第六十三章 二つの火
石室の中で、誰も動かなかった。
かち。
始帳を載せた台の下から、小さな音。
かち。
そのたびに、直之助の顔から血の気が引いていく。
井戸の上では。
堀田新三郎の腹に、火薬が巻かれている。
同じ刻で動く仕掛け。
一つは帳面を焼く。
一つは人を殺す。
「新之介」
家慶が言った。
「どうする」
「その問いをやめてください」
「何」
「相手の問いです」
新之介は始帳を見た。
「帳面を取るか」
「新三郎殿を取るか」
「どちらか選べという形にされた時点で、相手の中へ入っている」
直之助が怒鳴った。
「理屈はよい!」
「新三郎が死ぬ!」
「分かっています!」
「なら上へ行け!」
「そなたもです!」
「私は」
「甥でしょう!」
「だから私が」
「一人で行って何をする!」
直之助が黙る。
「仕掛けを外せますか」
「できぬ」
「火薬に詳しいですか」
「いや」
「なら役を持て!」
「何を」
「新三郎殿のそばにいる役を!」
「……」
「助ける技がなくても、本人の声を聞ける!」
宗太郎が始帳の台へ耳を近づける。
「新之介」
「何です」
「こちらは私が残る」
「仕掛けを知っているのですか」
「知らぬ」
「では」
「父の古い細工なら、多少は癖が分かる」
「今の仕掛けは宗伯殿のものとは限らない」
「ああ」
「なら一人では」
家慶が言った。
「私も残る」
「上様」
「私が鍵として呼ばれたなら、最後まで見る」
「将軍を危険な石室へ」
「将軍だから残るのではない」
家慶は始帳を見る。
「徳川家慶としてだ」
新之介はしばらく考えた。
「分かりました」
直之助が驚く。
「許すのか」
「許す権限はありません」
「なら」
「本人が選んだ」
「危険だぞ」
「分かっています」
新之介は井戸口を見上げる。
「ですが一つ条件が」
家慶が眉を上げる。
「何だ」
「始帳へ触らないでください」
「燃え始めてもか」
「辰蔵が来るまで」
「もし間に合わなければ」
「その時に、その場で決める」
「また後か」
「後で決められることを、今決めない」
宗太郎が笑った。
「宗伯が好みそうだ」
「今は褒められても嬉しくありません」
◇
新之介と直之助が井戸を上がる。
地上へ出た瞬間。
「榊原殿!」
玄斎が怒鳴った。
「遅い!」
「どこです!」
「表だ!」
再起館の表庭。
人々は大きな輪を作り、誰も近づいていない。
中央に堀田新三郎。
十五、六の少年。
日本橋で将軍の駕籠へ閉じ込められていた男。
今は両腕を広げたまま立っている。
腹の周囲には黒い布。
その下に、何か硬いものが巻かれている。
胸元から細い仕掛けが伸びている。
辰蔵が五歩ほど離れ、しゃがんで観察していた。
「近づくな!」
辰蔵が叫ぶ。
「榊原もだ!」
「見ただけで分かりますか」
「分からねえから近づくなって言ってんだ!」
「それもそうですね」
「笑ってる場合か!」
新三郎の顔は真っ青だ。
「叔父上」
直之助を見つける。
「来てしまったのですか」
「新三郎」
「来るな!」
直之助が止まる。
「なぜ」
「私に近づけば」
「爆ぜるのか」
「分かりません」
「では」
「分からないからです!」
新之介は少年を見る。
「新三郎殿」
「はい」
「自分で歩いて戻ったと聞きました」
「はい」
「どこから」
「神田の裏路地から」
「誰に放された」
「分かりません」
「顔は」
「見ていません」
「声は」
「叔父上でした」
直之助の顔が歪む。
「私の」
「はい」
「何と」
「再起館へ行け、と」
「それだけか」
「途中で止まるな」
「人へ近づくな」
「榊原新之介に会え」
「そして」
新三郎は唇を噛んだ。
「始帳を焼かせろ」
辰蔵が顔を上げる。
「やっぱり、人と帳面を結んでやがる」
「誰が」
「知らねえ」
「仕掛けは」
「見たことねえ型だ」
「外せるか」
「それを今考えてる!」
辰蔵は新三郎へ問う。
「腹、痛えか」
「少し」
「締めつけか」
「はい」
「熱は」
「ありません」
「音は」
「胸元から」
かち。
新之介にも聞こえた。
始帳と同じ。
だが完全に同じ間隔かは分からない。
「同じ刻だと言ったのは誰だ」
新之介が問う。
玄斎が答える。
「新三郎本人だ」
「なぜ分かる」
「攫った者が申したそうだ」
「本人は比べていない」
「では」
「同じとは限らない」
直之助が新之介を見る。
「そんな」
「相手がそう言っただけだ」
「なら時間は」
「分からない」
「余計悪いではないか!」
「はい」
「そこで素直に認めるな!」
辰蔵が言う。
「だが榊原の言う通りだ」
「何」
「二つが同時に爆ぜると思わせりゃ、人は二つを比べる」
「本当は別々かもしれねえ」
「では、どちらが先に」
「知らん!」
「皆知らないことばかりだな」
玄斎が言う。
「先生方が作った世です」
「わしを混ぜるな!」
◇
「新三郎殿」
新之介が呼ぶ。
「何です」
「怖いですか」
「……はい」
「逃げたいですか」
「はい」
「では逃げないでください」
新三郎が目を見開く。
「なぜ」
「走れば仕掛けがどうなるか分からない」
「それは」
「怖いまま、立っていてください」
「酷いことを」
「はい」
「榊原殿」
「何です」
「私は死にますか」
周囲が静かになる。
直之助が口を開こうとした。
新之介は手で止めた。
「分かりません」
新三郎の顔が歪む。
「助かる、と申してくださらないのですか」
「できぬ約束はしたくない」
「……」
「ですが、助けようとしている者はいます」
辰蔵を指す。
「火消しの辰蔵殿」
「玄斎先生」
「直之助殿」
「町方」
「海防掛」
「再起館の人たち」
「一人ではありません」
「それで安心しろと」
「安心できなくてよい」
「では」
「怖いなら、怖いと申してください」
新三郎の目から涙が落ちた。
「怖いです」
「ああ」
「死にたくありません」
「分かりました」
「叔父上」
直之助が一歩出かける。
「動くな!」
辰蔵が怒鳴る。
直之助は止まり、その場で膝をついた。
「新三郎」
「はい」
「すまない」
「何が」
「私が始帳を開けた」
「それで私が」
「そうだ」
「なら焼いてください」
「新三郎!」
「帳面一冊でしょう!」
「違う!」
直之助が叫んだ。
「お前と帳面を比べる気はない!」
「なら」
「お前を助ける!」
「帳面は」
「そちらも助ける!」
新三郎は泣きながら、少し笑った。
「榊原殿と同じことを」
「腹が立つ!」
新之介が言う。
「皆、同じことを申します」
玄斎が返した。
◇
志乃が館内から走ってくる。
「新之介様!」
「何です」
「始帳の方に変化が!」
「何が」
「台の脇から煙が出始めたと!」
「火は」
「まだです!」
直之助が立ち上がる。
「私は下へ!」
「待ってください」
「始帳が!」
「新三郎殿は」
「ここには辰蔵がいる!」
「そなたは叔父です!」
「だから何をしろと!」
「本人が怖いと申した!」
「そばへ行けない!」
「なら声をかけろ!」
直之助が新三郎を見る。
少年は、今も一人で立っている。
周囲には何十人もいる。
それでも彼の身体には誰も触れられない。
「新三郎」
「はい」
「私はここにいる」
「分かっています」
「逃げない」
「……はい」
「始帳も気になる」
「行ってください」
「だが、お前を見ている」
新三郎が目を閉じる。
「はい」
直之助は残った。
「新之介」
玄斎が言う。
「地下へ行け」
「先生は」
「ここを見る」
「膝が」
「見るだけなら関係ない!」
「では」
「急げ!」
新之介は志乃と地下へ戻った。
◇
石室には薄い煙が漂っていた。
家慶。
宗太郎。
そして始帳。
台の側面から、白い煙。
「辰蔵は」
家慶が問う。
「新三郎殿を見ています」
「こちらは」
「宗太郎殿」
「仕掛けの一部は見えますか」
「見えぬ」
「では触っていませんね」
「そなたに言われた通りだ」
「よい」
「将軍へ褒める言い方ではないな」
「今は徳川家慶殿です」
「便利だな」
宗太郎が台の下を指す。
「煙は油壺ではない」
「では」
「濡れた紙だ」
「何」
「内部で何かが焦げ始めている」
「火打ち」
「まだ火は落ちていない」
「なぜ煙が」
「仕掛けの縄が熱を持っているのかもしれぬ」
「どのくらい」
「分からぬ」
「触れば」
「分からぬ」
新之介が苛立つ。
「分からぬことばかりだ!」
宗太郎が笑った。
「よいではないか」
「何が」
「ようやく正しい場所に来た」
「正しい?」
「分からぬのに、分かったふりをしない場所だ」
「今それを楽しめません」
上から声。
「辰蔵殿が下ります!」
新之介が驚く。
「新三郎殿は!」
「玄斎殿が見ています!」
「辰蔵殿をこちらへ?」
「新三郎殿本人が」
「何と」
「『あちらを先に見ろ』と!」
「なぜ!」
「自分の仕掛けは、辰蔵殿が一度見たからだと!」
新之介は唇を噛む。
新三郎自身が役を分けた。
「よい」
家慶が言う。
「よくありません」
「なぜ」
「あの子へ判断をさせた」
「だが本人が」
「怖い中でです」
「それも選びだ」
「だから記録する」
家慶が少し笑う。
「結局そこへ戻るか」
◇
辰蔵が石室へ飛び込んだ。
「どけ!」
将軍へも宗太郎へも同じ言い方だった。
家慶が素直に退く。
「上様に」
新之介が言いかける。
「今は火が先だ!」
「その通りです」
辰蔵は台の周囲を一周する。
耳を当てる。
匂いを嗅ぐ。
ただし手は触れない。
「似てる」
「何に」
「新三郎の腹の仕掛けと」
「同じか」
「いや」
「では」
「外側だけ似せてある」
「何」
「音を出す部分だけ同じだ」
「中は」
「別物だ」
家慶が問う。
「つまり、同時ではない」
「知らねえ」
「では」
「同時に見せるために同じ音を使ってる」
「相手は、我々に二つを比べさせるため」
「だろうな」
「止められるか」
辰蔵は台を見る。
「始帳を動かせる」
「本当ですか」
「たぶん」
「たぶん」
「嫌なら別の火消し呼べ!」
「いません!」
「なら黙って聞け!」
辰蔵は床を指す。
「台が燃えるなら、帳面を台から離せばいい」
「仕掛けが連動していたら」
「そこだ」
「どうする」
「帳面へ手をかける前に、台を壊す」
「壊せば発火する可能性は」
「ある」
「では」
「だから水を張る」
「どこへ」
「台の周り」
「石室を」
「浅くでいい」
新之介は辰蔵を見る。
「火薬ではないのですね」
「今見える範囲じゃな」
「なら」
「だが油なら燃える」
「水で」
「広がる場合もある」
「では」
「砂だ」
「どっちです!」
「両方用意しろ!」
新之介は頷く。
「分かりました」
「素直すぎて怖いな」
「今は辰蔵殿が一番分かっています」
「そういう時だけ使いやがる」
◇
地上。
新三郎の仕掛けを玄斎、半九郎、千代が囲んで見ていた。
近づくのは玄斎だけ。
三歩。
それ以上は辰蔵に止められている。
「新三郎」
「はい」
「胸元の音は、最初から同じか」
「はい」
「速くなっていない」
「分かりません」
「耳を澄ませ」
「自分で?」
「自分の腹だ」
「怖いです」
「なら、わしが数える」
かち。
「一」
間。
かち。
「二」
間。
かち。
「三」
玄斎が眉をひそめる。
「変わらぬ」
千代が言う。
「時限ではない可能性がある」
「何」
「音を聞かせるだけ」
「なら爆ぜない?」
「そこまでは言っていない」
「お前も分からぬのか」
「私は声の仕掛けを扱った」
「火薬は専門ではない」
半九郎が新三郎へ問う。
「攫われた時、何か薬を飲まされましたか」
「少し眠くなるものを」
「目を閉じた」
「はい」
「起きた時には」
「これが」
「誰かの手を覚えていない」
「いいえ」
「匂いは」
新三郎が考える。
「魚」
「魚?」
「油の匂いです」
玄斎が振り返る。
「魚油か」
千代の顔が変わる。
「船」
「何」
「この仕掛けを巻いた場所は、船の中かもしれない」
「なぜ」
「御影の古い工房で、魚油を灯りに使う場所があった」
「どこだ」
「深川」
「文吉の」
「近い」
「なら仕掛けを知る職人が」
「いるかもしれない」
半九郎が立ち上がる。
「私が行きます」
「傷人が」
「今は申すな!」
「しかし時間が」
「だから聞きに行く!」
玄斎が頷いた。
「一人で行くな」
「誰と」
「伊助」
「船道を知っています」
「よし」
また役が分かれる。
◇
石室。
砂。
水。
濡れ布。
辰蔵が台の横へしゃがむ。
「始帳へ触れるのは誰だ」
新之介が即座に答える。
「一人では触れない」
「今それやるか?」
「今だからです」
家慶。
宗太郎。
新之介。
そして辰蔵。
「四人」
「俺までか」
「仕掛けを分かっている者が必要です」
「町方は」
「地上」
「寺は」
「ここにいない」
「不十分だな」
家慶が言う。
「はい」
「なら動かさぬか」
新之介は始帳を見る。
煙が少し増えている。
「今いる者で仮の立会いにします」
「後で記録へ不十分と残す」
「そうします」
家慶が笑う。
「便利な仕組みだ」
「完全でないことを残せるのが」
「完全なのか」
「いいえ」
「またか」
辰蔵が遮る。
「話は後だ!」
台の板へ鳶口をかける。
「これを引く」
「何が起きる」
「知らん!」
「皆、そればかり」
「ならお前がやれ!」
「お願いします!」
「よし!」
辰蔵が引く。
板が一枚外れる。
かち。
音が止まった。
全員が固まる。
「止まった」
宗太郎が言う。
「良いのか」
「分からん」
次の瞬間。
台の内側から、小さな炎。
「砂!」
新之介たちが一斉に動く。
火へ砂。
辰蔵が濡れ布をかぶせる。
家慶まで桶を持つ。
「上様!」
「今は家慶だ!」
「便利に使わないでください!」
「そなたが始めた!」
炎が消える。
煙。
始帳は。
無事。
表紙の端が少し焦げただけ。
「止まった」
家慶が息を吐く。
辰蔵は台の中を見る。
「……おい」
「何です」
「火打ちの先に、何もない」
「何」
「油壺は空だ」
「では」
「最初から帳面を全部燃やす量じゃねえ」
新之介が眉をひそめる。
「脅し」
「少し焦がすだけだ」
「なぜ」
宗太郎が答える。
「選ばせたかったからだ」
「本当に焼くためではなく」
「焼くか、人を捨てるか」
「その判断を見たかった」
新之介の顔が険しくなる。
「また試しか」
「誰が」
「御影宗一」
「本人かは」
「まだ分からない」
◇
地上から大声。
「榊原殿!」
半九郎が戻ったのか。
新之介たちは井戸を上がる。
表庭。
新三郎はまだ立っている。
だがその前へ、一人の老人が座っていた。
伊助が連れてきたらしい。
髪は白い。
指が煤で黒い。
「誰です」
半九郎が答える。
「深川の職人、留蔵」
「仕掛けを」
「見覚えがあるそうです」
留蔵が新三郎を遠くから見る。
「これ、爆ぜねえぞ」
直之助が飛びつくように問う。
「本当か!」
「近づくな!」
留蔵が怒鳴る。
「爆ぜねえと思うが、勝手に触るな!」
「では何だ」
「音箱だ」
「何」
「腹の外側へ火薬みてえな包みを巻いてあるが」
「中身は」
「砂と鉄屑」
「火薬は」
「一部だけ」
「どこに」
「紐を切った時に小さく弾けるくらいだ」
「人は」
「火傷するかもしれねえ」
「死ぬほどでは」
「普通ならな」
「普通なら?」
「胸元に別の仕掛けがなければ」
全員がまた黙る。
「結局分からぬのか!」
玄斎が怒鳴る。
「見りゃ分かる!」
「なら見ろ!」
「近づく!」
留蔵が一歩ずつ新三郎へ。
「怖いか、坊主」
「はい」
「俺もだ」
「職人なのに」
「職人だからだ」
留蔵は笑わない。
「知ってる物ほど、失敗した時を知ってる」
新三郎が小さく頷く。
「動くなよ」
「はい」
留蔵が近づく。
一歩。
二歩。
手が届く距離。
胸元を覗く。
指で触れない。
目だけ。
「やっぱり」
「何だ」
「音を出してるだけだ」
「では外せる」
「待て」
「まだ何か」
「紙が挟まってる」
留蔵が細い紙を抜く。
「触って大丈夫なのか!」
「これは仕掛けじゃねえ!」
紙を開く。
文字。
「読め」
玄斎が言う。
留蔵が顔をしかめる。
「字が苦手だ」
「では」
清太郎が前へ。
「私が」
紙を受け取る。
「読みます」
――始帳が焼かれれば、新三郎を殺せ。
直之助の顔が変わる。
「続き」
――始帳が残れば、新三郎を生かせ。
「やはり」
新之介が言う。
「仕掛けは自動ではない」
「誰かが見ている」
千代が周囲を見渡す。
屋根。
路地。
木立。
「合図を送る者がいる」
「誰が」
「始帳の結果を見て」
「新三郎の仕掛けを動かす」
玄斎が言う。
「なら今、始帳が残ったことを」
「相手が知れば」
「新三郎は生きる?」
新三郎が問う。
新之介は首を振った。
「それも相手の決めた話です」
「では」
「仕掛けを外す」
「でも」
「始帳がどうなったかとは切り離す」
留蔵が頷く。
「それならできる」
「本当に」
「たぶんな」
「また」
「職人は絶対なんて言わねえ!」
辰蔵が井戸から上がってくる。
「気が合いそうだな」
「誰だ、お前」
「火消しだ」
「なら手を貸せ」
「仕掛け屋か」
「元だ」
「よし」
二人が新三郎を挟む。
「一人ずつ触らない」
新之介が言う。
辰蔵が振り返る。
「お前、本当に今それ言うか」
「言います」
「なら見てろ!」
留蔵が息を吐く。
「坊主」
「はい」
「今から外す」
「はい」
「怖けりゃ喋れ」
「何を」
「何でもいい」
新三郎は考えた。
「叔父上」
「いる!」
直之助が答える。
「私が帰ったら」
「ああ」
「叱りますか」
「何を」
「勝手に城を出たこと」
「お前は攫われたのだ!」
「途中から、自分で再起館へ」
「……叱らぬ」
「本当に」
「いや」
直之助は泣きながら笑った。
「少し叱る」
「なぜ」
「一人で歩いたからだ」
「榊原殿もよく一人で」
「真似するな!」
「はい」
留蔵が言う。
「そのまま喋ってろ」
手が動く。
辰蔵が支える。
布が緩む。
かち。
音が止まった。
新三郎の顔が強張る。
「動くな!」
留蔵が叫ぶ。
一呼吸。
二呼吸。
何も起きない。
「外すぞ」
黒い包みが少年の腹から離れる。
辰蔵が遠くへ運ぶ。
留蔵が胸元の小箱も外す。
地面へ置く。
全員が見つめる。
何も起きない。
「終わりだ」
留蔵が言った。
直之助が新三郎へ走る。
今度は誰も止めなかった。
叔父が少年を抱きしめる。
「新三郎」
「叔父上」
「すまなかった」
「何度目ですか」
「何が」
「今日、謝るの」
直之助は答えられず、さらに強く抱いた。
◇
新之介は外された小箱を見る。
「開けられますか」
「後でだ」
辰蔵が答える。
「なぜ」
「今は人が先だろ」
新之介は笑った。
「覚えましたね」
「お前がしつこいんだ」
玄斎が言う。
「皆、同じことを申す」
「先生まで」
少しだけ、場が緩んだ。
だが。
千代だけが、屋根の向こうを見ていた。
「いる」
「何が」
「見ていた者だ」
屋根瓦の間。
僅かに動く影。
「追う!」
半九郎が走り出す。
「傷人!」
「今は申すな!」
新之介も続こうとする。
玄斎が袖を掴む。
「待て」
「逃げます!」
「見ろ」
影は逃げていない。
屋根の上へ一人の男が立った。
三十ほど。
顔の右半分に火傷。
左手の親指がない。
「御影宗一」
宗太郎が井戸から上がり、その姿を見る。
「宗一!」
男が父を見る。
「父上」
本物か。
偽物か。
その呼び方だけでは分からない。
「江戸城で捕えられたはずでは」
新之介が問う。
「捕えられた」
「逃げた」
「ああ」
「新三郎殿へ仕掛けたのは」
「私ではない」
「では紙は」
「私の名を使われた」
「またか」
宗一が笑う。
「御影は、そういう役目だ」
「笑うな!」
宗太郎が怒鳴る。
「誰がやった!」
「私も探している」
「なら降りてこい!」
「まだだ」
「なぜ」
宗一は新之介を見る。
「二つとも残したか」
「何を」
「人と始帳」
「はい」
「やはり」
「何だ」
「そなたは選ばない」
「選びました」
「何」
「人を助ける」
「帳面も残す」
「その二つを選んだ」
「それは選びではない」
「そなたが二つしか置かなかっただけだ!」
宗一の顔から笑みが消える。
「では三つ目を置く」
「何を」
新之介の背筋が冷える。
「もうたくさんだ」
玄斎が呟く。
宗一は懐から一枚の紙を出した。
「西徳寺から使いが来る」
「何の」
「根帳だ」
「火で焼けたのでは」
「一部だけだ」
「何が見つかった」
宗一は答えた。
「最後の頁」
「何が書いてある」
「御影の次に作る役目」
「次?」
「御影が失敗した時」
「国を一つにするための、最後の役目」
「誰がなる」
「もう決まっている」
「誰だ」
宗一は、新之介ではなく。
家慶を見た。
「将軍だ」
家慶の顔が変わる。
「何を申す」
「御影が国の外から人を動かせぬ時」
「将軍自身が御影になる」
「そんな」
宗太郎が声を失う。
「父上」
宗一が言った。
「あなたも知らなかったでしょう」
「誰が書いた!」
「御影宗伯」
「父が?」
「四十年前」
「嘘だ!」
宗一は首を振る。
「だから確かめろ」
その言葉だけは、新之介たちと同じだった。
遠く。
西徳寺の方角から馬の音が近づいてくる。
一騎。
使者。
手には焦げた紙。
根帳の残頁。
家慶は、その紙を見つめていた。
もしそこに宗一の言う通りのことが書かれているなら。
御影も。
鷹見静山も。
偽声も。
始帳も。
すべての先に、将軍という役目そのものが待っている。
新之介は家慶を見る。
家慶も彼を見る。
「榊原」
「はい」
「今度は、私を疑う番らしい」
新之介は答えた。
「最初から疑っています」
家慶は一瞬目を丸くし。
そして、苦く笑った。
(第六十四章へ続く)

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