上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第五十四章

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第五十四章 船底の火

 爆発は、海の下から船全体を持ち上げた。

 異国船の甲板が大きく傾く。

 帆柱が軋み、折れかけた横木が落ちる。

「伏せろ!」

 新之介は近くにいた女を押し倒した。

 直後、頭上を太い木片が飛んでいく。

 甲板へ叩きつけられ、破片が散った。

 船底から、低い轟音がもう一度響く。

 今度は爆発ではない。

 水が入り込む音。

「浸水だ!」

 異国人の水主が叫ぶ。

 言葉は分からなくても、声と顔で意味は伝わる。

「船倉へ!」

 白髪の男――鷹見静山を名乗る者が、外国語で命じる。

 数人の水主が梯子を下りる。

 玄斎も続こうとした。

「先生は残れ!」

 新之介が止める。

「なぜだ!」

「本人かどうか、まだ決めていません!」

「今それを申すか!」

「だから死なれると困る!」

「意味が分からぬ!」

「生きて証明してください!」

 白髪の男が一瞬、新之介を見る。

「面倒な弟子を持ったな、玄斎」

「私の弟子ではない!」

「先生のせいです!」

 新之介は船縁へ走った。

 水面には小舟。

 朝風丸。

 沢渡を探していた水主たち。

 だが沢渡玄隆の姿はない。

「船底のどこだ!」

 新之介が叫ぶ。

 安西主税が朝風丸から答える。

「泡が右舷後方へ続いている!」

「火薬は一つではない!」

 青山新六郎が言った。

 その通りだった。

 一度目の爆発は船底の一部を破っただけ。

 沢渡が複数の火薬を仕掛けていれば、まだ残っている。

「全員を移す!」

 水野隼人正が朝風丸から命じた。

「異国船の二十三人を朝風丸へ!」

「待ってください!」

 白髪の男が叫ぶ。

「一度に移せば、朝風丸が重くなる!」

「何人ずつだ!」

「五人!」

「舟を三艘使え!」

 役目が分かれる。

 一艘は人を運ぶ。

 一艘は沢渡を探す。

 一艘は船底の損傷を見る。

「名前の順に移す!」

 兵庫が紙を持ち上げた。

「何」

 玄斎が聞き返す。

「誰が移ったか分からなくなる!」

「この騒ぎで帳面か!」

「この騒ぎだからだ!」

 兵庫は十九人まで記された名を見た。

「佐吉!」

「いる!」

「春!」

「はい!」

「久兵衛!」

「ここだ!」

 一人ずつ返事。

 自分の声で。

 偽声ではない。

「歩けぬ者から!」

 新之介が言う。

「年寄りと傷人!」

「私は」

 白髪の男が前へ出る。

「最後だ」

「なぜ」

「この船へ連れてきたのは私だ」

「それで最後に残るのか」

「責がある」

「責と死ぬ順番を同じにするな!」

 男が黙った。

「生きて話すのでしょう!」

「……ああ」

「では、必要なところへ動け!」

 新之介は船倉を指した。

「第三冊の正本はどこだ!」

「船長室の壁箱だ!」

「取れますか」

「取る」

「一人で行くな」

「玄斎!」

「命じるな!」

「先生を連れていけ!」

「だから命じるな!」

 玄斎はそれでも白髪の男について走った。

 ◇

 船底では、海水が勢いよく流れ込んでいた。

 破れた箇所は右舷後方。

 板が内側へ裂けている。

 異国人の水主たちが帆布と木板を押し当て、外側からの水圧を利用して塞ごうとしている。

「穴は一つか!」

 弥助が下りてきた。

 声筒を作った職人だが、木工にも通じている。

「ここだけではありません!」

 水主が指す。

 船底を伝って、細い縄。

 火薬包みが二つ。

 三つ。

「火縄が水で消えています!」

「全部では」

「分からない!」

 新之介も船倉へ下りようとする。

 半九郎が腕を掴んだ。

「新之介殿は上です!」

「なぜ」

「肩が開いています!」

「今は」

「言わせません!」

「沢渡が下にいる!」

「だから私が行きます!」

「そなたも脇腹を」

「浅いです!」

「傷人は皆」

「今は申すな!」

 半九郎は自分で玄斎の言葉を使い、梯子を下りた。

「真似をするな!」

「先生方のせいです!」

 新之介は舌打ちした。

 だが追わなかった。

 甲板にはまだ移送すべき者がいる。

 ここで自分まで船倉へ入れば、上の指揮が一人減る。

「次の五人!」

 兵庫が呼ぶ。

「名を!」

「辰吉!」

「おすえ!」

「新八!」

 呼ばれた者が舟へ移る。

 一人の老人が船縁で動けなくなった。

 足が震えている。

「乗れ!」

 水主が手を出す。

「怖い……」

 老人は海を見た。

「十五年前も、こうだった」

「何が」

「船へ乗れと言われた」

「今度は降りるのです」

 新之介が言った。

「同じだ」

「違う」

「何が」

「今は、そなた自身が選べる」

「選ばなければ」

「船へ残る」

「沈むかもしれぬ」

「ああ」

「なら選べないのと同じだ」

 新之介は言葉を止めた。

 確かに、選択肢が「移るか死ぬか」なら、自由な選びとは言いにくい。

「では」

 新之介は周囲を見る。

「舟へ乗らず、朝風丸へ縄橋を渡す方法は」

「できます!」

 安西が答える。

「船同士を寄せれば!」

「朝風丸を近づけろ!」

「火薬が残っている!」

「なら距離を取り、長い板を渡せ!」

 異国船に積まれていた積み板。

 二枚。

 三枚。

 縄でつなぐ。

 簡易の橋。

「歩けますか」

 老人が板を見る。

「舟よりは」

「では、そちらを」

「選べるのか」

「ああ」

 老人は頷いた。

「なら歩く」

 新之介は名を聞いた。

「名は」

「与平」

「与平殿」

「殿は要らぬ」

「では与平」

「それでよい」

 与平は板橋へ一歩ずつ足を乗せた。

 海の上。

 朝風丸まで十間ほど。

 揺れる。

 途中で止まる。

「戻ってもよい!」

 新之介が叫ぶ。

「進む!」

 与平が答える。

「今度は、自分で決めた!」

 朝風丸の水主が手を伸ばす。

 与平が渡り切る。

 兵庫は名前の横へ印をつけた。

 ――移送済。

 ◇

 船倉では、半九郎と弥助が火薬の縄を切っていた。

「これで三つ!」

 半九郎が濡れた火薬包みを投げる。

「まだあります!」

 弥助が船底の梁を指した。

 梁の裏。

 小さな鉄筒。

「火薬では」

「音次たちが使っていた仕掛けです!」

「声筒」

「違います」

 弥助の顔が変わる。

「時限の火打ちです」

「何」

 小さな歯車。

 重り。

 一定の時間が経つと、火花を飛ばす。

「水に濡れても」

「中は油で守られています!」

「止められるか」

「壊します!」

「爆ぜないか」

「分かりません!」

「便利な」

「今は言わないでください!」

 弥助が工具を差し込む。

 歯車が動いている。

 かち。

 かち。

 かち。

「あとどのくらい」

「分かりません!」

「音が速い!」

 半九郎は鉄筒の周囲を見る。

 紐。

 その先。

 船底の別の火薬。

「切る!」

「待って!」

「何」

「切ると火打ちが落ちるかもしれません!」

「では」

「筒ごと外す」

「何で」

「釘です!」

 錆びた釘で梁へ固定されている。

 半九郎は小柄を差し込んだ。

「一本目!」

「ゆっくり!」

「時間がない!」

「急ぐと火が出ます!」

「どちらです!」

「急いでゆっくり!」

「無茶です!」

 二人で釘を抜く。

 一つ。

 二つ。

 最後の一本。

 歯車の音が速くなる。

「来る!」

 弥助が鉄筒を抱えた。

「海へ!」

「待て!」

 半九郎が止める。

「なぜ」

「海面の沢渡に当たるかもしれない!」

「そんなところまで」

「人が先です!」

「どこへ置く!」

 半九郎は周囲を見る。

 水の入った大樽。

「水桶!」

 鉄筒を樽へ沈める。

 数秒。

 水中で小さな火花。

 ぼん。

 鈍い音。

 樽が割れ、水が床へ広がる。

「止まった」

 弥助が息を吐く。

「あと何個」

「……分かりません」

「探す!」

 ◇

 船長室では、白髪の男と玄斎が壁板を外していた。

「この奥だ」

「先生」

「何だ」

「本当に先生なら、なぜ正本を船へ」

「二十三人を連れ戻す時、必要だった」

「何に」

「自分たちが荷ではないと証すためだ」

「帳面がなくても本人たちが」

「日本へ戻れば、密航人、奴婢、異国人の手先と呼ばれる」

「だから記録を」

「ああ」

「それを十五年前に戻していれば」

「分かっている」

「まだ言う!」

「今は板を外せ!」

「先生に命じられた!」

 二人で板を剥がす。

 奥に小さな銅箱。

 白髪の男が鍵を差し込む。

「その鍵は」

「第三冊正本の鍵だ」

「誰が作った」

「玄十郎」

「やはり」

 箱が開く。

 中に一冊。

 厚い油紙。

 さらに、束になった紙。

「何だ」

「二十三人の証言だ」

「本人が書いたのか」

「字を書ける者は自分で。書けぬ者は私が聞いて書いた」

「先生の字なら」

「私が偽物なら、これも偽物に見える」

「だから本人へ聞く」

「そうだ」

 玄斎が帳面を持つ。

 重い。

「先生」

「何だ」

「これを持って先に出ろ」

「お前が持て」

「私は証言の束を」

「分けるのか」

「ああ」

「一人で全部を持たない」

 白髪の男が微笑んだ。

「教えた覚えがない」

「新之介のせいだ」

「なら、よい弟子を持ったな」

「だから弟子では」

 その時、船体が大きく揺れた。

 船倉から叫び声。

「もう一つある!」

「火薬だ!」

 玄斎と白髪の男が顔を見合わせる。

「出るぞ!」

「先に帳面を!」

「人が先だ!」

「今は両方だ!」

 二人は走った。

 ◇

 甲板では、移送が十九人まで終わっていた。

「残り四人!」

 兵庫が呼ぶ。

「そのうち二人は船倉で手当て中!」

「誰だ」

「久兵衛と春!」

「先ほど名前を呼んだ」

「船酔いで動けなくなった!」

「担架を!」

 新之介が言う。

「一人ずつ運べ!」

 異国人水主が木戸板を外し、担架代わりにする。

 その時、朝風丸から安西の声。

「榊原!」

「何だ!」

「父が話せる!」

 安西主馬。

 十五年前、人を運んだ船の警固役だった男。

 朝風丸の甲板で、息を整えている。

「今ですか!」

「今だからだ!」

 安西が答える。

「父は、この船の火薬仕掛けを知っている!」

 新之介は驚いた。

「なぜ」

「十五年前も同じ仕掛けを使った者がいる!」

「誰だ!」

 主馬がかすれた声で言う。

「沢渡では……ない」

「では」

「三宅主膳だ」

 新之介は息を止めた。

「昔、この船を沈めようと」

「いや……」

「何」

「沈めるためではない」

「では」

「証拠を……消すためだ」

「同じでは」

「人を下ろした後に……燃やす予定だった」

「誰の命で」

 主馬は目を閉じた。

「私だ」

 安西が父を見る。

「父上」

「私が……命じた」

「なぜ」

「人を運んだ船が残れば……私の名が出る」

「では、本当に」

 安西の声が震える。

「人を売ったのか」

「違う」

「帳面には」

「私は……助けるつもりだった」

「何を」

「売られる者を……途中で逃がした」

「では」

「だが、その代わりに……別の者が連れていかれた」

「何」

「数が合わぬと……商人が別の村から人を集めた」

 主馬の目から涙が流れた。

「私は救ったつもりで……別の者を売らせた」

 安西は言葉を失った。

「だから船を消そうと」

「ああ」

「自分のしたことを」

「見たくなかった」

 新之介は白髪の男を見た。

「静山殿!」

「聞こえている!」

「当時、火薬を仕掛けたのは」

「主馬だ!」

「沢渡は、その仕掛けを知っていた」

「三宅の記録からだろう!」

「残りの場所は」

 主馬が震える手で異国船を指した。

「船尾ではない……」

「どこだ!」

「船首の……錨鎖の下」

 新之介の顔が変わる。

「誰か船首へ!」

 異国人の水主が走る。

 半九郎と弥助も船倉から上がってくる。

「船首です!」

 新之介が叫ぶ。

「錨鎖の下!」

「行きます!」

 半九郎が走る。

「そなたは傷人だ!」

「今は申すな!」

「皆がそれを!」

「使いやすい言葉です!」

 ◇

 錨鎖の下。

 太い鉄鎖。

 その奥に、木箱。

 火縄は見えない。

「時限式だ」

 弥助が箱へ耳を当てる。

 かち。

 かち。

 かち。

「さっきより大きい」

「火薬の量も」

「多いでしょう」

「外せるか」

「鎖を動かさなければ」

「錨を上げるのか」

「いや」

 半九郎は鎖を見る。

「切る」

「鉄です!」

「鎖ではない」

「では」

「箱を縛っている縄だ」

 木箱は錨鎖へ縄で固定されている。

「縄を切れば」

「箱が落ちる」

「海へ?」

「船底側へ」

「駄目です!」

「なら支える」

「誰が」

「私が」

「傷人が」

「今は」

「申すな、ですね」

「覚えたな」

 半九郎が身体を船縁から乗り出す。

 片手で箱を支える。

 弥助が縄へ刃を当てる。

「重いですか」

「かなり」

「切ります」

「待て」

「何」

「箱の底に糸がある」

 細い糸。

 船板へつながっている。

「仕掛け」

「持ち上げると火がつく」

「切っても」

「つくかもしれない」

 二人が止まった。

「では、どうする」

「動かさずに水へ沈める」

「ここで?」

「海水をかける」

「箱は油を塗ってある」

「穴を開ける」

「その振動で」

「分からない」

 弥助が歯を食いしばった。

「私が作った仕掛けに似ています」

「なら分かるでしょう」

「似ているから怖い」

「何が」

「私なら、穴を開けた時に火が出るよう作る」

「嫌な職人だ」

「命じられましたので」

「今はそなたが止める」

「はい」

 弥助は箱の周囲を見る。

 木目。

 釘。

 錨鎖。

 そして糸。

「糸を先に濡らす」

「なぜ」

「麻なら縮む」

「縮めば」

「引き金から外れるかもしれない」

「かもしれない」

「はい」

「便利な」

「今は申さないでください!」

 海水を少しずつ糸へ。

 濡れる。

 縮む。

 糸がたるんだ。

「外れた」

「今です!」

 半九郎が箱を支える。

 弥助が縄を切る。

 一つ。

 二つ。

 箱が落ちる。

「重い!」

「支えて!」

「無茶を!」

「言わないで!」

 二人で箱を船縁まで引き上げる。

「海へ落とす!」

「沢渡がいるかもしれません!」

 また止まる。

「朝風丸へ声を!」

 半九郎が叫ぶ。

「海面を確認しろ!」

 水主が見張る。

「右舷、誰もいない!」

「落とせ!」

 箱を海へ。

 沈む。

 数秒。

 水中で白い閃光。

 鈍い爆発。

 水柱。

 だが船からは離れている。

「止まった!」

 ◇

 甲板へ歓声が上がった。

 新之介は息を吐く。

「全員の移送は」

 兵庫が紙を見る。

「二十一」

「あと二人!」

「久兵衛と春!」

 担架が上がってくる。

 久兵衛。

 続いて春。

 春は意識がない。

「名を確認!」

「春!」

 返事がない。

 兵庫が一瞬迷う。

「本人の返事が」

「今は出せない」

 新之介が言う。

「では記録は」

「意識なし、他者確認」

「誰が確認する」

 白髪の男が言った。

「私が」

「一人では」

「佐吉」

 男が別の生存者を呼ぶ。

「春を知っているか」

「ああ」

「間違いないか」

「春だ」

「二人で確認」

 兵庫が記す。

 ――春。本人意識なし。鷹見静山を名乗る者、佐吉の二名により確認。

「そこまで書くのか」

 玄斎が問う。

「本人かどうか、まだ決めていないので」

 兵庫が答える。

 白髪の男が苦笑する。

「厳しいな」

「先生のせいです」

 最後の久兵衛が板橋を渡る。

 朝風丸へ。

 二十三人。

 全員移送。

「静山殿!」

 新之介が叫ぶ。

「次はそなたです!」

「まだ正本が」

 玄斎が油紙の帳面を掲げる。

「ある!」

「証言は」

 白髪の男が束を持つ。

「ある!」

「なら渡れ!」

「お前が先だ、玄斎」

「なぜ」

「膝が悪い」

「それを今申すか!」

「本当だろう」

「先生!」

「よいから行け」

 玄斎は怒りながら板橋へ。

 兵庫。

 白髪の男。

 最後に新之介。

 異国船に残るのは、水主と船長たちだけ。

「彼らは」

 新之介が問う。

 白髪の男が答える。

「船を捨てないと言っている」

「なぜ」

「家だからだ」

「人より船を」

「違う」

 男は異国人船長へ声をかける。

 船長が何か答える。

「船を保たせれば、帰る場所を失わない者がいる、と」

「誰が」

「彼らの家族だ」

 新之介は黙った。

 形を守ることが、必ずしも人を軽んじることではない。

 その形が誰かの生活へつながっているなら。

「修理できるのか」

「浸水は止まりつつある」

「ならば残る者を減らせ」

「話した」

「選んだのか」

「ああ」

「なら、その名も」

 兵庫が言う。

「書くのか」

「書く」

 船長。

 水主。

 十七人。

 異国の名は難しい。

 通詞が一人ずつ発音し、兵庫が音のまま記した。

 人を荷として扱わないなら、異国人も同じだった。

 ◇

 全員が朝風丸へ移った後、新之介は安西主馬の前へ座った。

 主馬の呼吸は弱い。

「十五年前のことを、話せるだけ」

「今か」

 安西主税が問う。

「今だからです」

「父は傷を」

「後でも話せるなら待つ」

 新之介は主馬を見る。

「どうです」

「話す」

 主馬が答えた。

「今でなければ……また逃げる」

 安西が父の手を握る。

「父上」

「主税」

「はい」

「私を……庇うな」

「まだ何も」

「羅針盤を隠したのも……私を見て育ったからだ」

 安西の顔が歪む。

「違います」

「違わぬ」

「私は自分で」

「ならば……それも話せ」

「はい」

 主馬は新之介へ向いた。

「十五年前……人を運んだ船は二艘」

「第三冊には」

「一艘しかない」

「なぜ」

「もう一艘は……幕府の船だった」

 水野の顔が変わる。

「船名は」

 主馬が息を吸う。

「弁財丸」

 半九郎が立ち上がった。

「父が調べていた船」

「そうだ」

「人を運んだのか」

「いや」

「では」

「人ではない」

「何を」

「人の……名前を運んだ」

 新之介は眉をひそめる。

「名簿か」

「ああ」

「誰の」

「異国へ売る者ではない」

「では」

「異国と取引した者でもない」

「何の名だ」

 主馬は苦しげに目を閉じた。

「これから……取引させる者」

「未来の名簿」

 文吉の続帳と同じ。

 罪を犯した者ではなく、罪を犯す者を先に作る。

「誰が作った」

「鷹見静山」

 全員の目が白髪の男へ向く。

 男も驚いていた。

「私ではない」

「父上」

 安西が問う。

「本当に鷹見先生が」

「そう……聞いた」

「誰から」

「三宅主膳」

 白髪の男が目を閉じた。

「また私の名か」

「名簿はどこへ」

 新之介が問う。

「弁財丸は……沈んだ」

「どこで」

「江戸湾ではない」

「では」

「外房……沖」

「名簿も海底か」

「違う」

 主馬の目が開いた。

「沈む前に……一人が持ち出した」

「誰だ」

 主馬は白髪の男を見た。

「鷹見静山」

 男の顔が固まる。

「私は知らぬ」

「では誰が、そなたの名で」

「分からぬ」

 新之介は考えた。

 死者の筆跡。

 死者の声。

 死者の姿。

 そして死者の名で動いた、もう一人。

「鷹見宗山か」

 玄斎が呟く。

 静山の弟。

 声を使った男。

「宗山は十五年前から」

 兵庫が言う。

「兄の名を使っていた可能性がある」

「では未来の名簿も」

「宗山が作ったかもしれぬ」

 白髪の男は首を振った。

「いや」

「何か知っているのか」

「宗山は、人を選ぶことを嫌っていた」

「今は偽声で選ばせた」

「変わったのかもしれぬ」

「ならば」

「だが十五年前の宗山なら、未来の罪人名簿を作るとは思えない」

「では誰だ」

 男は答えなかった。

 その時、朝風丸の見張りが叫んだ。

「北から舟!」

 全員が振り返る。

 一艘の小さな早舟。

 帆はない。

 水主が二人。

 船首には、お志津。

「お志津殿!」

 舟が朝風丸へ近づく。

 お志津は大きな包みを抱えている。

「長兵衛が!」

「何」

「父が牢から消えました!」

「逃げたのか」

「違います!」

「では」

「連れ出した者がいます!」

「誰だ」

 お志津は包みを開いた。

 中にあったのは、古い船旗。

 波の印。

 そして、その裏へ縫い込まれた紙。

「父の牢へ残されていました」

「何が書かれている」

「弁財丸の名簿を持つ者の名です」

 新之介は紙を受け取った。

 そこには、たった一人の名。

 鷹見静山でもない。

 鷹見宗山でもない。

 三宅主膳でもない。

 相模屋長兵衛でもない。

 ――黒川玄斎。

 甲板の全員が、玄斎を見た。

 玄斎本人も、紙を見た。

「わし?」

 誰よりも驚いている。

「知らぬ」

「先生」

 新之介が言った。

「本当に」

「知らぬ!」

「ならば確かめる」

「何を」

 お志津が続けた。

「紙の下に、もう一行あります」

 新之介が読む。

 ――玄斎が忘れているなら、西徳寺の鐘を割れ。

 西徳寺。

 藤吉。

 第一冊。

 そして寺の鐘。

 玄斎の顔色が変わった。

「鐘……」

「心当たりが」

「ない」

 だが、その声には迷いがあった。

「先生」

「何だ」

「忘れているのですか」

「分からぬ」

「便利な」

「今は申すな!」

 遠く江戸の方角から、鐘の音が届いた。

 一度。

 二度。

 三度。

 そして。

 四度。

 西徳寺からだった。

(第五十五章へ続く)

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