上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第五十五章

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第五十五章 割れた鐘

 四度目の鐘が、海の上まで届いた。

 ごおん――。

 長い余韻が、江戸湾の風へ溶けていく。

 朝風丸の甲板で、誰もすぐには口を開かなかった。

 四度。

 再起館で決めた救いの合図。

 偶然ではない。

「西徳寺で何か起きた」

 新之介が言った。

 玄斎は、お志津の持ってきた紙を握りしめたまま動かない。

 ――玄斎が忘れているなら、西徳寺の鐘を割れ。

「先生」

「……何だ」

「鐘に心当たりは」

「ない」

「本当に」

「ないと言っておる」

 答えは強い。

 だが顔は違った。

 何かを探している顔だった。

 記憶の底へ手を入れ、掴めないものへ苛立っている。

「十五年前」

 兵庫が言った。

「西徳寺へ行ったことは」

「ある」

「何度」

「数え切れぬ」

「鐘へ触ったことは」

「寺へ行けば鐘くらい見る」

「そういう意味ではない」

「分かっておる!」

 玄斎が怒鳴る。

 白髪の男――鷹見静山を名乗る者が、玄斎を見ていた。

「玄斎」

「何だ」

「右の耳の後ろを触っている」

 玄斎の手が止まった。

「それが何だ」

「昔から、思い出したくない時にする癖だ」

「……」

「忘れたのではない」

「何」

「忘れようとしたのではないか」

 玄斎の目が鋭くなる。

「偽物かもしれぬ者に、わしの心まで決められたくない」

「もっともだ」

 男は退いた。

「自分で思い出せ」

「それができぬから腹が立っておる!」

 新之介が海防掛の早舟を見た。

「水野様」

「行け」

「まだ何も」

「西徳寺だろう」

「異国船は」

「こちらで見る」

「第三冊は」

「正本と三宅の改帳、双方を封じる」

「誰と」

「安西、青山、兵庫、それに異国船の生存者から二人」

「静山殿は」

「まだ静山と決めていないのであろう」

 水野は白髪の男を見た。

「ならば一人の証人として加える」

 男が微かに笑う。

「役目が下がったな」

「上がったかもしれぬ」

「なぜ」

「死者より、生きた証人の方が面倒だ」

 水野は新之介へ向き直った。

「玄斎殿を連れて行け」

「先生の膝が」

「聞こえておるぞ」

「ならば歩けますか」

「歩く!」

「傷人は」

「わしは傷人ではない!」

「膝人です」

「何だそれは!」

 兵庫が顔を背けて笑った。

 ◇

 西徳寺へ向かう舟には、新之介、玄斎、お志津、半九郎が乗った。

 半九郎の脇腹には新しい布が巻かれている。

「そなたも来るのか」

 新之介が問う。

「四度の鐘を決めたのは私です」

「傷は」

「浅いです」

「皆」

「言わせません」

 半九郎が先に答えた。

 船頭は伊助だった。

 いつの間にか朝風丸の周囲へ来ていた。

「忙しい船頭だな」

 新之介が言う。

「侍が勝手に海と川を行き来するからだ」

「舟代は」

「まとめて請求する」

「誰へ」

「再起館」

「またか」

「もう客ではなく取引先だ」

 舟が江戸へ向かう。

 玄斎は船縁へ座り、何も話さない。

 右手が、時折耳の後ろへ行く。

「先生」

「聞くな」

「まだ何も」

「顔が聞いておる」

「便利な顔ですね」

「新之介」

「はい」

「わしは、本当に知らぬ」

「分かっています」

「信じるのか」

「いいえ」

「何だと」

「知らぬという先生の言葉は信じます」

「同じではないか」

「先生自身が知らないこともあります」

 玄斎が新之介を見る。

「人は、自分の記憶まで疑わねばならぬのか」

「場合によっては」

「生きづらい世だ」

「先生方が作った問いです」

「わしのせいにするな」

 お志津が紙を膝へ広げた。

「この字は父のものではありません」

「誰の」

「分かりません。ただ、父は『忘れている』という言い方を嫌いました」

「なぜ」

「忘れたのではなく、見ないことを選んだ、とよく申していました」

 玄斎の手が止まる。

「長兵衛が」

「はい」

「わしについて何か」

「一度だけ」

「何と」

「黒川先生は、鐘の音を聞くと酒がまずくなる、と」

 玄斎の顔から血の気が引いた。

「いつ聞いた」

「十年ほど前です」

「なぜ今まで」

「意味が分からなかったからです」

「酒がまずくなる……」

 玄斎は目を閉じた。

 鐘。

 西徳寺。

 十五年前。

「先生」

「黙れ」

 新之介は何も言わなかった。

 しばらくして玄斎が、自分から口を開く。

「鐘の下で、人を待った」

「誰を」

「思い出せぬ」

「いつ」

「鷹見先生が捕まる前だ」

 お志津が息を呑む。

「何を待った」

「紙だ」

「名簿か」

「分からぬ」

「誰から」

「……女だ」

「名は」

 玄斎の顔が苦しげに歪む。

「お澄ではない」

「では」

「鈴を持っていなかった」

「ほかに何を」

「指が」

「指?」

「右手の小指がなかった」

 新之介は記憶をたどった。

 これまで出た人物にはいない。

「その女は何を渡した」

「筒だ」

「鐘の中へ」

「違う」

 玄斎は急に目を開いた。

「わしが隠した」

 ◇

 西徳寺の山門前には、すでに人だかりができていた。

 寺男。

 近所の町人。

 町方の同心。

 そして、半九郎とともに第一冊を守るため先に向かっていた篠田弥兵衛。

「半九郎殿?」

 篠田が驚く。

「なぜ海から」

「説明すると長いです」

「第一冊は!」

 新之介が問う。

「無事です!」

「了順殿は」

「ご無事です」

「藤吉殿は」

 篠田が一瞬黙った。

「怪我をしています」

「どこに」

「鐘楼です」

 新之介たちは走った。

 境内の奥。

 鐘楼の下。

 藤吉が柱へ背を預けて座っている。

 額から血。

 了順が布を当てていた。

「藤吉殿!」

「騒ぐな」

「何があった」

「鐘を割れと言う男が来た」

「どんな」

「僧形だ」

「宗山か」

「違う」

「顔は」

「知らぬ」

「声は」

「それがな」

 藤吉が苦い顔をする。

「黒川の声だった」

 玄斎が顔を上げる。

「わしの」

「ああ」

「何と」

「鐘を割れ。そこに弁財丸の名簿がある、と」

「誰が聞いた」

「寺男が三人。わし。了順」

「皆、玄斎先生の声だと」

 了順が頷いた。

「私は黒川殿と長い付き合いではありませんが、よく似ておりました」

「なぜ四度鐘を」

 半九郎が問う。

 藤吉が答える。

「奴が鐘楼へ上がったからだ」

「襲われたのでは」

「止めようとして殴られた」

「四度鳴らしたのは」

「わしだ」

「合図を知っていたのですか」

「清太郎が申しておった」

 藤吉は笑った。

「何かあったら四度。三度では昔の合図と間違えるとな」

「清太郎め」

 半九郎が少し笑う。

「役に立った」

「鐘は」

 新之介が見上げる。

 大鐘には亀裂が入っていた。

 縦に一本。

 完全には割れていない。

 だが、男は何度も金槌で叩いたらしい。

「男は」

「逃げた」

「どちらへ」

「墓地の裏」

「追ったか」

「二人だけ」

 篠田が答える。

「新之介殿のやり方を真似ました」

「何を」

「全員で追わず、寺へ人を残しました」

「捕えたか」

「まだ戻りません」

 玄斎は鐘へ近づく。

 右手で亀裂へ触れる。

「ここではない」

「何が」

「隠した場所だ」

「思い出したのですか」

「少し」

 鐘そのものではない。

 玄斎は鐘楼の床板を見る。

「下だ」

「床下」

「あの夜、女から筒を受け取った」

「中身は見たか」

「見ていない」

「なぜ」

「鷹見先生へ渡す物だと」

 白髪の男が静山本人なら、彼へ。

 だが当時、玄斎は渡せなかった。

「先生が捕まった」

「ああ」

「その後は」

「取りに来る者を待った」

「来なかった」

「三日待った」

「それで」

「床下へ隠した」

「なぜ忘れた」

 玄斎は床板を見つめた。

「その翌日だ」

「何が」

「女の死体が見つかった」

「どこで」

「寺の裏の用水」

「小指のない女」

「ああ」

「名は」

「知らなかった」

「調べなかったのですか」

「調べた」

「では」

「名は三つあった」

「三つ」

「寺では、お琴」

「船宿では、お加代」

「海防掛の記録では」

 玄斎が一瞬ためらう。

「鷹見千代」

 全員が黙った。

「鷹見」

 新之介が言う。

「先生の身内か」

「そう書かれていた」

「誰だ」

「妻だ」

 玄斎が答えた。

「鷹見静山の妻」

 ◇

 床板は十五年の湿気で固くなっていた。

 辰蔵はいない。

 代わりに寺男たちが鑿を持ってくる。

「壊すぞ」

 玄斎が言う。

 了順が鐘楼を見上げた。

「寺の床ですぞ」

「弁償する」

「誰が」

「新之介が」

「なぜ私が」

「再起館で」

「何でも再起館へ回さないでください」

 藤吉が笑った。

「そのくらい払え」

「藤吉殿まで」

 緊張の中へ、少しだけ笑いが入る。

 床板を一枚外す。

 土。

 石。

 何もない。

「場所が違うのでは」

 半九郎が問う。

「もう一枚」

 二枚目。

 やはりない。

 玄斎の顔に焦りが浮かぶ。

「先生」

「分かっておる」

「本当にここへ」

「隠した!」

「疑っているのではありません」

「では何だ」

「誰かが先に取った可能性があります」

 玄斎が黙る。

 三枚目。

 土の下から、小さな石板。

「これだ」

 玄斎が膝をつく。

 石板を外す。

 下に空洞。

 中には細長い竹筒が一本。

 油紙で包まれている。

「十五年」

 了順が呟く。

「残っていた」

 玄斎は手を伸ばしかけ、止めた。

「新之介」

「はい」

「わし一人で触らぬ方がよいな」

「先生がそう申すようになりましたか」

「腹が立つ言い方をするな」

「では、誰と」

 新之介は周囲を見る。

 玄斎。

 了順。

 篠田。

 お志津。

 藤吉。

 半九郎。

「六人で」

「多いな」

「多いからよい」

 お志津が布を広げる。

 竹筒をその上へ。

 玄斎が油紙を外す。

 篠田が日付と時刻を記す。

 了順が見守る。

「開けます」

 竹の栓。

 固い。

 半九郎が小柄を差し込む。

「傷人に」

「細かい作業ならできます」

「便利だな」

「今は褒め言葉として受け取ります」

 栓が抜ける。

 中から紙が三枚。

 名簿ではない。

 一枚目は船の絵。

 二枚目は数字。

 三枚目は短い書状。

「読め」

 玄斎が新之介へ渡す。

「私が」

「声に出せ」

 新之介は紙を開いた。

 古い。

 だが字は読める。

「――玄斎殿へ」

 差出人の名はない。

「――もし鷹見静山が戻らぬ時、この筒を焼いてください」

 玄斎の顔が変わった。

「焼けと」

「続けます」

「――ただし、焼く前に一つだけ確かめること」

「――弁財丸へ乗った者のうち、生きて戻った者がいるか」

「――一人でも戻ったなら、焼いてはならない」

 新之介は二枚目の数字を見る。

 二十四。

 三十一。

 四十七。

「人数か」

 藤吉が言う。

「異国船の生存者は二十三」

 お志津が答える。

「四十七という数が一致します」

「では二十四、三十一は」

「出港時、途中、到着時かもしれぬ」

 半九郎が言う。

「いや」

 玄斎が船の絵を見た。

「二艘ある」

「何」

 一見一艘に見えた絵。

 だが薄い線で、後ろに小さな船が描かれている。

「弁財丸だけではない」

「もう一艘」

「第三冊へ書かれていない船か」

 新之介は書状を読み進める。

「――名簿を持つ者は黒川玄斎」

 玄斎が息を止めた。

「わしが」

「まだ続きます」

「――ただし、本人には知らせていない」

「何」

「――玄斎殿を名簿そのものとして使う」

「意味が」

 篠田が眉をひそめる。

 新之介は最後の行を読む。

「――名は紙に書かない」

「――玄斎殿が見た顔を、鷹見静山が聞き取って記す」

 玄斎の手が震えた。

「顔」

「先生は名簿を持っていなかった」

 新之介が言う。

「先生自身の記憶が名簿だった」

「だから忘れているなら」

 お志津が鐘を見る。

「鐘を割れ」

 竹筒を見つけ、記憶を戻せという意味。

「わしは……見たのか」

「誰を」

「弁財丸へ関わった者たちを」

「思い出せますか」

 玄斎は目を閉じた。

「十五年前」

 声が低くなる。

「西徳寺の鐘楼で、女を待つ前だ」

「どこへいた」

「品川の船宿」

「何人」

「多い」

「名は」

「知らぬ」

「顔は」

「……見た」

 一人。

 二人。

 玄斎の眉が動く。

「三宅」

「沢渡」

「安西主馬」

「長兵衛」

「ほかは」

「水野ではない」

「戸田殿は」

「いない」

「静山殿は」

 玄斎が目を開けた。

「いた」

「鷹見静山が」

「ああ」

「今、海にいる男と同じ顔ですか」

 玄斎はすぐには答えない。

「先生」

「違う」

 全員が固まった。

「何が違う」

「顔ではない」

「では」

「歩き方だ」

「歩き方」

「あの夜、鷹見先生は左足を引いていた」

「怪我か」

「違う」

「では」

「右足を庇う癖は知っている。だが左ではない」

「誰かが先生の姿を」

「真似ていた」

 十五年前から。

 死んだ後ではない。

 鷹見静山が生きていた時から、誰かがその姿を使っていた。

「顔を覚えていますか」

「暗かった」

「声は」

「喋らなかった」

「誰と一緒に」

 玄斎が頭を押さえる。

「女だ」

「小指のない女」

「違う」

「誰です」

「鈴だ」

「お澄」

「違う!」

 玄斎が強く否定した。

「もっと若い」

「顔は」

「面をしていた」

「どんな」

「白い面」

 お志津の顔色が変わる。

「母が申していました」

「何を」

「鷹見宗山の周りには、鈴を持つ女が何人もいた、と」

「一人ではなかったのか」

「母だけではありません」

 鈴。

 仮面。

 同じ印。

 個人ではなく役目。

「では、あの時の女も」

「分かりません」

「書状を書いた小指のない女は」

「鷹見千代を名乗っていた」

「本物の妻かどうかも」

「確かめる必要があります」

 新之介は竹筒の底を覗いた。

「待ってください」

「何だ」

「まだ何かある」

 細い金属片。

 取り出す。

 銅の小さな札。

 表には鷹。

 裏には番号。

 ――四十七。

「異国船の人数と同じだ」

 半九郎が言う。

「二十三人生存、二十四人死亡」

 お志津が数字の紙を見る。

「最初の二十四という数」

「死亡者か」

「では三十一は」

 新之介が考える。

 四十七。

 三十一。

 二十四。

「途中で七人消えている」

 藤吉が言った。

「四十七から三十一へ」

「十六人です」

 半九郎が訂正する。

「三十一から二十四なら七人」

「では二十三は」

 新之介が呟く。

 異国船で生きていたのは二十三人。

 数字が一人合わない。

「二十四人は生きて着いた」

「そのうち一人が」

 お志津が言う。

「十五年の間に死んだ」

「あるいは」

 玄斎が銅札を見た。

「一人だけ、日本へ先に戻った」

 鐘楼の外から、足音がした。

 追跡へ出ていた同心の一人が駆け込んでくる。

「篠田様!」

「捕えたか」

「一人は逃げました!」

「もう一人いたのか」

「はい!」

「誰を捕えた」

 同心が後ろを向く。

 二人の町方が、僧形の男を連れてくる。

 顔から布を外す。

 玄斎がその男を見た瞬間、立ち上がった。

「そなた……」

「知っているのですか」

 男は五十ほど。

 左足を引いている。

 右手の小指がない。

「先生?」

 新之介が問う。

 玄斎は首を振った。

「女ではない」

「では」

「十五年前、船宿にいた」

「名は」

 玄斎の声が震える。

「鷹見静山」

 捕えられた男が笑った。

「違う」

「何」

「その名で呼ばれたことはある」

「本当の名は」

 男は鐘を見上げた。

「四十七」

「名を聞いている!」

「私は四十七番だ」

「人に番号を」

「名を捨てたのではない」

 男は新之介を見る。

「奪われた」

「誰に」

「鷹見静山に」

 玄斎が男の胸倉を掴んだ。

「先生がそのような」

「そなたの先生が、どの鷹見静山か」

 男は笑いを消した。

「黒川玄斎」

「何だ」

「十五年前、そなたは私を見ている」

「だから」

「その時の私は、鷹見静山だった」

「偽物が」

「では今、海にいる男は本物か」

 玄斎が言葉を失う。

 男は続けた。

「鷹見静山は一人ではない」

「何を申す」

「名ではない」

「役目だ」

 鐘の亀裂から、風が抜けた。

 低い音が鳴る。

「問いを残す者」

「記録を運ぶ者」

「罪を引き受ける者」

「それぞれが鷹見静山を名乗った」

「最初の一人は!」

 玄斎が怒鳴る。

「先生は一人だ!」

「本当にそう教えられたのか」

「当たり前だ!」

「ならば、なぜ顔を確かめなかった」

「……」

「なぜ死体を見なかった」

「……」

「なぜ十五年間、声だけを覚えていた」

 新之介が男の前へ出た。

「そなたの本当の名を聞く」

「ない」

「生まれた時の名だ」

 男の顔が僅かに動いた。

「忘れた」

「忘れたのではなく」

 新之介は玄斎を見た。

「忘れようとしたのでは」

 男の目が細くなる。

「面倒な侍だ」

「よく言われます」

「榊原新之介」

「私を知っている」

「続帳でな」

「では答えろ」

「何を」

「四十七人のうち、日本へ先に戻った一人は誰だ」

 男はしばらく黙った。

 そして、自分の胸を指した。

「私だ」

「いつ」

「十二年前」

「なぜ」

「残った者を迎えに戻るため」

「迎えに行かなかった」

「行けなくなった」

「誰に止められた」

 男は割れかけた鐘を見た。

「鷹見静山に」

「どの鷹見だ」

 新之介が問う。

 男は答えた。

「今、朝風丸にいる男だ」

 玄斎の顔が変わる。

「海の男を知っているのか」

「ああ」

「本物か」

「本物だ」

「証は」

「私は、あの男から名を奪われた」

「どういう意味だ」

 四十七番は静かに言った。

「私の生まれた名は――鷹見宗山」

 玄斎が息を呑んだ。

「宗山は長泉寺に」

「あれは私ではない」

「では、あの男は誰だ!」

「私の名を使っている者だ」

「誰だ!」

 男は答えようとした。

 その瞬間。

 寺の外で、爆発音がした。

 鐘楼が揺れる。

 鳥が一斉に飛び立つ。

「何だ!」

 篠田が走り出す。

 山門の方角から黒煙。

 続いて寺男の叫び。

「第一冊が!」

 新之介が振り返った。

「何があった!」

「土蔵の床が抜けました!」

「帳面は!」

 寺男の顔は真っ青だった。

「第一冊を入れた鉄箱ごと――地下へ落ちました!」

 四十七番――鷹見宗山を名乗った男が、目を閉じた。

「始まった」

「何が」

 新之介が問う。

「四冊を集める仕掛けだ」

「誰が」

「最初の鷹見静山だ」

「海にいる男ではないのか」

 男は首を振った。

「違う」

「では誰だ」

「鷹見静山という名を、最初に作った者だ」

「名を申せ!」

 男は答えた。

「その者の名は――」

 再び地の底から轟音が響いた。

 第一冊を抱えた鉄箱が、さらに深い地下へ落ちていく音だった。

(第五十六章へ続く)

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