、そこにあるのは、私が残した記録だけではない。》
《私の後を継いだ人間が、別の記録を加えている。》
真壁はゆっくり顔を上げた。
後継者。
相沢信一の後を継いだ人間。
《その人物は、私の娘だ。》
真壁の目が細くなった。
相沢美紀。
野村真紀の妹。
二〇二〇年に死亡したことになっている女性。
真壁は便箋を見つめた。
《美紀は、私の研究を憎んでいた。》
《だが、私の記録を受け継いだ。》
《なぜなら、すべてを消してしまえば、被害者たちの存在まで消えてしまうと考えたからだ。》
真壁は黙った。
《しかし、彼女は間違えた。》
《記録を守るために、人間を傷つけ始めた。》
最後の一行。
《修一君。》
《どうか、私の娘を止めてほしい。》
真壁は便箋を下ろした。
部屋が静まり返った。
五 地下資料室
午後八時十二分。
奈良県警本部の地下二階。
真壁、野村、岸田、それに監察担当者と鑑識係員が、古い資料室の前に集まっていた。
鉄製の扉。
電子錠。
監視カメラ。
室内には、長年にわたる捜査資料が保管されている。
真壁は扉を見つめた。
「ここにあるのか」
岸田が言った。
「何が」
「相沢信一の記録です」
岸田は黙った。
真壁は続けた。
「二〇〇八年の手紙に、ここへ保管したとあります」
岸田はゆっくり頷いた。
「そうか」
真壁は岸田を見る。
「ご存じでしたか」
「いや」
「本当に?」
岸田は真壁の目を見た。
「知らなかった」
真壁は頷いた。
「わかりました」
資料室の管理責任者が到着した。
立ち入り記録。
保管台帳。
鍵の管理履歴。
すべてが確認された。
しかし、相沢信一の名前で登録された資料はなかった。
「登録されていない?」
野村が言った。
管理責任者は頷いた。
「はい」
真壁は眉を寄せた。
「古い資料の中に紛れている可能性は」
「あります」
「保管番号は」
「手紙には記載されていません」
真壁は頷いた。
そのとき、岸田が口を開いた。
「真壁」
「はい」
「相沢信一は、資料を隠すときに独特の方法を使っていた」
真壁が顔を上げた。
「どんな」
岸田は答えた。
「存在しない事件番号を使うんだ」
真壁の目が細くなった。
「存在しない番号?」
「ああ」
「なぜ」
「通常の検索では出てこないようにするためだ」
真壁は頷いた。
「どんな番号ですか」
岸田は少し考えた。
「確か、七四―一一八だった」
真壁は動きを止めた。
一九七四年六月十二日。
奈良中央記念病院。
患者死亡。
資料管理台帳。
《七四―一一八》
真壁は岸田を見る。
「その番号を、なぜ知っているんです」
岸田は答えた。
「修一さんから聞いた」
「父から?」
「ああ」
「いつ」
岸田は静かに言った。
「一九八一年だ」
真壁は黙った。
また一九八一年。
父親。
岸田。
そして、最初の記録。
真壁は管理責任者へ向き直った。
「七四―一一八という番号で、保管資料を確認してください」
管理責任者は端末を操作した。
しばらくして、顔を上げた。
「あります」
真壁の目が細くなった。
「どこに」
「地下資料室の奥です」
「保管区分は」
管理責任者は答えた。
「未整理資料」
真壁は頷いた。
「確認しましょう」
六 開かれた箱
地下資料室の奥。
古い棚。
段ボール箱。
そして、金属製の保管箱。
側面に、小さな文字。
《74-118》
真壁は箱を見つめた。
一九七四年。
奈良中央記念病院。
杉浦千鶴。
黒田修一。
相沢信一。
父親の真壁修一。
そのすべてが、この箱へつながっていた。
箱の開封前に、外観と封印の状態が記録された。
古い封印。
一部に剥がした跡があった。
真壁は眉を寄せた。
「誰かが開けている」
鑑識係員が頷いた。
「その可能性があります」
「いつかは」
「わかりません」
真壁は頷いた。
「記録を残してください」
封印が外された。
蓋が開く。
中には、三つの封筒が入っていた。
一つ目。
《一九七四年六月十二日 薬剤投与記録》
二つ目。
《一九七四年六月十七日 杉浦千鶴死亡記録》
三つ目。
《二〇一〇年六月十八日 観測対象M―17》
真壁の手が止まった。
M―17。
自分の番号。
父親の腕時計。
二〇一〇年の記憶の空白。
そして、岡崎玲子の転落。
「野村」
「はい」
「三つ目を確認する」
野村が頷いた。
封筒が慎重に開封された。
中には、数枚の写真。
一枚の報告書。
そして、小さな記録媒体。
真壁は報告書を見つめた。
《観測対象M―17》
《氏名 真壁修司》
《観測開始 一九八一年九月二十三日》
真壁は息を止めた。
三歳のころ。
母親が写真を見せられた日。
その日から、自分は観測対象だった。
報告書には、さらに記載があった。
《観測目的》
《誤記憶形成後の自己修正能力の確認》
真壁は眉を寄せた。
《対象者は、外部から与えられた誤情報に対し、長期的にどの程度抵抗できるかを観測する》
真壁は黙った。
自分の人生。
記憶。
判断。
そのすべてが、誰かの研究材料にされていた。
野村が小さく言った。
「真壁さん……」
真壁は首を振った。
「大丈夫だ」
そして、続きを読んだ。
《二〇一〇年六月十八日》
《観測対象M―17、研究計画の存在を認識》
《管理者継承を拒否》
《記憶誘導処置を実施》
真壁の目が細くなった。
記憶誘導処置。
その言葉は、これまで何度も現れていた。
だが、今回は違った。
具体的な記録が残っていた。
《処置責任者》
その下。
《相沢美紀》
真壁は息を止めた。
相沢美紀。
二〇一〇年。
自分の記憶の空白。
その処置を担当したとされる女性。
真壁は報告書を見つめた。
そして、最後の欄。
《処置立会人》
そこに記されていた名前を見て、動きが止まった。
《野村真紀》
野村が顔を上げた。
「母が……」
真壁は黙った。
野村真紀。
野村亮介の母親。
二〇一〇年に死亡したことになっている女性。
その名前が、立会人として記載されていた。
真壁は報告書を閉じた。
「まだ本物かどうかはわからん」
野村は頷いた。
「はい」
「筆跡、用紙、記録媒体、作成履歴を調べる」
「わかりました」
真壁は野村を見る。
「お前の母親が関わっていたとしても、それだけで責任を決めつけるな」
野村は小さく頷いた。
「はい」
真壁は箱の底を見た。
そこには、もう一枚の紙があった。
小さな封筒。
宛名。
《真壁修司へ》
筆跡は、父親のものだった。
真壁は息を止めた。
父親。
真壁修一。
また、父親からの手紙。
しかし、今度は封筒の裏に日付があった。
《二〇〇九年十二月三十一日》
父親が亡くなった年の最後の日。
真壁は封筒を見つめた。
そして、ゆっくり開いた。
中には一枚の便箋。
《修司へ》
《お前がこの手紙を読んでいるなら、私はもういないだろう。》
《お前には、謝らなければならないことがある。》
真壁は目を閉じた。
続きを読む。
《私は、お前を守ろうとして、何度も間違えた。》
《真実を隠し、記録を消し、人を信用しなかった。》
《だが、その結果、お前を研究から遠ざけることはできなかった。》
真壁は息を止めた。
《だから、最後に一つだけ残す。》
《お前の記憶が正しいかどうかを、誰かに決めさせるな。》
《自分で確かめろ。》
真壁は便箋を握った。
《そして、もし野村亮介という若者に出会ったら、彼を守ってやってほしい。》
真壁の目が細くなった。
野村亮介。
父親が亡くなった二〇〇九年。
その時点で、父親は野村の名前を知っていた。
《あの子もまた、私たちの過ちに巻き込まれた一人だ。》
真壁は続きを読む。
《ただし、修司。》
《一つだけ忘れるな。》
《野村亮介は、お前の後継者ではない。》
真壁は息を止めた。
《彼は、お前を止めるために選ばれた人間だ。》
真壁の手が止まった。
野村が顔を上げた。
「真壁さん?」
真壁は答えなかった。
最後の一行。
《お前が管理者になることを選んだとき、彼はお前を止める。》
真壁は便箋を下ろした。
部屋が静まり返った。
野村は、真壁の顔を見つめていた。
「何が書いてあったんです」
真壁はゆっくり顔を上げた。
そして、静かに答えた。
「お前のことだ」
野村の表情が変わった。
「僕の?」
「ああ」
真壁は便箋を差し出した。
野村は受け取り、読み始めた。
やがて、その手が止まった。
「僕が、真壁さんを止める?」
真壁は頷いた。
「そう書いてある」
野村は黙った。
長い沈黙。
そして。
「真壁さん」
「何だ」
「僕は、あなたを止めるつもりなんてありません」
真壁は静かに答えた。
「わかっている」
野村は首を振った。
「でも、もしあなたが……」
そこで言葉が止まった。
真壁は野村を見た。
「もし俺が?」
野村はゆっくり答えた。
「誰かを守るために、記録を消そうとしたら」
真壁は黙った。
野村は続けた。
「そのときは、止めます」
真壁はしばらく野村を見つめていた。
そして、小さく笑った。
「それでいい」
野村が顔を上げた。
「え?」
真壁は答えた。
「それでいいんだ」
父親。
真壁修一。
守るために記録を消した男。
その息子。
真壁修司。
同じ過ちを繰り返さないために、若い刑事が隣にいる。
真壁は静かに言った。
「野村」
「はい」
「俺が間違えたら、止めろ」
野村は頷いた。
「はい」
真壁は父親の手紙を封筒へ戻した。
そして、資料室の奥を見つめた。
まだ開けられていない箱が並んでいた。
半世紀分の記録。
半世紀分の沈黙。
そのどこかに、まだ知られていない人間の人生が眠っている。
真壁は静かに言った。
「次は、相沢美紀だ」
野村が頷いた。
「はい」
「彼女が本当に死んだのか」
「……」
「それとも、誰かがその名前を使っているのか」
真壁は立ち上がった。
「確かめよう」
そのとき。
地下資料室の照明が、一瞬だけ消えた。
暗闇。
数秒後。
非常灯が点いた。
野村が顔を上げた。
「停電?」
真壁は扉を見る。
廊下の向こうで、警報音が鳴り始めた。
そして、庁舎内の放送が流れた。
『地下二階、資料保管区画で異常を検知しました』
真壁は静かに息を吐いた。
「野村」
「はい」
「箱から離れるな」
野村が頷いた。
その瞬間。
資料室の奥で、何かが倒れる音がした。
真壁は振り返った。
非常灯の赤い光。
棚の向こう。
人影が一つ。
黒いバンド。
左手首。
真壁は声を上げた。
「警察だ! 動くな!」
人影は動かなかった。
そして、低い声で言った。
「真壁修司さん」
真壁は息を止めた。
女性の声だった。
「ようやく、ここまで来ましたね」
真壁は静かに訊いた。
「誰だ」
女性は答えた。
「相沢美紀です」
真壁は動かなかった。
二〇二〇年に死亡したはずの女性。
その名前を名乗る人物が、目の前に立っていた。
そして、女性は続けた。
「あなたのお父様が残した記録には、まだ一つ、足りないものがあります」
真壁は声を低くした。
「何だ」
女性は静かに答えた。
「二〇一〇年六月十八日」
「……」
「岡崎玲子が亡くなった日」
真壁は息を止めた。
女性が続けた。
「あなたは、あの日、誰かを助けようとした」
「……」
「でも、助けられなかった」
真壁は拳を握った。
「それは知っている」
女性は首を振った。
「いいえ」
「何が違う」
女性は静かに言った。
「あなたが助けようとしたのは、岡崎玲子ではありません」
真壁は動かなかった。
「では、誰だ」
女性は答えた。
「野村真紀です」
野村が息を呑んだ。
「母が?」
女性は静かに頷いた。
「そうです」
真壁は目を閉じた。
二〇一〇年。
京都の研究所。
階段。
転落。
岡崎玲子。
そして、野村真紀。
女性は続けた。
「あなたが覚えていない、最後の十分間」
真壁は顔を上げた。
「……」
「そこに、すべての答えがあります」
非常灯の赤い光が、女性の顔を照らした。
真壁はその顔を見つめた。
見覚えがあった。
写真。
二〇一〇年。
野村真紀。
相沢美紀。
よく似た二人の女性。
真壁は静かに言った。
「相沢美紀さん」
女性が頷いた。
「はい」
「あなたが本人かどうかは、まだわかりません」
女性は微笑んだ。
「そうでしょうね」
真壁は続けた。
「だから、まず身元を確認します」
女性は静かに答えた。
「構いません」
そして、ゆっくり両手を上げた。
黒いバンド。
左手首。
その内側に、小さな数字が刻まれていた。
《03》
真壁は息を止めた。
父親の腕時計に残されていた識別番号。
O―03。
岡崎玲子に結びつけられていた番号だった。
真壁は女性を見つめた。
「そのバンドは、誰のものですか」
女性は静かに答えた。
「岡崎玲子のものです」
真壁の目が細くなった。
「なぜ、あなたが持っている」
女性は答えた。
「彼女が亡くなる前に、私へ渡したからです」
真壁は黙った。
女性は続けた。
「岡崎玲子は、すべてを終わらせようとしていました」
「……」
「でも、できなかった」
真壁は静かに訊いた。
「なぜ」
女性は答えた。
「あなたのお父様と同じ理由です」
真壁は息を止めた。
「誰かを守ろうとした?」
女性は頷いた。
「はい」
「誰を」
女性は野村を見た。
そして、静かに言った。
「亮介です」
野村は動かなかった。
非常灯の赤い光。
地下資料室。
半世紀分の記録。
そして、死んだはずの女性。
真壁は静かに息を吐いた。
「野村」
「はい」
「ここから先は、誰の言葉も鵜呑みにするな」
野村は頷いた。
「はい」
真壁は女性を見つめた。
「相沢美紀さん」
「はい」
「あなたの話を聞きます」
女性は微笑んだ。
「ありがとうございます」
真壁は続けた。
「ただし、今度は」
一瞬、沈黙が落ちた。
「記録を残します」
女性の笑みが消えた。
真壁は静かに言った。
「最初から、最後まで」
地下資料室の警報音が、ようやく止まった。
そして、真壁はまだ知らなかった。
この夜、相沢美紀を名乗る女性が持ち込んだ記録には、二〇一〇年の出来事だけではなく、二〇二二年七月八日の映像から消された二十五秒間についても、決定的な証拠が残されていた。
それは、二発の銃声の間に起きたことではなかった。
銃声のあと。
誰もが事件そのものに目を奪われていた、そのわずかな時間に。
別の場所で、何者かが行った行為の記録だった。
第二十三章に続く

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