東野圭吾を模倣し、元首相暗殺事件を題材にしたオリジナル小説『二発目の空白』第六章

目次

第六章 第三の選択

1

真壁修司は、画面から指を離した。

《22-A 真壁修司が事件を止めようとした記録》

《22-B 真壁修司が事件を止めなかった記録》

どちらも押さなかった。

葛城慎一が真壁を見た。

「どうする」

「何もしない」

「消えるぞ」

「消せばいい」

「答えを知りたくないのか」

「知りたい」

真壁は言った。

「だから押さない」

葛城の眉がわずかに動いた。

「どういう意味だ」

「この二択そのものが罠だ」

真壁はスマートフォンをポケットへ入れた。

「Aを選べば、俺は事件を止めようとした人間になる」

「ああ」

「Bを選べば、止めなかった人間になる」

「そうだ」

「どちらを選んでも、相手が用意した物語の中に入る」

葛城は黙っている。

「俺たちはずっとそうしてきた」

真壁は続けた。

「一発目か、二発目か」

「……」

「本物か、偽物か」

「……」

「記憶か、記録か」

葛城の表情が変わった。

「二つから選ばされていた?」

「そうだ」

真壁はB-17の柱を見る。

「だが現実は、いつも二択じゃない」

その瞬間だった。

スマートフォンが振動した。

画面。

《選択してください》

真壁は無視した。

もう一度。

《残り60秒》

カウントダウン。

59。

58。

57。

葛城が言った。

「本当に消えるかもしれんぞ」

「消えない」

「なぜわかる」

「ここまで手間をかけて俺に見せてきた人間だ」

真壁は数字を見る。

「見せたくないはずがない」

43。

42。

41。

「相手が欲しいのは、俺がどちらを選ぶかという情報だ」

葛城が目を細めた。

「観察されてる?」

「最初からな」

30。

29。

「なら、選ばないことも観察されている」

「そうだ」

「その先は?」

「相手に聞け」

10。

9。

8。

7。

6。

5。

4。

3。

2。

1。

0。

画面が暗くなった。

数秒。

何も起きない。

葛城が息を吐いた。

「消えたか」

真壁は答えなかった。

画面に白い文字が現れた。

《想定外の回答です。》

葛城が真壁を見る。

次。

《第三の選択を確認しました。》

真壁は小さく笑った。

「やっぱりな」

そして。

新しい文章。

《では質問を変更します。》

《あなたは誰を信じますか?》

三つの名前が表示された。

《葛城慎一》

《野村亮介》

《真壁修司》

真壁は画面を消した。

葛城が言った。

「今度も選ばない?」

「ああ」

「なぜ」

「四つ目がある」

「誰だ」

真壁は葛城を見る。

「誰も信じない」

2

午後一時十四分。

真壁と葛城は地下駐車場を出た。

別々に。

葛城は自分の居場所を教えなかった。

「次はいつ会える」

真壁が訊くと、

「必要になったら」

とだけ答えた。

「お前から連絡する?」

「ああ」

「信用できんな」

「それでいい」

葛城は人混みに消えた。

真壁は追わなかった。

近鉄奈良駅へ向かった。

314番。

葛城から渡された鍵。

コインロッカーは改札から少し離れた場所にあった。

314。

鍵を差す。

回す。

扉を開ける。

中には紙袋が一つ。

真壁はその場では触れず、周囲を確認した。

人。

防犯カメラ。

駅員。

観光客。

特に不自然な人物はいない。

紙袋を取り出す。

県警へ持ち帰るべきか。

いや。

相手が県警内部の記録まで操作できる可能性がある。

真壁は近くのベンチに座った。

手袋。

袋を開く。

中身は三つ。

古い携帯電話。

ノート。

そして新聞。

二〇二二年七月九日。

事件翌日の朝刊。

一面。

安倍元首相銃撃。

真壁は新聞を広げた。

赤いボールペンで、一箇所だけ丸がついている。

記事本文ではない。

写真。

事件現場。

多くの人間が写っている。

その中の一人。

小さな丸。

男。

真壁は顔を近づけた。

知らない人物だった。

五十代くらい。

眼鏡。

スーツ。

「誰だ……」

新聞の裏に文字。

《この男を探せ》

筆跡は葛城。

ノートを開く。

最初のページ。

《二〇二二年七月九日》

《真壁から預かる》

真壁の手が止まった。

自分が葛城へ渡したもの。

これだ。

次。

《本人は、このノートの存在を忘れる可能性があると言った》

真壁は息を止める。

ページをめくる。

《忘れていた場合、すぐに渡すな》

《真壁自身が「17」に到達したときだけ渡せ》

17。

証拠品17。

映像17本。

B-17。

真壁はページをめくった。

《俺がこれを書いている時点で、真壁はすでに何かに気づいている》

《ただし本人は、それを言葉にしなかった》

次。

《真壁の言葉》

その下。

引用符。

《俺たちは事件を調べているんじゃない》

《事件を見ている人間を、誰かが調べている》

真壁は動かなかった。

四年前の自分が、

今の自分と同じ結論に達していた。

3

ノートを読み進めた。

葛城の記録。

七月八日。

七月九日。

七月十日。

そして突然、

記述が途切れる。

最後の日付は七月十三日。

《対象者を仮に「観測者」と呼ぶ》

真壁は眉を寄せた。

《目的不明》

《ただし事件そのものへの直接関与を示す証拠なし》

重要な一文だった。

事件を起こした者ではない。

少なくとも葛城はそう判断していた。

《観測者が興味を持っているのは、事件発生後に人間が何を信じるか》

次。

《同じ映像を見せても、人によって注目する場所が違う》

《警察官は犯人を見る》

《警護担当者は警護を見る》

《記者は政治を見る》

《一般人は恐怖を見る》

《そして、それぞれが自分の見たい物語を作る》

真壁は読む速度を落とした。

《もし、その性質を利用して情報を少しだけ足したらどうなる》

《人は自分で嘘を完成させる》

二十一本目。

まさにそれだった。

顔は映っていない。

だが「知っている人物だ」と思わせる。

見る者が勝手に顔を補完する。

《だから観測者は、大きな嘘を作らない》

《小さな違和感だけを置く》

《残りは人間が勝手に作る》

真壁はノートを閉じた。

背筋が寒かった。

四年前。

自分たちはここまで近づいていた。

なのに。

なぜ忘れた。

いや。

忘れたのではない。

記録によって、自分自身を疑わされた。

ノートを再び開く。

最後のページ。

一行。

《もし俺たちが失敗したら、次は若い人間を使う》

その下。

名前。

《野村亮介》

真壁は立ち上がった。

4

県警本部。

午後三時二十二分。

野村は解析室にいた。

真壁が入ると、顔を上げた。

「葛城に会いました?」

「ああ」

「本当に生きてた?」

「生きてた」

野村は椅子にもたれた。

「もう驚かなくなってきました」

真壁は紙袋を机に置いた。

「お前に聞きたい」

「何です?」

「二〇二二年七月八日、お前は何をしてた」

「前にも言いましたよ。大学生です」

「どこの」

「京都」

「学部」

「情報工学」

真壁の目が細くなる。

「専門は」

「画像処理です」

真壁は黙った。

野村が苦笑する。

「その顔やめてください」

「何が」

「疑ってる顔」

「刑事だからな」

「僕もです」

「卒論は」

野村が答える。

「映像認識における人間の注意誘導」

真壁の手が止まった。

「もう一回言え」

「映像を見る人が、画面のどこに注目するかって研究です」

「具体的には」

「例えば映像の端に小さな動きを入れると、視線がそっちへ誘導される。その間、中央で変化が起きても気づかない場合がある」

真壁は椅子に座った。

「指導教授は」

野村が答えた。

「秋月浩平教授」

真壁はノートを見る。

その名前はない。

「今も大学に?」

野村の表情が曇った。

「亡くなりました」

「いつ」

「二〇二二年」

真壁は嫌な予感がした。

「日付」

「七月九日です」

事件翌日。

「死因」

「心筋梗塞と聞いています」

「年齢」

「五十九」

「お前は最後にいつ会った」

「七月七日」

真壁は野村を見た。

「京都で?」

「大学です」

「何時」

「夕方」

「その後は」

「友人と食事して、帰宅しました」

「証明できるか」

野村の顔が硬くなる。

「四年前ですよ」

「写真は」

「たぶん」

「スマホを見せろ」

野村は少し迷った。

それからスマートフォンを出した。

クラウド写真。

二〇二二年七月七日。

夕食。

ラーメン屋。

午後八時十三分。

友人二人。

野村。

「夜十一時は」

「家にいました」

「写真は」

「ないです」

「位置情報」

「昔のデータが残ってれば」

調べる。

野村の指が止まった。

「どうした」

「ない」

「何が」

「七月七日の午後十時五十分から」

野村が画面を見る。

「翌朝六時まで位置履歴がありません」

真壁は黙った。

「僕、設定切ったのかな」

「覚えてる?」

「覚えてません」

四年前。

記憶。

記録。

また同じ穴。

5

「秋月教授について調べる」

真壁が言った。

野村が顔を上げる。

「なぜ」

真壁はノートを見せなかった。

「お前の専門と今回の手口が似すぎてる」

「注意誘導?」

「ああ」

「でも一般的な研究ですよ」

「教授の研究テーマは」

「認知と映像です」

「もっと詳しく」

野村が大学時代の資料を検索した。

論文。

研究発表。

真壁はタイトルを追った。

『視覚情報における欠落補完』

『映像記憶と事後情報効果』

『複数映像による記憶形成』

そして。

一つ。

二〇二一年。

『社会的重大事象における映像反復視聴と記憶変容』

真壁が指した。

「これ」

野村が開く。

概要。

大規模な事故や事件の映像を人々が繰り返し見ることで、

自分が実際に見ていない場面まで「見た」と記憶する現象。

「まさに今回じゃないか」

真壁が言った。

野村は黙って論文を読んだ。

「でも教授は研究者です」

「だから?」

「こんなことをする人じゃない」

「それは学生としての感想だ」

「知ってます」

野村の声が強くなる。

「でも、僕は三年間指導を受けました」

「人間は他人の全部を知らない」

「真壁さんだって葛城の全部を知らなかったでしょう」

真壁は黙った。

その通りだった。

野村が言った。

「教授が死んでるから疑うんですか」

「違う」

「じゃあ何です」

「死んだ時期だ」

事件翌日。

偶然。

またその言葉。

真壁はもう信用しない。

「死亡記事を探せ」

二人で調べた。

大学の訃報。

秋月浩平教授。

二〇二二年七月九日逝去。

享年五十九。

そして研究室の追悼ページ。

写真。

真壁は画面を見た。

どこかで見た顔。

「待て」

紙袋。

新聞。

七月九日朝刊。

事件現場の写真。

赤丸。

眼鏡。

スーツ。

《この男を探せ》

真壁は新聞をモニターの横へ置いた。

野村の顔から血の気が引いた。

「教授……」

同じ人物だった。

秋月浩平。

死亡する前日。

安倍元首相銃撃事件の現場にいた。

6

「先生が……なぜ」

野村が呟いた。

真壁は新聞写真を見る。

事件直後。

群衆。

秋月は逃げていない。

犯人を見ていない。

倒れた元首相も見ていない。

彼が見ている方向。

「カメラだ」

真壁が言った。

野村が顔を近づける。

秋月は、

新聞社のカメラを見ていた。

白いシャツの男と同じ。

「偶然ですよ」

野村が言った。

だが声に力がない。

「教授は奈良に住んでた?」

「京都です」

「七月八日に奈良へ来る理由は」

「わかりません」

「政治活動」

「聞いたことない」

「選挙演説を見る趣味」

「知りません」

真壁は新聞を裏返した。

何か書いてある。

薄い鉛筆。

今まで気づかなかった。

数字。

14:08。

「何だ」

野村が言った。

「時間?」

事件発生後。

午後二時八分。

その横。

《K-4》

「K?」

野村が考える。

突然、表情が変わった。

「研究棟」

「何?」

「大学の研究棟です。部屋番号にKを使ってました」

「K-4は」

「地下資料室」

真壁は立ち上がった。

「今もあるか」

「建物自体はあります」

「行くぞ」

7

京都。

午後五時十二分。

大学の研究棟は、四年前とほとんど変わっていないという。

野村が案内する。

地下。

廊下。

古い蛍光灯。

真壁は妙な既視感を覚えた。

地下駐車場。

白い光。

記憶は場所の形に引っ張られる。

K-4。

扉。

鍵がかかっている。

大学の許可を取り、管理担当者に開けてもらった。

埃。

古い机。

書架。

段ボール。

「教授の資料は?」

野村が訊いた。

担当者が答える。

「多くは処分されたと思います」

「ここは?」

「ほとんど使ってません」

真壁は部屋を見る。

「四年前、七月八日の午後二時ごろ、誰か入りましたか」

「さすがにわかりません」

入退室記録。

古いデータが残っていた。

二〇二二年七月八日。

14:08。

一件。

カードID。

AKIZUKI-K.

秋月浩平。

「本人だ」

野村が言った。

事件現場から大学へ戻った。

その後。

十四時九分。

十四時十分。

退室記録なし。

「翌日は」

秋月教授死亡。

真壁は部屋を見回した。

「何をしに来た」

野村が棚を調べる。

真壁は机を見る。

古いパソコン。

電源は抜かれている。

「これ、教授の?」

「たぶん」

大学側の許可を得て確認する。

起動。

時間がかかる。

パスワード。

野村が昔使っていた研究室共通の管理パスワードを試す。

違う。

教授の誕生日。

違う。

真壁が言った。

「832」

野村が見る。

「まさか」

入力。

8。

3。

2。

Enter。

画面が開いた。

二人は動かなかった。

「なんで……」

野村が呟く。

デスクトップ。

フォルダが一つ。

《観測記録》

真壁はクリックしなかった。

「待て」

「また罠?」

「ああ」

「でも」

「ネットを切る」

LAN。

無線。

外部通信を遮断。

複製を作成。

証拠保全。

その後。

フォルダを開く。

中には、

日付ごとのファイル。

二〇二一年。

二〇二二年。

事件前から存在する。

真壁はスクロールした。

20220708。

フォルダ。

開く。

映像ではなかった。

表計算ファイル。

列。

時刻。

対象。

刺激。

反応。

真壁の目が止まる。

対象者。

M。

K。

N。

「M……」

「真壁?」

野村が言う。

「Kは葛城」

「Nは……」

二人は顔を見合わせる。

野村。

だが事件当時、

野村は警察官ではない。

「俺たち三人が」

野村が言った。

「四年前から観測対象だった?」

真壁は表を見る。

M。

10:53。

刺激。

《時刻質問》

反応。

《時計確認》

真壁は息を止めた。

受付の藤岡美佐子。

十時五十三分。

真壁は彼女に時刻を尋ねた。

記録されている。

次。

M。

11:05。

刺激。

《接触》

反応。

《会話》

十九本目の映像。

次。

M。

11:28。

刺激。

《予告情報》

反応。

《時計確認》

十八本目。

真壁が時計を見る場面。

「全部……」

野村の声が震えた。

「実験記録みたいだ」

真壁はスクロールする。

そして。

11:31。

刺激。

空欄。

反応。

空欄。

その行だけ、

何も書かれていない。

一発目。

二発目。

その時刻。

さらに下。

14:08。

対象。

A。

真壁が止まった。

「A?」

野村も見る。

刺激。

《最終確認》

反応。

《中止要請》

「誰だ」

真壁が呟いた。

A。

秋月ではない。

秋月は記録者側のはず。

対象A。

そして。

中止要請。

何を中止しようとした。

その右端に、

リンク。

音声ファイル。

真壁はクリックした。

ノイズ。

秋月教授の声と思われる男性。

『もうやめるべきだ』

別の声。

聞き取れない。

秋月。

『これは研究じゃない』

別の声。

『……』

秋月。

『人が死んだんだぞ』

真壁と野村は動かなかった。

次。

別の声が初めて鮮明になる。

『それは我々の実験とは無関係です』

男。

低い声。

秋月。

『無関係で済むと思ってるのか』

男。

『事件を起こしたのは我々ではない』

『しかし利用した』

『観測しただけです』

『同じことだ』

『違います』

そして。

男が言った。

『我々が知りたいのは事件ではありません』

真壁の背筋に冷たいものが走った。

『事件のあと、人間が何を真実として選ぶのか。それだけです』

秋月。

『私は降りる』

沈黙。

男。

『それは困ります』

秋月。

『データも消す』

男。

『もう遅い』

音声が切れた。

野村が椅子から立ち上がった。

「教授は……」

翌日。

死亡。

心筋梗塞。

真壁は何も言わなかった。

まだ殺人とは断定できない。

してはいけない。

だが。

調べる理由は十分だった。

そのとき。

画面の一番下にファイルがあることに気づいた。

《README》

開く。

秋月の文章。

《このファイルを警察が読んでいるなら、私は説明できない状態にある可能性が高い。》

次。

《最初に確認してほしい。》

《観測対象は三人ではない。》

真壁と野村は画面を見る。

《M、K、Nは主要対象。》

《本当の対象は別にいる。》

次。

《対象A》

《この人物がすべての中心である。》

真壁がスクロールする。

《Aの実名は、意図的に電子記録へ残していない。》

《ただし、紙の記録を一つだけ残した。》

《場所は――》

文章がそこで切れている。

「消されてる」

野村が言った。

真壁はファイル情報を見る。

更新日時。

二〇二二年七月九日。

午前零時三十二分。

秋月が死亡した日。

そして、

その後に一度だけアクセスされた記録。

二〇二六年。

三日前。

高瀬浩二が死亡した日。

「高瀬はここに来た」

真壁が言った。

「三日前に?」

「ああ」

「何を見つけた」

真壁は周囲を見る。

紙の記録。

秋月が残した、

対象Aの実名。

高瀬はそれを見つけた可能性がある。

だから死んだのか。

あるいは。

それを持って逃げたのか。

真壁は机の引き出しを開けた。

空。

二段目。

空。

三段目。

鍵。

「鍵がない」

野村が机の裏を見る。

「真壁さん」

小さな傷。

引き出しの側面。

文字が刻まれている。

《17》

また。

十七。

真壁は葛城から受け取った鍵を思い出した。

314番ロッカー。

銀色の鍵。

ロッカーを開けたあと、

まだポケットに入れていた。

取り出す。

鍵を見る。

小さい。

試す。

入った。

回る。

引き出しが開いた。

中には、

一枚の写真。

それだけ。

真壁は手袋をして取り出した。

四年前。

研究室。

秋月教授。

葛城。

高瀬。

そして、

もう一人。

顔ははっきり写っている。

対象A。

真壁はその人物を見た。

知らない男だった。

五十代。

痩せている。

穏やかな顔。

野村も首を振る。

「誰です?」

写真の裏。

手書き。

《対象A》

そして名前。

《三枝隆之》

真壁はスマートフォンで照会した。

結果。

該当なし。

住民記録。

なし。

運転免許。

なし。

旅券。

なし。

警察データベース。

なし。

三枝隆之という人間は、

存在していなかった。

「偽名?」

野村が言った。

「たぶん」

写真をもう一度見る。

真壁は気づいた。

「待て」

男の胸。

名札。

小さい。

拡大鏡。

そこには別の名前が書かれていた。

三枝ではない。

《高瀬浩二》

野村が真壁を見る。

「高瀬?」

だが、

死亡した映像技術者の高瀬浩二とは別人だった。

同じ名前。

別の顔。

真壁は写真の裏を見る。

下に薄い文字。

消しかけ。

《名前は記録を作るための道具にすぎない。》

さらに。

《Aには固定された名前がない。》

最後。

《Aを探すなら、顔ではなく役割を追え。》

真壁は写真を見つめた。

役割。

映像を渡す者。

記録を作る者。

死者の名前を使う者。

真壁たちへ選択肢を与える者。

そして、

観察する者。

野村が言った。

「この人が全部やってるんでしょうか」

真壁は首を振った。

「違う」

「なぜ」

「一人じゃ無理だ」

警察記録。

ホテル。

大学。

映像。

死亡届。

人事記録。

四年間。

一人の人間にできる規模ではない。

「Aは人間の名前じゃない」

真壁が言った。

「じゃあ何です」

「役割だ」

真壁は秋月の記録を見る。

対象A。

いや。

もしかすると。

Aは対象ではない。

観測者側。

そのとき、

古いパソコンから音がした。

新しいファイルが出現した。

外部通信は切っている。

ありえない。

ファイル名。

《23》

野村が青ざめた。

「ネット、切ってますよね」

「ああ」

「じゃあ、どうやって」

真壁はパソコン本体を見る。

答えは一つ。

最初から入っていた。

特定の条件を満たすと表示されるよう設定されていた。

ファイルを開く。

文章。

《対象Mがここまで到達する確率 11.7%》

真壁の目が止まった。

次。

《対象Nが同行する確率 72.4%》

野村。

次。

《対象Kが鍵を渡す確率 64.1%》

葛城。

すべて予測されていた。

四年前に。

そして最後。

《三名がここへ到達した場合、最終段階へ移行する。》

真壁がスクロールする。

《次の問い》

《二〇二二年七月八日、最初の銃声を聞いた瞬間、あなたは何を見ましたか?》

真壁は画面を見た。

答えはわかっている。

少なくとも、

今までそう思っていた。

時計。

十八本目の映像では、

自分は時計を見ていた。

だが。

あの映像の男は自分ではない。

では、

本物の真壁は、

地下駐車場で最初の音を聞いた瞬間、

何を見たのか。

記憶。

白い柱。

葛城。

遠くの音。

ドン。

自分は振り返る。

葛城ではない。

出口でもない。

視線の先。

誰かがいた。

女。

紙袋。

四年前、

十九本目の映像で地下駐車場へ入っていった女性。

葛城佳代という存在しない名前を使った人物。

彼女は、

真壁を見ていた。

そして。

最初の音が響いた瞬間、

笑った。

真壁は立ち上がった。

「思い出した」

野村が振り向く。

「何を?」

「あの女だ」

「葛城佳代?」

「ああ」

「何をしてたんです」

真壁は記憶の続きを追った。

女が笑う。

そして言う。

『始まりましたね』

真壁。

『何がだ』

女。

『観測です』

「観測……」

野村が呟く。

真壁は目を閉じた。

さらに記憶。

女が手にしていた紙袋。

その中。

大量の封筒。

一枚だけ落ちる。

宛名。

そこに書かれていた名前。

真壁は目を開けた。

「野村」

「はい」

「お前の名前があった」

野村の顔から表情が消えた。

「え?」

「四年前だ」

「僕はまだ警察官じゃない」

「知ってる」

「真壁さんとも会ってない」

「それも知ってる」

「なのに?」

「ああ」

真壁は言った。

「事件が起きた瞬間、あの女はすでにお前を知っていた」

野村は何も言えなかった。

そして真壁は、

もう一つ思い出した。

封筒に書かれていたのは、

野村亮介だけではない。

その下に、

小さな文字があった。

《第二観測対象》

つまり。

野村の前に、

第一観測対象がいる。

誰なのか。

記憶の中で、

女が別の封筒を取り出す。

最初の封筒。

《第一観測対象》

名前。

真壁はそれを読んだ。

その瞬間、

四年間閉じていた記憶が、

音を立てて開いた。

第一観測対象。

《山根徹》

真壁はその名前を知っていた。

事件当日、

大和西大寺駅前で最初に真壁へ映像を提供した一般人。

そして事件の三日後、

突然姿を消した男。

捜索願は出ていない。

家族もいない。

住所は存在した。

勤務先も存在した。

納税記録もあった。

だが。

事件以前の写真が、

一枚も存在しなかった。

まるで、

七月八日に生まれ、

七月十一日に消えた人間。

真壁は画面を見る。

《最終段階へ移行する》

その意味が、

ようやくわかり始めた。

四年前の観測は終わっていない。

第一対象が消え、

第二対象として野村が選ばれた。

ならば。

今行われているのは、

四年前の事件の再調査ではない。

実験の続きだ。

真壁は野村を見た。

「ここから先、お前は捜査から外れろ」

野村の顔が強張った。

「嫌です」

「命令だ」

「理由は」

「お前が対象だからだ」

「真壁さんだって対象でしょう」

「だからだ」

「意味がわかりません」

「俺はもう四年間観測されてる」

真壁は言った。

「でもお前は違う」

「何が」

「これから何かをさせられる」

野村は黙った。

そのとき。

野村の携帯電話が鳴った。

非通知。

二人は画面を見る。

「出るな」

真壁が言った。

だが。

着信が切れる。

すぐにメッセージ。

野村が読む。

顔色が変わった。

「何だ」

野村は答えない。

「見せろ」

画面。

一行。

《第二観測対象・野村亮介へ》

次。

《あなたには二つの選択肢があります》

真壁が舌打ちした。

また二択。

だが、

次の文章を見て動けなくなった。

《真壁修司を信じる》

《真壁修司を逮捕する》

野村が真壁を見る。

そして最後の一行。

《二〇二二年七月八日の証拠に基づけば、正しい選択は後者です。》

同時に、

添付ファイルが届いた。

写真。

事件当日。

地下駐車場。

真壁修司。

その右手。

拳銃。

銃口の先。

葛城慎一。

そして撮影時刻。

午前十一時三十一分。

最初の銃声が響く、

ほんの数秒前。

野村は写真を見た。

真壁も見た。

そして真壁は、

写真の場面を思い出した。

今度は、

はっきりと。

自分は確かに、

葛城へ拳銃を向けていた。

合成でも、

替え玉でもない。

本物の記憶だった。

だが。

なぜ。

その理由だけが、

まだ戻ってこなかった。

(第7章に続く)

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